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透明街の人喰い獏 (第二幕)  作者: 葉里ノイ


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197-日溜りの悪夢


 エーデルワイスの転送で、(ばく)は再び花街(はなまち)へ乗り込むことになった。たった二人で、しかも無色とは言え変転人と、獣とは言え力を封じられている罪人だ。戦闘など以ての外である。

「来たはいいけど、ここから何処へ行けばいい? 診療所?」

『ズラトロクの確認をするなら城』

「わかった。お城だね」

 獏の目的は蒲牢(ほろう)達を見つけることだが、彼らが何処へ行ったかは手掛かりが無い。可能性のある診療所か城か、どちらが先でも良い。

 飛ぶことすらできない二人は、聳り立つ古城の裏手から潜入を試みた。古城の正面にある城下町からは煙が上がり、それが遠目からでも見えたからだ。妖精が言っていた壊滅した城下町は間違い無く煙の下だ。戦闘を避けたい二人は、煙の無い裏手へ回る。

 城下町と古城の間には、木も建造物も無い開けた空間がある。身を隠せない空間に正面から飛び出すのは余りに命知らずな行為だ。

 ヴイーヴル達はカトブレパスによって攫われたようだが、フェルニゲシュの首輪を外そうと画策していた者が今更フェルニゲシュを止めようとするはずがない。煙の下へ連れて行く理由が現時点では考えつかず、カトブレパスのことも花街のこともよく知らない獏ですら真っ先にそこは除外した。

『お前に聞いておきたいことがある』

 エーデルワイスは慣れた花街で野原を走りながらペンを動かし、獏の前に紙切れを突き出す。走りながら文字が書けるとは中々器用だ。

「ん? 僕に答えられることならいいけど」

『お前の能力が知りたい。もし戦闘になったら、知っておかないと足手纏いになるかもしれない。私が』

 最後の一言は少し間を空けてから書き込んだ。エーデルワイスは獣を憎んでいるが、獣の方が能力が高いことは認めている。もしエーデルワイスの立つ位置が悪く邪魔になれば、勝てるものも勝てなくなるかもしれない。

「能力って言ってもね……僕の首には厄介な物があるんだよ。フェル程じゃないけど、僕もあんまり力が使えなくて……」

『足手纏いはそっちか』

「はっきり言うね君」

 呆れて溜息を吐くエーデルワイスに、獏も頬を膨らませる。

「ちょっとは戦えるよ。足の速さも変わりないしね」

『それは戦うじゃなくて、逃げるって言うの』

「蒲牢がいたら力が使えるから、先に蒲牢を見つけたいね」

 彼は狴犴(へいかん)から預かった仕事印を持っている。それさえあれば烙印を封じ、獏は杖を召喚できる。

『じゃあその力は? どんなことができる?』

「光る武器を出して使えるよ。槍でも矢でも。盾も出せる」

 獏は得意げに列挙する。武器を出力する獣は珍しくないが、獏の武器は多彩だ。鋭利な刃物も鈍器も、小さな針から大きな網まで出力できる。

『地味……。光るって何? 夜にパレードでもするの?』

「…………」

 光ることをそんな風に言われたのは初めてだった。獏は眉尻を下げ、肩を落とした。

「悪夢に取り込まれないように……光らせないといけなくて……」

『その悪夢をエネルギーにして大技を放つとか、できないの?』

「し、使役は少し……。悪夢には僕以外触れられないから、使えると言えば使えるけど……」

『それが一番使える技よ。フェルニゲシュに遭遇したら使いなさい』

「い、いや、でも……司令塔になる悪夢が無いと……」

『無いの?』

「……君の中にある悪夢を使えば……」

『じゃあ使いなさい。記憶が飛ぶわけじゃないんでしょ? そんなこと躊躇しないで』

「躊躇するのは、僕の気分が良くないからなんだけど……」

『は? 何ウジウジ言ってるの? 獣の分際で。お前の気分が悪くなるなら、私には御釣りが来るくらい嬉しいってことね』

「君……時々マキさんを思い出すくらい当りがきついよね」

『マキ?』

「変転人だよ」

 変転人は獣に従順である。獣に当りがきつい変転人は珍しい。

『その人も獣が嫌いなの?』

「それは無いかな」

『只の一般的な変転人じゃない』

 会話をする内に城壁に辿り着き、エーデルワイスは横目で獏を見る。身長を遥かに超えて聳え立つ城壁には、正面にしか出入口がない。城壁は石を積んで造ってあるが、突起や凹みは少なく、常人は攀じ登ることができない。

『お前はこの壁を越えられる?』

「うん。跳べると思う。君を抱えて運べばいいんだね?」

『冗談言わないで。跳べるなら私が力を貸す手間が無いってこと』

 心外だとばかりにエーデルワイスはふんと目を逸らし、掌から短い棒を両手に引き抜いた。棒の先は鋭利で、刺さると只では済まないだろう。

 彼女は地面を踏み締めて強く蹴り、垂直に跳躍してその鋭利な棒を石壁の隙間へ差し込んだ。爪先を僅かな隙間に掛け、鋭利な棒を片手ずつ上に伸ばして差し直し登っていく。

「わあ……凄い」

 感嘆の声を漏らし、獏も地面を蹴る。獣とて一度の跳躍で天辺には辿り着けないため、数歩壁を駆け上がるように壁に爪先を付けて登り切る。

 先に壁の上へ着いた獏はエーデルワイスの頭上から手を差し出し、彼女は眉を顰めて鋭利な棒を獏の手に刺そうとした。勿論そのまま刺さりたくはないので、獏は素速く手を引き、鋭利な棒は壁を穿った。骨まで抉ろうかという勢いで壁が欠けた。

「もう……変転人にはそんなことしちゃ駄目だからね?」

 獣なら避けられるが、変転人には難しい。獣は万一避けられなかったとしても完治するが、変転人は一生の傷になるかもしれない。

 自分が刺されそうになったのにそれは叱らず注意に留める獏に苛立ち、エーデルワイスは壁の上へ足を載せると同時に獏を蹴り落とした。

「あ」

 体勢は悪かったが、何とか尻餅は突かずに着地する。美しく咲く花々の中に飛び込むことになり、花は幾らか潰れてしまった。

(……凄く静かだ。虫もいない? ん……? 向こうで物音がする?)

 エーデルワイスも壁に鋭利な棒を差しながら慣れた様子で飛び降り、座り込む獏を爪先で蹴る。

「ねえ、あそこの薔薇、変だよ」

 花の中から顔を出して指を差す獏を訝しげに見遣り、エーデルワイスもその先へ目を向ける。見慣れた庭の花の中に、浮く色があることに気付いた。純白に咲き誇る薔薇の花に斑らに赤が散っている。

『あんな色の薔薇は植えてないはず』

 背を低くして花に隠れて周囲を警戒するが、騒々しい王の気配は無い。城下町の壊滅が本当なら、フェルニゲシュはもう城には居ないだろう。代わりにかさかさと小さな音が聞こえる。

 頭を低くしたまま、花々の間を気配を消して走り出したエーデルワイスに獏も続く。純白に混ざる赤は奥へ行くほど範囲が広くなる。まるで白薔薇を赤薔薇へ塗り替えようとしているようだった。

 花を分けて黒い物と人工的な物の先端が覗くと、エーデルワイスは掌からメイスを引き抜いた。獏は立ち止まって息を呑む。

「!」

 花から覗いた人工的な物はズラトロクの靴の先だった。その爪先は動かず、古城の壁に背を預けてぐったりとしている。瞼は震えず双眸は閉ざされ、頭の角は片方が折れて付近には見当たらない。脇腹が大きく抉れて人型を損なっていた。肌に血の気は無い。

 その傍らに成人男性ほどの体調の黒い虫が一匹いた。エーデルワイスは力の限りメイスを振り、鉄球が虫の頭を叩き割った。刃も通さない硬い殻で覆われた虫は、打撃に特化した彼女のメイスには敵わなかった。もう一発胴体にも鉄球を喰らわせ、虫は堪らず砂のように崩れて消えた。

 小さいとは言え虫を殺した彼女に驚きながらも、獏は動かないズラトロクの前に膝を突く。

「血はまだ乾いてない……けど……」

 止血しろと言われてもできない。あまりに傷が深い。流れた血液も震えない。

 エーデルワイスはメイスを仕舞って邪魔な獏を押し退け、動かないズラトロクの胸倉を掴んだ。喉が正常ならきっと舌打ちが出たはずだ。彼女は忌々しげに顔を顰め、胸倉を掴む手に力を込める。胸の奥底から湧き上がるこの感情は何なのか、彼女にはわからなかった。整然と棚に仕舞われていた感情を全て床に落としてしまったようだった。彼女の喉を潰して声を奪った獣が、彼女が復讐を遂げるでもなく勝手に死ぬなど耐えられなかった。

「ワイスさん……」

 獏は出し掛けた手を行き場無く彷徨わせ、掛ける言葉を探す。エーデルワイスは獣を憎んでいるが、憎み切れていない。獏はそう感じた。

 彼をこんな姿にしたのは虫ではなくフェルニゲシュだろう。ズラトロクは虫を殺せる。

 胸倉を掴む手に伸ばそうとする獏の手を払うように、エーデルワイスは乱暴にズラトロクを突き放す。抵抗の無い頭が壁に打ち付けられた。手を離したエーデルワイスの袖口から、細い銀の腕輪が一瞥を向けるように覗く。

『心臓はまだ動いてる。微かだけど』

「え?」

 血が付着した指を拭うことなく、エーデルワイスはペンを握った。強く握り締めて折れてしまいそうだった。

『死に損ないが』

「生きてるの!? じゃ、じゃあ止血しないと!」

『どうせすぐ死ぬ。早く死ねばいいのに』

「でも君……心臓が動いてるって言った時、安堵したよね……?」

「!」

 エーデルワイスは無言で動物面を拳で殴った。簡単には変形しないだろう固さの面だ。

 咄嗟に頭を引いたが反応が遅れてしまった獏は、動物面が顔面に少し喰い込んだ。頭を引いていなければ動物面と顔面を一体化させられていたかもしれない。

「口が出せないからって手を出さないでよ!」

 エーデルワイスは顔を逸らし、ズラトロクを見下ろす。その頬は微かに朱に染まっていた。

『これを救える医者はカトブレパス以外にはいないわよ』

「それは……その人以外に医者はいないの?」

 どれほどの望みがあるか定かではないが、獏は懐から折り畳まれた杖を抜いて伸ばす。流れる血がまだ残っているかわからないが、杖の変換石を翳して止血を行う。

『いるけど、死に損ないの治療ができる医者はいない』

「敵に助けを請わないといけないってことだよね……厳しいな」

『殴って言うことを聞かせるくらいはしてあげるけど』

「相手は獣だよ?」

『関係無い。私は獣を殺すために生きてる。それくらいできなくて、何故殺せるの?』

「獣を殺したことがあるの?」

『ある』

「! あるんだ……」

 変転人は獣に敵わないはずだ。だが戦闘が不得手な獣はいる。それに妖精のような下級と呼ばれる者も獣だ。下級でも獣は獣である。おそらく下級を殺したことがあるのだろうと獏は憶測を浮かべて納得した。

「カトブレパスはここにいるかな?」

『わからない。物音はしないけど。捜す時間が惜しい。無駄足を踏むなら先に応急処置をした方がいい。カトブレパスの診療所なら薬がある』

「じゃ、連れて行ってくれる? もしかしたら皆も居るかもしれないしね」

 止血はしたが、止める血があったかはわからないまま杖を畳む。大きな傷口から中身がこれ以上零れないよう、包む大きな布でもないかと辺りを見回すが花しかない。獏が何を探しているのか察してか知らずか、エーデルワイスは自身の赤黒い外套(マント)を脱いでズラトロクの体を包んで縛った。

「こんなに欠損した状態でどうやって治療するんだろ……臓肥桃(ぞうひとう)を埋める場所も無いよ」

 エーデルワイスは掌から灰色の傘を引き抜き、蹲んでいる獏を蹴ってぽんと傘を開いた。立ち上がれと言いたいのだろう。獏が立ち上がると、エーデルワイスはくるりと傘を回した。ズラトロクも共に転送され、まだ辛うじて生きていると安堵を吐く。

 転瞬の後に視界には木々が覆い、木立の中にぽつんと蔦が絡まる小さな家が覗いていた。童話の中にある家のようだ。

「あれが診療所?」

 エーデルワイスは頷き、地面に転がるズラトロクを持ち上げる。意識が無いため重いはずだが、欠損の分が軽い。

「手伝うよ」

 彼女の身長よりも頭一つ分以上も高いズラトロクを一人で抱えるのは苦労するだろうと獏は手を伸ばすが、エーデルワイスは見向きもせずに毅然とした足取りで小さな家へ向かった。

 せめてドアは開けてあげようと獏は先に回ってノブに手を掛けようとしたが、エーデルワイスはズラトロクを抱えたままドアを勢い良く蹴り飛ばした。

 小さな家の中には誰もいなかった。ごちゃりと草や木の実などが入った瓶が所狭しと置かれて様々な植物が生えた鉢が並んでいるが、物陰にも人はいない。

 図体の大きいズラトロクの足が瓶に当たって転がるが、気にせずに見渡してソファを見つける。ソファには毛布が丸めてある。誰かがここで仮眠でも取るのかもしれない。それを丁度良いとエーデルワイスは彼を寝かせた。そして棚に並ぶ瓶の群れを物色する。

「カトブレパスはいないみたいだけど、どうするの?」

『薬を探す』

「わかるの?」

『城の従者の嗜み。たぶんこれと、向こうのあれと』

「適当じゃないよね……?」

『ここまでの大怪我を治療する薬はわからない。でも傷を癒す薬は知ってる』

「……何か手伝える?」

『私にペンを持たせないで』

「わかった……」

 つまり邪魔をするなと言うことである。

 獏はソファの脇に蹲み、ズラトロクの顔色を覗く。到底助かりそうにないように見える。薬だけでは蘇生は絶望的だろう。だがエーデルワイスは諦めていない。何も感じていない無表情の奥に、焦燥が滲んでいる。

 テーブルクロスが敷かれた机上に転がっている木の実を払い落とし、棚から抜いた瓶を並べていく。そして頬杖を突いて見守っている獏の前に、茶色の瓶を一つ突き出した。

「?」

 茶色の遮光瓶の底に何かが入っている。獏は怪訝に覗き込んだ。

「……え!?」

 それは小さかったが、見覚えのある形の物だった。つい先程、見たばかりだ。

「こ、これ、寄生虫の!?」

 鍬形虫の顎のように大きな付属肢、左右に連なる鰭、そして海老のような尾――古代生物のアノマロカリスに酷似している、変転人に寄生して発作を起こしていた黒い虫だ。

「かなり小さいけど……」

 瓶の中の虫は小指ほどの大きさしかなく、死んでいるようだった。変転人の体から出て来た虫との差異はまだあり、虫の頭の辺りから植物の芽のような物が生えている。それも虫の死骸のように枯れているが、明確に植物に見える。

冬虫夏草(とうちゅうかそう)……? 何なのこれ?」

『カトブレパスが創った植物性の虫だと思う。あいつはそういう物を創る変人』

「植物性の……虫? 植物なの? 虫なの?」

『私に訊くな。私が創ったわけじゃない』

「そ、そうだよね……ごめん」

『既存の生物を少しずつ組み合わせて色々創り出してるらしい。そうやって薬になる植物も創ってる。人の役に立つためじゃなく、只の好奇心と御遊びでね』

「絶滅した生物はさすがに模してるだけっぽいけど……医者って言うより研究者みたいだね」

 茶色の瓶を獏に押し付け、エーデルワイスは机上に出した瓶から少しずつ中身を抜き取る。どれも乾燥した植物のようだ。その中には臓器を再生させることができる臓肥桃もある。彼女は掌からメイスを抜き、臓肥桃の硬い外殻を叩き割った。臓肥桃は本来そのまま体内に埋める物だが、発芽させるには硬い外殻を割る程の生命力が必要である。その生命力はズラトロクにはもう無いだろうと判断した彼女は、発芽を助けるために予め割って埋めることにした。その生命力が無い時点で助かる見込みは無いのだが、彼女はそれを知ってか知らずかズラトロクに巻き付けた外套を解いて臓肥桃を捩じ込んだ。

 心臓は微かに鼓動しているが、それが目に見えるならもうどうにもできないだろう。獏はそう思ったが、彼女の遣りたいように遣らせる。もしこの無惨な姿を晒しているのが宵街の誰かだったとしたら、獏も同じように足掻こうとしただろう。もう死を待つしかないなんて信じない。

(でももう……ズラトロクが目を開けることはないんだろうな……幾ら獣でも……)

 小皿で煎じた薬を無理矢理彼の口に突っ込み、水道から汲んだ水を飲ませる。胃はもう無いかもしれない。

 もはや御飯事(おままごと)だ。そう思いながら見ていた獏は、目を瞠ることになった。

 閉ざされていた双眸が虚ろに開き、血の気の無い片手が持ち上がり、薬を流し込もうとするエーデルワイスの手を徐ろに掴んだ。

 もう動くはずがない。なのに彼は空っぽの人形が糸に引かれるように腕を上げた。


 ――もう、いい。


 声は出なかったが、小さく動いた唇がそう言葉を紡いでいた。彼女を掴む手は、腕輪を嵌める時に触れた手とは思えないほど冷たかった。

 エーデルワイスも目を丸くし、掴まれた冷たい手を払ってペンを握った。小皿が床を叩いて薬の残りを撒くことになったが、薬よりも答える方が先だった。伝えられる内に、微かに震えるペン先で書き殴る。

『私はお前を殺してない。お前を殺すのは私』

 ――君の最期を看取るつもりだったが、まさか看取られる側になるとは思わなかった。

『とどめ、とどめを刺す!』

 訥々と紡がれる言葉に、エーデルワイスは急かされるようにペンを走らせる。いつその言葉の糸が切れてしまうか、先はもう余り無いことは明らかだった。こんな状態で何故動いているかもわからない。

 ――フェルニゲシュは危険だ。首輪はもう駄目だが、何とか空間を操作して転送できないようにした。あいつは花街から出られない。君は、花街を放棄して逃げろ。

『何故』

 ――声を奪って、悪かったな。

 思い出したように突然謝る。何故今更そんなことを言うのか。謝るくらいなら喉を裂かなければ良かったのに。

 あの時に声を出していれば、エーデルワイスは理性を失ったフェルニゲシュに殺されていただろう。彼女を救うには喉を潰すしかなかった。それでも、彼女は彼を恨んだ。あの時、死にゆくアルペンローゼに駆け寄りたかった。

『何故』

 ペンが震え、紙が濡れる。インクが滲み、視界が歪む。無性に悔しくなった。何十年も隙を衝こうとして、だがどんな不意打ちも躱された。なのに彼女が何をするでもなく、その命は尽きようとしている。この涙は悔し涙だ。

 ――泣かれるとは思わなかった。

 もう動く力も残っていないはずなのに彼の錆びた手は軋みながら持ち上がり、指先が彼女の目元を伝う滴を掠めた。

 エーデルワイスの手からペンが落ち、床を跳ねる。文字を書く時間が惜しい。彼女は声の出ない口を動かした。

 だが彼には何の反応も無かった。もう目が見えていないのだと彼女はすぐに気付いた。もう文字を書いても、口を動かしても言葉が伝わらない。

 呆然とした爪先が落としたペンを蹴り、その音に彼が反応した気がした。微かに眼球が動いた気がした。最後まで残っているのが聴覚とは、声が出ない彼女にはあまりに残酷だった。それでもエーデルワイスは即座に行動した。首にいつも下げている小さな金属の笛を引き抜いて吹いた。音は小さく、少し震えていた。声を出せない彼女が、離れた場所にいる時に彼を呼ぶために持たされていた笛だ。ズラトロクの口元に笑みが浮かんだ気がした。

 それからはもう何をしても、何の反応も返ってくることはなかった。

 緑に囲まれた部屋の中はしんとし、永遠にも思える時間が流れた。たったの十数秒がとても長く感じた。

「…………」

 動かない彼を見下ろし、彼女は咥えていた笛をぼんやりと下ろした。殺したかった獣の最期は呆気無かった。

 エーデルワイスはその手でペンを拾い、文字を書く。

『フェルニゲシュを殺しに行く』

「え!?」

 獏は紙切れに飛び付き、その文字を何度も見返す。何度見ても同じ言葉だった。

「ズラトロクは逃げろって言ってたよね!? 花街を放棄していいって……」

『放棄すると、何も知らない城下町の変転人はどうなる?』

「それは……」

『ズラトロクは何も考えてない。城下町のことなんか』

 命を狙うだけのエーデルワイスのことしか考えていない。声を奪ったのは彼なのに。

『死んだと言うことは、あいつは私を放棄したってこと。私は獣のようにはならない。だから城下町を見捨てない』

「でも……」

『私の悪夢を全部あげる。お前が盾になって、私がフェルニゲシュを殺す』

 エーデルワイスは灰色の傘を抜き、曲がった柄の先を獏の首に掛ける。途惑う獏の感情は置いて、引き摺って家を出た。

「ズラトロクはこのままでいいの……?」

 エーデルワイスは背を向けたまま頷く。その目にはもう涙は無い。最後に紡いだ言葉が空虚に消えていくのと同時に溶けてしまった。彼は微かに笑っていたように見えたが、彼女の言葉が届いたかどうかは誰にもわからない。

 ただ、『いかないで』と言ったのに、彼は止まってくれなかった。


     * * *


 突如目の前に現れた男女が、言葉を交わす暇も無く杖をくるりと振った。

 廃墟の中から木々の中へ転送され、三人はきょとんとする。チョコレートや薄い肉を咥えてヴイーヴルの相手をしていた蒲牢と窮奇(きゅうき)は反応が遅れた。意識の無い饕餮(とうてつ)まで転送され、ベッドの高さ分が宙に浮いた彼女を窮奇は慌てて滑り込んで両手で受け止めた。ヴイーヴルも同様に三つの目を瞬いている。

「え?」

 三人は一斉に無感動な男女へ目を向ける。両目を黒い包帯で覆った白藍色の髪の青年と、緩く波打つ長い髪の少女がそれぞれ杖を提げていた。

「何事なの!? カトブレパス!」

 辺りを見回し、何も口に入れていなかったヴイーヴルが声を上げる。

「君達に遣ってもらいたいことがある」

「アルにあんなことしておいて……よくも私の前に出て来られたわね! 君の頼みなんか聞いてあげないんだから!」

「……『あんなこと』をしたのは僕じゃない。ここは何処かわかるか?」

「君の頼みは聞かないけど私の話は聞きなさい!」

「ここは花街の森だが、君達にはフェルニゲシュを討ってもらいたい」

「!?」

 蒲牢と窮奇は急いで口内の物を飲み込み、何やら拗れた頼みに首を傾ぐ。

「フェルニゲシュを自由にするために首輪を壊した……って話じゃなかったか? 自由はもういいのか?」

「状況が変わった。不満を言われるのが目に見えているからアイトワラスには話していないが、彼の計画に加担し目的は達成され、僕の仕事は終わった。だからここからは僕の私事だ」

「アイトを裏切るってこと……?」

「フェルニゲシュは城下町を破壊している。このまま破壊を止めなければ、僕の研究対象である変転人が皆殺しにされ兼ねない」

「そんなの、最初からわかってたことじゃない! フェルの首輪が外れたら、暴れ狂って……」

「あそこまで強力な能力を秘めていると知っていれば、アイトワラスに加担しなかった。ズラトロクに力を封じる相談をされたのが発端だが。いい加減、城は僕を振り回すのを止めろ」

「え? 首輪ってロクが考えたんじゃないの?」

「首輪は彼の考案だが、首輪を掛けた後に維持が困難だと発覚した。僕は維持の相談を受けた。急を要すことで考える時間は貰えなかったが、城で飼っているゲンチアナが使えると提案した。以後は関与していない」

「……よ、要は無責任な提案をして放置したってこと……? 好き勝手しておいて今更助けてなんて、虫が良過ぎるのよ! このすっとこどっこい!」

「すっとこ……? 意味はわからないが稚拙な言葉なんだろうな」

 三つの目で睨み付けるが、カトブレパスは動じない。

 この件に関しては蒲牢と窮奇もヴイーヴルに同感だった。カトブレパスの頼みは幾ら何でも都合が良過ぎる。散々宵街や城を掻き回しておいて、都合が悪くなれば助けてほしいとは。

「……カトブレパス、だったな」

 蒲牢は呆れながら呼び掛ける。カトブレパスはヴイーヴルの相手を止め、無感動に蒲牢に向き合う。

「振り回されてるのはこっちだ。利用されて頷くと思うか?」

「無償とは言わない。僕なら君の失った腕を元通りに生やすことができる。隻腕だと不便だろう?」

「…………」

「どの医者でもできることじゃない。僕だから可能だと言っても過言ではない。考える時間はやる。その間も死者は増えるが」

 蒲牢はカトブレパスを睨み、ヴイーヴルと窮奇に一瞥を向ける。隻腕は不便だということには同意だが、虚偽を吐いているかもしれない。それに譬え嘘ではなかったとしても、独断で決められることではない。

「おい蒲牢、腕は諦めろ。ラクタに同じことができなくても、義手は作ってもらえるだろ。何の義理もねぇ花街を救うなんざ御人好しが過ぎるぜ」

「……わかってる。腕が惜しいなら、失った時にもっと悲しかったはずだから。何の感情も湧かないってことは、腕が無くてもどうってことない」

 過去に死んだ幼い記憶が感情に蓋をしたままである蒲牢は睫毛を伏せ、腕に未練が無いことを自問する。答えは無い。無感動な心は冷えたままだ。

「腕には興味を示さないか。それなら、そこの女に完全な治療を施してやる。すぐに目を覚ますだろう」

「今度はこっちかよ。お前が先に治療した、それだけで充分だ。後はこっちの医者に任せる」

「想定より淡白だな。もっと暑苦しい奴かと思ったが」

「暑苦しいって何だよ」

「では……そうだな。ゲンチアナを犠牲にしないフェルニゲシュの抑え方でも教えてやろうか?」

「!」

「誰かを代わりに生贄に与えるわけじゃない。上手くいけば誰も死なない方法だ」

 それは垂涎の方法だ。ゲンチアナを犠牲にせず、代わりに他の贄を差し出すでもない。ヴイーヴルには逆立ちをしても思い付かないことだ。

「ほ……本当に……?」

 そんな方法が本当に存在するのなら。ヴイーヴルは生唾を呑み、平和で魅力的な提案に頷きそうになった。

「待って、ヴイーヴル」

 だが蒲牢は彼女を制した。確かに魅力的ではあるが、甘い話には大抵裏があるものだ。

「そんなに良い方法があるなら、君が遣ればいいだろ。君だって弱いわけじゃないんだ。何で俺達に頼むんだ? 上手くいけばってことは、少なからず危険で、死ぬ可能性もあるんじゃないか?」

「…………」

 カトブレパスは饒舌だった口を初めて閉じた。机に齧り付いて物言わぬ物にばかり向き合っていたカトブレパスは、対話や交渉が苦手だった。利益を突き出せば誰でも喜んで行動するものだと思っていた。

「……宵街から来たんだったな。宵街では交渉に何を差し出すものなんだ?」

 蒲牢も決して交渉に慣れているわけではないが、自身の考えはある。今は頼む立場ではなく受ける側なので、多少強気な言葉を放っても拗れることはないだろう。

「求める物に見合う対価。命を懸けるなら、懸けられるくらいの気持ちが大事」

「気持ち……。そういう曖昧なものは好かないな。だが……理解は心懸けよう。ゲンチアナはお前にとって気に懸ける存在ではないんだな」

「そんなことは言ってない」

「…………」

 カトブレパスは面倒臭そうな顔をした。物言う者と話すことに嫌気すら差す。

「俺達には花街を救う義務も義理も無い。勝手にこんな所に連れて来られて一方的に縋られて、すぐに頷く御人好しじゃない。君は何と言うか……御褒美を積めば誰でも動かすことができると思ってるのか?」

 カトブレパスは口元に手を遣り、首を捻る。蒲牢の言ったことは真理であるが、それが否定されるのが不思議で仕方がなかった。

「僕は肉体労働をしたくないだけだ。肉体を動かすことが得意な君とは危険度が異なると思うが。こうして無駄話をしている間にも城下町は更地になっていく」

「さっ、更地!?」

 蒲牢の交渉が終わるのを待つつもりだったヴイーヴルは慌てて叫んだ。悠長に待っている時間など無いようだ。

「白い龍! ごちゃごちゃ言わないで! 君達はもう何もしなくていいから! 私がアナを助けるわ! 犠牲にしない方法があるって言うなら……教えてちょうだい!」

 ヴイーヴルは焦燥を漏らしながら、カトブレパスに向かって指を差した。彼は蒲牢に興味を無くしたように彼女に向き直る。元より彼女に交渉を持ち掛けたのだ。

「簡単だ。お前の拵えた墓地に生える草を使え」

「ぼっ……」

 ヴイーヴルは目を丸くし、そんなもの知らないと言うように白々しく目を逸らし冷汗を流した。墓地を作り弔うのは規則違反だ。アルペンローゼ達には露顕してしまったが、広まるのは先王として問題がある。

「こんな時に惚けなくていい。墓地に歴代のゲンチアナを埋めただろう。それが発芽している。首輪の維持を熟した優秀な株の子孫なら、フェルニゲシュを抑えられる」

「あ、新しくゲンチアナを変転人にするってこと!?」

「いや。人にはしなくていい。幾らか採取して調合する。この『調合』とは薬を作る意味ではなくボンボニエールに入れる力の結晶化を」

「人にしなくていいのね!?」

 話を最後まで聞かず、ヴイーヴルは言葉を遮って結論を出した。カトブレパスは説明を語ろうとした口を開いたまま停止し、頭を切り替える。話を聞かない者に無理に続きを聞かせようとする忍耐は彼には無い。彼の忍耐は物言わぬ物にしか向けられない。

「診療所で待っているから、持って来てくれ」

「それなら御安い御用よ! 城下町を襲ってるってことはフェルニゲシュは城にはいないってことだから、安全に毟れるわ。行くわよ、白い龍!」

「……え? 俺も? さっき何もしなくていいって……」

 丸く話が纏まりそうで油断していた蒲牢は耳を疑った。ヴイーヴル自身が何もしなくて良いと言ったはずだ。

「私がゲンチアナ達を変転人にしてるわけじゃないのよ! ゲンチアナがどんな葉を付けて、どんな形の花を咲かせるか知らないの! ……あっ、黄色い花だって聞いたことがあるわ。それだけ」

 ゲンチアナやアルペンローゼに人の姿を与えているのはアイトワラスだ。一番最初に三人を作ったのはズラトロクだが、それ以降はアイトワラスの仕事だった。ヴイーヴルは彼らに任せ切りで関与していない。墓地に草が生えていることは彼女も知っているが、規則違反を犯しているため墓参りは頻繁ではなく、花の咲く時期に墓地を訪れたことはない。そこに生えた草がゲンチアナだとは思いもしなかった。知っていたら墓地を訪れる際に草を踏みはしなかった。

「俺も詳しくはないんだけど……西洋の植物なんて見る機会があんまりないし」

「え?」

「そんなに驚かれても」

「無知だったのね……」

「そこまで知らなくはない」

 金瘡小草(キランソウ)が撮影した写真の中に件の墓地があった。そこに写っていた草がゲンチアナだ。距離があり草は小さく明確には見えなかったが、薄らと覚えている。

「じゃあ先生が一緒に来て。草毟りなんて肉体労働じゃないでしょ?」

「知らないのか? 草毟りは立派な肉体労働だ」

「おい、どうでもいいから早く行けよ」

 話は纏まっているのに先に進まない彼女達に窮奇は痺れを切らして口を挟んだ。饕餮は重傷を負っているのだ、早く安全な場所へ移動したい。さっさと転送して戻れば良いのだが、よくわからない状況のため、ある程度は把握しておきたかった。気は短いが、窮奇は無鉄砲ではない。

「窮奇が行ってくれれば……」

「何でオレなんだよ。言っとくけどな、お前より植物に詳しくねーからな」

「獏を置いて来てるし戻りたいんだけど。草毟りなら獏の方が……」

 煮え切らずに懐を探っていた蒲牢の手がぴたりと止まる。一時停止のボタンでも押されたかのように動きを止めてしまった蒲牢に窮奇も眉を寄せる。

「無い……」

「は?」

「獏の仕事印が無い!」

「は……? 落としたのか?」

「どうしよう……あれがないと獏は無能だ!」

「獏なんて元々そんなに強くねーだろ。いつもヘラヘラしやがって」

「あの強さがわからないなら雑魚だよ」

「喧嘩売ってんのか」

 口論に発展しそうな二人をカトブレパスは興味深く傾聴し、ヴイーヴルはもどかしく両手の拳を握った。もし掴み合いの喧嘩になれば、止める準備はできている。

「あんな大事な物を無くしたなんて言ったら……」

「何だよ、お兄ちゃんに怒られるのか?」

 然も可笑しそうに窮奇はニヤニヤと笑うが、蒲牢は服をパタパタと仰ぎ、何処かに引っ掛かってはいないかと探すことを止めない。

贔屓(ひき)じゃなくて……狴犴……」

「狴犴は……お前から見たら弟か? 饕餮が兄だって言うからややこしいな」

「饕餮から見れば兄だけど……今はそんな話をしてる場合じゃない」

「し、白い龍はそんなに兄弟がいるの……? 狴犴って……宵街の王でしょ……?」

 聞き耳を立ててヴイーヴルが震えるが、蒲牢は構っていられない。彼女は宵街を牛耳っている狴犴も龍なのだと勘違いをして戦慄した。兄弟は多いがその全てが龍であるわけではないと彼女は知らない。

「急かすようだが、城下町が破壊される音が聞こえないか? 城下町は無限にあるわけじゃないんだが」

 傍観していたカトブレパスの指摘にヴイーヴルは青褪める。ここで時間を潰している間、犠牲者は増え続ける。

「もっ、もう! どうでもいいから早くして! 早くフェルを止めないと天使が来るかもしれないんだから!」

 思わず飛び出した悲痛な叫びに、会話がぴたりと止む。ヴイーヴルは口を滑らせたとばかりに口を噤んでゆっくりと目を逸らした。

「天使?」

 真っ先に聞き返したのはカトブレパスだった。

「存在は認知しているが、あれは獣とは関わらないだろう。獣のことは小汚い野良犬とでも思っているからな」

 蒲牢と窮奇には聞き慣れない存在だ。多数の物語に登場する天界の存在だとは知っているが、会ったことはない。宵街圏にはいないのだ。

「き……聞かなかったことにして。あんまり言うと面倒なことになりそうで……既に面倒なことになってるからヒヤヒヤしてるけど」

「僕も天使と関わるつもりはない。話が合わないだろうからな。文字通り棲む世界が違う」

「先生は誰とも話が合わないと思うわ」

 天使に言及されることはないと安堵したヴイーヴルは強気な顔で頷いた。カトブレパスは何か物申したかったが、今は悠長にしていられない。

「天使が来ると言っていたが、来ない内に行ってくれ。僕は相手したくない」

「そうね! 行きましょ、白いの!」

「そんな気分じゃ……」

「さっさと行け」

 窮奇に蹴られ、蒲牢は恨めしげに振り返る。仕事印を紛失したことは自分の責任である。紛失のお仕置きが和らぐよう手柄が欲しい所だ。

「じゃあ獏に事情を説明しておいて、窮奇」

「訊かれたらな」

 少々心配が残る返答だったが、窮奇は薄情ではない……はずだ。

 今回の遠征では良くないことばかり起こる。そう思いながら、蒲牢はヴイーヴルに同行することになった。


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