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透明街の人喰い獏 (第二幕)  作者: 葉里ノイ


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200-覚悟


 人の姿を与えられたゲンチアナは、花街(はなまち)の城でアルペンローゼから教育を受けた。

 王の前に出せる程の物を覚えてから、初めて花街の王――フェルニゲシュと対面した。彼は最初は王という立場で威厳のある振る舞いをしていたが、すぐに挙動不審になった。

 フェルニゲシュは挨拶もそこそこに、人間の子供が遊ぶ玩具を取り出した。ゲンチアナは怪訝な顔でそれを見詰めたが、人間のいない山で育った彼女はそれの用途など知るはずもなく、受け取ることができなかった。

 フェルニゲシュは彼女が受け取らないことに残念そうな顔をしたが、それで終わらなかった。その数日後には別の玩具を差し出し、また数日後に他の玩具を差し出した。そのどれも、ゲンチアナは用途を知らなかった。彼女を教育したアルペンローゼはフェルニゲシュが玩具を集めているとは知らず、彼自身も興味が無いため触れることがなかった。

「……こういう物には興味が無いのか?」

 その問いにどう答えるべきか、ゲンチアナは悩んだ。王に対して粗相の無い答え方とは何なのか、生まれたばかりのゲンチアナは頭の中が彼女の髪の色のように真っ白になってしまった。

「…………」

「そう緊張しなくていい。変転人同士のように気楽に話せばいい」

「それは……失礼な気が」

「これに興味はあるか?」

 変転人同士と言われても、アルペンローゼと話すのは仕事のことばかりだ。あちこちにいるミモザともまだあまり話したことがない。

「興味と言われましても……それは何ですか?」

「これが何なのか気になる、それが興味だ。これは押すと音が鳴る玩具だ」

 差し出した内の一つを手に取り、机上に置く。花が描かれた赤いプラスチックの小さなピアノだ。子供用の玩具なので鍵盤の数は少ないが、触れれば音が出る。形も本物のグランドピアノを模していて、短い脚も付いている。

「これで好きな音楽を弾くといい」

「仕事ですか?」

「いや。アナの好きな音楽を弾くといい」

「音楽……言葉は知ってますが、音楽は聴いたことがないです」

「……そうか。聴かせてやりたいが、オレも弾けない。残念だ」

 王とはもっと厳格で、威圧感があるものだとゲンチアナは思っていた。こんなに呑気で風格も無いものだとは思わなかった。これでは大公に実権を握られるはずだ。彼女の王への評価は厳しかった。

 だが彼の性格はゲンチアナの強張った肩を弛緩させてくれた。

「あまり難しくない玩具ならどうだ? これはただの人形だ。専用の乳母車もある」

 何故玩具に興味を引かせようとしているのかはわからなかったが。フェルニゲシュ自身が玩具に興味があり、同じように興味を示してくれるのを待っているのだろうか。長身の青年が腰を曲げて小さな人形を小さな白い乳母車に乗せて押している所を見ても、ゲンチアナは何も感じなかった。

「……確認してもよろしいでしょうか?」

「何だ?」

「私の仕事はフェルニゲシュ様の身の回りの御世話と……花街から出ないように監視……それとこのブローチ所持者の義務の、罪人の判決……その三つですよね? その玩具はどれに該当しますか?」

「…………」

 フェルニゲシュは乳母車に乗った空虚な人形を見下ろし、ゲンチアナは玩具に興味が無いと漸く気付いた。興味が無い物をいつまでも置いておくと邪魔だろう。フェルニゲシュは無言で玩具を片付け始めた。

 まだ生まれたばかりで感情が稀薄で理解もできないゲンチアナは、それでも玩具を片付けるフェルニゲシュの背中が寂しそうに見えた。『寂しい』という言葉の意味も知らないのに。

「仕事は……何かありますか? 無ければ掃除を……」

 淡々と機械的に尋ね、フェルニゲシュの様子を窺う。

 彼は黙々と玩具を片付けていたが、突然はっとしたように顔を上げた。

「命令すれば、その通りになるのか?」

「私の……変転人の能力で可能なことなら、遣り遂げます」

「では長生きしろ」

 玩具を置いて振り返ったフェルニゲシュは、ゲンチアナの硝子のような目を見詰めて言い放った。それはゲンチアナにとって初めての王の命令だったが、即座に聞き入れるのは難しかった。

「……長生き……とは、具体的に何歳ですか?」

「長く生きれば生きるほどいい。最低でも五十歳以上は生きてほしい」

「五十……」

 ゲンチアナは多年生植物である。地上部が枯れてもまた芽を出し、何年も生きる。何十年も生きるものもある。だが変転人の寿命をアルペンローゼから聞いていない彼女は、変転人がそれほど生きられると知らない。動物はもっと短命だと思っていた。王とは滅茶苦茶な要求をするものらしいと途惑ってしまった。

「できれば百歳を目標に」

「ひゃ、百!? そ、それは私の能力を超えてます! もう植物ではないんです! 植物でも……百は確約できません!」

「無茶な要求なのか?」

「! へ……変転人とは、何年生きるのが普通なんですか……?」

「一般的に百歳前後が寿命らしい。だが限界を自分で決めなくていい。好きなだけ長生きしろ」

「な、何言ってるんだろう……」

 寿命は自分では決められず、死は抗えないはずだ。好きなだけと言われても、自分の意志ではどうにもならない。彼が何を言っているのか全く理解できない。

「まだ難しいか? それなら、できるだけ長く生きることだけ考えていろ」

「それが……私の仕事……?」

「そうだ」

「努力します……」

 幾ら努力しようとも、百年なんて想像もできないほど途方も無い数字だ。王とはとても大きな存在で、滅茶苦茶なことを言う人なのだ。ゲンチアナのフェルニゲシュの第一印象は『無茶を言う変わった人』だった。

(変な仕事……これからもこんなよくわからないことばかり言われるのかな……)

 その後フェルニゲシュはゲンチアナに仕事を与えることはなかった。掃除や食事は日課なので改めて言い付けられることではない。フェルニゲシュが彼女に頼むことと言えば、精々散歩の付き添いくらいだった。



 ――長生きをする。

 それはゲンチアナにとって困難なことだと知った。

 あの時のフェルニゲシュは何故あんなことを言ったのか、尋ねる機会があるなら聞きたかった。


     * * *


 蒲牢(ほろう)達と別れ、背の蝙蝠のような翼を大きく広げて古城へ向かっていたヴイーヴルは、放棄した城下町から駆け出す二つの人影を見つけた。一度は通り過ぎるが、思い直して方向を変える。

 引き返して二人の前へ飛び降りると彼らは驚いて足を止め、男の方が女を庇うように前に立った。

「あらまあ……逃げ遅れた変転人がいたのね」

 ヴイーヴルの額には三つ目の瞳があり、そんな目立つ特徴があるため、面識は無くとも誰だかわかる。二人の有色の変転人も、額を見て気付いた。

「ヴイーヴル様……?」

「危ないから、隣の町まで送るわ」

 放っておこうと思ったが、空に雲が渦を巻き始めたので彼らを安全な場所へ誘導することにした。無色の変転人に避難誘導を任せて住人は隣町へ移動したはずだが、漏れがあったようだ。外で幾ら叫んでも、聞こえない場所はある。ここで会えたのは運が良い。

「抱えるから掴まって。変転人の足は遅いから」

「え!? い、いえ、それは……」

 男はしどろもどろになり、女を一瞥する。女も狼狽しながらこくこくと頷く。

「これは命令よ。時間を浪費できないの。早く」

 いつも何かに怯えているヴイーヴルは、爬虫類の瞳のような目を瞬き一つせず二人に向けた。命令――その言葉は変転人には重く、人の姿を与えるために最初に注がれた獣の力が体の中から拘束しているようだった。

「は、はい……」

 有色は獣には逆らえない。頷くしかなかった。

「二人も抱えるなんて初めてだから、動かないでね。まずは重い方を先に」

 ヴイーヴルは高度を落として男を抱え上げる。しっかりと密着させられ男は途惑うが、上に荷物のように女も乗せられて今度は真剣な顔で耐えた。動くと二人纏めて地面に叩き付けられそうだ。獣に抱えられて飛ぶなんて初めてで、きっと最初で最後だろう。

「しっかり掴まってて。落ちたら拾わないから」

 有色の女に腕を首に回してもらい、ヴイーヴルは男の体を支える。獣なのだから持ち上げられると自負したが、意外と重い。落とさない内に、変転人が耐え得る限りの最速で隣町へ飛んだ。

「命が懸かってる時に遠慮なんていらないの」

 変転人の足で何十分も掛かる距離でも、獣ならあっと言う間だ。疎らな家と木が立つ野原を滑るように飛んでいく。

 隣町の端にある家の陰から、様子を窺っていた長い黒髪の女が顔を出す。城の獣を視認して飛び出した。

「ヴイーヴル様!」

「えっと、誰だか知らないけど、この子達をお願い。私は遣ることがあるから」

「は、はい! 私はヘレボルスです。変転人は町の奥の方にある屋内に避難してます!」

 ヘレボルスは全草に毒があり、特に根や茎が強毒の植物だ。汁に触れるだけで皮膚が炎症を起こし、口にすると最悪死に至る。クリスマスローズとも呼ばれ、人間に人気の花である。彼女は無色の変転人だ。

「こっちには被害が出ないよう止めてもらうけど……危険だと思ったらもう一つ向こうの区画に避難して。現場の判断に任せるわ」

「わかりました! ……なるべく、犠牲者を出さないように……」

 最後は自分に言い聞かせるように、ヘレボルスは頭を下げて有色の二人を連れて走った。

 その背を最後まで見送らず、ヴイーヴルは城下町に背を向けて翼を一度羽撃かせる。

(早くしないと……あの白い龍、まだ雛だったなんて。私の水で補助してあげたけど、フェルを喰い止められるか心配……)

 蒲牢と窮奇(きゅうき)の役目は、被害が広がらないよう時間稼ぎと足止めをすることだ。窮奇は遣る気が無いようで、蒲牢一人なら首輪が綻んだフェルニゲシュの相手は厳しいだろう。

(私が喰い止めて白い龍が城へ行く方がいいって言われたけど、私はフェルの前に立つと額の目が震えるんだから! 喰い止めるなんて無理!)

 宵街(よいまち)の策士にお前が行けと提案されたが、ヴイーヴルは震えながら断った。無理なものは無理なのである。実際の実力差はどうだか知らないが、眼球を潰された過去が脳裏を過ぎって拒絶してしまうのだ。

 大役を代わってもらったのだから、蒲牢が殺される前にヴイーヴルは戻らなければならない。

 行く手を阻むものはもう何も無く、ヴイーヴルは素早く古城に辿り着いた。

「ぎゃ!?」

 それと同時に思わず声が漏れた。窮奇と饕餮(とうてつ)が大方片付けていた古生物に酷似した黒い巨大な虫が、再び湧いて城の壁や美しい庭を這い回っていた。

「まっ、まだいるの!? ……で、でも、今は構ってられない……あ! 墓地は荒らされてないわよね!?」

 自室の地下通路からは行けそうにない。黒い虫が阻んでいる。

(屋根を作らなくて良かったわ)

 音で気付かれないよう口を噤み、高い城壁に隠れながら静かに翼を動かす。

 幸いなことに虫は城壁から外へは出ていない。だが時間の問題だろう。

 城壁に沿って低く飛び、墓地のある壁を飛び上がる。庭と墓地は高い壁で隔たっているので、墓地に虫は侵入していない。それを確認して安心した。

(白い龍から聞いたゲンチアナの形は……あ、よく見たら花街で見掛けない葉があるわね。きっとあれだわ)

 ゲンチアナが咲く時期はもう少し先である。今は黄色い花は無く、緑色しか見当たらない。

(あっ……どれくらい必要か聞いてないわ……十本くらいでいいかしら?)

 ヴイーヴルは一旦壁の上へ降り立ち、翼を畳んで墓地へ飛び降りた。これでゲンチアナは死なずに済む。そんなに良い方法があるならもっと早くに言ってほしかった。犠牲になったゲンチアナがいるからこその方法だが、そう思わずにはいられなかった。

「っ!?」

 地面まであと数センチメートルという所だった。突然に肌に寒気が走った。ほぼ無意識に翼を開いて羽撃く。

 僅かに浮いた爪先の先で柔らかな草と土が波紋を広げるように一斉に凍り付いた。

「何なの!?」

 先程から驚いてばかりだ。顔を上げると壁も凍り付いていた。城もそこに這う虫も何もかも、一瞬の内に凍結していた。地面に足を降ろすのは不味い。直感的に察した。

 ゲンチアナの葉も漏れずに凍て付き、薄い葉は触れれば砕け散ってしまいそうだ。これでは摘むことができない。

「何これ……こんな現象、知らない……」

 炎で氷を溶かせるかもしれないが、氷を溶かして葉を焼かない自信は無かった。火力が高いことが仇となる。

 暫し呆然とするが、氷が溶ける気配は一向に無い。ヴイーヴルは三つの瞳を焦燥に揺らし、指先が震えた。ここまで来て何故こんな仕打ちを受けねばならないのか。ヴイーヴルは唇を噛んで、どうすべきか頭を回した。植物を摘む、こんな簡単なこともできないなんて、花街の嘗ての王の恥だ。


     * * *


「ん?」

 意識の無い饕餮を抱いて待機していた窮奇は、ぴくりと眉を動かした。

 それは勘だった。予感があったわけではないが、即座に杖を召喚し、饕餮を抱いたまま背に鴉のような黒い翼を生やして飛び上がった。

 それを視界の隅に捉えたエーデルワイスは直感的にベラドンナを抱え、

「!?」

 地面を蹴った。

 飛び続けることができない変転人は上昇する窮奇の足首を掴み、ベラドンナにも掴むよう目配せする。ベラドンナは状況を理解できなかったが、落とされないよう窮奇のもう一本の脚を掴んだ。

「おい離せよ! 重いだろ!」

 叫ぶ真下で、波が押し寄せるように地面が凍り付いてゆく。細い草も一本残らず、城下町の家々も硬く凍ってしまった。

「凍った……?」

 悪寒を感じたので距離を取ろうと飛んだのだが、その判断は間違っていなかったようだ。

 エーデルワイスは紙切れの端を歯で千切り、地面に落とす。ひらひらと舞うようにゆっくりと地に到達した紙は、触れた先端から凍ってしまった。地面に降りると生物であろうと凍るだろう。

「氷……蒲牢の仕業か? かなり範囲が広いが……」

 窮奇の能力も広範囲に影響を及ぼすが、城下町を越えて目に見えない遠方まで風を起こすことはできない。背後を振り返るが、凍結の終わりが見えない。だが城下町の方向と比べ、背後の方が氷が薄い。起点から離れるほど氷の影響が低いようだ。

「こっちまで凍らせるなよな。溶けるのを待つか、離脱するか……あんまり長時間だと脚が抜けるな」

 ベラドンナが握る手に力が籠る。獣の脚を抜いてしまったら仕返しに命を取られるのではないか。だが手を離すと氷像になってしまう。

 エーデルワイスは読み取り易いようはっきりと口を開け『気にするな』と彼に紡ぐ。変転人に引っ張られた程度で獣の脚が抜けるはずがない。

「チッ……何やってんだよ……」

 苛立つ窮奇を見上げ、エーデルワイスは城下町に目を向ける。城下町を全て凍らせる威力に、獣に復讐を誓う彼女も呆然としてしまった。フェルニゲシュと言い、龍属には手を出してはならないと言われているようだった。


     * * *


 最初に視界は黒く染まり、次にバケツを引っ繰り返したように赤い飛沫が散った。

 至近距離でフェルニゲシュの黒い炎の直撃を受けた体は弾け、相殺しきれなかった黒い炎が薄く頬を撫でる。

 熱さは感じなかった。頬に触れたことも感じなかった。

 黒い火の粉と赤い飛沫が混ざり合う。

 だが蒲牢の白い服は何処も焦げず破れてもいない。

「ぁ……」

 見開いた氷のような目が、溶けたように揺らいでそれを映す。

 至近距離の攻撃に、死ぬか、死ななかったとしても瀕死は免れないだろうと覚悟した。なのに、蒲牢は傷を負わなかった。

「ぁ……ぁぁ……」

 微かに開いた唇が震え、認めたくない名前が零れる。とても長い時間、それを見ていた気がした。実際は一秒か二秒、その程度だろう。倒れ掛かった無抵抗の重い体が蒲牢の片腕にぐちゃりと落ちた。

(ばく)……? 何で……」

 上手く息が吸えない。それは何度も見た光景だった。悪夢はもう見なくなったが、忘れたわけではない。命を跨いだ過去に、幼い()()()が血に濡れた姿で虚ろな双眸を虚空に向け、何も映さなくなった。それと同じ光景が、目の前にあった。

 虚ろな目をして血に塗れた動かない獏が腕の中にいた。

 獏は城下町の外で待っているはずだった。蒲牢を追って来なかった。

 蒲牢が交戦している最中に何を思ったか城下町に入って来たようだ。

「何で……」

 疑問の言葉しか出て来ない。だが確実に脳は現実を認めていた。目の前に突き付けられたそれから目を逸らすことができなかった。黒く焦げ、爛れ、焼けた血が流れ続けている。虚ろな朧月の瞳はもう何も映さず、指先すらもう動かない。

 兄弟の死を溺れるほど見て、感情はもう消えたはずだった。胸の奥底から滲み出るそれが何なのか理解できなかった。まるで生まれたばかりの変転人のようだった。

 悲しみ、憎しみ、淋しさ、虚無、絶望……どんな言葉が相応しいのか、全てが混ざり合う。

「死んだ……?」

 ただ事実だけを、ぽつりと呟く。


「ぁ……あああアアアアア!!」


 杖の先の変換石が光り、蒲牢の足元を起点に何かが走り抜けるように、返さない波のように世界が凍り付く。冷気が一瞬で空間を満たし、雪は降らずに地面の草に霜が降り凍ってゆく。重い氷と冷気の走る衝撃とで凍った草は砕ける。最も近い建物は薄い硝子細工のように崩れた。

 触れている物を全て氷に変え、舞っていた火の粉も冷気で雪片となる。フェルニゲシュは背に蝙蝠のような翼を生やして飛翔していたため凍らなかったが、冷気に触れると霜が厚くなり、凍らされるのは時間の問題だ。理性は残っていないが判断力は鈍っておらず、一旦蒲牢の慟哭から距離を取る。

 もう頭の中が雪のように真っ白だ。ただ血の色だけが鮮やかに視界に貼り付き、襤褸切れのように裂けて焼け焦げた動かない体に顔を埋める。角が折れた激痛は感じなくなっていた。痛覚が凍り付いていた。あの悪夢だけが再び全身を支配していた。

「あああアア!!」

 喉も胸も裂けそうだ。兄弟ではない他人に何故ここまで感情を乱されているのか。獏は罪人で、蒲牢は罪人を制裁する側だった。相容れないはずだった。

 初めて透明な街で会った時も獏は死に掛けていたが、その時は何も感じなかった。勝手に他人の杖を使う無礼な罪人、としか思わなかった。

 獏は少し変わった罪人で、特別扱いを受けていた。そのことに蒲牢は最初は疑問があったが、獏と接する内にそれは消えていった。頭の隅に罪人だという意識は残っているが、穏やかでくるくると表情の変わる獏は見ていてとても面白かった。感情も表情も抜けてしまった蒲牢には、獏はとても奇異に見えた。

 人間の願い事は嫌々叶えているが、変転人には甘い。変転人に甘い所は狴犴(へいかん)に似ていた。弟の椒図(しょうず)も獏を友達と言う。不思議だった。

 蒲牢はどうしても一人では叶えられないことを獏に願うことにした。初詣での人混みは散々だったが、露店の食べ物には満足した。人混みは避けたいが夏祭りの露店も共に行っても良いと考え、また願ってみようと思っていた。

 また願えると、いつでも願えると思っていた。なのに、もう願えない。

「嫌だ……」

 雪のように白かった肌は赤く汚れてしまった。

 兄弟達が次々と死んでいった時とは違う、五歳のあの頃とは違う喪失感だ。あれから何百年も生きて、多くのものを見た。そのあらゆる経験と知識が、どうしようもない絶望感を生んでしまった。

 もうあんな思いはしたくない。だから兄弟達とは距離を置いたが、獏には近付いてしまった。

 最初は何も感じなかったのに、今はとても苦しい。何故苦しいかはわからない。

「外で……待ってたら良かったのに……何で庇いに来るんだよ! 体で防げなんて頼んでない! 防げない癖に、出て来るなよ!」

 血濡れの体にも白い霜が積もり、自身にも同様に霜が咲いてゆく。もう何も、温もりなんて感じない。

 それでもどうしても、涙だけは零れなかった。零し方がわからない。悲しみも苦しさも、欠落した感情は流れ出てくれない。体の中で岩のように重く伸し掛かって沈んでいる。


「……ごめん、蒲牢」


 混乱と疑問で頭がおかしくなってしまった。幻聴が耳朶を突く。何故謝られなければいけないのか。

「謝るのは俺の方で……俺がもっと強ければ……龍なのに……!」

「うん。蒲牢は強いよ。だから、ごめんね」

 髪に触れる錯覚まである。角が折れていない方の髪を撫でられた気がした。頭を撫でてくるのは、いつまでも幼い弟扱いをする贔屓(ひき)だけだと思っていた。

「顔を上げて」

「…………」

 どれほど悲しもうとも涙は流れない。凍り付いてしまった感情はもう表には出ない。

 幻聴に囁かれるまま、蒲牢は呆然と顔を上げた。

 血を浴びた獏が人形のような顔で、蒲牢の頭を撫でながら柔和に微笑んでいた。きっと幻覚だ。

「本当にごめん……怖い夢を見たんだよね?」

「え……?」

「悪夢で攻撃を受けたんだけど、何回も防がせてはくれないみたい。衝撃で悪夢が飛び散っちゃって……君に悪夢が降り掛かった。嫌な夢を見た……よね?」

 蒲牢は何か言い掛け口を半開きにしたまま、心做しか火傷が減った獏を見詰めた。すぐには言葉の意味を理解できなかった。

「夢……」

「えっと……今話してる僕は夢じゃないよ。現実だよ」

「何で……、生きてる……?」

「うん。生きてるよ」

 その言葉を縋るように信じて、確かめるために蒲牢は獏を片腕で抱き締めた。感触があり、温かい。先程とは違う。虚ろな人形ではなく、生きている動物の体温だ。

「っ……ほ、蒲牢……生きてはいるんだけど……怪我はしてるから……いたたた」

 強く抱き締める手を軽く叩き、獏は眉を顰めた。

「痛がってる……嬉しい」

「蒲牢! 痛いってば! 君の氷で止血はされてるけど」

 獏に頭を掴まれ、蒲牢は漸く手を離した。改めて獏の姿を見ると、脇腹の辺りが赤黒く濡れている。

「何とか直撃は免れたけど、もう立ってるのもクラクラして……」

「! 獏はもう何もしなくていい。俺が……俺が遣るから。悪夢はもう無いんだよな?」

「悪夢は細切れに飛び散って、その辺に転がってるよ。僕以外は視認できないくらい小さくなっちゃった。でもこの怪我じゃ、集めて元の大きさには戻せないだろうね」

「細切れは触っても大丈夫なのか?」

「うん、それは大丈夫だよ。これだけ細かくなったら、放っておいても自然に消滅する。さっきのは至近距離で大量に浴びたから嫌なものを見せちゃっただけ……」

「本当に……良かった……」

 傷を避けて蒲牢はもう一度獏を抱き締めた。蒲牢はもう過去の悪夢を見なくなっていたが、奥底で燻る記憶に、飛び散った悪夢が触れてしまった。飛び散った悪夢はエーデルワイスの悪夢だ。彼女の悪夢もまた、親しい人が殺された悪夢だった。彼の悪夢と似ていて、記憶と繋がり易かったのだ。

 感情が欠落している分、蒲牢は死も生も素直に受け入れてしまう。

「獏は……たぶん、友達って奴なんだ……。兄弟ほど近くなくて、他人ほど遠くない。罪人だとかどうでもいい……また露店に行きたい。いなくなると悲しい……」

「へへ……友達だって。もう行きたくないって言ってなかったかなぁ?」

 獏は擽ったく笑う。椒図も獏を友達と言うが、彼は化生前の獏の延長として今の獏を見ている。純粋に今世で友達と言われたのは初めてだった。蒲牢もまた、対等に友達と言える存在を感じたのは初めてだった。それはとても温かくて、春の木漏れ日のように穏やかな気持ちになる存在だった。

「……獏、とりあえずこれ」

 蒲牢の肩にぐったりと頭を載せる獏の口へ血染薬(ちぞめぐすり)を一粒呑ませる。氷で傷口が塞がれているなら、血を増やしても零れることはないだろう。一時的な応急処置だが、獏の失血は何もせず笑っていられる量ではない。

「もう氷に触れても凍らせないと思うから、ちょっと冷たいけど……待ってて」

「町を凍らせた氷は溶かせないの?」

「範囲が広過ぎて……どう溶かせばいいかわからない」

「そっか……まあ凍らせておけば、フェルもうっかり滑って転んで隙を見せてくれるかも」

 微笑む獏の相貌は色が抜けたように白く弱々しい。死んでいないだけで、会話もあまりできる状態ではない。早く病院へ連れて行かなければ手遅れになる。

 吐く息は未だ白い。凍らせないだけで、まだ完全に冷気を断てていない。

 獏を無事な建物の陰に運び、蒲牢は間棒(けんぼう)を召喚して大きな氷の刃を生やした。乱れた気持ちはまだ完全には戻らず、刃は歪になってしまった。

「角、大丈夫?」

「何で生えてきたかもわからないし、少し痛いけど大丈夫」

「痛いの? 前に抜けた時は何とも……」

「抜けるのと折れるのとでは何か違うのかも。それは後で考える。今は様子を見てるみたいだけど、そろそろあいつが戻って来るはず」

「僕も援護できそうな所はするから」

「手を出したら怒るよ」

「……蒲牢だって怪我してるのに……」

 獏の指摘には返事をせず、蒲牢は氷の鎌を手に砕けた氷の上を跳び、フェルニゲシュが逃げた方へ駆けて行った。

 残された獏は氷漬けにされた傷を押さえ、冷たい壁に背を預ける。蒲牢を追うかエーデルワイス達と待機するか悩んで遅れて城下町に入った獏は、蒲牢の危機を捉えて咄嗟に間に飛び込んだ。もっと良い方法があったかもしれない。だが考える時間が無かった。フェルニゲシュの攻撃は一度防げたのだから、二度目も防げると甘く見てしまった。

(高が悪夢に、獣……龍属が何度も攻撃を防がれるなんて、そんな甘いわけないよね……)

 離れた場所で、交戦の音が聞こえる。片腕を失い、片方の角が折れた痛みの中でよくあの王の相手ができるものだ。蒲牢は未熟かもしれないが充分強い。獏は朦朧とする意識の中でそう思った。



 フェルニゲシュは背中の翼で飛ぶことができる。だが蒲牢は間棒を握っていると飛行ができない。両腕が健在だったとしても、二本の杖を同時に操ることはできない。

 飛ばなければ、飛ぶフェルニゲシュに届かない。

 蒲牢は奥歯を噛み、屋根の上へ跳んで氷の鎌を振る。冷静な冷気はフェルニゲシュに届かない。飛ばなければ、見下ろされるばかりだ。

「くっ……」

 焦燥が蝕み、注意力も散漫だ。雑念が多い。あれこれ考え過ぎだ。重傷を負う獏のことも、凍った町のことも、まだ戻ってこないヴイーヴルのことも、カトブレパスが何をするかもわからない。集中できない。

 飛べない。

 飛びたい。

 飛ばなければ、仕留められない。

「……出ろよ!」

 苛立つ声に反応するように、折れた角が震える。

 切り株から新しい葉が芽吹くように、折れた角から新しい角が再び生えて伸びていく。こびり付いていた乾いた血が凍り、赤い雪片が剥がれる。

 白珊瑚のような角が再び二本揃い、足下に杖がもう一本召喚された。手作りの耳飾りの杖を除けば、杖を同時に召喚したのは初めてだ。

(……間違いない、この角が生える理由……龍の力を上手く操作するための角だ。だから暫く杖を出してないと勝手に抜ける。杖を出してる時は角に血が通うから、折れると痛い)

 龍属全てがそういう性質を持っているわけではないだろう。フェルニゲシュには角は生えておらず、ヴイーヴルの頭にも生えていない。

(みずち)はずっと角が生えてるから、俺がこんな仮説を出しても理解できないだろうな……必要に応じて角が生えるなんて)

 角が生えると力が沸々と湧く感覚がある。分散していた力が集束するような、頭の中が晴れる感覚だ。

(でも新しい角が生えても、折れた所はまだ痛い)

 痛みを感覚の外へ押し遣り、杖の上で体勢を整える。細い杖の上で立ち続けながら片腕で鎌を振れるのか。杖と足を氷で繋いで固定し、引っ繰り返っても地面に叩き付けられないようにする。

 片腕で大きな鎌の柄を握り、フェルニゲシュに接近する。杖は召喚できたが、上手く飛べるかは別の問題のようだ。慣れない体勢と二本同時の操作で消耗も激しい。そこへ、出し惜しまず歌も奏でる。

 これで駄目ならフェルニゲシュには勝てない。

 黒い炎が鳥のように舞う。氷を盾に鎌を振る。当然のように避けられる。

 氷を躱した黒い炎は意思を持ったように空中を飛び回り、杖に固定した蒲牢の脚を狙う。飛ぶためには固定しなければならず、固定してしまうと動かせないのが難点だ。

「荒れる空に降る一片(ひとひら) 切り裂いた糸から零れる空虚――」

 渦を巻く雲からは何も降らない。雪を降らせて利用しようと考えたが、どうやらそう都合良くはいかないようだ。

(熱い……ヒートを起こしそう……)

 無茶な力の使い方で体が擦り切れているのがわかる。自分の目は見えないが、感じている通り蒲牢の双眸は薄らと紅を帯びていた。三つの杖を同時に使用して体が悲鳴を上げないわけがなかった。

(俺が何とかしないといけないのに……)

 動けない獏の方へ炎が飛ばないよう庇っているが、それで精一杯で攻められない。焦りが募る。

(もっと、もっと……!)

 歌を止め、飛行に使用している杖を翳し、城下町を凍らせた氷を地面から空へ打ち上げる。砕けた氷は歪に細長く柱となって不規則に伸び、飛ぶフェルニゲシュの足へ掴み掛かる。彼が足下へ意識を取られた刹那に、蒲牢は死角から鎌を掲げて飛び出した。

「……?」

 微かに見えたフェルニゲシュの口元が微笑(わら)っていた。これまで首輪に抑制されて表情が乏しかった彼が不意に笑みを浮かべる。それは不思議で、不気味だった。

 足掻くだけで決定的な一撃を与えることができない蒲牢に対して、勝利を確信して思わず笑みを漏らしてしまったのだろう。間棒を握る手に力が籠る。蒲牢にはそれが嘲笑に見えた。

 不規則な氷は黒い炎に阻まれるが、全てではない。枝を伸ばす木のような氷ごとフェルニゲシュに氷の刃を叩き付ける。氷の枝は砕けても、フェルニゲシュの体には届かない。細い管の絡まる歪な杖で氷の刃の側面を叩いて払う。

「何が面白い……」

 返事などあるはずがない。その呟きは独り言のようなものだった。


「こんなに楽しいのは久し振りだ」


 予想外の返事に、蒲牢は目を丸くした。

 フェルニゲシュは歪な杖を構える。細い管が絡み合い、ショットガンの形を作り出そうとする。

 あの巨大な力の塊がまた飛んで来る。蒲牢は空中に氷の塊を幾つも出力し、一斉にフェルニゲシュへと投擲した。

 フェルニゲシュは翼を一つ羽撃かせ、少しばかり距離を取る。

 氷の塊と、地上から氷の枝を勢い良く伸ばし、頭上の雲から氷柱(つらら)を落とす。

「ぐっ……はぁ……はあっ……」

 寸前で理性を留めながら、氷のような双眸は紅く染まる。体が限界を訴えていた。角が震え、全身が熱くて燃えそうだ。

 氷の猛襲にフェルニゲシュも避けるのを諦め、一部を身に喰らう。杖の変形中は不安定なため、力を使えないのだ。

 氷が刺さった腕を持ち上げ、頬に掠った傷を指先で拭う。自分の血が滴るなど、随分と見ていなかった。氷は冷たいのに、傷が熱い。

 負傷してもフェルニゲシュの口元から笑みが消えることはなかった。

 完成したショットガンの銃口を蒲牢へ向け、引き金を引く。

 厚い氷を盾に作りながらも銃口から逸れようと足下の杖を飛ばすが、銃口は蒲牢を狙ったまま離れない。

(体が重くなってきた……力を使い過ぎだ……)

 銃口を振り払えない。今の蒲牢にできることは、被害を広げないために城下町を背後にしないことと、延長線上に獏や饕餮を置かないことだ。

(折角友達ができたのにな……でも獏は友達だと思ってるかわからないな。ちゃんと聞きたかったな……)

 ショットガンの変換石は容赦無く輝く。止まない上下左右からの氷の猛襲に、フェルニゲシュは致命傷だけは避けている。

「もう少し楽しみたかったが」

 名残惜しい言葉だったが、声に感情が無かった。これは空っぽの獣なのだろう。首輪の所為で中身が攪拌され混濁している。

 覚悟なんてしたくはなかったが、逃れる術も思い付かず、蒲牢は唇を噛み、声を上げた。

 力強く、だが氷のように透き通った儚い歌声はよく響き、眼下に隠れる獏の耳にも届いた。何のための歌なのか獏にはわからなかったが、胸騒ぎがした。


「……さよなら」


 銃口から光が爆ぜ、黒い火の粉が揺らめく。目を開けているつもりだったがあまりに眩しく、目を閉じてしまった。その目はもう二度と開くことはないだろう。

 燃え尽きた隕石のように、抵抗も無く黒い陽炎の尾を引いて白銀の星が空から落ちる。

 獏は痛む体に鞭打って落下地点へ急いだ。その道中で頭上を確認し、目を見開く。返り血を浴びるフェルニゲシュのショットガンに白い塊が引っ掛かっていた。それは半分になった体だと認識するのに時間は掛からなかった。下半分は吹き飛び、残った腹の断面から止め処なく鮮血が零れている。

 目はもう虚ろで、何も認識していなかった。もう考える力も無いのに、口だけは微かに動いた。


「私の……使命……」


 ショットガンに引っ掛かり赤く汚れた白い少女は自分が何を言っているのか、もう聞こえていない。

「ア……ナ……?」

 乱れ飛ぶ氷を足場に、白い少女が駆け上がって来ることに彼は気付けなかった。標的の方ばかり見ていた。久し振りに力を存分に振るい、楽しかったのだ。自分と対等に遣り合える獣が現れ、それは彼を高揚させた。抗議をしていることも忘れて、それに夢中になった。

 ゲンチアナが駆け寄って来るなんて想定外だった。何故攻撃の間際に射線に、銃口の前に飛び出したのか、フェルニゲシュには理解できなかった。

「最初の……命令……長生き、できず……すみません……」

「!」

 何も見ていない目で、何も聞こえていない耳で、口だけが玩具の人形のように動く。掠れた小さな声はすぐに掻き消えてしまう。

「フェル、様は……長生き、して……ください、ね……」

「…………」


「最期に……フェル様の役に、たてて……うれしい……」


 それ以上はもう何も、二度と彼女から声は聞けなかった。

「何故だ……何のために……? 何が嬉しい……? 殺した……? オレが……?」

 呆然と頭に手を当て、ショットガンに引っ掛かっていた少女がずるりと落ちる。それを慌てて支え、何故支えたのかフェルニゲシュは自分の行動が理解できない。頭と体がバラバラになってしまったかのようだった。

 疑問が浮かんだのは、何処かに微かに理性が残っていたからだろう。

 この状態でフェルニゲシュに理性が残っていたことは今までなかった。

 蒲牢と交戦し『楽しい』と思ったことも妙だった。何故そんな感情が湧いたのか、何もわからなかった。

「何故……アナが……いや、オレが……オレが殺した……!」

 凍り付いた城下町に咆哮が轟く。慟哭と言うにはあまりに猛々しかった。それは前後不覚に陥った自分自身に対する怒りだったのかもしれない。

 ただ生きてほしいと願っただけなのに、その命を摘み取ったのは己だった。



 ――その後のことは、彼は覚えていない。

 ゲンチアナの死で首輪が正常を取り戻し、その前後の記憶を掻き消してしまったからだ。

 これまでも、理性が飛びながらも殺したことを自覚していたのだろう。

 だがそれは彼を含め、誰にもわからないことだった。


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