199-作戦
薄くなってしまった黒い壁をぐにゃりと曲げて纏い、獏はエーデルワイスを抱えたまま城下町の路地を疾走する。
黒い壁は布のように軽やかで、岩のように牢固だ。獏を乗せ、太く縒った触手でベラドンナと有色の二人を絡める。一方的に触れるそれにベラドンナは途惑いながらも冷静だったが、普段は獣と話すことも無い有色の二人は顔色が悪い。一体このぶよぶよとした触れられない黒い物は何なのか、不安と恐怖で息すら止まりそうだ。
エーデルワイスは獏の胸に頭を埋めたまま動かない。震えるでもなく、ただ獏の服を固く握って離さなかった。
「……怖かったね、ワイスさん。いいんだよ。獣を憎んで強がってても、あんなのを目の前で見せられたら誰だって動けなくなるよ」
前方を見て黒い悪夢を操作しながら、囁くように優しい声で慰める。エーデルワイスは獣を殺したいほど憎んでいるが、フェルニゲシュは無名とは格が違う。避けられない程の至近距離での攻撃に足が竦んで当然だ。無名を殺せるだけで変転人の中では充分強者であり、臆することは恥ではない。
「大丈夫、フェルは僕が相手するからね……あ、ちょ、鼻を掴まないで」
マレーバクの面の鼻を掴まれ、引き剥がされた。
露わになった人形のような顔を凝視し、エーデルワイスは自分の顔に奪った面を被った。
『私はきっと酷い顔をしてる。負け犬の顔』
「君は強いよ。咄嗟に君の悪夢を借りたけど、あの至近距離の攻撃を防げるとは思わなかった。悪夢は負の感情が大きいほど強くなる。君はその感情に耐えて平静でいられるんだから、驚嘆に値するよ」
『悪夢? この黒いのがそうなの? これが私の悪夢?』
「うん。そうだよ。皮肉なものだけど、君を苦しめる悪夢に救われた」
『じゃあ、救ったのは苦痛じゃない。助けてくれたのはきっとアルとアナだ』
彼女の言うアルペンローゼとゲンチアナは現在の二人ではなく、過去に死んだ二人のことだ。
獏はどの二人を指すか知らなかったが、無神経に掘り起すことはできない。悪夢なのだから良い思い出であるはずがない。獏はそれ以上は触れず、詮索もしない。
「追って来てるかわからないけど、この人数を守りきれるかな……有色の人達は避難した方が安全だね。避難所はここから近いの?」
「ひ、避難所……? そういうのは無くて……この町から出ろっていう指示だったんです。隣町へ行くか、とにかくこの区画から出ろって……」
「城下町が一つ壊滅したから、ここも捨てろってことかな? じゃあ町の端まで送るよ。何処が端に近い?」
「……こ、こっちだと……思います」
男が指差す方へ、悪夢の進行方向を傾ける。
「悪夢を少し補充するね」
緊急事態だったので、薄い体と触手を数本出すのが精一杯だった。エーデルワイスの頭に手を当て、残っている悪夢を引き摺り出す。
「大きいから抜くのに時間が掛かるんだよね。全部抜いていいかな?」
エーデルワイスは動物面を被ったまま頷く。彼女が声を出せないことはわかっているが、無言の動物面は不気味だった。客観的に見るとこう見えるのかと獏は新しい知見を得た。
地面を滑るように走る黒い塊は追加された黒い靄を喰い、体を大きく厚くする。
悪夢を抜かれたエーデルワイスは途端に頭が軽くなり、霧が晴れたようにすっきりとした気分になった。悪夢を見ていたことと内容は覚えているのに、気持ちが軽い。憎しみは残っているのに。
(美味しそうな悪夢……なんて本人を前に言っちゃ駄目だよね。摘み喰いし……)
「あっ、もうすぐ端なので、この辺でいいです!」
「たっ、食べないよ!」
「……え?」
「あ……な、何でもないよ」
摘み喰いしようと思ったことが見透かされたのかと、勘違いしてしまった獏の肩が跳ねた。心の声が読める有色なんていないのに。
背後を確認し、壁の間の物陰に有色の男女を下ろす。
「じゃあ気を付けてね」
「はい! ありがとうございます」
有色達は深く頭を下げ、顔を上げた時には黒い塊も、獣と無色の姿も目の前から無くなっていた。音も無く去ってしまった。
急がねばならないほど切迫しているのだ。きっと助ける時間も惜しかっただろう。これ以上時間を無駄にしないよう、有色達も町を出るため駆け出した。
有色の変転人が全て城下町から抜け出した時、薄青い空は唐突に薄暗く白くなった。
頭上に渦を巻くように白い雲が現れ、それは大きく膨れ上がった。
「何……? 不自然な雲……」
突如出現した雲を見上げる獏の頬をエーデルワイスは軽く叩き、紙を見せる。
『花街に雲は発生しない。あれは人工的な雲』
「人工的……それ不味いんじゃ!?」
雲は既に城下町を覆う程に広がっている。すぐには雲の下から出られない。有色は町の端が近いと言っていたが、見える範囲に端は無い。
「端は近いんだよね? すぐ出よう!」
『さっきの有色はこの黒いのを怖がってるみたいだった。端からまだ距離があるのに、嘘を吐いた』
「え!?」
『まあ走ればその内、端に着くけど。私が喋らないから、嘘を吐いてもいいと思ったんでしょ』
「そんなに怖がってたなんて……」
不穏な雲を警戒して身を守るために悪夢を屋根のように頭上に広げるのと、空から冷たい物が降ってくるのは同時だった。
「え、何!?」
雲から大きな氷の塊が無数に降り注ぎ、鋭利なそれは悪夢を容易く貫いた。庇うことも間に合わず、身長ほどもありそうな大きな氷の塊がエーデルワイスに直撃した。
「!」
がくりと後方へ頭を垂れ、被っていた動物面が呆気無く割れる。彼女の傷を確かめる暇も無く、氷の塊が次々と降ってくる。
杖を振る前に、鉄球が素早く持ち上がった。落下する氷を鉄球が打ち砕く。
額から血を流すエーデルワイスが、眉を寄せながらメイスを握っていた。痛みを感覚の外へ追い遣って素早くメイスを回し、頭上に降る氷の塊を砕いてゆく。
「ワイスさん! 僕が遣るから、君はっ……」
小気味良い音がし、獏は頬を叩かれた。ペンを取る余裕が無いため、黙れと手が動いたようだ。
氷の塊は家々の煉瓦屋根も貫き、逃げ場が無い。
エーデルワイスは移動を止めない悪夢の上で周囲を見渡し、氷を全力で砕きながら建物の一つを指差す。平屋が多い中で、指差すそれは二階建てだった。
屋根と一階の天井の二枚が氷を受け止めてくれると期待して黒い触手でドアを開け、狭い出入口に悪夢を押し込む。氷が砕ける音と破壊の音が途切れることなく響き渡る。
滑り込んだ部屋は、生活の痕跡がある部屋だった。
負傷したエーデルワイスをソファに下ろして傷を確認する。縫合しなければならない傷だが、彼女の意識ははっきりとしている。一先ず杖を向けて止血する。
「頭蓋が割れなくて良かったよ……あ、うん、お面はいいよ。気にしないで。狴犴にまた作ってもらえばいいから」
割れた動物面を出され、獏は苦笑する。動物面を破壊してしまったのは二度目だ。
『このお面、特別な物? あの氷がこんな薄っぺらい物に当たっただけで、あんなに威力が削がれるとは思えない』
「狴犴が作った物だから僕にもわからないけど……特殊な素材なのかな?」
『お前を護るための印でも仕込まれてるんじゃないの?』
「印は無いはずだけど……」
エーデルワイスの額にガーゼを当て、背後で硝子を破るけたたましい音が飛び込む。窓が氷に貫かれ、床に刺さっていた。天井にも轟音が刺さる。
(氷は物理的だから……普通の悪夢だと透過しちゃう。防げるように意識しないと……)
悪夢の使役は獏にとって忌むべき能力である。使いたくないと避けてきた。自在に操作できるほど使い慣れていない。
「いっ!?」
次にどうするか考えていると、天井から轟音と共に氷柱が突き刺さった。
同じ音が近隣から聞こえる。鋭利な氷の塊の次は太い氷柱だ。これは明らかに獣の仕業だ。
「ベルさん大丈夫!? ワイスさん、掴まって! このままじゃ氷に潰されちゃう!」
「俺は大丈夫です」
悪夢が太い触手を伸ばし、エーデルワイスは躊躇しながらも黒いそれに掴まろうとするが手が擦り抜ける。その触手が伸び、彼女を掴んだ。ゴムのようにのっぺりと、ゼリーのように脆そうな感触だ。
「ワイスさん、氷を使う獣に心当たりはある? ここまでの攻撃ができるなら無名じゃないと思……ああ! 心当たりある!」
何を一人で盛り上がっているのかとエーデルワイスは白けた目を向ける。
「もしかしてこれ、蒲牢の仕業!?」
『仲間割れ? 私が殺すリストに入れておいてあげる』
「ま、待って……僕達がここにいることを知らな、わあ!?」
悪夢を掠り、氷柱が突き立った。悠長に話していられない。
「僕達がここにいるって知らせる方法はあるけど、フェルにも居場所がバレるし、蒲牢に作戦があるなら邪魔になるかも……」
『じゃあ急いで城下町を出るしかない。雲が何処まで続いてるかわからないけど』
「わかった。悪夢に最速で走ってもらうよ」
黒い触手に掴まり、獏もベラドンナの手を引いて悪夢へ乗り込む。
「行って」
悪夢に手を添えると、黒い塊は触手で壁を打ち抜いた。外へ飛び出すと同時に氷柱が家を貫き、間一髪だった。
宵街に比べると入り組んだ路地が無い分、悪夢は幅を保ったまま走ることができる。
『遅い』
「これが精一杯みたい……」
最初から最速だったようだ。
降る氷の塊は次第に半分以下に小さくなり、それと比例して速度が増す。蒲牢はフェルニゲシュに接近せずに彼を貫く気だ。
「っ……!」
鋭利な氷が頬を掠め、歯を喰い縛る。白い頬を伝う血を手の甲で拭い、獏は空を見上げた。
「蒲牢……こんなに広範囲の攻撃ができるなんて……」
『絶望してる?』
氷から逃げ切れるか自信が無い。悪夢を使役できると言っても、引き出す能力はそれぞれの悪夢の性質によって異なる。
呆然と空を見上げる獏は、小さく首を振った。
「ううん……龍って凄いんだなって」
月の瞳を丸く、獏は人形のように整った笑みを浮かべて杖を頭上に振った。
「龍に一目置かれてるんだから、僕も頑張らないと。作戦の邪魔になるのは嫌だけど、今は皆を護る方が大事」
杖の先の変換石が光り、空に小さな光が無数に点る。雲のように城下町の上空を覆う程ではないが、それは星のように空に散らばった。
星が輝くと降っていた氷が空中で砕け、ダイヤモンドダストのように舞い散った。新たな氷は降ってこない。攻撃が止んだ。
「早く城下町から出ろってさ」
何処にも言葉は書かれていないのに、獏は確信して悪夢を走らせた。エーデルワイスは訝しげに首を傾ぐことしかできない。氷を使う獣だということ以外、何もわからないのに。
悪夢で駆け抜けて遂に端を見つけた。城下町を飛び出し、家々から距離を取った場所に、杖を構える見知った角頭の白銀の獣がいた。その後方の木の陰に窮奇と、意識が無いままの饕餮もいる。
「獏! そんな所にいたら危ない……」
「星に気付いてくれて良かった」
「儚い発光体を出す獣は獏しか知らないから……それより、その悪夢は大丈夫なのか?」
「僕が使役してるから大丈夫だよ」
心当たりが的中した。氷を操る獣が敵ではなく味方で良かった。
安堵した直後、エーデルワイスは悪夢から飛び降り、メイスを抜いて容赦無く蒲牢へ振り下ろした。
「ワイスさん!?」
空へ向けていた杖を一旦引き、蒲牢は残った片腕でメイスの柄を受け止めた。体重が乗った重い一撃だ。柄の先の鉄球を受ければ骨が折れるだろう。
「蒲牢は敵じゃないよ!」
防がれたメイスを流し、エーデルワイスはくるりと反動を付けて蒲牢の胴を蹴り付ける。
蒲牢は脚を受け止め、杖を一旦消してメイスの柄を握った。敵なら柄を折る所だが、襲われる理由がわからず、武器を奪うために柄を引く。エーデルワイスはメイスを強く握り締めて離さなかった。
「氷が当たったのはわざとじゃないんだよ?」
「……え? 俺の氷が当たったのか? それは……ごめん」
離さないのならと武器ごと放り投げようとしていた蒲牢は手を下ろした。エーデルワイスの浮き掛けた足が地面に戻る。
彼女の額にはガーゼが貼られている。怪我をしたのは明白だったが、まさか氷が当たったとは思わなかった。
「獏の顔の傷もか?」
「僕のは掠り傷だよ」
「殺さなくて良かった……」
「それよりあの雲、蒲牢だよね? あんな広範囲の大技が打てるの? 凄いね!」
「いや、あれは……ヴイーヴルの水の能力で補助してもらったから、全部俺ってわけじゃない……」
ヴイーヴルに大量の水を出力してもらい、蒲牢はそれを無数の微細な氷に変えた。雲とは微細な氷が集まった物である。それを上空に展開した。能力を自在に使用できる慣れた龍なら自ら雲を操り天候を弄ることができるが、それは蒲牢にはまだ難しいことだ。
「そうなの? ヴイーヴルの姿は見えないけど」
「ヴイーヴルは別行動だ」
「補助して別行動……? もしかしてフェルを討ちに?」
「どちらかと言うとフェルニゲシュの相手は俺……でも動きを止めたいだけ。ゲンチアナを使わずにフェルニゲシュを封じる。カトブレパスに方法を教えてもらった」
「え!? それって……信用できるの?」
「わからない。でもヴイーヴルは遣る気だから、手伝ってる。俺も一発殴りたかったし……フェルニゲシュが宵街に行かない保証も無いし、止められるなら止めないと。変転人は避難させたから、城下町は破壊してもいいって言われた。獣は勝手に逃げるだろうから放っておいてもいいって」
「逃げられて良かったよ……」
「うん」
城下町は破壊してもいい、という言葉にベラドンナは複雑な気持ちを抱くが、そうでもしないと敵を倒せないようだ。被害の規模は昨年生まれたばかりの変転人には想像もできない。
蒲牢に掴まれた柄を取り返そうとエーデルワイスはメイスを引いたり押したり足掻くが、彼の手は離れない。蒲牢に一瞥されてぴたりと動きを止めると、漸く彼は手を離した。
「気が済まないなら後で相手するから、今は待って。フェルニゲシュを封じる方が先だ」
フェルニゲシュは野放しにしておいて良い獣ではない。それに、エーデルワイスにとってあの王は親しい者達の仇である。彼女は大人しくメイスを引いた。
「獏。逃げ遅れてる人は他にいないよな?」
「それは僕にはわからないけど、変転人を二人、逃がしたよ。ちゃんと町から出てくれてればいいけど」
「それなら攻撃を再開する」
獏と離れている間にヴイーヴルを手伝うことになっていたようだ。窮奇は饕餮を抱えて傍観していて手伝う気はなさそうだが、去りもしない。
「……ん? 獏、杖……?」
「今気付いたの?」
「仕事印は……」
エーデルワイスは目を細めて仕事印をちらつかせた。
「無くしたかと思った」
獏が大目に見てくれと言うまでもなく、蒲牢はエーデルワイスを責めなかった。彼は何も気にせず杖を召喚し、空に向かって振る。大事な印を無くしたとなれば狴犴に叱られる所だった。戻ってきたのなら今は追及しない。
光る星が打ち上がったため止めていた攻撃を再び繰り出す。攻撃を止めていた間に逃げていなければ良いが。
頭上の雲は渦を巻き、鋭利な氷の塊を作り出す。城下町から離れて見上げると、氷柱の降る位置は不規則ではないことがわかる。外側から内側へ誘導するように、追い詰めるように順に氷柱を降らせている。蒲牢はフェルニゲシュの位置がわからない。行動範囲を狭めて探っていく。
「ヴイーヴルがフェルニゲシュを封じるために必要な物を取りに行ってるから、その間、俺はフェルニゲシュの足止めと、あわよくば地面に打ち付けて位置を把握する。これが作戦。強い奴を討つなら犠牲を払わないといけない。でも犠牲は生命である必要は無い、って。城下町を一つ犠牲にする。窮奇が城下町にいる変転人を探って避難させてくれたけど、完璧じゃないから。それで変転人とか獏が感じ漏れた」
「うるせーな。オレが探った後に町に入ってきたんだろ」
「どっちでもいい」
大きな氷柱を落としながら、反論する窮奇の方を見ずに遇う。獏が離れている間に作戦を立てていたようだ。
「半分は鴟吻の所の……何だっけ、タネ……が考えた作戦。彼は参謀じゃないからかなり荒削りだけど、でもわかりやすくていい」
「黒種草?」
「それ」
「ヴイーヴルは何処まで必要な物を取りに行ってるの?」
「城」
簡潔に答え、蒲牢は左右を見渡す。
「獏もそろそろ集中して。肌がピリピリする。あいつが攻撃をしてくる。充填が終わったらしい」
「え!? 集中って言われても……」
幾ら集中しようとも獏はフェルニゲシュの攻撃を避けられる気がしない。これまでも他人の手を借りて躱していた。相手の姿が見えていれば、攻撃の瞬間は杖を見ればわかるため躱すことはできるが、逆に言えば杖が見えないと躱せない。この悪夢で何処まで防げるかもわからない。
『世話が焼ける獣。私が引く』
「そんなにはっきりわかるものなの……?」
『騙し絵みたいなもの。違和感に気付けば、何故わからないのかわからない。でも気付かなければいつまでもわからない』
「ああ……成程」
つまり一度気付いてしまえば、躱わすことは造作も無いらしい。
「俺は一度喰らったからわかる。獏はまだ若いし、補助できる所はする……けど今は氷に集中してるから、そこの変転人に任せる」
生まれてまだ二百年も経たない獏は、人間に囚われていた期間や、そもそも悪夢を相手に戦っていたため獣相手の戦闘経験が乏しい。変転人に比べれば気配の察知や惑わすことは得手だが、とにかくエーデルワイスが規格外だ。
『獣なんて全て消滅すればいいのに』
わざわざ書いた紙をくしゃりと握り潰し、エーデルワイスは拳に憎悪を込めた。だが今は拳だけに留める。ゲンチアナを救うためには獣の力が必要だ。カトブレパスが方法を提案したなら、余程の自信があるのだ。彼はそういったことには信頼がある。彼に従えばゲンチアナを救える。
至近距離でフェルニゲシュの攻撃を受け、彼女は臆してしまった。潰した紙と共に細い銀の輪が視界に入り、冷静になる。
エーデルワイスはメイスを仕舞い、呑気に立つ獏とベラドンナの腕を掴んだ。その腕が抜けそうな程に強く引く。蒲牢は数歩分跳び退き、杖を握る手に力を込めて厚い氷の壁を幾つも立てて歯を喰い縛った。
「っ……!」
黒い揺らぎを纏った太い光線が黒い火の粉を撒き散らし、氷を貫いた。
「遅い……?」
僅かに逸れて背後に突き抜けていった光線は、それまでの速度とは違った。視認してからでも回避できる速度だった。変転人にはまだ回避が困難な速度だが。
蒲牢は肩で息をし、杖の先が地面に落ちそうになるのを寸前で堪えた。杖を握る手がじんと痺れる。汗で滑りそうだ。
「……重い……片手じゃ止められない」
「あっ、あの攻撃を止めようとしたの?」
勢い良く引っ張られて地面に尻餅を突いたまま引き摺られていた獏は、緊張感の無い格好で問う。
「攻撃が炎なら氷で止められると思ったんだけど、威力を削ぐので精一杯みたいだ。両腕があればもう少し遣れたと思うけど……」
炎の前に厚い氷の壁を幾つも立てたが、全て穴を空けられてしまった。最初は叩き割られ、徐々に鈍く氷は溶かされていった。
「……腕が少し痛いな。そこの変転人か」
「え? 折れてるの!?」
先程エーデルワイスのメイスを受けた時だ。
「少し罅が入ったくらいだと思う。そんなことを言い訳にはしない。やっぱりまだ氷の操作の修行をしないとだな……」
「無茶しないでよ……」
「それより、狙ってこっちを攻撃したんなら、俺達の居場所がバレてる。構えろ、獏」
「え、わ、うん」
悪夢の黒い触手に掬われて地面から起き上がる。手振りでエーデルワイスとベラドンナを窮奇と饕餮の位置まで下がらせる。
「ワイスさんはベルさんをお願い」
返事は無いが、エーデルワイスはメイスを構える。炎には通用しない武器だが、フェルニゲシュが接近してきたら相打ちになろうが頭を叩き割るつもりだ。
悪夢に乗った獏は目線が高くなり、路地の奥まで見通せるようになる。
「獏、屋根の上には出るな。標的を作らなくていい。俺が相手する」
「片腕で……? 一人でなんて無茶だよ」
「本気で遣る」
「渾沌と戦った時くらい?」
「あ、れは……全然駄目だった。あの時より遣れる」
あの時の蒲牢は氷を使えなかった。能力を使おうとして自分自身が凍て付いた。能力を自認して間も無い彼は、能力を自在に従わせるには未熟だった。
(五百歳にもなって自分の能力を知らないなんてこと、あるんだな……)
蒲牢は前に出て杖を構え、片足を下げて踵を地面に穿つ。
杖の変換石が光り、前方に厚い氷の壁を形成すると同時に飛来した黒い熱の塊が激突し、踵が土を削って抉る。ひやりとした空気とは裏腹に汗が滲む。力加減を少しでも間違えると腕どころか体ごと吹き飛んでしまいそうだ。
「んっ……!」
片腕で支え歯を喰い縛りながら氷の壁をじわりと傾け、炎の進路を逸らして流す。ヴイーヴルがフェルニゲシュの攻撃を受け流していた動きを真似た。
「遣ればできるじゃねーか。気付かれてるなら話は早ぇ。もう一回索敵して居場所を特定してやるよ」
創られた空間である花街は閉じられた部屋のような物だ。部屋に自然な雲や風は吹かない。
窮奇の能力は風であり、索敵は微風を操る。風の無い場所で微かにでも空気が流れれば、敏感な者なら違和感を覚えてしまう。逆にこちらの居場所に気付かれ兼ねない。だが相手が既にこちらに気付いているなら、何も気にしなくて良い。
「うん。任せる」
窮奇は杖を召喚し、城下町に向かって杖を翳す。
「気配を探れ――微風」
温い風が微かに肌を撫でる。蒲牢の言う通り、この能力は完璧ではない。城下町のような広範囲を漏れなく探ることはできない。変転人のような弱い気配は漏らしてしまうこともある。
「……見つけた。隠す気の無い派手な気配だな」
それほど自分の力に自信があるのだろう。窮奇は鼻で笑い、蒲牢にフェルニゲシュの居場所を共有する。
蒲牢は痺れる手で杖を握り直し、こちらからも空中で氷柱を何本も作り出して射出する。それを追うように蒲牢は地面を蹴った。
こちらの居場所が知られたのならフェルニゲシュが来るかもしれない。怪我人や変転人がいるここへ来られると不味い。蒲牢が前へ出るしかない。
「ぼ、僕は蒲牢を援護すればいいのかな……? それともここで、君達を守る……?」
少しの迷いが命取りになりそうな蒲牢の攻撃の往なし方を見て、獏は躊躇していた。援護に行っても邪魔にしかならない気がする。
振り向いて問う獏に、エーデルワイスは紙切れを突き出した。
『好きにすればいい』
「そんな適当な……」
いつも適当に生きている獣に何故適当だと言われなければならないのか。エーデルワイスは紙切れを握り潰して丸めた。足を引っ張るならこの紙屑のように頭を潰すと言っているようだった。
建物を破壊し吹き飛ばした直線を駆け、蒲牢は獏が付いて来ていないことに少し安堵した。龍属同士の戦いは初めてだ。獏を庇っている余裕は無いかもしれない。
安堵が『少し』だったのは、共闘の期待もあったからだ。獏は悪夢を使役する能力を嫌悪しているが、獏以外が触れることは叶わない悪夢は強い。龍属相手でも充分通用する。
(でも俺は悪夢のことをよく知らないから、無理に前線に引っ張るわけにはいかない)
前方に放った氷柱が、飛来しながら先端が溶けて蒸発する。火を付けた導火線のように徐々に激しく蒸発していく。
蒲牢は杖を振って太い氷柱を幾つも追加で放ち、横へ跳び退いた。
氷柱を溶かした熱は黒い炎を纏い、蒲牢の居た場所で爆ぜる。
(渾沌の能力も熱で溶かしてたけど……こいつの炎は溶かすだけじゃなく蒸発する程の温度……マグマみたいな物か? マグマだったら、体中の血が一瞬で沸騰して爆発でもしそう)
マグマに入ったことがない蒲牢は想像してすぐに頭からそれを消した。死ぬ想像なんてしたら動きが鈍ってしまう。嫌な想像を振り払うように意識を切り替えて口を開く。
「――――っ」
激しく冷たく身を刺すように歌い、自身の能力を高める。同時に不協和音で相手の感覚を乱す。頭の白珊瑚のような角が震え、微かに粉雪が舞う。
待ち構える紅い双眸の黒い龍の姿が視界に入り、蒲牢は身震いする。細い管を絡めたショットガンのような形の杖が管を解き、管を纏った長い杖に変形する。変形する杖なんて初めて見た。間違い無く蒲牢よりも長い年月を生きている龍だ。
鰐のような黒い尾を一度振り、金色混じりの黒髪を一つに束ねたフェルニゲシュは杖を持ち上げる。杖は黒い炎を纏い、周囲へ散った。薄く伸ばされた黒い炎が四方八方から蒲牢を襲う。
蒲牢も不純物の無い氷のように透き通った声で歌いながら杖を振り、躱せる炎は避け、残りは氷の塊を出力して相殺する。
フェルニゲシュの攻撃はわかりやすい。小賢しいはったりを混ぜず、全てが標的に当てるための攻撃だ。圧倒的な力を持つ者は、頭を捻る必要も無く相手を捻じ伏せることができる。
今度は細かく分けず、黒い炎の塊が地面に走る。蒲牢は素早く跳び退き、黒い炎の軌跡に深い亀裂が走った。
「フェルニゲシュ! 君は……本当に理性が残ってないんだな!? 残ってないなら、手加減できない!」
一旦歌うことを止めて問い掛ける。フェルニゲシュに返答は無かった。ぴくりとも反応しない。最後に確認をして、何か反応があるなら加減をしようと考えていたが、その必要はもう無いようだ。
(加減なんて、偉そうなことは言えないけど)
片腕では、そんな余裕は無いかもしれない。
徒らに発散するだけの大きな光線ではなく、フェルニゲシュは小分けした黒い炎を自身の周囲に浮かべた。その一つ一つが人の頭部よりも大きい。見境の無い大きな光線は連続で打てないため、標的を定めると火力を下げて攻撃をするようだ。近くの敵を撃つためにそれ程の火力は必要無い。
つまり蒲牢は標的に定められた。
歌を口遊みながら、杖を振る前にその場を跳び退き、そこへ黒い炎が走る。火力が下がっていても、威力も速度も並の獣以上だ。迷えば欠損する。
(腕一本で何処まで遣れるか……)
ヴイーヴルが戻るまで耐えられれば良い。
カトブレパスが提案した方法でフェルニゲシュが封じられるなら、だが。それでも今は信じるしかない。頼れるものがあるなら頼れと黒種草が言っていた。
冷たく凍り付く歌声で空気を震わせ、黒い炎を避けながらそれと同等の大きさの氷柱を放つ。放つ間、蒲牢は速度が少し落ちてしまう。氷の出力にまだ慣れていないからだ。そこに付け込まれないようフェルニゲシュの杖の先を注視する。力を使用する時は杖の変換石が光る。それを見ておけば回避できる。生まれて充分な年月を経た獣は、変換石の発光と出力まであまり時間の差は無いが。
太い氷柱がフェルニゲシュを襲い、彼は黒い炎を纏って氷柱を溶かし蒸発させる。その場から動かず無表情を変えない。
氷に慣れていない蒲牢とは逆にフェルニゲシュには余裕があり、氷を遇らって尚、炎を反撃に繰り出す。
蒲牢は残っている建物の壁を蹴り、屋根を跳び炎を躱す。跳びながらフェルニゲシュの目に入らないよう己の体で杖の変換石を遮り、静かに歌を奏でる。
見上げるフェルニゲシュは足下への意識が薄れている。土中の水分を凍り付かせ、地面を持ち上げて巨大な霜柱が聳り立つ。道を埋めるように広範囲に不規則に隆起した地面は氷山のようだ。
(初見の癖に避けるなよ……)
水が凍り付く時、その体積は膨張する。その所為で地面が僅かに盛り上がった。霜柱を形成する途中で、地面から刺し上げる寸前に気付かれてしまった。霜柱が聳り立つよりも僅かに早く、フェルニゲシュは跳び退いていた。
フェルニゲシュは霜柱の上に降り立ち、立ち止まらずに跳んで氷の無い屋根に足を下ろす。脆い霜柱は、勢い良く跳び乗るとすぐに崩れてしまう。それも爪先が触れた瞬間に察したようだ。
(これが龍属……)
蒲牢は死角を縫い、氷柱を落としながら路地を駆ける。歌っていると居場所を相手に知らせてしまうので口も閉じる。
フェルニゲシュの背後に回り、杖を身の丈以上の間棒に持ち替え、間棒を柄に氷の刃を生やして鎌を作る。
死角を狙った背後からの鎌の一閃も、彼は容易く回避する。
振り抜いた鎌の刃を消し、振り抜いた勢いでフェルニゲシュを蹴り付ける。岩を砕くつもりで力を込めたが、腰を打つ前に鰐のような尾を翻して脚が止められた。
(硬い……!)
尾の陰から手が伸び、蒲牢は咄嗟にもう片脚で反動を付けて距離を取る。足を掴まれれば持って行かれるだろう。
「お前はオレを殺せない」
距離を取った束の間、フェルニゲシュは即時行動した。尾で反動を付けて距離を詰め、黒い炎を纏った拳を蒲牢へ振り下ろす。呼吸の暇も無く、息を止めて蹴った地面に大きな亀裂が走った。
(炎を纏うと威力が増すのか……? じゃあ俺も氷を纏えば……いや、そんなこと考えてる暇が)
黒い炎を纏った拳と蹴りが舞うように繰り出される。全てを避けるのは難しく、氷の塊を出力して受けるが、薄氷を割る如く容易く砕かれる。
(押される……!)
蒲牢も戦い慣れているつもりだった。だがそれは昔のことのようだ。宵街で統治をしていた頃の贔屓を手伝って制裁者を務めていたのは、もう何百年も昔の話だ。現在は獣の相手なんて殆どすることがない。両腕が揃っていたにも拘らず、龍属ではない渾沌にも苦戦した。
フェルニゲシュは戦い方が体に染み付いているのだろう。理性を失い、体が記憶に従って動いている。
「ぐっ……!」
避けたつもりが、フェルニゲシュの足が角の一つに当たった。枝分かれして伸びた白珊瑚のような角は大きく、普段はそこに無い物なので頭上への注意が薄れていた。
以前角が生えた時は勝手にぽろりと抜けたが、今は生えたまま砕けた。頭に根元を少し残すだけとなった角の断面から赤い液体が流れる。それは白い髪と額を伝い、頬を濡らした。
(血……?)
それと共にじわりと痛みが滲み、認識すると激痛が頭部に走った。
「っ!?」
角が自然に落ちた時は痛みなんて無かった。毛髪の一本が自然に抜けたかのような、何の感覚も無かった。
痛みで判断が鈍る。歯を喰い縛り、地面を蹴って後方へ跳ぶ。
逃げたと思ったのだろう。フェルニゲシュは蒲牢の後を追った。
痛みを感覚の外へ、蒲牢は間棒で黒い炎を纏った拳を受ける。間棒がみしりと軋み、大岩を受けているような負荷が片手に掛かる。片手では受け切れない。間棒を傾け拳を流す。
(両腕があれば……違う! 無いものに縋るな!)
防戦一方だった。拳に気を取られ、死角に入っていたフェルニゲシュの杖が生き物のように細い管を絡ませてショットガンの形を作っていることに気付かなかった。
至近距離で銃口を向けられ、蒲牢の目は見開かれた。譬え直撃を免れたとしても、体の広範囲を吹き飛ばされる距離だ。避けられない。それはズラトロクが受けた攻撃と同じ攻撃だった。
それでも体勢を立て直し氷の壁を膨らせる。並の獣だと疾うに絶望して諦めている。
鼓動が速く、力を細やかに操作する余裕が無い。揺らぐ瞳の隅で、手に霜の花が咲く。
同じ龍属でもここまで力の差があるものなのか。蒲牢は宵街にいる龍しか知らないが、実力を知っているわけではない。それでもフェルニゲシュが本気を出せば他の龍は足元にも及ばないほど強いのではないかと、意識が呑まれそうになる。躙り寄る、それは恐怖だった。
ショットガンの変換石が光る。呑気に光を見ているように感じてしまうが、その間、一秒も無かった。
白銀の双眸に黒い炎が揺らぎ、眩い光線が眼前で爆ぜた。
視界が真っ黒に染まり、熟した果実を潰したように真っ赤に爆ぜた。




