第五十六話 美学
「なんだい、急に笑って」
「あ、すみません。大したことじゃないんです。ちょっと、昔のことを思い出して」
「ふーん。そうだ、シゲちゃんって、最近探索者になったんだろ? 前は何してたのよ」
「サラリーマンです。普通の」
「おいおい、その言い方は普通じゃなさそうだな」
この丹波という男、情報発信を専門にしているだけはあって、なかなか鋭い。
しかし、当の春重が、心の底から普通のサラリーマンだったと思っているため、きょとんとすることしかできなかった。そして、その様子は、丹波の目からは少々不気味に映っていた。
「あんた……苦労を苦労と思わないタイプだな」
「いやいや、そんなことないですよ」
「俺には分かるんだよ。ほんの数年前まで、売れないフリーの記者として、日本中を駆けずり回ってたからな」
もともと、スクープやゴシップが好きで、長年記者をやっていたらしい。
春重とは縁遠い世界だが、彼の表情から、とても語り尽くせない苦労があったことが窺える。
「家にもなかなか帰れなくてな。かみさんには、ずいぶん苦労させちまったもんだ」
「かみさんって……丹波さん、結婚してたんですか!?」
「おうよ! こう見えて、結婚十二年目さ!」
春重の目が点になる。それを見て、丹波はむっとした。
「おいおい、さては信じてないな?」
丹波は、やれやれといった様子でウェットスーツの首元をまさぐり、ネックレスを取り出した。その先には、美しく輝く指輪がついている。
「これ見たら信じるか? 失くしちまうのが怖くて、いつも首から下げてんのよ」
「なるほど……。失礼しました」
「いいってことよ。自分でも、ちと似合わねぇと思ってるしな。あ、そうだ。ついでにちょっと自慢していいか?」
春重が頷くと、丹波はスマホを取り出して、写真を見せてきた。
そこには、丹波に寄り添う美人な女性と、髪をふたつに縛った、十歳くらいの少女が映っていた。
「どうだ? 俺のかみさん、すげぇ綺麗だろ?」
「ええ……というか、お子さんもいらっしゃるんですね」
「ああ、香奈っていうんだ。今年で十歳になる。ちょうど嬢ちゃんと同じくらいかな……って、人と一緒にされちゃ、嬢ちゃんも困るか」
丹波が、エルヴァーナを一瞥する。
エルヴァーナは、二人の会話にはまったく興味がないようで、水筒に入ったオレンジジュースを飲んでいた。ちなみにこれは、真琴が用意してくれた水筒である。
「もっと小さい頃は、パパ~なんて可愛く寄ってきてくれたもんだが、最近はすっかり生意気でなぁ。服が臭い! あっちいって! なんて言われるようになっちまったよ」
そう言いながらも、丹波の頬は緩んでいた。
娘の成長が、心底嬉しいといった様子だ。春重も、つられて笑顔になってしまう。
「シゲちゃんは、いい人いないの?」
「はは、いないですよ」
春重は、わずかに肩を竦める。
いい人どころか、そもそも、恋愛経験がない。覚えている限り、誰かを好きになったこともなければ、誰かから好意を寄せられたこともない。
春重は、自分をどこにでもいるような人間だと思っている。もっと言えば、人々が生きる日常の、背景であるとすら思っている。
自分のことなんて、誰も眼中にない。それが当たり前だと、彼はずっと思い込んでいる。
「えー? 探索者としてばりばり稼いでんだろ? 人当たりもいいし、モテそうなもんだけどなぁ」
「いやいや、そんな気配ゼロですよ」
「……マジで言ってんのか?」
丹波が、信じられないという目を向けてくる。
丹波から見て、真琴が春重に特別な感情を抱いていることは、まず間違いない。年齢だけ見たら、ずいぶん離れていて心配になるが、真琴の性格を考えると、春重に好意を寄せるに至ったきっかけがあったということは察しがつく。
しかし、当の春重は、真琴から好意を寄せられていることに、まったく気がついていない様子だった。
「はあ……まこっちゃんも苦労しそうだなぁ」
ため息をつく丹波を前にして、春重はますます疑問を深めた。
「――――おい、腹が限界じゃ。飯はまだか」
春重が思考を繰り広げる前に、エルヴァーナが、ばんばんとテーブルを叩いた。見るからに、先ほどよりも不機嫌そうだ。よほど空腹なのか、獣が威嚇するような唸り声をあげている。
「まこっちゃんたち遅いなぁ……ん? おい、あれって」
丹波が見ている先には、三人の男に囲まれた真琴と桜子の姿があった。ただならぬ空気を感じて、春重が席を立つ。桜子の性格上、ナンパなど一瞬にして蹴散らすだろう。それをしないということは、それなりの理由があるはずだ。
「おいおい、ちょっと待ちなって」
そんな春重を、丹波が止めた。
「あれ、ナンパですよね? 早く助けたほうが……」
「考えなしに突っ込んで行っても、火に油を注ぐだけだ。この施設内は、暴力沙汰厳禁だから、桜子ちゃんも黙ってるんだろうよ。もしここで暴力でも振ろうもんなら、もれなく出禁になっちまうからな」
「ああ、なるほど……」
やたら冷静な丹波に、春重は胸の中で称賛の拍手を送る。
とはいえ、この状況はまずい。このままだと、堪忍袋の緒が切れた桜子が、男たちを蹴散らしてしまうかもしれない。そして、隣にいるエルヴァーナも、間もなく癇癪を起こし始めるだろう。
この施設以外で、安全かつ、人目を気にせずレベル上げが可能な場所はそう存在しない。それに、市営プールなどでは、高レベルの『水泳』スキルを獲得することは不可能である。ここで万が一に出禁になれば、スカイタワーダンジョンを諦める羽目になる。
当然、ナンパ行為も禁止されている。しかし、ただ話していただけと言い訳をされた挙句、難癖をつけられる恐れもある。
こういうとき、どうしたらいいのだろう。春重は自分の想像力の無さを呪った。あたふたしていると、丹波がすっくと立ち上がった。
「ここは、俺っちの出番だな」
「どうするつもりですか?」
「あのガキどもに、大人の世界の厳しさを伝えてやるんだ。シゲちゃんにも協力してもらうぜ?」
そう言って、彼はどこか楽しそうに、にやりと笑った。
「――――なあなあ、いいじゃん。一緒に遊ぼうよ」
「やめてください……! 困ります!」
「そうつれないこと言わないでさ。いいじゃんいいじゃん!」
金髪の男が、真琴を壁際に追い詰める。
「あんた、アブソリュートナイツの九重桜子でしょ? こんなとこで会えるなんて、マジラッキーだわ。ねぇ、解散したときの話、詳しく聞かせてよ。ついでにお茶でもしない?」
「……退け。焼きそばが冷める」
「えー? そんなの別によくない?」
頑なに退こうとしない男たちに、桜子は舌打ちする。
幸い、桜子はまだ冷静だった。今すぐにでも殴り飛ばしたい気持ちを、ぐっと堪えている。
そんな彼女たちの様子を、春重たちは警戒されない程度の距離から窺っていた。
「――――『鑑定』」
春重が、そう呟く。
名前:岸谷雄一
種族:人間
年齢:22
状態:通常
LV:72
所属:インフィニティハーツ
HP:1691/1691
SP:2019/2019
スキル:『格闘(LV6)』『ナイフ(LV5)』『索敵』『跳躍』『腕力強化』『脚力強化』
他の二人も、ひとり目の男と大して変わらないステータスだった。
レベルとしてはそこそこだが、今の春重たちからしたら、脅威とはならない程度だ。
「なんだ……〝インフィニティハーツ〟かよ」
「知ってるんですか?」
「新参のグループ系ダンジョン配信者だ。再生数を稼ぐために、ダンジョン内で過激な動画を撮ったり、ひと様の探索を邪魔したりする、承認欲求をこじらせた馬鹿な連中だよ」
丹波は「インフルエンサーとしての美学がない連中」と付け足した。
確かに白昼堂々、相手が抵抗できないと見るや否や、ここぞとばかりに詰め寄ってくる連中に、美学なんてものがあるとは思えない。




