第91話 砦の過去
ジン爺からの返信が届いたのは、地下の調査から二日後のことだった。
使いの鳥が砦の窓に止まり、クラウが足の小筒から羊皮紙を取り出した。くるりと広げると、中に折りたたまれた別の紙が一緒に入っていた。
「文書と一緒に手紙がある」
クラウが手紙の方を先に読んだ。
文面にはこうあった。
「お主が写し取った紋章、見覚えがあったぞ。これは現王国の以前、辺境に存在した古い国のものだ。詳しくは同封の写しを参照せよ。あの砦は、王国が建てたものではないかもしれん。……気をつけて読め。重い話だ」
「ジン爺が気をつけろって言うのは珍しいな」
ソウが眉を上げた。
「本当に。重い話ってどういうことかしら」
クラウが同封の文書を広げた。古い記録の写しらしく、紙の状態は良いが文字が旧式の書体で読みにくい。クラウがゆっくりと読み始める。
エルクは隣で温かいお茶をすすっていた。
「何て書いてある?」
「今読んでる。……少し待て」
しばらく沈黙が続いた。クラウの視線が文書の上を走る。読み進めるにつれ、その表情が少しずつ固くなっていった。
「クラウ?」
「……エルク。この砦、やっぱり王国が建てたものじゃない」
「そうなの?」
「ああ。現王国が成立するよりずっと昔、ここには別の国があった。辺境の山地を拠点にした、小さな防衛国家だ」
ソウが文書を覗き込んだ。
「どんな国?」
「……モンスターと人間が、共に暮らしていた国だ」
部屋が静かになった。
エルクが湯呑みを置いて、クラウを見た。
「僕たちと同じ?」
「同じかどうかはわからない。でも、この記録を読む限り、その国は人間とモンスターが対立しない形を作ろうとしていた。辺境の地で、種族の垣根を越えた共同体を作ろうとした、という記述がある」
クラウが文書を卓に置いた。
「そして、滅んだ」
・・・・・
「なんで滅んだの」
エルクが静かに聞いた。
クラウは文書の別の部分を指先で追いながら、ゆっくりと答えた。
「理由は一つじゃない。まず、当時の王国との戦争だ。共存の国が辺境で力を持ち始めると、王国側が危険視して圧力をかけてきた。それに対抗するために、国内でも意見が割れた。戦うべきか、和解すべきか。内部の対立が深まっていった」
「それで?」
「それだけでも十分にきつかっただろうが……記録にはもう一つ理由がある」
クラウが一拍置いた。
「悪魔だ」
ソウの目が鋭くなった。
「悪魔が現れたって?」
「ああ。王国との争いが激しくなっていた時期に、悪魔が出現した。記録の詳細は少ない。ただ、その後の記述がほとんど残っていない。つまり、国として機能し続けられなくなったということだ」
沈黙が落ちた。
ソウが腕を組んで、窓の外を見た。
「……王都で悪魔が現れたのも、エルクたちが建国を宣言した直後だった」
「そうね」
「この古い国も、共存の勢力が大きくなったところで悪魔が出た。今回も、同じ流れを踏んでいる」
クラウが静かに言った。
「偶然かもしれない。でも、偶然じゃないかもしれない。悪魔が共存勢力に対して何らかの反応を示しているとしたら」
「それは考えすぎじゃないかしら」
ソウが即座に返したが、声のトーンは否定というよりも確認に近かった。
「考えすぎだといいんだが」
クラウは文書を折りたたんだ。
「とにかく、この砦がどういう場所だったかは分かった。次は、地下の奥を調べる必要があると思う。ゴーレムが守っていた通路の先に、まだ何かあるはずだ」
エルクはお茶を飲み終えて、のんびりとした顔で立ち上がった。
「じゃあ行こうか」
「お前はそういう話を聞いて、何とも思わないのか」
「思うよ。昔の人が同じことをしようとして、うまくいかなかったんでしょ。それは……残念だと思う」
エルクは少しだけ考えてから付け加えた。
「でも、今度はうまくやるしかないじゃない」
クラウは何も言わなかった。
・・・・・
地下への階段を下り、前回止まった地点を過ぎた。停止したゴーレムはそのまま立ち続けており、胸の紋章が暗がりの中でうっすら見えた。
ウーゴとライが先行して奥を確認していた。ライがエルクへ念話を送ってくる。
『エルクさん。奥にさらに通路が続いています。ウーゴさんが行けると言っています』
「ライとウーゴが先にいるって。奥に続きがあるって」
全員でさらに奥へ進んだ。通路は緩やかに下り、やがて広い空間へと開けた。
天井は高く、地下とは思えないほどの広さがあった。ランタンを持ち上げると、壁面に何かが刻まれているのが見えた。
「壁画だ」
クラウが低い声で言った。
ランタンの光を壁に向けると、全体の絵が浮かび上がった。
人間が描かれていた。その隣に、明らかに獣人と分かる存在。さらに、大きな翼を持つ竜。そして、蛇を思わせる長い身体を持つ種族。それぞれが向き合い、中央に向かって歩いているような構図だった。
「一緒に歩いている」
ソウが静かに言った。
「人間とモンスターが、同じ方向に」
「この国の人たちが残したんだ」
エルクが壁画を眺めた。線は素朴だが、長い時間をかけて丁寧に刻まれた跡が分かる。
しかし。
壁画の中央から上部にかけて、描かれた内容が変わっていた。
空に、大きな裂け目が走っていた。
その裂け目から、翼を持つ無数の影が降りてくる絵。影の形は、かつて王都の空を割って現れた悪魔の群れに、似ていた。
「これ……」
クラウの声が低くなった。
そこで、メアがぴたりと動きを止めた。
・・・・・
メアは壁画の前に立ち、一言も発しなかった。
ランタンの光が彼女の横顔を照らしている。その顔が、見る見るうちに青ざめていった。
「メア?」
エルクが横から声をかけた。メアは答えなかった。
魔眼が開かれている。しかし今のメアの目は、未来を見ているわけではなさそうだった。それよりも、壁画そのものに引き寄せられるように、じっと固定されていた。
「メア、大丈夫?」
ソウが一歩近づくと、メアがようやく口を開いた。
「この絵を描いた人たちは……最後に、何を見たのでしょう」
静かな声だった。感情を抑えているような、それでいてぎりぎりのところで踏みとどまっているような声だった。
「この絵の前半は、みんなで歩いている。でも後半は、空が裂けて影が降りてくる。そこで絵が終わっている。この国が終わった、ということです」
「そうだな」
クラウが短く答えた。
「でも、この場所を選んだとき、エルク様たちの誰もそれを知らなかった。だから、この場所が候補に上がった」
「ジン爺が教えてくれた場所だからね」
エルクが頷く。
「……この場所、未来が見えないのではありません。過去が、未来を邪魔しているのです」
メアがゆっくりと壁画に向き直った。
「以前から、この砦に来て以来、不思議だと思っていたことがあります。私の魔眼は、普段ならこの場所に立てば何かしら先の光景が映ります。でも、ここでは何も見えない。最初は、この場所が特別に不安定なのかと思っていました」
「でも、そうじゃなかった?」
「ここを描いた人たちが、同じことをしようとして、ここで終わった。その記憶が、この場所の空気に染みついているんです。たくさんの未来の可能性が、過去の結末に塗り重ねられて」
メアは壁画に手を伸ばした。
指先が、空の裂け目が描かれた部分に触れた。
「この場所、未来が見えないんじゃありません。過去が、未来を邪魔しているんです」
その言葉が、地下の静寂に響いた。
誰も、すぐには答えなかった。
・・・・・
しばらく後、クラウが低い声で言った。
「ここは、かつて失敗した共存の跡地だ」
「そうね」
「だからこそ、俺たちがここにいる意味がある、とも言えるか」
「どういうこと?」
エルクが首を傾げると、クラウは壁画を見上げながら言った。
「偶然じゃない気がする。俺たちがここを選んで、この砦がこういう場所だったというのが、単なる偶然じゃなかったとしたら……ここで一度失敗したことを、俺たちがもう一度やり直すために来たということになる」
「なんかそれ、かっこいい言い方だね」
「茶化すな」
「茶化してないよ。本当にそう思う」
エルクは壁画を見た。歩いている人間とモンスターの絵。空が裂けてそれが終わるまでの絵。
「昔の人がここで失敗したのは、失敗したくてしたわけじゃないよ。それでも終わってしまった。だから、次は終わらないようにするしかない。それだけだよ」
クラウは少し黙ってから、「そうだな」と言った。
「ただ一つ気になるのは」
ソウが腕を組んで言った。
「悪魔が本当に、共存勢力に対して反応しているとしたら。それが偶然ではなく、意図的なものだとしたら。この先も同じことが起きるかもしれない」
「起きるかもしれないね」
エルクはのんびりと頷いた。
「でも、その時はその時だよ。今は、今できることをやるだけじゃないかな」
「能天気すぎる」
「そうかな」
「そうだ。でも」
クラウは壁画から目を離し、エルクを見た。
「その能天気さが、たまに正しいのが腹立つんだよな」
メアが壁から手を離した。
その指先はわずかに震えていたが、表情は、地下に降りてきた時より少しだけ落ち着いていた。
「主様。私は、ここで終わらせないために来ました。最初からそのつもりで。だから、過去が何を見せてきても、それで止まるつもりはありません」
「うん。ありがとう、メア」
エルクが短く言った。
ランタンの炎が揺れた。壁画の上の裂け目は、揺れる光の中でも変わらずそこにあった。しかし、エルクたちの足は、その絵の前からきちんと次へ向いていた。
「上に戻ろう」
クラウが先頭に立って通路に向かった。
全員がその後に続いた。
地下には、停止したゴーレムだけが残った。胸に刻まれた、現王国ではない古い紋章を持ったまま、ただ立ち続けていた。




