第86話 建国作業開始
高い空から差し込む朝の光が、苔むした古い石壁を白く照らしている。
王国の版図から外れ、長い間「空の主」嵐鷲王ゼルガの領域として静止していた古い砦跡は、今、かつてないほどの活気に包まれていた。
「ふわぁ……、よく寝た。やっぱり外の空気は気持ちいいね」
ダクト(プロダクトスライム)が吐き出した簡易テントから這い出し、エルクは大きく伸びをした。
足元では、朝露に濡れた草花を眺めていたスライムのスラが「ぷるぷる」と小さく震えて、エルクの足首にすり寄ってくる。スラから伝わってくる『おなかすいたっス〜』という単純な感情が、エルクの心をのどかに解きほぐしていく。
「エルク! 起きたならぼーっとしてないで、あっちの地盤を固めてくれ。ウーゴが新しい柱を立てるのに、今のままだと土が柔らかすぎるんだ」
朝一番から、クラウの鋭い声が響いた。
彼はすでに広場の中央で、ダクトが吐き出した古い地図を広げ、どの建物を優先的に直すべきか、どの区画をリザードマンやラミアの居住区にするか、頭をフル回転させて指示を出していた。
「地盤? うん、いいよ。どれくらい固めればいい?」
「象が三頭同時に足踏みしても沈まないくらいだ。この砦は高い場所にあるから、もし地滑りでも起きたら一巻の終わりだからな。頼むぞ」
「了解。……えい」
エルクが杖を軽く地面に向けると、膨大な魔力が大地へと流れ込む。
ボコボコと重い地響きが鳴り、柔らかかった土が圧縮され、瞬く間に岩盤のような硬さへと変質していった。
その作業を横で見ていたウッドゴーレムのウーゴが、ズシンと一歩踏み出し、太い木の手を叩き合わせた。
『エルク……助カル。これデ、重イ屋根、支エラレル』
「どういたしまして、ウーゴ。あっちの崩れた石塔も、後で魔法で形を整えておくね」
ウーゴは「コクリ」とゆっくり頷くと、ダクトが吐き出した巨大な木材を片手で軽々と持ち上げた。本来なら数十人の職人が数週間かけて行う作業を、たった一体で黙々とこなしていくその姿は、非常に頼もしかった。
・・・・・
広場の一角では、ソウが一人、黙々と剣の素振りを繰り返していた。
ただの素振りではない。実戦を想定した鋭い踏み込みと、風を斬る重い剣閃。武術科でトップクラスの成績を誇る彼女が流す汗が、朝日にキラキラと光っている。
その様子を、獅子王のライオが少し離れた場所から静かに、だが真剣な眼差しで見つめていた。
『……見事な剣筋だ。我らのような強靭な肉体を持たぬ分、洗練された技術と意志でそれを補おうとしている。彼女は人間の中では相当な修練を積んでいるな』
エルクの脳内に、ライオからの感心したような念話が響いた。
テイマーとその従魔は念話で意思疎通ができるが、それ以外の人間とは会話ができない。特殊なスキルを持たない限り、ライオの言葉はソウには届かないのだ。だからライオは、主であるエルクに向けて戦士としての称賛を伝えてきた。
「うん、ソウは学園でもすっごく強かったんだよ。ライオから見てもすごいの?」
『ああ。技の冴えだけで言えば、敬意に値する動きだ』
エルクがのんびりと答えると、素振りを終えたソウが剣を収め、汗を拭いながらこちらへ歩いてきた。
「ふぅ……。やっぱり、この場所で身体を動かすと集中できるわね」
「お疲れ様、ソウ。今ね、ライオがソウの剣筋はすごいって褒めてたよ」
「あら、本当? 獅子王に褒められるなんて光栄ね」
ソウは嬉しそうに微笑み、ライオの黄金の鬣をそっと撫でた。ライオも嫌がる様子はなく、静かに目を細めている。言葉は通じなくとも、戦士としての敬意は確かに通じ合っているようだった。
「でも、一人で素振りをしてるだけじゃ、実戦の感覚が鈍っちゃいそうだわ。エルクくん、早く村からリザードマンの戦士たちが来てくれないかしら」
「僕のライオやドラゴたちじゃ駄目なの? 練習相手に」
「駄目に決まってるでしょ」
ソウは呆れたように笑い、エルクの額を軽く指で小突いた。
「私がいかに武術科で鍛えてると言っても、ライオたちみたいな最上位のハイモンスターとは圧倒的な実力の差があるわ。もし手合わせなんてしたら、訓練じゃなくて、ただの蹂躙になっちゃうもの。私がまともに鍛錬できるのは、人間か、せいぜい中位のモンスターまでよ」
「そっか。力加減って難しいんだね」
エルクが納得していると、上空を高く旋回していた黒き竜、ドラゴが翼を大きく広げて降りてきた。
『エルク! 向こうの山道、変なやつらはいないのだ! 代わりに、すっごく賑やかな集団が近づいてるのだ!』
ドラゴが翼を畳みながら着地し、鼻息を荒くして報告する。
「賑やかな集団? あ、もしかして……」
エルクが砦の入り口となる壊れた門の方へ視線を向けると、やがて山道を登ってくる一団の姿が見えた。
「エルクーーー! クラウーーー!」
一番前で大きく手を振りながら走ってくるのは、メルだ。
その後ろからは、慎重な足取りのエネと、彼女に付き添うマンティスやバジリスクといった従魔たち。さらに、多くの荷物を背負ったリザードマンの戦士たちと、しなやかに身体をくねらせるラミアたちが続いていた。
「みんな! 無事に着いたんだね!」
エルクが駆け寄ると、メルは勢いそのままにエルクに抱きついた。
「もう! いつまで経っても迎えが来ないから、しびれを切らして村長さんにお願いして、リザードマンのみんなに道案内してもらったんだからね!」
「ごめんごめん、昨日までゼルガとの交渉とかでバタバタしちゃって。でもみんな無事でよかったよ」
「エネちゃんも、バジちゃんたちがこの標高の高さに馴染めるか心配で、一晩中寝てなかったんだから!」
メルの言葉に、エネが少し顔を赤くして俯いた。
「……そ、そんなことないですよ。ただ、ちょっと緊張して……。でも、ここ、すごくいい場所ですね。空が近くて、悪い気配が全然しません」
エネの足元で、バジリスクのバジちゃんが「シュルシュル」と喉を鳴らして周囲の匂いを嗅ぎ、安心したようにエネの影に潜り込んだ。
「よし、全員揃ったな」
クラウが一同を見渡し、満足そうに頷いた。
「これだけの人数がいれば、作業効率は数倍に跳ね上がる。レオル殿、リザードマンの皆さんの居住区は西側の石室を用意しました。少し崩れていますが、エルクの魔法とウーゴの技術があれば、今日中に雨風は凌げるようになります」
「感謝する、クラウ殿。我らも自分たちの家は自分たちで作りたい。力仕事ならいくらでも任せてくれ。……それと、人間の戦士よ。荷解きが終わったら、久々に手合わせを願えるか?」
レオルがソウを見てニヤリと笑うと、ソウも嬉しそうに剣の柄を叩いた。
「ええ、喜んで。体が鈍って仕方なかったところよ」
レオルの号令で、リザードマンの戦士たちが次々と荷物を下ろし、瓦礫の撤去を始めた。ラミアの長もメアと合流し、彼女たちの特技である「感覚」を活かした拠点の安全確認に回ってくれることになった。
正式な拠点の中心として、まずは最も大きな「中央会館」の修復が始まった。
ここはかつて砦の指令部だった場所で、石造りの頑丈な骨組みが残っている。
「エルク、ここの天井を見てくれ。大きな亀裂が入ってるだろ? 僕が魔力で構造を支えるから、エルクは『土操作』で亀裂の隙間を新しい岩で埋めて、完全に一体化させてほしい」
「わかった。やってみるよ。……うーん、これくらいの魔力かな?」
エルクが慎重に魔力を流し込む。
魔法の制御に長けたライのサポートもあり、エルクの膨大な魔力は精密な土魔法へと変換され、脆くなっていた石の天井が新品のように塞がっていく。
『エルクさん。この建物の壁に、私の魔法で「温度調節」の陣を刻み込んでおきます。これだけ広いと、冬は凍えるでしょうから』
ライが小さな杖を器用に動かしながら念話で提案してきた。
「いいね、それ! 夏は涼しくて冬は暖かいお昼寝部屋、最高じゃないか!」
「お昼寝部屋じゃなくて、会議室兼食堂だ! ……まあいい。ライ、頼むよ」
エルクの言葉を通訳されたクラウが、半分諦めたような顔で許可を出し、作業はさらに加速した。
ダクトは広場のあちこちを「ぷるんっ」と跳ね回り、資材が足りない場所へ的確に材料を運んでいく。
ウルフ系の従魔たちは、周辺の森から食材となる木の実や獲物を狩ってきては、メルの指導のもとで食料保管庫へと運び込んだ。
誰もが「自分たちの居場所」を作るために、種族の垣根を超えて協力していた。
その光景は、王都の学園でエルクが思い描いていた「モンスターの国」の縮図そのものだった。
日が傾き始め、空が茜色に染まる頃。
中央会館の屋根が繋がり、広場にはリザードマンたちが手際よく作った巨大な焚き火台が据えられた。
「よし、今日はここまで! みんな、最初の晩餐にしよう!」
エルクの声に、人間もモンスターも、それぞれの歓声や鳴き声で応える。
メルとエネ、そしてラミアたちが協力して作った大鍋料理の匂いが、砦跡を優しく包み込んだ。
エルクは、焚き火の周りでリザードマンとソウが訓練の話をしたり、メアがメルに予知の冗談を言ったりしている光景を、切り株に座ってのんびりと眺めていた。
「……本当に、始まっちゃったね、クラウ」
「ああ。本当に、とんでもないことにな」
隣に座ったクラウが、木のコップに入った温かいスープを啜りながら答えた。その顔は疲れ切っているが、どこか満足げでもあった。
「でもエルク、これはまだ『場所』を確保しただけだ。明日からは本格的に『ルール』を作らなきゃいけない。人間とモンスター、リザードマンにラミア。みんなが不満なく暮らすためには、決めておかなきゃいけないことが山ほどあるんだ」
「ルール、か。あんまり難しいのは嫌だなぁ。みんなが笑って過ごせれば、それでいいのに」
「それが一番難しいんだよ。……例えば、あっちのバジリスクと、あっちのリザードマン。もし食べ物のことで喧嘩をしたら? もし誰かが、相手の種族の癖を不気味に思って傷つけ合ったら?」
クラウの言葉に、エルクは少しだけ真面目な顔をして、焚き火の炎を見つめた。
「……その時は、僕が全力で仲裁するよ。みんな、僕の大事な友達なんだから」
「ははっ、お前なら本当にそうしそうだな。……だが、それを支えるのが俺たちの役割だ」
夜の帳が降り、見上げる空には満天の星が瞬いている。
「空の主」との交渉を乗り越え、ようやく手に入れた安息の地。
しかし、平和な夜の静寂の中で、エルクたちの耳には、不穏な風の音が混じって聞こえた気がした。
南の谷から逃げ帰った採掘隊。彼らが王都へ戻り、この報告をすれば、王国が黙っているはずがない。
「……明日も忙しくなりそうだね」
「ああ。だが、次は誰も『お昼寝の邪魔』はさせないさ」
エルクが小さく笑って目を閉じようとした、その時だった。
『エルクさん。少し、いいですか?』
念話の主は、ライだった。
その声は、いつになく真剣で、どこか困惑を含んでいた。
「ライ? どうしたの?」
『……砦の地下、先ほど言った「地下倉庫」の奥に、奇妙な扉を見つけました。私の魔法でも開けられず、それどころか、魔力を吸い取られているような気がするんです』
エルクの目が、ゆっくりと開いた。
新しい拠点。そこには、王国の遺産だけではない、未知の「何か」がまだ眠っているようだった。




