198-残骸
獏とエーデルワイスは診療所を離れ、城下町へと向かった。森の中は静寂を守っているが、時折遠くで不穏な音が響いている。森を抜けると音ははっきりと耳に届いた。
木々は疎らに、所々に家は立っているが、城下町はまだ遠い。
『お前は飛べないの?』
エーデルワイスは振り返らずに紙を背後へ差し出す。地面を走るより飛ぶ方が速いのに、獏は飛ぼうとしない。
「今は無理だね。杖が出せたら飛べるけど、出せなくされてるから……」
続けて彼女が差し出した物を見て、獏は目を見開いた。それはそこにあるはずのない物だった。彼女が持っているはずがない、見覚えのあるシーリングスタンプのような印だ。
「えっ、何で君が仕事印を……!?」
『大事な物みたいだから掏った』
「盗んだの!? 蒲牢から!?」
獣の懐へ手を忍ばせる変転人など命知らずも甚だしいが、変転人に懐を探られて気付かない獣も油断が甚だしい。蒲牢が掏られて気付かないなんて信じられない。
「嘘でしょ……でも、これは僕にとっては嬉しいことだから、盗んだことは大目に見てくれるよう言ってあげるよ!」
エーデルワイスは無言で背後に紙を差し出す。そこには一言だけ走り書きされていた。
「……伏せて?」
何故、と問う前に、獏は勢い良く足を払われ、強制的に草の上に倒された。
「ぶっ!?」
俯せに草の中へ落ち、長い草が姿を隠す。緑に黒衣は隠れ切らないが、彼女は身を潜めさせたいわけではなかった。
エーデルワイスは獏の足を払って姿勢を低くしたまま掌からメイスを引き抜く。頭上を光弾が掠め、エーデルワイスは肉食獣が獲物を狩ろうとするように駆け出した。
折れ曲がったような歪な短い杖で光弾を撃った獣の男の背後へ、少し遠回りをして接近する。草を蹴る音も立てずに、メイスをその頭部に振った。
「ハハハ! 変転人を殺し放題だ! 獣が大人しくなんっ」
高笑いは一撃でぴたりと止んだ。頭より一回りほど小さい鉄球が頭部に減り込み、頭蓋を砕いて弾けた。西瓜割りのように容赦無く、赤い汁と肉片が飛び散った。
頭を潰された獣はもう一言も漏らさず、大人しく草の中に落ちる。
「す……凄い……ワイスさん、本当に獣を殺せるんだ……」
伏せたまま顔を上げて様子を窺っていた獏は思わず声を漏らした。獣を殺した変転人を彼女以外にも知っているが、滅多に無い特別なことなのだと思っていた。
エーデルワイスはメイスを振って血を払う。軽蔑する冷たい目で潰れた頭を見下ろし、獏の許へ戻る。
(暴走してる獣が誰かも知らない。弱い無名はすぐ調子に乗る)
彼女は獣にすら感知されずに行動する。黒色蟹も気配の消し方が上手いが、彼女はそれ以上だ。
『無名の獣は戦闘経験が浅い癖に、変転人を見下して油断する。無知だから弱い』
「無名って、弱い獣なんだよね? 君は無名じゃなくても傷を負わせられそうだよ」
『無名はさっきの奴みたいな歪な短い杖を持ってる。あの杖は飛ぶことができない。無名は飛べない獣』
「そうなんだ……変わった杖だと思ったけど、無名はあんな感じなんだね。覚えておかなくちゃ」
『皆最初は無名だけど、無名だった頃を覚えてる獣はいない。お前もそう』
「…………」
無名の獣は弱い。それならその無名の頃の獣はもう死んでいる。死んでいるなら無名の頃など記憶に無い。
伏せる獏の胸倉を掴み、エーデルワイスは仕事印を眼前にちらつかせる。
「……それはね、僕の首にある印に当てればいいんだよ。手を離してくれたら、襟の釦を外せるよ」
言われた通り一旦手を離し、エーデルワイスは片膝を突く。獏もいそいそと起き上がり、襟の釦を外した。その喉に刻まれた烙印をエーデルワイスは穴が空きそうなほど表情を変えずに凝視する。
「えっと……ここの印にね、その仕事印を当てればいいだけだよ」
『初めて見る』
「そう言えば他の人に捺すのとは違う特別な印だって言ってたかな。完全に力が使えなくなるわけじゃなくて、少しなら使えるんだよ。だから無能じゃないよ」
そもそも花街では罪人は即刻死刑なので、烙印など捺さない。獏はそれを忘れていた。
『印はよく知らない。これは調整された印ってこと? わざわざそんな手間を掛けるなんて、大事にされてるのねお前』
「それはないね。大事にされてたらこんな烙印なんて捺さないからね。宵街ではそうなんだよ」
『花街は放任だから。世話を焼くのは特別』
エーデルワイスは静かに目を伏せ、盗んだ仕事印を獏の首へ押し当てた。城の獣の世話をするための使い捨ての変転人なのに、ズラトロクは彼女を匿った。それは特別と言うことだ。そんなことはエーデルワイスもわかっている。
数秒間待ってから仕事印を離し、様子を窺う。仄かに発光して薄い膜のようなものが張られた以外は特に変化が無い。
「ありがと。これで杖が出せるはず」
獏は手を構え、長い杖を召喚した。杖はまだ慣れないので少し重いと感じるが、これを振り回して戦うわけではない。
『これで悪夢を操れるの?』
「今はまだしないよ。標的の姿が見えないからね。悪夢は僕以外は触れないけど目には見えるから、あんな大きいのを傍に置いたら目立つ」
大きいとは初耳だが、エーデルワイスは獏のタイミングを信じることにする。エーデルワイスは変転人の中では長く生きているが、あらゆる獣の能力を知っているわけではない。それに獏は特権持ちだ。今までの知識など当てにならない。無知は慎重でないといけない。
「それで……僕は花街の地理はわからないんだけど、これから何処に行くの?」
『私は獣が嫌いだけど無謀なわけじゃない。破壊された区画で生者がいれば話を聞く。そこにフェルニゲシュが留まっていれば、全力で叩く』
前半は頷きながら聞いていた獏だったが、後半に差し掛かると苦笑が漏れてしまった。後半は無謀に思える。だが遭遇すれば逃げることも叶わないと想像した言葉なら笑い話ではない。そしておそらくその通りになる。フェルニゲシュは楽観視できない相手だ。
「人命救助をしつつ、情報収集だね。もしフェルと接触したら僕が相手するよ。そのために君には近くにいてほしいけど……応戦より命の方が大事だからね。僕なんて置いて逃げてよ。僕が君の動きに合わせるから」
『私はもうすぐ寿命を迎える歳だから気にしなくていい』
「もうすぐ寿命だからって無鉄砲は駄目だよ。もうすぐ寿命なら尚更、寿命を迎えるまで生きなきゃ。一秒でも長く、この現実を見ないとね」
『凄く嫌味な言葉』
仕事印を仕舞い、エーデルワイスはふいと視線を逸らす。こんな残酷な現実、一秒でも早く終われば良いのに。
走り出したエーデルワイスに続き、獏も杖を手に後を追う。飛びたい所だが、暫く飛行していないので操作に不安がある。
エーデルワイスは平均的な変転人よりも足が速い。飛ばずともすぐに城下町が見えてきた。獏が最初に見た城下町とは似ても似つかない、原型を留めていない家々の残骸が転がっていた。遠くに立っている家はあるが、窓が割れている。所々で燻る音と煙が上がり、それ以外に音は聞こえない。瓦礫を踏む音も呻き声も、何も聞こえない。あまりに静かだ。
踏み込むことを躊躇うが、意を決して瓦礫の中を歩く。
「……酷いね」
瓦礫の向こうに潰れた野菜や果物が散乱している。ここは市場だったようだ。もう買う者も、拾う者すらいない。拾うための手は瓦礫の下から覗き、もう助からないとばかりに血が飛び散っている。
『いないかもしれないけど生者を探す』
血痕や千切れた体の部位が転がるだけで、息のある者などいそうにない。絶望的な光景だ。
瓦礫と化した町を、物陰に隠れながら進む。フェルニゲシュ以外にも、敵意のある獣が先程の無名のように便乗して徘徊している可能性もある。遭遇すると面倒だ。
視線を巡らせながら足場の悪い瓦礫の間を歩くが、動くものは無く、物音も聞こえない。
『フェルニゲシュもいないみたいだから、諦めて他の城下町に行く』
「え? もう諦めるの?」
『他の城下町もこんな感じだったら、そっちの生者を探す』
ほんの数十メートル歩いただけで諦めるとは思わなかった。城下町の端にまだ辿り着いていない。瓦礫の左右には、少し距離はあるが倒壊していない家も見える。そこに生者がいる可能性はある。
「ちょっと待って。行くなら最後に僕が確認するよ。変転人に向けるのは避けてたけど、そんなことは言ってられないよね」
エーデルワイスは焦っているのだ。あまりに大きい被害に、生者の捜索よりも元凶を早く叩かなければと焦っている。人数がいれば手分けして事に当たるが、たった二人の戦力を分けるわけにはいかない。
獏は人差し指と親指で輪を作り、瓦礫へぐるりと向けた。エーデルワイスには獏が何をしているのかわからなかったが、ゲンチアナを捜していた時の動きに似ていると思い出す。
指で作った覗き窓は、人がいれば感情を読み取ることができる。死者は感知できないが、生者なら発見できる。人間はともかく変転人の心は覗きたくないと思っていたが、生者がいるなら見捨てたくない。
(……ん? 複雑な……混乱と恐怖……違うな、殺意? 混ざり合ってぐちゃぐちゃだ……)
覗き窓で見えるものがあるなら、そこには誰かがいる。獏は少し離れている瓦礫に駆け寄り、地面に少しだけ残っている建物だった壁に手を掛けた。
「いっ――!?」
壁の向こうに隠れた指に激痛が走った。獏は慌てて手を引く。指は赤くなり、少し血が滲んでいた。泣きそうなくらい痛い。
「な、何……? 歯形?」
距離を取り、遠回りをしながら瓦礫を覗き込む。鮮やかな赤と暗い黒が視界に飛び込んできた。
「……!」
そこには腰から下を失った少女と、それを抱く黒い青年がいた。少女からは夥しい鮮血が流れ、青年は敵意を剥き出す野犬のように睨んでいる。
「君……」
青年は少女を守っているようだった。もう息が無いことに気付いていないかもしれない。それを言うべきか迷いながら獏は口を開こうとし、背後から思い切り服を引っ張られた。獏を下げ、エーデルワイスは無感動な表情の中に微かな哀れみを込めた。
『話はできる?』
突き出された紙切れに黒い青年は眉を顰める。じっと紙を見詰め、エーデルワイスの顔を凝視する。そこから視線を下へ、足元までじっくりと見る。
「……そのマント……城の……?」
エーデルワイスは頷き、紙を下げる。黒い青年は警戒しているだけで、錯乱はしていない。話はできそうだ。
獏が下げられたことにも納得した。花街のことを碌に知らない外部の獣より、城に従事する彼女が前に出た方が話が早い。彼女が羽織る赤黒い外套は古城に棲む無色の変転人の証だ。城下町の変転人はそれを知っている。
『無色で良かった。現状報告を』
事切れている少女は有色だが、生きている黒い青年は無色の変転人だ。無色なら城へ訪問し報告する機会もある。その応対をするのは主にアルペンローゼなので、エーデルワイスは彼と面識が無いが。
青年は背後に押し遣られた獏を一瞥し、周囲に視線を巡らせる。警戒を止められない。
「……わからない」
ぽつりと疲れたように漏らされた言葉に、エーデルワイスは小首を傾いだ。これだけ破壊された瓦礫の真ん中にいるのに、何がわからないのか。
『町がこうなった時、ここにいなかったの?』
「違う……そうじゃなくて……。いた……けど、わからない……」
警戒はしているがぼんやりと心焉に在らずといった様子の青年に、獏は首を傾ぐエーデルワイスの背から控え目に顔を出す。
「君、もしかして変転人になったのは最近じゃない?」
指の輪で覗いた時、複雑に絡む感情が見えたが、そのどれもが泡沫のようだった。湧いてくる感情がまだ理解できず、どの感情に従えば良いのかわからない、といった雰囲気があった。
青年は獏を見、エーデルワイスを窺う。無言で頷く彼女に、青年も獏を味方と認識した。
「……去年です」
掠れた声でぼそりと落ちた言葉に、エーデルワイスは落胆した。つまり彼は人の姿を与えられてまだ一年も経っていない。そんな変転人にこの状況を説明するのは難しい。せめて二、三年は経っていないと要点を纏められない。折角の生者だが、無駄のようだ。
「そっか……君が生きてて良かった。他に助けられる人はいるかな?」
「…………」
青年は口を閉じ、目を伏せる。唇が微かに震えていた。幾ら感情が稀薄な若い変転人と言えど、ここまでの凄惨を見せつけられれば名前のわからない感情が膨れ上がる。
「ゆっくりでいいからね」
「……そんな時間は、無いと思います。あんな攻撃、避けられない……。目の前で皆消えた。消し飛んだ。生きてる人がいないか探した。……でも、見つけたのに、この人は、吹き飛ばされた……」
頭を垂れ、俯く目は虚ろに抱える少女の頭を見詰める。存在しない腰から下を見ないようにしているようだった。
「俺は……何で生きてるのかわからない……。本当はもう死んでて、気付いてないだけかもしれない……」
「僕には生きてるように見えるよ。ほら、触れる?」
俯く顔の前に獏はそろりと手を差し出す。青年はびくりと目線を上げ、訝しげに歯形が付いた手を見、動物面を視界に入れた。歯形は青年が付けたものだ。突然手が出て来て驚いて噛み付いてしまった。
青年は逡巡するが、獏は手を引かない。青年は半分を失った少女から微かに震える手をゆっくりと上げ、赤く染まる指を恐る恐る柔らかな白い掌に当てた。
「……あたたかい……」
虚ろだった瞳に小さな光が映り込む。随分と久しい温度に思えた。一向に冷たくならない温度が青年を生の世界へ引き戻す。
「ぁ……すみません、血が……」
自分の手にべっとりと血が付着していることに気付いた青年は慌てて手を引いた。白い掌に赤い痕が付いてしまった。
「大丈夫。少し話ができるかな? 名前は言える?」
「話……はい。俺はベラドンナ……です」
「じゃあベラさん、かな」
「ベルと呼ばれてました。消えたタリス……先輩が付けてくれて」
「ベルさん、だね。覚えたよ」
「……貴方は?」
「通りすがりの味方だよ」
「…………」
青年は何を言えば良いか思い付かず、獏の背後からその頭上に出された紙の文字を読む。下向きの矢印と共に『獏』と書かれていた。紙の隅に、灰色の少女が『エーデルワイス』だと言うことも記されていた。昨年花街に来たばかりのベラドンナは、古城に棲む者達の名前をまだ覚えていなかった。
『この最悪を作った奴の姿は見た?』
エーデルワイスが声を出せないことを知らないベラドンナは、声を出してはいけないのだと解釈する。ずっと抱えていて手が痺れそうになっていたので、半分の少女をそっと地面に置いた。小石を蹴って物音を立ててしまったために、彼女はこんなことになってしまった。
彼は自身の黒髪を抓み、下方へ指を滑らせる。腰に届く前に髪の長さが足りなくなったが指をそのまま下ろして膝の辺りを示し、首を傾ぎながら大腿部へ指を引き上げる。エーデルワイスと獏は怪訝な顔で見詰めるが、エーデルワイスが爪先で獏の脚を蹴ったことで獏ははっとした。
「えっと……髪?」
「喋っていいんですか?」
「いいよ」
「長い黒髪で、黒い尻尾が生えてる男がいました。尻尾が生えてるのは獣ですよね?」
最初に想定したよりもしっかりと話す変転人だ、とエーデルワイスは感心する。先輩の教育が素晴らしかったのだろう。人の姿を与えられて一年程はこういったことに差が出る。きちんと教育を受けていれば二、三歳と同程度の能力を発揮する者もいる。教育を全く受けないと、その辺の虫と変わらない。
それでも普通の変転人なら恐怖で竦み、喋るどころではなかったかもしれない。若い変転人だからこそ、恐怖を明確に感じるほど感情が育っていない。無感動な内に聞けることは全て聞き出さねばと、エーデルワイスもペンを握る。
「姿を見て無事だったなんて奇跡だよ。尻尾があるなら獣だね。杖は持ってた?」
「杖……銃なら持ってました。長い銃で、それで撃って、こんなことに……」
「銃? 刀の杖もあるし、それが杖かな?」
杖の形は獣によって異なるが、獏が今まで見た杖は殆どが木の棒のような杖だ。獏の杖もそうである。それ以外は、蒲牢は間棒、饕餮は刀を召喚している。花街ではズラトロクがサーベルの形をした杖を持っていた。あまり見ないが、木に見えない杖の存在は既知だ。
「ワイスさん、今の特徴はどう?」
頭髪と尻尾はフェルニゲシュの特徴に当て嵌まっている。だが獏はフェルニゲシュの杖を見たことがない。獏が振り向くとエーデルワイスは珍しく眉間に皺を寄せて考えている。ペンが動かない。
「……ありがとう、ベルさん。その人はどっちに行ったかわかる?」
「息を殺すのに必死で……隠れてたので姿は追えませんでした。……足音なら、向こうに遠ざかっていきました」
ベラドンナが指差す先へ目を向ける。瓦礫が疎らになり、更地のように何も無い空間になっていた。土は抉れ、草一本残っていない。
「近くにはもういないみたいだね。攻撃範囲から出たかな」
「貴方達は……調査の人ですか? 事件が起こったら城から調査の人が来るんですよね? 俺は……これからどうしたらいいですか? 先輩の指示で動いてましたが、先輩はもういなくて……」
声は掠れ疲労を感じるが、前のめりに体勢を直して地面に片膝を突く。花街の変転人は獣の話を聞く時は片膝を突く。一歳にも満たない彼は、指示が無いと何をすれば良いのかまだ考えられない。
「避難……してほしいけど、何処に行けばいいかわからないよね。他に生存者がいるなら助けたいけど、ベルさんを一人にするのも……。ワイスさんはどう思う?」
黙考していたエーデルワイスは現実に意識を戻し、止まっていた手を動かした。
『心配なら連れて行けばいい。元凶を倒さないと花街の何処にいたって危険』
「あ、そっか。人間の街に離脱すればいいんだ。――ベルさん、転送はできるよね? 暫く人間の街に避難してくれるかな?」
「俺だけ逃げろってことですか……?」
無表情に困惑の色が混ざる。生存者などいないかもしれないが、苦しむ仲間を置いて一人だけ尻尾を巻いて逃げるなんてできない。
「君まで命を落とし兼ねないから、こういう時は逃げていいんだよ」
「……あ、いや……それは……俺は別に、死にたいわけじゃなくて……無色は皆のために……」
「そう先輩に教えられた?」
「お、俺も一緒に行きます。行かせてください」
「そんなに焦ることないんだけどな」
「経験を積むのが俺の仕事で……それが最後に言われた仕事で……」
経験を積むために、変な虫が発生していないか城下町を見回っていたベラドンナは、この仕事はまだ終わっていないのだと判断した。譬え仕事を教えてくれた人がもういないとしても、それを守りたかった。
「俺は犯人を見たので、見ればわかるから……」
ベラドンナは花街の王の姿を見たことがなく、犯人が王だと微塵も考えていなかった。
人間の街に逃げれば安全なのに、ベラドンナは最後の仕事を手放したくないようだ。きっと、この仕事を切ってしまったら、死んだ仲間との繋がりも切れてしまうと思っているのだろう。
獏はどう説得すべきかとエーデルワイスを振り向き、彼女は無感動に紙を突き出した。
『時間が惜しい。来るなら来て。でも命の補償はしない。自分の身は自分で守る』
「……わかってます。そのために武器を持ってるので」
「本当に大丈夫? 怖かったら僕の後ろにいていいからね」
若い変転人は感情が稀薄だ。まだ恐怖をよく理解できていない。いつ何処で恐怖に気付いて足が竦むかわからない。
エーデルワイスは溜息を吐こうとし、獏とベラドンナの襟を掴んで勢い良く引いた。その直後に黒い光線が空間を貫き、半分残っていた少女が木っ端微塵に吹き飛び存在を消した。
『攻撃の幅が狭い。かなり離れた場所から撃ったはず』
獏とベラドンナは目を丸くして、そろりとエーデルワイスを見上げる。攻撃に全く気付かなかった。この黒い光は先程の弱い無名の獣の仕業ではなく、間違い無くフェルニゲシュの攻撃だ。今のフェルニゲシュは加減など知らない。
「ワイスさん……何で攻撃が来るってわかるの!? 最初は偶々かなぁと思ってたけど……」
『失礼な獣。これだから獣は。私は耳が良いの。私は音を立てないから、他の音がよく聞こえる』
「聞こえたとしても、この速さの攻撃を避けられる……?」
『後は勘』
特に理由は無いと言っているようだったが、紙の隅に小さな文字で『ズラトロクとよく手合わせしてた』と恥じらうように書かれていた。エーデルワイスは本気でズラトロクを殺そうとしていたが、終ぞ殺すことができなかった。その恥じらいだ。ズラトロクは本気を出して回避していると何度も言っていたが、本当かは不明だ。エーデルワイスがどれほど力を付けても、軽い傷しか付けられなかったのだから。
『立ち止まってる暇は無い。ベルも、足手纏いになるならすぐ離脱して』
「あ……足手纏いにはならない。自分の身は守る……」
『ここまで生存してるんだから、運はあるんだろうけど。借りられるならその運を借りたい』
「貸せるなら……」
もう一度攻撃が飛んで来ないかと様子を窺っていたエーデルワイスは、警戒しながらも獏とベラドンナを促して音も無く駆け出す。水面ですら波紋を立てずに走れるかのように、足に静謐を纏っている。獏とベラドンナも出来得る限り音を立てないよう走るが、エーデルワイスと比べると霞と霧雨と豪雨のようだった。
「ベルさん、僕の杖に二人乗りする?」
「それはちょっと……恐れ多いです」
「気にしなくていいよ。飛ぶのは久し振りだけど、飛べるはず」
「前言修正します。遠慮させてください」
獏は眉尻を下げた。これは遠慮ではなく拒否だ。
『下手に飛ぶと目立つ。背負って走る方がマシ』
「下手……」
絵は散々眉を顰められたが、飛行まで難色を示されるとは思わなかった。烙印を捺される前から確かに苦手だったが、面と向かって言われるとちょっぴり傷付く。
お面を被って顔が見えないはずなのに、ころころと表情が変化するのがわかる。随分と人間味のある獣だ。それを言うと失礼だろう、ベラドンナは口を噤んだ。
「……俺の足音、煩いですか?」
『煩いけど気にしなくていい。私はともかく、獏の足音も煩いから』
「気配を消した足音を煩いって言われたのは初めてだよ。これ以上消すとなると……」
気配をより薄くすると、ベラドンナが辺りを見回した。傍にいて視界の内にいるというのに、獏を見失ってしまう。
さすがにこれなら静かだろうと得意げに獏はエーデルワイスに視線を向け、彼女は感心ではなく鬱陶しそうな顔をした。
『くだらない。私より静かな獣なんていない』
獏は眉尻を下げ、ベラドンナが感知できる程度の気配へ戻す。古城の獣はエーデルワイスにいつもこのように接されているのだろうか。自信が折れそうだ。
獏が飛ぶ前に残骸を抜けて野原を駆け、次の城下町が見えてきた。先の町のように残骸を想像していたが、建物は形を保っていた。花街に来て最初に見た城下町の景色と同じだ。
一度は胸を撫で下ろすが、人が生活しているとは思えない程しんと静まり返っていた。
獏はベラドンナに向かって口元に人差し指を当てる。こういう時はこちらも音を出さない方が良い。エーデルワイスは弁えているだろうが、ベラドンナはまだ若い。彼は無言で頷いた。
静かにしようと示し合わせた直後、町の中から悲鳴が上がった。悲鳴は途切れることなく移動している。
「これは……あの攻撃じゃないよね。追い掛けられてるのかも!」
獏は地面を蹴り、屋根へ跳び上がる。ベラドンナは追おうとしたが、自分の跳躍力ではそんなに高く跳べないと足踏みをする。それを見てエーデルワイスは屋根に跳ぶことを止め、ベラドンナの腕を掴んで走った。二人は地上から獏を追う。
屋根を跳んで悲鳴の方へ駆け付けた獏は、路地を逃げ回る有色の変転人の男女を見つけた。すぐ後ろに歪な杖を持った少年が張り付いている。
「逃げろ逃げろ! 怯える顔をしっかり堪能してから殺してやる!」
獣だ。その手に持つ杖は歪で、無名の獣で間違い無い。花街が脅かされ、それに便乗することしかできない哀れな獣だ。獏は無名の存在を知ったばかりだが、無名とはこんなに品の無い獣ばかりなのかと呆れる。
「きゃああああ!」
「もっと叫べ! もっと怯えろ!」
「駄目だ……逃げられない……! お前だけでも……」
男は女の背中を押し、無名の獣の前へ一人で残ろうとする。その勇気は無名の獣には余計なものだった。恐怖に歪む顔を見ていたいのに、覆い隠すそれは邪魔でしかない。
「お前はもう死ね!」
獣は杖を振ろうとし、それよりも早く獏は杖を振った。出力された光の矢が獣の腕や脚に刺さり、その勢いで壁に叩き付けられ張り付けられた。
「なっ、なん……!?」
状況を理解できない獣は動く首を左右に振り、屋根から飛び降りる獏を見つけた。
「何だ貴様ぁ! 殺すぞ!」
歪でも変換石が付いた杖であることに違いはない。石に仄かに光が灯ろうとし、獏は光の矢で杖を真っ二つに折った。
「ぎゃああああ!!」
身動きを封じられて状況が読めない場合、一旦杖を仕舞うのが定石だ。獏は元々杖を召喚できなかったため無知だったが、そんな例は稀有だ。杖を傷付けられれば、それが痛みとなって自身を襲う。無名はそれを知らないのか、この状況でも勝てると自惚れているようだ。弱者は往々にして自身の実力を理解していない。
肋骨が砕けた獣を横目に、獏は変転人の男へ駆け寄る。女も様子を窺いながら恐る恐る戻って来た。
「大丈夫? 怪我はない?」
「はっ、はい! 大丈夫です……ありがとうございます! この恩は……」
「いいよ、恩なんて。君達が無事ならそれで。あっ、何で追い掛けられてたかは聞きたいかな」
「それは……僕にもわかりません……。物凄い破壊音が隣町から聞こえてきて、それから獣がこんな感じで。無色が避難しろと言うので皆行ってしまったんですが、僕達は遅れてしまって……」
「この町は破壊されてないの?」
「そこまで近い破壊音は聞こえてません」
「わかった。話してくれてありがとう。避難してる皆の所に行けるかな? 危険だったら護衛して……いたた」
人の良いことを口走ろうとした獏の耳を、エーデルワイスは思い切り引っ張った。そんなことをしている余裕は無い。
「でも有色だけじゃ心配で……いたたた」
「だ、大丈夫ですよ。獣様がそんなに気遣ってくれるなんて……あっ、いや、御気持ちはとても嬉しいです!」
「……わ、私も、獣様の御気持ち、嬉しいです」
急いでいる空気を感じた二人は慌てて遠慮を述べた。花街の獣に気遣われたことなどない二人は寧ろ困惑してしまった。
「そこまで遠慮されたら引き下がるけど……っ!?」
壁に張り付けにされた無名の獣が突如黒く燃え上がった。裂けそうなほど口を開くが、喉は既に焼けて声は出ない。
その眼前に黒い影が頭上から落ち、硬く黒い尾が跳ねる。その手には細い管を纏ったショットガンが握られていた。
獏は耳を引くエーデルワイスを咄嗟に胸に引き寄せ頭を抱いた。
銃口が上がり、至近距離で黒い光線が爆ぜる。
爆発音が上がり、土煙が濛々と一瞬で路地を駆け抜けた。
地面が抉れ、左右の建物の壁が音を立てて崩れた。
狭い路地は突然に開け、焦げた臭いが鼻を付く。銃口が指一本分下がり、一つに束ねた金色混じりの黒髪がふわりと下りてゆく。
「!?」
土煙が晴れる前に、煙を裂いて黒い触手が黒い青年に伸びた。青年は銃身で弾こうとするが、煙に触れたように擦り抜ける。それを目にし、跳び退いて躱す。触手に触れられない。彼の判断は早く、背後の屋根へ跳び乗った。
土煙が晴れてくると、黒い異物が出現していることに気付く。黒い物は壁のように立ちはだかっていたが、不規則に痙攣していた。所々に穴が空いたり解れたりしている。
「…………」
青年のショットガンの管が解れ、通常の杖の形状へ戻っていく。この近距離で彼が仕留められなかったのは初めてだった。
「フェル! もう理性は残ってないの!?」
名を呼ばれた青年は杖に黒い炎を纏わせる。もう声は届いていないようだった。
「自分を止められない獣なんて、人間と同じでしょ!?」
「…………」
「僕だって……急に力が膨れ上がった時があった……でも、翻弄されず自分の物にするためにたくさん練習してっ……」
話を最後まで聞かず、黒い炎が渦を巻いて射出された。先程までの規模ではなかった。
穴の空いた黒い壁は潮が引くように路地だった道を後退し、角の向こうへ、とぷんと消えた。
標的を視界から失った青年は、杖を構えたまま暫し停止する。先程の黒い壁の向こうから叫んでいた声を、喉の奥で咀嚼するように。




