第95話 王国使節団
使節団が山道を登ってきたのは、朝の霧が晴れた頃だった。
先頭には紋章を縫い込んだ外套を纏った文官が二人。その後ろに鎧を着た騎士が四人、さらに後方に地味な装いをした人物が三人続いた。全員合わせて九人。
最前列に立つ中年の男が、砦の入り口を正面から見上げた。
王国監察官バルドだった。
四十代半ば、引き締まった顎、読みやすい感情を持たない目。書類仕事で生き延びてきた顔だ。剣は腰に提げているが、それは飾りに近い。彼の武器は文書と法律だった。
バルドは砦の入り口に掲げられた板を一瞥した。
「……あれが、先日の報告書にあった決まりの板か」
「そうです。六箇条が書かれています」
隣の文官が答えた。
「ずいぶん素朴なものだ」
バルドはそう言って入り口に歩み寄った。
・・・・・
砦の門の前で、ソウが出迎えた。
「遠いところを、ご苦労様です」
「王国監察官バルドだ。辺境共生領代表、エルクへの面会を求める。正式な使節としての訪問だ」
「承りました。こちらへどうぞ」
ソウが先に立って広場へ案内した。
その途中で、使節団の動きが何度か止まった。
最初に止まったのは、リザードマンの警備担当が砦の壁沿いを巡回しているのを見たときだ。鎧を着た騎士の一人が反射的に剣の柄に手をやった。
「手を離せ」
ソウが振り返らずに言った。
「モンスターが……」
「ここの住民です。手を出せば、この場所のルール違反になります」
騎士は渋い顔をしながらも手を離した。
次に使節団が動揺したのは、水路のそばでスラが水の流れを整えているのを見たときだ。あのスライムが何をしているのか理解できない様子で、全員がしばらく立ち止まった。
さらに、薬草園でラミアたちが作業しているのが見えると、文官の一人が小声で何かを呟いた。しかしソウはその方向を向かなかった。
そして広場に出た瞬間。
使節団の全員が、足を止めた。
ウーゴが砦の東側の壁に新しい木材を張り付けていた。大工の兄弟がその下で材料を渡している。リザードマンの戦士が一人、その様子を見ながら荷物運びを手伝っていた。薬草係の老婆が、ラミアの若い女性に何かを教えながら笑っていた。
イェール村からの若者と、ラミアの子供が、広場の隅で一緒に何かを拾い集めていた。
バルドは、その光景をしばらく黙って見ていた。
「……本当に、共存している」
独り言のような声だった。
「ええ」
ソウが静かに答えた。
「もし何か感想があれば、後で代表に直接おっしゃってください」
・・・・・
会議室に全員が入った。
エルクとクラウ、ソウ、レオル、メアが内側に、バルドと文官二人、騎士二人が外側に座った。残りの騎士と後方の三人は廊下で待機している。
エルクはのんびりと椅子に座り、お茶を一口飲んだ。
バルドは書類を卓に置いた。
「辺境共生領代表、エルク殿。本日は王国監察官として、正式な通達を持参した」
「どうぞ」
エルクが短く答えた。
「まず確認させてもらいたい。この場所を辺境共生領と称し、独自の規則を設け、住民の受け入れを行っていることは事実か」
「そうですよ」
「王都への届け出は?」
「していません」
バルドは書類に目を落とした。
「では通達する。王国法第十七条、辺境自治に関する項。王国領内において、王国の認可なく自治組織を形成し、住民を統治する行為は認められない。辺境共生領を正式に解散し、代表エルク殿は王都へ帰還してもらいたい」
部屋が静かになった。
エルクはお茶を一口飲んだ。
・・・・・
「少し聞いてもいいですか」
クラウが口を開いた。
バルドが視線を向けた。
「ここには今、リザードマンとラミアが住んでいます。王国法第十七条の自治組織の条文は、王国の臣民に適用されるものですよね」
「そうだ」
「ならば確認させてください」
クラウは書類を取り出して卓に広げた。
「ここに住むリザードマンとラミアは、王国の臣民として登録されていますか」
バルドは答えなかった。
「王国法において、リザードマンやラミアのような知性を持つモンスター種族の権利は、どこに明記されていますか」
バルドの視線が書類に落ちた。
「王国領内に居住するすべての存在が臣民の定義に含まれるのであれば、彼らは王国に保護を受ける権利があるはずです。しかし実際には、王国はリザードマンやラミアを臣民として扱ってきたわけではない。討伐対象か、あるいは無視するかのどちらかだった」
「それは……」
「認めてください、バルド監察官。王国法は、人間以外の存在について、ほとんど何も定めていない。適用されるのも適用されないのも、王国の都合次第だ」
バルドは何も言わなかった。
クラウは続けた。
「だとすれば、王国法を根拠にこの場所の解散を求めるのは筋が通らない。法が彼らを保護していないなら、法が彼らを縛ることもできない。そして、彼らと共に生きている俺たちも、その論理の外にいることになる」
部屋に沈黙が続いた。
バルドはゆっくりと書類をめくった。次の条文を探しているのが分かった。しかし彼の手が止まった。
「……難しい問いだ」
バルドがようやく口を開いた。
「認めよう。現行の法律には、非人間種族の権利に関する明確な規定がない。それはこちらの課題でもある」
「では、今この場でこの場所の解散を求める法的根拠は?」
「……現時点では、薄い」
レオルが腕を組んだまま、静かに前を向いていた。
・・・・・
「ただ」
バルドが顔を上げた。
「法的根拠が薄いとしても、王国として、この場所を無視し続けることはできない。リザードマンとラミアが組織化され、武装した人間と共存している。それは国家の安全保障上、無視できない存在だ」
「俺たちは誰かを攻撃していない」
「今はそうだとしても、将来的に何が起きるか分からない」
「同じことを言えば、王国も将来的に何をするか分からない」
クラウが静かに返した。
「現に、今日のこの訪問の目的は何ですか。交渉ではなく、帰順を求めに来た。つまり対等な立場での話し合いを最初から放棄している」
バルドは眉間に力を入れた。
「……率直に聞こう。エルク殿。あなたは王都に帰るつもりはないか」
エルクがお茶を置いた。
初めて、エルクがバルドをまっすぐに見た。
「ないですよ」
のんびりした口調だったが、迷いは一切なかった。
「僕たちはここで暮らすよ。誰かを傷つけに行く気はないけど、連れて行かれる気もないよ」
「それが代表としての最終回答か」
「代表とかじゃなくて、僕個人の気持ちです。ただ、皆も同じだと思いますよ」
クラウがバルドを見た。ソウが腕を組んだ。レオルが短く頷いた。
バルドは書類をまとめ、立ち上がった。
「……分かった。今日の交渉はここまでにしよう。我々の要求が受け入れられなかったことは、王城に報告する」
「ご自由に」
エルクがのんびりと答えた。
「ただ、その報告の内容次第では、次の対応が変わることをご承知おきいただきたい」
バルドはそう言い残して立ち上がり、部下たちに合図した。
・・・・・
使節団が廊下に出ていく中、メアの動きが止まった。
誰も気づかないくらい、わずかな変化だった。妖しい瞳が、静かに細くなる。
廊下の奥。地味な装いをした三人の後方要員の一人が、外套の中に手を入れて何かを動かしていた。
魔法陣の設置だった。
ごく小さく、目に見えない形で、石床の上に術式の糸が走り始めていた。単体では何も起きない。しかし拠点の複数箇所に設置されれば、結界として起動できる構造をしていた。
メアはエルクの隣に歩み寄り、小さな声で言った。
「主様」
「うん?」
「あの人たち、話し合いだけで終わらせる気はありません」
エルクの目が、廊下の奥へと向いた。




