第96話 拘束結界
「主様。あの人たち、話し合いだけで終わらせる気はありません」
メアの言葉が廊下に静かに響いた瞬間、それは起きた。
床の石の継ぎ目から、薄い光が走った。
最初は細い線だった。一本、二本、三本。廊下から会議室の床へ、壁へ、天井へと伸びていく。光の線が複雑な紋様を描き始める。術式の展開だ。
「……発動してる」
クラウが低い声で言った。
光の紋様が完成する前に、ソウが剣の柄に手をかけて廊下に飛び出そうとした。しかしその一瞬前、紋様が一斉に白く輝いた。
目が眩むほどの光。
そして、音もなく結界が完成した。
・・・・・
最初に変化が出たのは、エルクの肩の上だった。
ライが、ぷるりと震えた。
普段の穏やかな揺れとは違う。体の中心から何かを押し込まれるような、抗いようのない力に挟まれているような、そういう震えだった。
「ライ?」
エルクが下を向いた瞬間、廊下の方でスラの声が聞こえた。
『ぐっ……な、なんスかこれ! 兄貴! おいら何か変な感じがするッス!』
スラからの念話が、いつもより弱く、歪んでいた。
エルクは立ち上がった。
ライから再び念話が届いた。今度はさらに弱い。
『……エルクさん。結界が、従魔との繋がりに……干渉して……います。共有の回路が……圧迫されています』
「ライ」
エルクの声が変わった。
のんびりした口調ではなかった。温かみがなかった。ただ、低く、平坦な声だった。
・・・・・
廊下の奥から重い音が響いた。
ウルだった。
黒銀の巨体が廊下を塞ぐように立ち、喉の奥から聞いたことのない唸り声を発していた。怒りではなく、もっと根本的な何かだった。主との繋がりが乱されているという、本能的な警戒と怒りが一体になったような音だった。
天井の外で、何かが轟いた。
ドラゴだった。
砦の屋根を越えて聞こえる咆哮は短く、しかし壁が微かに震えるほどの圧を持っていた。会議室の中の空気が一度揺れて、また静まった。
使節団の騎士の一人が、剣の柄を握ったまま動けなくなっていた。
バルドは顔色が変わっていた。書類を持つ手が止まっていた。
エルクは、誰も見ていなかった。
ただ、床を見ていた。
・・・・・
その時のエルクの顔を、クラウは後で何度か思い出すことになる。
怒っているわけではなかった。目が吊り上がっているわけでも、声を荒げているわけでもなかった。
ただ、表情が、なかった。
笑ってもなく、怒ってもなく、悲しんでもなく、ただ何もなかった。いつものエルクの顔にあるはずの温かみが、跡形もなく消えていた。
それが、クラウが見た中で最も恐ろしいエルクの顔だった。
「……お前たち」
エルクが呟いた。
声に、感情がなかった。
その瞬間、エルクの体から何かが溢れ始めた。目には見えない。しかし、部屋にいる全員が感じた。空気が重くなった。息が詰まるような、存在そのものへの圧力が、エルクから滲み出ていた。
使節団の文官の一人が椅子から立ち上がろうとして足がすくんだ。騎士が後ずさりした。バルドが初めて書類を手放した。
廊下の魔術師が、床の術式を停止しようとして手が震えていた。しかし、結界はすでに起動していた。止め方が分からなかった。
・・・・・
廊下から足音が二つ聞こえた。
「エルク!」
メルが飛び込んできた。異変を感じて走ってきたのだろう。その後ろにエネが続いた。二人は部屋の空気を感じた瞬間、状況を理解した。
「エルク、待って」
クラウがエルクの正面に立った。
エルクはクラウを見た。いや、見ているかどうかも分からなかった。視線はあるが、そこに何かを映しているような気配がなかった。
「聞いてくれ」
クラウは一歩も退かなかった。
「ここで使節団に手を出したら、王国は正式に討伐軍を出す口実を得る。俺たちだけじゃない。ここにいるリザードマンも、ラミアも、移住してきた人たちも、全員が巻き込まれる」
エルクは答えなかった。
メルがエルクの腕を両手で掴んだ。
「お願い。怒っていい。でも今じゃない」
「エルクさん」
エネが正面に出て、エルクを見た。
「ここで終わらせないでください。皆のために、ここまで作ってきたじゃないですか」
メアが動かずに、エルクの後ろに立ったまま静かに言った。
「主様。今は、ここが壊れないようにしなければなりません」
エルクは動かなかった。
その時、念話が届いた。
声は弱かった。いつもの落ち着いた知性的な声が、掠れていた。
『……エルクさん』
ライだった。
『殺して……はいけません』
エルクの指が、わずかに動いた。
『ここを……守るために、来たのでしょう……。今ここで、守っているものを……壊してはいけません』
・・・・・
長い、沈黙だった。
クラウは動かなかった。メルはエルクの腕を掴んだまま、息も出来ないような顔をしていた。
エルクの体から滲み出ていたものが、ゆっくりと、収まっていった。
一息。
また一息。
エルクが目を閉じた。そして開けた。
その目に、少しだけ、色が戻っていた。
「……ライ」
エルクが短く呟いた。念話で返した言葉は、部屋にいる誰にも聞こえない。しかし、エルクの肩の上のライが小さく揺れた。
クラウが息を吐いた。
「エルク」
「……分かった」
のんびりした声ではなかった。まだ、どこか低かった。しかし、殺意のない声だった。
「ただ」
エルクが使節団を見た。
「出て行ってもらう」
・・・・・
エルクが右手を上げた。
空間魔法が展開される。会議室の空気が一瞬歪んだ。
使節団の全員の体が、一瞬で消えた。
音もなく、完全に、どこかへ飛んだ。
クラウが窓に走って外を確認すると、砦の外、山道の入り口付近に人影が現れていた。全員、無傷だった。ただ、何が起きたか分からないまま地面に座り込んでいた。バルドが立ち上がって砦の方を見たが、その目は動揺を隠せていなかった。
「次は土魔法だよ」
エルクがそう言って、砦の外に向けて手を向けた。
地が鳴った。
低く、重く、地面の奥底から湧き上がるような震動が、砦跡の外周をぐるりと走った。石畳が割れ、土が盛り上がり、岩が積み重なった。
高さは人間の背の五倍ほど。厚みも十分にある。粗削りだが、見上げるほどの壁が、砦の外周を一周して立ち上がっていた。
ここから先は来るな。その意思が、形になっていた。
・・・・・
エルクは土壁の上に転移した。
山道の側に立ったバルドと、その背後に固まった使節団全員を見下ろした。
夕方の光が砦の石壁を照らしていた。エルクの顔に表情は薄かった。しかしもう、あの無の表情ではなかった。
「ここは、僕たちの場所だよ」
のんびりした声だった。しかし、迷いがなかった。
「勝手に連れて行こうとするなら、次は本当に怒るからね」
バルドは何も言わなかった。
騎士の一人が半歩下がった。魔術師は手を固く握ったまま動かなかった。
バルドは一度だけ壁を見上げ、それからエルクを見た。何かを言おうとして、口を閉じた。
長い沈黙の後、バルドが背を向けた。
「……撤退する」
それだけ言って、山道を下り始めた。全員が、振り返らずについていった。
足音が遠くなって、消えた。
・・・・・
壁の上からエルクが降りてきた頃、広場には全員が集まっていた。
クラウが近づいた。何かを言おうとして、止めた。
エルクが先に言った。
「……ライ、大丈夫?」
肩の上のライが、弱く揺れた。念話が届く。
『……はい。少し、休めば大丈夫です』
「スラは?」
廊下の方からスラが転がり込んできた。
『兄貴ぃ……何あれ最悪ッスよ……頭ん中ぐるぐるしたッス……』
「ごめん」
『え? なんで謝るッスか』
「先に気づいてあげられなかったから」
スラがしばらく静止した。それから、大きく体を揺らした。
『謝らなくていいッスよ! むしろ止まってくれてよかったッス! あのままだったら、おいら達が逆に怖かったッス!』
クラウが小さく笑った。
メルが目を拭って、「もう」と言った。
エネが「本当によかった」と呟いた。
レオルが腕を組んで、静かに言った。
「壁は、良い判断だ」
「攻撃じゃないから」
「ああ。それでいい」
エルクは土壁を振り返った。粗削りで、どこか不格好だった。しかし、この場所を守るために立っていた。
「……今日は、疲れた」
「当たり前だ。少し休め」
クラウが短く言った。
夕暮れの中、砦の外周に立つ土壁が、長い影を広場に落としていた。




