196-一匹いたら三十匹
ある日突然、彼はとある街の王となった。
森に落ちていたたった一つの眼球を拾っただけで、城に連れて行かれた。
それまで気儘に過ごしていた彼に自由が無くなった。
花街という場所は彼には聞き覚えが無く、怯える女と警戒する男に案内されて初めて存在を知った。素直に後に付いて行ったのは、未知の場所に少し興味があったからだ。そこには人間がおらず、獣や変転人という生物だけが暮らしていた。
変転人には聞き覚えがあるが、実際に見たのはその時が初めてだったかもしれない。
花街は王を務める獣によって統治されていて、だが人間の統治のように細かな規則は定められておらず概ね自由だ。彼は花街の王となり、城に棲むことになった。彼からすれば急な展開である。
自由に城内を散策して良いが破壊はするなと念を押され、彼は暫く待たされた。
興味が尽きればさっさと花街から去るつもりだった。獣に『破壊をするな』とは、理解に苦しむ。息をするなと言っているようなものだ。
だが花街には人間はおらず、特に城内には何の生物もいない。何もいない場所を破壊しても詰まらない。断末魔の聞こえない破壊など、遣る意味が無い。
城は広く、興味が尽きるまでに二人は戻って来た。男が前に立ち、王の証だと言って首に印を刻まれた。
彼は強い。警戒とは弱者が行うことであり、圧倒的な強者は怯える必要が無い。それは傲りだった。首輪を刻まれた直後に騙されたと気付いたが、首輪で抑制された状態ではどうすることもできなかった。
元々頭が良いわけでもないのに、首輪の所為で思考も鈍らされた。自分が何を考えているのか、上手く理解できなくなった。それは鈍化の首輪だった。
そんな腑抜けになったが、慣れはするものである。当初に比べ、年月の経過と共に多少は思考できるようになった。首輪を付けられた直後は一桁の足し算すら数分の時間を要したが、二桁の足し算にも時間が掛からなくなった。
首輪を掛けられた数ヶ月後、初めての秘書ができた。彼の身の回りの世話をし、食事も時間通りに用意する。思考の鈍い彼の代わりに、秘書が思考を行った。
そうした鈍い生活を送っている内に大公とやらが現れた。退屈な城に棲みたがる獣がこんなにいるのかと困惑した。
城に従事する変転人も増え、彼は王として何もしないまま月日が流れた。
その中で一つ、疑問に思うことがあった。彼の秘書として働く変転人――ゲンチアナだけが異様に短命なのである。変転人は通常、殺されたり不慮の事故などで命を落とさなければ百歳ほど生きるそうだ。だがゲンチアナはその半分、五十歳ほどで死んでしまう。一人目の時は、そんなこともあるだろうと気にしなかったが、三人目ともなると首を捻る。
それでも首を捻るだけで、思考はそれ以上には進まない。首輪の所為だ。
おそらく秘書の仕事が過酷か、元々体が弱いのだろう。彼はそう納得することにした。
短命なゲンチアナがせめて楽しく過ごせるようにと、彼はいつからか玩具を集めるようになった。人間の作る玩具など何が面白いのか理解できなかったが、人間に近い変転人なら似通う所があるだろう。乳幼児が遊ぶ物も含め、幅広く集めた。変転人は生まれた時から言葉を発し、二足で歩くこともできる。人間の乳幼児のような期間は無い。それでも思考の鈍った彼は玩具を集め、渡せないまま城の一室に仕舞い込んだ。
渡せなかった理由はただ一つ。ゲンチアナは忙しく、玩具で遊ぶ暇など無かった。玩具を差し出しても受け取らなかった。
ゲンチアナは王の首輪を維持するために生まれる。それに能力を割かれて、普段の仕事の要領がやや悪いのである。
それは彼の知らないことだ。どのゲンチアナの花でも王の首輪を維持できるわけではなく、少しばかり細工して人の姿を与えている。そのため、努力をしても一向に仕事の手は早まらない。ゲンチアナには資質があり、それを機能させるための細工である。
ゲンチアナにも性格があるので、手が遅いことを気にせず仕方無いとからから笑う個体や、遅いなら二倍努力すれば良いと働き過ぎる個体、自分は駄目な変転人だと嘆く個体など千差万別だった。
(もう少し――早く気付いていれば)
何人ものゲンチアナが死んだと言うのに、何も気付かなかった。何を見ていたのかと彼はぼんやりと滲む思考の中で嘆く。何かおかしいと気付くべきだった。
視界が紅く染まる。罅割れ崩れた廊下にべたりと赤い血が引き摺られている。折れた角が一本、瓦礫の陰に転がっていた。その持ち主は視界に無い。
フェルニゲシュはショットガンの形を作る杖の銃口を下げて振り向いた。誰もいない。あんなに同じ顔の変転人が歩き回っていた古城はすっかり静かになってしまった。
幾ら破壊しても満たされることはなかった。人間のように数もおらず、苦痛を浮かべる顔も見えない。悲鳴は噛み殺し、断末魔も聞こえない。この破壊は詰まらない。だが止めることはできなかった。長年封じられていた力は、フェルニゲシュの意思ではもうどうにもできなかった。首輪の所為だ。首輪が思考を鈍らせている。
暴れる力を封じるために首輪の維持を画策し、首輪の維持に拘るから力が暴走する。悪循環だ。
(この破壊はアナのため……アナの体罰と死に対する抗議だ。なのに誰もいなくなっては……オレは誰に訴えているんだ……?)
頭と体が切り離されたように、体は勝手に破壊を求めている。きっとまだ彼の知らない不満があるのだろう。体は何かに気付いている。その手で何をしたのか、フェルニゲシュはまだ気付かない。
杖の銃口を上げ、廊下を吹き飛ばす。黒い炎は揺らめき、掠めた壁に燻る。
ドラゴンは炎を操る獣だ。フェルニゲシュも例に漏れず火炎を放つ。ただ、これを炎だと認識する者は少ないだろう。ただの火なら人間でも操れる。獣の炎はそれとは違い、変質している。同じくドラゴンであるヴイーヴルの扱う炎もそうだ。彼女は人間の使う火に近い炎も出力するが。
瓦礫と化した廊下を目的も無く歩き、石の階段を上がる。城の外が少し騒がしい。がさがさと何かが這う音があちこちから聞こえる。
立ち入り禁止の塔には誰もいない。もうフェルニゲシュ以外は城にいないのだろう。
廊下の奥へ向けて炎を射出する。薄い炎の煌めきを残すそれは光線のようで、揺らめきながら壁を抉った。前回の放出から然程時間が経過していないため、威力は弱い。フェルニゲシュの攻撃は消耗が大きく、転送と同じで、連続して撃てない。
瓦礫となった壁とドアの向こうに玩具の山が見える。
「…………」
渡せなかった玩具の墓だ。遊んでもらえない玩具は死んだも同然である。
フェルニゲシュは瓦礫を踏み、足元に転がる木彫りの何かを拾い上げる。仲良く二つ転がっていたそれは、先代のアルペンローゼと声を失う前のエーデルワイスがゲンチアナのために彫った物だった。それは竈に放り込まれて処分されようとしていたが、炎を操るフェルニゲシュは、他人が熾した火でも操ることができる。獣が出力した炎は別だが、人間や変転人が熾す主無き火を操るのは容易い。燃えないように操作することも造作無かった。その程度の力なら、首輪を刻まれていても使用できる。木彫りは何を模しているのかわからなかったが、きっと彼の知らない何かで、きっと上手く出来ているのだろう。折角の苦労が勿体無いと、火から拾った。
二つの木彫りを棚に戻し、踵を返す。火から拾った時は何か思うことがあったのだろうが、今は頭に砂嵐を被っているようだった。
崩れて壁の無くなったそこから外へ飛び出し、空中で蝙蝠のような翼を生やす。大きく羽撃いて城壁の上に下り立ち、もう一度壁を蹴って羽撃く。長年城に引き籠っていた彼は、久し振りに生やした翼の感覚を掴むのに時間が掛かった。
「…………」
低空飛行で進むことを決め、上空を舞う鳶のように翼を広げる。古城から離れる程に、城下町の惨劇が鮮明に紅い瞳に映る。
「…………」
それは彼が遣ったことだ。城下町を破壊した。
なのに『誰がこんなことを?』と遠く掠れる思考が疑問を浮かべる。
攻撃をするこの手と、奥に押し遣られた思考が乖離している。
直撃を受けた家々は跡形も無く、中心に近いほど瓦礫すら残らない。誰の姿も倒れていないが、それは死傷者がいないわけではなく、何も残さずに存在が吹き飛んでしまったからだ。『見つからない』は『いない』ではない。
翼を畳んで飛び降り、瓦礫の間を歩く。瓦礫の間から小石が転がる音が聞こえ、フェルニゲシュは意思に反して徐ろにショットガンの杖をそちらに向けた。揺らめく黒い炎は残っていた瓦礫を吹き飛ばす。
運の良い生存者を殺してしまったかもしれない。そこにはもう、微塵も罪悪感が無かった。
* * *
廃されて随分と経つ人間の街の埃を被ったホテルの中、ベッドに眠るアルペンローゼの前髪を指先で優しく払い、ヴイーヴルは彼の顔色を注視する。良いとは言えないが、最悪の顔色ではない。
「獣と変転人は同じじゃないと思うけど……何か食べられるなら食べた方が回復は早いわよね? 飲み物だけでも……」
壁を背にヴイーヴルを睨むように凝視しているエーデルワイスに話し掛けるが彼女は声を出せないため、独り言になった。
「宵街の獣達、何か持ってないかしら? アナが戻って来ないし、ちょっと行ってくるわ。アルのこと、任せていい?」
白く色の抜けた頬を撫で、ヴイーヴルは振り向く。エーデルワイスは獣の言うことなど聞きたくなかったが、アルペンローゼに関わることなら頷く。
ヴイーヴルは席を立ち、足元を確かめながら部屋を出た。廊下の先に目を遣り、気配を探る。
「……ん?」
宵街の獣は怪我人を含めても四人で、ゲンチアナが共にいるとしても合計五人だ。なのにやたらと気配が騒々しい部屋がある。ヴイーヴルは不思議そうに眉を寄せ、三つの目を細めた。
壊れた備品を避けて騒々しい部屋を目指し、隙間の空いたドアから中を覗く。ヴイーヴルは困惑した。
「何をしてるの……?」
部屋の中には宵街の獣達がいた。いたが、妙なことになっている。壁に背を付ける獏は両手を振り、蒲牢はその前で片手を泳がせる。窮奇はベッドに座り、頬杖を突いてけたけたと笑う。ゲンチアナはヴイーヴルの声に気付き、蒲牢のように両手を泳がせながら困ったように振り向いた。
「ヴイーヴル様! 獏さんが……」
獏の両脚には翅の生えた小さな少女がわらわらと群がり、上半身に向かって這い上がっていた。
「何で妖精に集られてるの……?」
「ヴイーヴル!? こ、これどうしたらいい!?」
「俺にはどうすればいいかわからない……」
妖精達は困惑する獣達を尻目に口々に『私にもちょうだい』と鳴き声のように囁いている。
「何かあげたの……?」
「チョコを一欠片……」
「自業自得じゃない。駄目よ、餌付けなんて。付け上がるんだから」
「一人遣って来て、欲しそうな顔をしてたから……」
「妖精は一匹いたら三十匹いると思わないと。気紛れな優しさは罪よ」
「そんな……」
「私の能力だと君も燃えるから、そっちの楽しそうに見物してる獣に吹き飛ばしてもらえばいいんじゃない? 建物を壊さないように控え目にね」
「き、窮奇! 助けて!」
「は? 面白いのに」
「面白くないよ……」
「抓んで捨てればいいだろ」
「強く掴んだら潰れちゃいそうで……」
「虫と同じ扱いでいいってその女も言ってただろ」
他人事のように笑いながらも、窮奇は体を起こして杖を召喚する。ベッドからは立ち上がらずに、獏へ杖の先を向けた。いつまでも騒々しいと、ベッドで眠る饕餮の傷に障るかもしれない。
「風速は……適当でいいか」
「僕が飛ばないくらいの風速にして」
窮奇が杖の先をくるりと小さく回すと、空気に流れが生まれる。獏の周囲だけに絞り、渦を巻く風が砂塵を巻き上げた。
「っ……!」
最初は空き缶が転がる程度の風を送り、妖精がびくともしないことから、台風ほどの威力へと変化させる。徐々に立っているのが辛くなり、獏の動物面が風に攫われ壁に叩き付けられた。小さな妖精達は獏の服を必死に掴むが、体は風に流される。まるで鯉幟のようだ。何人かは吹き飛んだ。
「ちょ……僕も飛ぶ……!」
「床に足が付いてんだろ」
「今はね!」
獏は蹌踉めいて壁に手を突いた。その衝撃で、最後まで服に掴まっていた妖精が飛んで行った。
「三十匹以上いた気がするな」
飛び散った妖精が散り散りになりながら去っていくのを見送り、窮奇は杖を仕舞う。
「待って! お面が無い!」
獏は人形のように整った両頬に手を当て、吹き飛んだ動物面が見当たらないことに気付いた。風に押されて開いたドアから顔を出すが、廊下の左右にはもう妖精の姿が無い。逃げ足が速い。
「チョコレートをくれないから、拗ねて悪戯してるんじゃない?」
「そんな……皆何処に行ったの!?」
「だから関わらない方がいいのよ、妖精なんて」
肩を竦めて同情するヴイーヴルに、獏は泣きそうな顔を向ける。実際に泣きはしないが、泣きたいくらいだった。
「どうしよう……」
「狴犴がまた作ってくれるよ」
蒲牢も同情し、獏の肩に手を置く。その統治者に頭を下げるのが嫌なのだと、獏は眉間に皺を寄せて渋い顔をする。
その視線が床へ下がる。小さな視線を感じたのだ。そこには最初にチョコレートの欠片を受け取った妖精がいた。空っぽの棚の陰からチョコレートの欠片を大事そうに抱いて見上げている。
「君……」
何と言おうか獏は一旦口を閉じ、今一番大事なのはお面だと結論を出す。顔を晒していると落ち着かない。
「僕のお面、何処に行ったか知らない?」
「知らない」
妖精はチョコレートの端を小さな口で齧り、頬にチョコレートの滓を付けて素っ気無く答えた。
「この建物の中にはいるんだよね?」
「たぶん」
「曖昧な……」
「チョコレートの分は特別に手伝ってあげる」
「手伝うって?」
「お前達みたいな大きな獣は入れない隙間を探してあげる」
「あ、そっか……僕達じゃ手の届かない所に逃げられたかもしれないよね」
「お前達は私達の巣に勝手に入ったんだから、好きなだけ苦しめ、と思うけど」
可愛らしい顔をしているが、妖精は辛辣である。その見た目に騙されて痛い目を見る者は多い。
「じゃあ僕はお面を取り返してくるから、皆は待ってて」
「一人で大丈夫か?」
「さっきはびっくりしたけど、妖精相手なら勝てる」
「あんなに集られてたのに、凄い自信」
自信満々に口角を上げるので、蒲牢も喰い下がらずに獏を見送ることにした。ヒートを起こしてしまった蒲牢は、口には出さないが疲労が蓄積している。チョコレートを食べて、時間のある内は回復に専念したい。
チョコレートを抱く妖精が透き通った翅を羽撃かせて舞い上がると、獏も周囲を見渡しながら部屋を出た。
「……アナ、念のために付いて行って。もしまた集られたら、叩き落とすのよ」
「わかりました」
ゲンチアナは胸に手を当てて白い頭を下げ退室する。彼女は長年花街で暮らしている。獏よりも妖精の扱いに慣れている。埃を落とすように、手で払うことを躊躇しない。
目の前を飛ぶ妖精に続き、二人は階段を更に上がった。歩きながらゲンチアナは獏の耳元へ囁く。
「獏さん。妖精は虫みたいなものだとヴイーヴル様は言ってますが、妖精も獣であることには変わりないです。杖を出したら注意してください」
「うん。小さいからね……見落とさないようにしないと」
妖精はチョコレートを齧りながらゆっくりと飛ぶ。獏達は一歩進むだけで妖精を追い越してしまうため、立ち止まりながら進む。妖精は開いているドアを覗き込む仕種はするが、部屋の中には入らない。
「たぶん屋根裏」
「僕達は入れる?」
「大きい人は入れないようにしてる」
「多少なら壊してもいいかな?」
「巣を荒らさないで。ただでさえ今は花街がおっかないのに。ここに妖精が逃げ込んできた所為で大所帯になっちゃったから、何もくれないなら早く出て行ってよね」
「おっかない?」
「オウサマが暴れてるの。知らない? 最新情報によると、城下町が一つ、ほぼ壊滅したの」
「え!?」
「壊滅……!?」
「へー、知らないんだ。このままだと花街は全部平たく潰されるよ」
妖精は含み笑いを浮かべ、獏達にここで待つようにと手で示す。壁と天井の境界線に小さな穴があり、吸い込まれるように入っていく。
残された獏とゲンチアナは顔を見合わせて青褪める。
「町が壊滅って……」
「フェル様が城から出たということは、ロク様は……!? 野放しにするはずがないです!」
「止められないくらい、フェルが強いってことだと思う……。妖精は城下町が一つ、って言ってたけど、幾つもあるの?」
「大きく分けて四つあります。一つ一つに距離がありますが、獣の移動速度だと、あってないようなものです」
「変転人達が棲む町が四分の一も失われたってこと!?」
「妖精は嘘も吐くので、何処まで真実かは量り兼ねますが……ああいった嘘を作る理由もわかりません。やっぱり私が……」
「アナさん。君を犠牲にしないために皆頑張ってるんだよ。まずは皆に相談しよう。取り返しが付かなくなる前に」
ゲンチアナはそれに頷くのが怖かった。それでも力を貸してくれる獣のために頷く。
「わ、わかりました……」
ゲンチアナが前に出れば、フェルニゲシュの首輪の効果を維持できる。暴走する彼を止めることができる。そんなに簡単に解決できるのに、一人の変転人の命を惜しむことで被害が広がっていく。ゲンチアナは護られることに疑問がある。死ぬのは怖いが、周囲に掛かる迷惑が重過ぎる。
チョコレートを抱えた妖精は仲間の妖精と共にマレーバクの面を運び出した。仲間の妖精はチョコレートに目を遣り、物欲しそうに獏を見る。
「餌付けは駄目って言われたけど……取り返してくれた御礼に」
獏は残っていた板状のチョコレートの端を割り、欠片を妖精の前に差し出した。物欲しそうな妖精は両手を離し、急いでチョコレートの欠片を受け取った。まるで池の鯉に餌を投げたようだ。動物面は床に落ち、それを拾う間に妖精は姿を消していた。
「恩を売って見返りを求める遣り方を覚えなければいいですが……」
「えっ、そんな狡猾なことするの?」
「一度人間の食べ物の味を覚えた動物は、その後も食べ物を求めて人間を襲うそうです。花街には野生動物はいないので、人間の街で知りました」
「ああ……山から降りて来た熊とか猿とか?」
「妖精は品性は乏しいですが、知能は多少あります」
「散々な言われようだね……」
人形のような整った顔に動物面を被り、獏は安堵する。見た目よりも軽く、鼻の中も空洞になっている面は風を孕むと簡単に飛んでしまう。
餌の御陰で想定より早くお面を取り返すことができた。胸を撫で下ろして二人は皆の待つ部屋へ戻り、出た時のままのドアを開けた。
「皆、返してもらっ……あれ?」
「どうかしま……」
怪訝な声を上げた獏の背から部屋を覗き込み、ゲンチアナも目を瞬く。そこにいた獣達の姿が無くなっていた。ベッドに眠っていた饕餮の姿も無い。
「部屋を間違えたかな? でもノートもペンもある……」
「ここで合ってますよ。移動したんでしょうか?」
「そうかな?」
ゲンチアナが先に立ち、今度はアルペンローゼが眠っている部屋に向かう。
隙間の開いたドアを覗き、気配に気付いたエーデルワイスが振り返った。ベッドにはアルペンローゼも眠っているが、部屋の中にはその二人しかいない。
不思議そうに顔を見合わせる獏とゲンチアナに、エーデルワイスはどうしたのかと紙切れに書いた。
「ヴイーヴル様は戻って来た?」
『そっちに行ったままだけど』
「ちょっと部屋を出て、戻ったらヴイーヴル様も宵街の人達も皆いなくなってたの」
『争った形跡は?』
「無い……と思う」
『そっちの部屋は何処か知らないけど、この部屋の前の廊下なら、今歩いて来たアナ達の足音以外は聞こえなかった』
「え……じゃあヴイーヴル様は何処へ……?」
『可能性が高いのは転送』
「あっ……そうか。もしかして、花街に……!?」
『それは宵街の怪我人も連れて?』
「あ……意識の無い怪我人を連れて危険な所に行かないよね……」
『何も言わずいなくなったなら、付いてくるなってことか、急用か、誰かの転送に巻き込まれたか』
「どれにしても、何かあったってことだよね……」
長年城に仕えているエーデルワイスは取り乱さず淡々と述べる。彼女にとって獣は憎むべき存在であり、興味を抱くものではない。何処へ行こうがどうでも良かった。
『そこの獏は何でいなくなってないの?』
ゲンチアナが眉間に皺を寄せて考え込み始めたので、エーデルワイスは質問相手を獏へ代えた。ヴイーヴルと宵街の獣が纏めて姿を消したのなら、獏だけ取り残されていることに疑問がある。
「僕はアナさんと一緒に部屋を出てたんだよ。戻ったら皆いなくなってた」
『それはさっきも聞いた。紙の無駄遣いをさせないで。限りがあるんだから。何でお前は部屋を出てたの?』
「妖精に僕のお面を持ち去られて、取り返しに行ってたんだ。アナさんも付いて来てくれた」
『お前の仲間が付いて行けばいいのに、何でアナなの?』
「え? ……あっ! ヴイーヴルがアナさんに付いて行くよう言った……」
『ヴイーヴルが怪しい。あいつの転送かもしれない』
「そ、それじゃあ、皆は何処に……?」
『知らない。ここにはアルとアナがいる。私はそれで充分。獣はいらない』
「花街の可能性も無くは無いよね……? どうしよう……僕、自力で転送できないんだよ!」
『獣なのに?』
「ちょっと事情があって……」
蒲牢に捺してもらった仕事印の効果は疾うに切れている。
烙印の所為だと言えば説明は楽だが、獣にとってそれは屈辱の証である。他の獣に屈服させられた証なのだから、隠したい傷だ。
渋る獏に、エーデルワイスも言いたくないことのようだと汲み取る。転送できないとは不便な獣だ。
「宵街だったら伝手があるんだけど……」
『はっきり言ったらどう? 転送する力を貸してくださいって。変転人に頭を下げる獣なんて笑い物だろうけど』
「頭を下げるくらいなら、僕は構わないよ。ただ危険なことに巻き込まないか心配で……」
エーデルワイスはペンを止め、獏を見上げる。変転人に頭を下げることを厭わない獣とは稀有な存在だ。
『お前、変人なのね』
「それは心外だけど」
ドアの隙間から小石が当たるような音がし、三人は振り向き、視線を床に落とす。妖精が一人、腕を組んでにやりと笑っていた。組んだ腕の下で小さな手を開いている。
エーデルワイスは無言で立ち上がり、小さな妖精の頭上に靴の影を落とした。
「ちょっ、ちょっと! 話を聞かないの!? 飛び切りの情報!」
「その手は見返りを求めてたんだ……」
ゲンチアナが妖精が図に乗ると言っていたが、その通りのようだ。
「情報って?」
エーデルワイスが踏み潰す前に、獏は慌てて尋ねた。
「黒い象が知りたい情報」
「象……僕のことかな? 僕は獏だよ。そんなに鼻は長くない」
「そんなことはいい。仲間が消えたこと、知りたくない?」
「知ってるの?」
「見たからね!」
「じゃあ教えてもらおうかな」
「絶対信じてない声!」
「ふふ」
妖精の情報は半信半疑だ。この廃墟に来てから随分と学ばされた。
「大きな獣が二匹現れたのよ!」
「へえ」
「両目を覆った男と、その僕っぽい女!」
「!?」
その一言で心の余裕が吹き飛んだ。両目を覆った男はつい先程目にした。同じ格好をしている者が他にもいない限り、それはカトブレパスだ。
「ど、何処に行ったの……?」
「それは知らない。パッと現れて無言でパッと消えたから」
「そういうの、拉致って言うんだよ!」
情報に満足したようだと妖精は得意げな笑みを浮かべて手を出す。獏は焦燥を隠せずチョコレートの端を少し折って彼女に差し出した。妖精はチョコレートを引ったくるとすぐに踵を返して行ってしまった。
『手懐けたのね』
「両目を覆った人って、カトブレパスって人だよね!? 行き先に心当たりはある? どんな人なの?」
「先生以外に両目を覆った人は見たことないですね。先生は殆ど診療所に籠っているので、何処に出掛けるかは……」
『あいつは変人。アルを待ち伏せて攫おうとしたこともある。相変わらず手口が誘拐ね』
「ワイス……」
あまりに冷静で危機感を持とうとしないエーデルワイスに、ゲンチアナは彼女の名前を呟く。エーデルワイスはゲンチアナに目を向けるが、ペンは動かさず次の言葉を待った。
「城下町が一区画壊滅したって聞いたんだけど……」
『妖精が言ったの? 妖精の言うことは真に受けない方がいい』
「そうなんだけど、こんな時にそんな嘘を吐くかな……。もし本当なら、ロク様は止められなかったってことで……まさか殺され……」
『あいつは逃げたんじゃない? 最初からフェルニゲシュを恐れてた奴が、首輪が綻んだあれに立ち向かうはずがない』
「ワイスも心配だよね……いつもロク様の御世話をしてるんだから……」
エーデルワイスは無言でゲンチアナを見詰めた。冗談や揶揄ではなく、ゲンチアナは本気でエーデルワイスがズラトロクを心配していると思っている。どちらかと言えばズラトロクにエーデルワイスが面倒を見られているのだが、それを知られると解雇されるかもしれないのでエーデルワイスは口を噤む。城から追い出されると、ゲンチアナとアルペンローゼを護ることができない。
(私も掃除は偶にするけど、ズラトロクが死んだら料理もしないといけないのか……。あいつが死んだかどうか、確かめるくらいなら別にいいか)
獣は寿命らしいものなど無く、変転人の一生を終えるまでズラトロクの顔を見続けるのだとエーデルワイスは思っていた。彼女の寿命は後少しだ。この瞬間に寿命が来てもおかしくない。獣が先に命を終えることもあるのだと、この時初めて考えた。
『アナはアルを見ていて。私が獏を転送する』
「え? でも……」
『もしアルが起きたら、大人しくさせておいて。これは大役』
微塵も笑顔を見せない真剣で冷たい目をしたエーデルワイスに怯みながら、ゲンチアナは渋々頷く。花街でもし戦闘に巻き込まれたら、碌に戦えないゲンチアナが行っても足手纏いだ。戦闘が得意なエーデルワイスが行く方が良いに決まっている。
「わかった……。アルならすぐ動きそうだもんね。自分の治癒力を過信するから」
ゲンチアナは苦笑し、ベッドに眠るアルペンローゼを見下ろす。綺麗な顔の眉間に少し皺が寄っている。
仕事のことも全て忘れて、せめて良い夢が見られると良いのに。エーデルワイスと手分けして熟すはずの普段の仕事を一人で負っているアルペンローゼに、彼女はそう思わずにはいられなかった。




