第85話 砦跡の使用許可
南の谷に立ち込めていた土埃と騒々しい気配が遠ざかり、再び静寂を取り戻した険しい山道を、エルクたち先遣隊は登っていた。
王国の利権を背負った採掘隊を追い払うという、一歩間違えれば国家反逆罪にも等しい大立ち回りを演じた直後だというのに、先頭を歩くエルクの足取りは、まるでお散歩の帰りのように軽やかだった。
「いやぁ、ライオもグリフもすっごくかっこよかったね! あんなに綺麗に武器だけ弾き飛ばせるなんて、毎日ソウと訓練してる成果が出てるよ!」
エルクが振り返って満面の笑みで褒めると、背後を歩いていた二体の強力な従魔から、誇らしげな念話が直接脳内に響いてきた。
『エルク、我の動きに迷いはなかったであろう。主の望む通り、命を奪わずに制圧してみせたぞ』
黄金の鬣を揺らし、王者の風格を漂わせる獅子王のライオが、重厚な声で答える。武人らしく落ち着いた口調の中にも、主から褒められたことへの確かな喜びが滲んでいた。
『キィィッ! オイラも風の魔法で、人間の武器だけ綺麗に吹き飛ばしたッスよ!』
空を飛ぶヘルグリフォンのグリフも、嬉しそうに喉を鳴らしながら念話を送ってくる。少しばかり調子の良いその声に、エルクは「うんうん、二人とも本当にすごかった!」と何度も頷いた。
その和やかな主従のやり取りの後ろで、クラウは深い深い溜息を吐き出しながら、ズキズキと痛むこめかみを揉みほぐしていた。
「お前なぁ……結果的に誰も死ななかったから良かったものの、俺たちのやったことは完全に王国への喧嘩の売り込みだぞ。少しは危機感を持て」
「でもクラウ、あそこで引いたらゼルガとの約束を破ることになるし、何よりこの山の生き物たちが住む場所を失っちゃうじゃないか」
「分かってる。分かってるから俺も腹を括って宣言したんだろ。ただ、胃が痛いってだけだ……」
クラウのぼやきに、隣を歩いていたソウがくすりと笑った。
「クラウもすっかり苦労人体質が板についてきたわね。でも、戦術としては完璧だったわよ。最強のウルとドラゴを温存し、あえて第二前衛のライオの重さとグリフの機動力で『圧倒的な実力差を見せつけながらも殺さない』という選択。あれで採掘隊は、手も足も出ないという恐怖だけを植え付けられて逃げていったわ」
ソウの分析に、同行していたリザードマンの長、レオルも深く頷いた。
「左様。我らモンスターから見ても、あのみね打ちは見事であった。人間という生き物は、力を持てばすぐに他者を蹂躙しようとする。だがお前たちは、その力を『奪わないため』に使った。エルク、お前という人間は本当に底が知れんな」
「そう? 僕はただ、皆でのんびりお昼寝できる静かな場所が欲しいだけだよ」
エルクがいつもの気の抜けた声で笑うと、魔眼のラミアであるメアが、滑らかな蛇の下半身を揺らしながらエルクの傍らに寄り添った。
「主様のその飾らない願いが、こうして多くの運命を束ねているのです。……さあ、間もなく砦跡です。空の主が、私たちをお待ちですよ」
・・・・・
険しい岩場を抜け、一行は再びすり鉢状になった高台――古い砦跡へと帰還した。
崩れかけた最も高い石塔の頂には、すでに空の主である嵐鷲王ゼルガがその巨体を休めていた。彼らが広場に足を踏み入れると、ゼルガは巨大な翼を一度だけ羽ばたかせ、ふわりと広場の中央へと舞い降りた。
着地の風圧だけで周囲の木々が大きく揺れ、凄まじい威圧感が辺りを支配する。だが、その威圧感の中には、先ほどのような突き刺さるような殺意や怒りは含まれていなかった。
『……戻ッタカ、ニンゲンドモ』
ゼルガの念話が、エルクたちの脳裏に直接響き渡る。
「うん! 言われた通り、南の谷を削ってた人たちには帰ってもらったよ」
『分カッテイル。我ハ空ヨリ、貴様ラノ行動ノ全テヲ見テ居ッタ』
ゼルガは、採掘隊が撤退したことをすでに空から確認していた。
巨大な猛禽の瞳が、エルク、クラウ、ソウ、そして彼らに付き従う強力なモンスターたちを順に見つめる。
『貴様ラハ、自ラノ同族デアルニンゲンニ対シテ武器ヲ振ルイナガラ、誰一人トシテソノ命ヲ奪ウコトヲシナカッタ。圧倒的ナ力ヲ持チ、ソレヲ振ルエバ容易ク敵ヲ滅ボセタハズダ。ダガ、ソウハシナカッタ』
ゼルガはエルクたちの行動を真っ直ぐに評価した。力を持つ者が、自らを律して他者の命を尊重する。それは、人間を激しく憎悪していたゼルガにとって、衝撃的な光景だったのだ。
しかし、ゼルガの瞳の奥には、長きにわたって人間に裏切られ続けてきた、深い不信の影がまだ残っていた。
『見事ナ振ル舞イデハアッタ。ダガ……一度守っただけで、信じられるほど我は若くない』
ゼルガは静かに、だが重々しく告げた。
かつての王国軍も、最初は友好的な顔をしてこの地に足を踏み入れた。そして砦を築き、力を蓄えた後に、手のひらを返して周辺の森を焼き払い、ゼルガの巣を落としたのだ。たった一度の善行で、その血塗られた歴史を忘れ去ることなどできるはずがない。
「そうだよね。急に完全に信じてって言っても、無理なのは分かってるよ。僕たちだって、これから時間をかけて証明していくつもりだからさ」
エルクは、ゼルガの疑念を否定せず、真っ直ぐに受け止めた。その誤魔化しのない態度に、ゼルガは短く鼻を鳴らした。
『……ヨカロウ。ソノ言葉、覚エテオクガヨイ。我ハ、コノ砦跡ヲ貴様ラガ使ウコトヲ認メヨウ』
ゼルガは、ついに砦跡の使用を認めることを宣言した。
その言葉に、クラウとソウが小さく安堵の息を吐く。だが、ゼルガの言葉はまだ終わっていなかった。
『ただし条件がある』
ゼルガは一歩前に踏み出し、巨大な嘴をエルクの目線まで下げた。
『一ツ、空の領域を荒らさないこと。二ツ、山の巣を壊さないこと。三ツ、王国軍をここへ招き入れないこと。そして……空のモンスターが助けを求めた時は話を聞くこと』
これが、空の支配者としてゼルガが提示した絶対の条件だった。
どれも、この山に生きる命を守るための切実な願いであり、王国という強大な力から身を守るための防衛線でもあった。
「うん、約束するよ! 空を飛ぶときは気をつけるし、もし王国の人たちが来ても、中には入れないようにする。困ってる子がいたら、いつでもおいでって伝えてよ!」
エルクが迷いなく満面の笑みで答えると、クラウも前に出て、人間側の代表として深々と頭を下げた。
「俺からも約束する。人間側の責任者として、あんたたち空の住人の生活を脅かすような真似は絶対にさせない」
ゼルガは二人の言葉を聞き、じっと沈黙した。
その時だった。エルクの背後に控えていたヘルグリフォンのグリフが、ゆっくりと前に進み出た。
『キィィィッ……』
グリフはゼルガの目の前で、その誇り高い頭を深く下げた 。
それは、同じ空を飛ぶ高位モンスターとしての敬意の表れであり、同時に、一つの強い決意の証明でもあった。
かつて親を人間に殺され、人間に複雑な感情を持っていたグリフ。エルクと出会った当初は反発していた彼も、今ではエルクの従魔として、人間とモンスターの橋渡しをしている。
人間の身勝手さによって家族を奪われる痛みを、グリフはゼルガと同じように知っている。だからこそ、エルクという人間がいかに特別で、いかに信頼に足る存在であるかを、魂の底からの念話に乗せてゼルガへと伝えたのだ。
『空の主、ゼルガ! 僕からもお願いするよ!』
グリフは子供らしい、真っ直ぐで嘘偽りのない声で念話を響かせた。
『人間は僕の親を殺した。だから僕だって人間は嫌いだったし……とても怖い生き物だと思ってた』
『……』
『でもね、エルクは違うんだ! 僕たちを無理やり縛ったりしない! 道具や兵器になんて絶対に見ないんだ! エルクの隣はね、僕たちが心から安心できる、とってもあったかい場所なんだよ!』
グリフの真っ直ぐな想いを受け取ったゼルガは、大きく見開いていた瞳をゆっくりと細めた。同じ空の痛みを分かち合う同胞の言葉に、ゼルガの強張っていた態度がわずかに軟化する。
『……高位ノ魔獣ニ、ソコマデ言ワセルカ。……エルクヨ、貴様ハ本当ニ、奇妙ナニンゲンノヨウダナ』
ゼルガは再び翼を広げ、力強く羽ばたいた。
『我ハ空ヨリ、貴様ラガ作ル「場所」ヲ見守ル。約束ヲ違エヌ限リ、我ガコノ山ノ空ヲ守護シヨウ』
眩い旋風と共に、ゼルガは再び青空の高みへと舞い上がっていった。
空の主から正式に認められた瞬間だった。
これにより、この古い砦跡は、正式にエルクたちの拠点候補となったのである 。
・・・・・
「やったぁ! これで正式にここを使えるね!」
ゼルガの姿が雲の向こうに見えなくなると同時に、エルクが両手を突き上げて歓声を上げた。
「じゃあ、ここを僕たちの国の最初の場所にしよう!」
エルクが嬉しそうに宣言する。
しかし、その無邪気な言葉に対して、すかさずクラウから鋭いツッコミが飛んだ。
「馬鹿! まだ国じゃない。まずは拠点だ」
クラウは即座に訂正する。
国を名乗るには、あまりにも準備が足りていない。住む場所も、食料も、法律も、防衛設備も、何一つ整っていないのだ。ただ土地の使用許可をもらっただけで「国ができた」と喜んでいるエルクに、クラウは呆れ顔を隠せなかった。
「えー? でも拠点って言うより、国って言った方がかっこいいじゃないか」
「かっこよさの問題じゃない! いいか、俺たちにはこれからやることが山積みなんだ。崩れた壁の補修、生活用水の確保、食料の備蓄、ラミアやリザードマンの受け入れ準備……寝る暇もないくらいだぞ」
クラウが指折り数えながら現実的な課題を突きつけると、エルクは「うげぇ」と顔をしかめた。
「そんなにあるの? じゃあ、僕はとりあえずお昼寝の場所を探してくるよ」
「逃げるな! お前も魔法で手伝うんだよ! ……ほら、お前の従魔はもう働き始めてるぞ」
クラウが指差す先では、すでに拠点作りの第一歩が踏み出されていた。
エルクの第八従魔であるウッドゴーレムのウーゴが、ズシンズシンと重い足取りで砦跡の壁へと近づいていく。
ウーゴは苔むした古い石壁に、太い木の手をそっと押し当てた。
『カクニン……ホキョウ、開始シマス』
ウーゴの固有能力である『木生成』と『建築』のスキルが発動する。ズズズッという重低音と共に、ウーゴの腕から無数の木の根が這い出し、崩れた石壁の隙間へと深く伸びていく。石と木が見事に融合し、長い年月で脆くなっていた城壁が、強靭で美しい防壁へと生まれ変わっていくのだ。
『エルクさん。私も、水場を作ります。この泉の魔力脈を整えましょう』
足元では、プチスライムウィザードのライが短い杖を振り、高度な魔法操作で湧き水の浄化と水路の設計を始めていた。
『ダクトも……荷物、出す! ぷるんっ!』
プロダクトスライムのダクトが震え、体内に保管していた大量のテントや建築資材、保存食などを広場の端に次々と吐き出していく。
従魔たちが自発的に働き始める姿を見て、エルクは目を丸くした。
「わぁ、みんなやる気満々だね!」
「当たり前だ。俺たちの居場所を作るんだからな。……よし、ソウは周辺の警戒を頼む。レオル殿とメアは、後から来るメルやエネたち、それに部族の皆が休める場所の区画整理を手伝ってくれ」
「了解したわ。ウルの威圧感を借りて、外周の安全を確保してくる」
「承知した、クラウ殿。我らリザードマンの戦士たちにも、瓦礫の撤去を手伝わせよう」
クラウの的確な指示のもと、全員がそれぞれの役割に向かって動き出す。
誰もが汗を流し、協力し合いながら、何もない廃墟を「自分たちの場所」へと作り変えていく。
エルクは、忙しそうに走り回るクラウや仲間たちの姿を、どこか誇らしげに見つめていた。
「よし! じゃあ僕も、最高のお昼寝用ハンモックを吊るす場所を作るために、いっぱい土魔法を使って地盤を固めるぞー!」
「目的がブレてるが、まあ手伝ってくれるなら何でもいい! ダクトからロープと滑車を出して、あの塔の修理を手伝え!」
「はーい!」
澄み渡る青空の下、王国から見放された古い砦跡に、活気ある声が響き渡る。
ここから、彼らの本格的な拠点作りが始まる。
人間とモンスターが共に笑い、共に生きるための新しい歴史が、静かに、しかし確かな熱を帯びて幕を開けたのだった。




