第92話 人間の移住者
砦の広場に、荷物を背負った人間の一行が到着したのは、昼前のことだった。
先頭を歩いていたのは、がっしりした体格の大工の兄弟。その後ろに、弓を担いだ狩人。腰の曲がった薬草係の老婆。そして、リュックを背負った若者が数人。
全員がイェール村から来た顔見知りだ。
クラウが出迎えのために広場の入り口に立っていた。エルクはその隣で、のんびりと手を振っている。
「よく来てくれた。道は大丈夫だったか?」
「ああ。山道は思ったよりきつかったけど、なんとかな」
大工の兄の方がそう答えた。息が少し上がっている。険しい山道を荷物を抱えて越えてきたのだから無理もない。
しかし。
広場に足を踏み入れた一行の動きが、ぴたりと止まった。
・・・・・
原因は、壁際にいたリザードマンの戦士たちだった。
体格は人間の倍近く、鱗に覆われた腕に槍を持ち、訓練の合間に一行を見ていた。敵意はない。ただ、存在感がある。
「あ……あれが……」
若者の一人が声を失った。
「本当にいるんだ」
もう一人が半歩下がった。頭では分かっていた。エルクがリザードマンやラミアと一緒に暮らしているとは聞いていた。でも、聞くのと実際に目の前にするのは全然違う。
「大丈夫よ。あの人たちは敵じゃないから」
メルが横から声をかけたが、若者たちは固まったまま動かない。
クラウが静かに言った。
「怖くて当然だ。無理に慣れようとしなくていい。ただ、手を出さないでくれ」
薬草係の老婆だけは、リザードマンの姿を見ても動じなかった。しわだらけの顔に笑みを浮かべ、「ほほ、大きいのう」と呟いた。
・・・・・
一行の案内が始まった。
クラウが拠点の各区画を説明しながら歩く。エルクがそのそばでのんきについていく。
途中、共有食堂の前を通りかかったとき、若者の一人がぎょっとして足を止めた。
ウルが食堂の陰から顔を出していた。
黒銀の巨体。金色の瞳。じっとこちらを見ている。
「うわっ」
若者が声を上げ、後ろに倒れそうになった。隣の仲間が慌てて腕を掴む。
「あれ、犬……じゃないよな」
「狼だ。でかすぎる」
エルクが笑いながら声をかけた。
「ウル、びっくりさせないでよ」
ウルはエルクを一瞥して、静かに食堂の陰に戻っていった。
「あれが従魔なんですか?」
狩人が呆れたように言った。
「うん。一番最初に仲間になった子だよ」
「……最初に、あれを」
「なんか問題あった?」
「いや。それはすごいと思っただけです」
狩人はそれ以上は言わなかったが、その目がエルクを見る角度が少し変わった。
・・・・・
問題は、午後に起きた。
ラミアの子供たちが水場の近くで遊んでいた。小さなラミアは人間の子供と同じくらいの大きさで、短い蛇の尾をぱたぱたと動かしながら水辺を這い回っている。
若者の一人、ケインが水を汲みに来た。
水場に近づいてから、初めて気づいた。
足元に、小さなラミアがいた。
「っ!」
反射的に身体が動いた。驚いて後ろに跳いた拍子に、ケインの手が子供の肩を押してしまった。
ラミアの子供が転んだ。小さな手のひらを石に打ちつけ、ぎゃっと声を上げる。
水場の近くにいた大人のラミアが立ち上がった。
その動きが速かった。
「今、何をした」
声が低かった。感情を抑えているというより、抑えようとしている声だった。
ケインは青ざめて後ずさった。
「違う、俺は別に……」
「子供が泣いている」
ラミアの声がさらに低くなった。
その音を聞いて、訓練場から戻ってきたリザードマンの戦士が足を止めた。状況を見て、槍の柄に手をかけた。
「待て」
レオルが戦士を制した。しかし彼自身も眉間にしわを寄せてケインを見ていた。
広場の緊張が一気に高まった。
エルクが事態に気づいて足を踏み出した。
その一瞬前だった。
「ちょっと!」
メルが間に入った。
・・・・・
メルはケインの前に立った。ラミアたちにも向き直った。表情は怒っていたが、声は落ち着いていた。落ち着いていたが、怒っていた。
「ケイン、まず謝って。転ばせちゃったんでしょ」
「でも俺は別に」
「わざとじゃなくても、転ばせたのは本当でしょ」
ケインは押し黙った。
その隣で、エネがしゃがみ込んでいた。転んだラミアの子供の傍に寄って、目線を合わせている。
「痛かったね。手、見せてもらえる?」
子供はエネを見た。人間だ。でも、怖い顔をしていない。エネは待った。急かさなかった。
少しの間を置いて、子供が小さな手のひらを差し出した。
擦り傷だった。エネが回復魔法をそっとかける。
「もう大丈夫よ。痛いの、消えた?」
子供がこくんと頷いた。
・・・・・
ラミアが少しだけ表情を緩めた。武器に手をかけていたリザードマンの戦士も、レオルの目配せで手を離した。
ケインはメルに見られたまま、しばらく下を向いていた。
「……ごめん」
小さな声だったが、はっきり聞こえた。
ケインはラミアの子供に向き直り、もう一度言った。
「びっくりして、手が出ちゃった。ごめんなさい」
子供はエネの陰に少し隠れながら、ケインを見た。それから、また小さくこくんとした。
メルがレオルを見た。レオルは腕を組んだまま、短く言った。
「今回はそれで十分だ」
大人のラミアも、ゆっくりと座り直した。
「恐怖は仕方ない。だが、次はない」
その言葉には棘があったが、それ以上は追わなかった。
緊張が、少しずつほどけていった。
・・・・・
広場に人が集まっていた。一部始終を見ていた住民たちが、遠くから様子を見守っていたのだ。
クラウが砦の入り口の板を見た。
最初の法律が書かれた、あの板だ。
六つの決まりの中の一つ。
種族だけで相手を決めつけない。
今日の出来事は、それが試された最初の場面だったかもしれない。完璧な解決ではなかった。ケインは謝ったが、ラミアたちの目にまだ警戒が残っていることは分かった。それでも、誰も傷つけずに終わった。
「エルク」
クラウが隣に立ったエルクに声をかけた。
「さっき、止めに行こうとしたのに先を越されたな」
「そうだね。メルとエネが早かった」
「あの二人はすごいよ。俺じゃ、あそこまで自然に間に入れなかった」
エルクはのんびりと頷いた。
「でも止まってよかったよ。僕が行ったら、ラミアの人たちが余計に緊張しちゃってたかもしれない」
クラウは少し考えてから、「そうかもな」と言った。
・・・・・
夕食は全員で食べた。
人間とリザードマンとラミアが同じ広場に座るのは、今日が初めてではなかったが、イェール村の移住者たちを含めると、これが最初だった。
最初は誰も隣には座らなかった。人間は人間で固まり、リザードマンはリザードマンで、ラミアはラミアで。
でも、食事が進むうちに薬草係の老婆がリザードマンの戦士の隣に腰を下ろした。
「大きいのう。どれくらい食べるんじゃ?」
リザードマンの戦士は、予想外の質問に少し戸惑ったが、「人間の四倍程度だ」と答えた。
「そりゃ大変じゃな。わしに教えてくれるか、何が合う食べ物かを」
それが最初のきっかけだった。
小さな会話が、いくつか生まれた。
全部が解決したわけではなかった。ケインはまだラミアの方を見ることができていなかった。リザードマンの戦士たちも、移住者全員をまだ信用してはいなかった。
でも、食事は終わった。
・・・・・
夜が深まった頃、クラウはエルクの隣に座った。広場に残っていた焚き火が、低く燃えている。
「国を作るって、敵を倒すよりずっと難しいな」
エルクは炎を見ながら言った。
「でも、皆が笑ってる方がいいよね」
クラウは少しの間、黙っていた。
「笑えるようになるまで、どれくらいかかるかな」
「分からないよ。でも、今日あの子供、最後は笑ってたよ」
クラウは焚き火を見た。
「……そうだな」
広場の向こうで、ラミアの子供が母親に抱えられて、人間の居住区の方を一度だけ振り向いてから、自分たちの区画に戻っていった。
その背中が、暗がりに消えた。
明日もこの場所で、同じ朝が来る。
それだけのことが、今日は十分に思えた。




