第75話 空が裂ける時
前回のあらすじ
決勝戦→武術科最強の天才心折れる→空が裂ける
武術科最強の天才・アレンが、戦意を喪失して自ら剣を捨てた。
その信じがたい結末に、闘技場は恐怖と畏怖のどよめきに包まれていた。誰もがエルクという「規格外の存在」を前に、言葉を失っていたのだ。
――ピキッ。
そんな異様な空気を切り裂くように、頭上から奇妙な音が響いた。
まるで、巨大なガラスにヒビが入るような、硬質で不吉な音。
「……え?」
エルクが間の抜けた声を出し、空を見上げる。
闘技場にいる全員の視線が上空へと向かった。
澄み切った王都の青空。
そこに、黒く淀んだ巨大な『亀裂』が走っていた。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、次の瞬間、パラパラと空間そのものが砕け散った。
ポッカリと開いた、底知れぬ深淵の穴。
そこから、おびただしい数の黒い影が、雪崩を打って降り注いできたのだ。
「人間どもを喰らい尽くせェ!!」
蝙蝠の翼、歪な角、そして濃密な死の魔力を放つ異形の化け物たち――悪魔の大軍である。
その群れの中心には、ひときわ巨大で凶悪な魔力を持った『大悪魔』と、それに付き従う『三体の幹部』が空中に浮かび、王都を見下ろして嗤っていた。
「な、なんだあれは!?」
「悪魔だ……! なぜ王都の空に、悪魔の軍勢が!?」
観客席が、一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥った。
数万の観客が出口へと殺到し、怒号と悲鳴が入り乱れる。
「総員、防衛線を張れ!」
来賓席にいた騎士団の面々が剣を抜き放ち、怒号を飛ばす。
しかし、それよりも早く動いた者がいた。学園長であるジン爺だ。
「ほっほっほ! 若者たちの晴れ舞台に泥を塗るとは、感心せんのぅ!」
ジン爺が杖を振るうと、空気が爆発的に膨張し、空中へと一足飛びに舞い上がった。
狙うは、軍勢を率いる大悪魔。
「老いぼれが、我が魔炎に焼かれて死ね!」
大悪魔が放った、一撃で城壁すらドロドロに溶かす漆黒の炎。
しかしジン爺は表情一つ変えず、杖の先から多重の光芒結界を展開してそれをいとも容易く相殺し、さらに高度な光魔法による無数のレーザーで大悪魔を空中の彼方へと押し込んでいく。
大悪魔も瞬時に闇の防壁を展開し、王都の空を揺るがすほどの激しい魔法の応酬が始まった。
「ほう、ワシの光を凌ぐとは。さすがは深淵の主よな」
「ほざけ人間! 貴様の魔力が尽きるのが先か、我の再生が上回るか、試してくれよう!」
普段は飄々としている学園長の、本物の「最強」の一角としての実力。大悪魔はジン爺一人に完全に釘付けにされていた。
だが、大悪魔が抑えられても、三体の幹部と無数の悪魔の群れは王都へと降り注ぐ。
「アレン先輩、下がってて!」
闘技場のフィールドでは、エルクが空間魔法と体術を駆使し、空から降ってくる数十匹の悪魔を次々と蹴り飛ばし、あるいは転移で同士討ちさせていた。
武器を持たないエルクだが、その異常なステータスによる格闘戦は、悪魔の硬い外殻を豆腐のように砕いていく。
(ちょっと数が多いな……。早く片付けないと)
エルクが闘技場内の悪魔の処理に追われていた、その裏側で。
「ギャハハッ! あそこ、人間が密集してて美味そうじゃねえか!」
幹部悪魔の一体が、逃げ遅れた観客が密集するエリアに狙いを定めた。
そこはまさに、クラウたち『モンスターの国研究会』が防衛線を張っていた場所である。
「ちぃっ! こっちに来やがった!」
クラウが剣を抜き、バオムとベルを前に出す。ソウ、メル、エネも魔法や従魔で迎撃態勢を取る。
だが、幹部悪魔が放ったのは、広範囲を無差別に消し飛ばす極大の闇魔力砲だった。
「バオム、最大防御!!」
クラウの絶叫と共に、バオムが分厚い大樹の壁を展開する。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい爆発。
バオムの強固な盾は一撃で粉砕され、その衝撃波がクラウたち研究会のメンバーを容赦なく薙ぎ払った。
「がはっ……!?」
「きゃあぁぁっ!?」
クラウの身体が宙を舞い、血を吐いて石の座席に激突する。
ソウやメル、エネも同様に吹き飛ばされ、血まみれになって倒れ伏した。
闘技場内で悪魔を砕いていたエルクは、その爆発音にビクッと肩を震わせ、振り返った。
「……っ!」
一瞬でクラウたちの元へ「転移」する。
しかし、ほんの僅かに、遅かった。
「……あ、あぁ……エルク……。すま、ねぇ……」
血まみれになったクラウが、掠れた声で呟き、そのまま意識を手放す。
周囲には、ピクリとも動かなくなった仲間たち。
全員、息はある。だが、その命の灯火は今にも消えそうなほどに弱々しかった。
「……ぁ」
エルクの喉から、声にならない音が漏れた。
彼の脳裏から、先程までののんびりとした思考が、真っ白に消し飛んでいく。
『……面倒事は嫌いだ。目立ちたくもない。でも』
『僕の、大切な家族を、傷つける奴は』
――プツン。
エルクの中で、何かが決定的に『切れた』音がした。
その瞬間
固有能力【憤怒】が発動
ゴッ、と。
エルクの身体から、赤黒い、濃密すぎる魔力のオーラが間欠泉のように噴き上がった。
それは、空間そのものを歪ませるほどの、純粋な『殺意』と『破壊』の奔流。
「……みんな。来て」
エルクの声は、地を這うように低く、そして絶対零度のように冷たかった。
エルクが右手を横に薙ぎ払った。
ただそれだけで、闘技場の上空の空間が、悪魔が開けた亀裂よりも遥かに巨大に『裂けた』。
学園の待機区画からの、全従魔の強制転移。
『ガゥゥゥゥッ!!』
『ギャオォォォォォォッ!!』
空間の裂け目から飛び出してきたのは、エルクの【憤怒】に完全に同調し、殺意に瞳を真っ赤に染め上げた規格外のモンスターたち。
「な、なんだアレは!? 竜!? いや、獅子や巨大な狼まで!?」
悪魔の幹部たちが、突如現れた巨大な魔物の群れに驚愕の声を上げる。
「ライオ。観客と、みんなを守って」
エルクの静かな指示。
ズォォォンッ! と、巨大な重戦車のような獅子――ライオが、気絶したクラウたちの前に陣取った。
ライオは分厚い前脚を振り下ろし、襲いかかってきた下級悪魔の群れを、ただの物理的な質量だけでトマトのように次々と叩き潰していく。鉄壁の重前衛。そこを突破できる悪魔など存在しない。
「グリフ。空のゴミを散らして」
『キュィィィィンッ!!』
美しい白銀のグリフォン――グリフが、鼓膜を裂くような鳴き声と共に空へ舞い上がる。
グリフの翼から放たれるのは、空間すら切り裂く無数の『風の刃』。空中の悪魔たちは、何が起きたか理解する間もなく、超高速で飛び回るグリフの機動と風刃によってバラバラに切り刻まれ、黒い雨となって墜落していく。
「スラ。ライ。……あいつ(幹部)を、消して」
クラウたちを攻撃した幹部悪魔を指差し、エルクが命じる。
普段はのんきなスラも、今はドス黒い魔力を纏ってブクブクと泡立っていた。その横にはライが並び立つ。
『ギャハハ! スライム2匹だと? 笑わせ――』
幹部が嘲笑った瞬間、ライの瞳が妖しく光り、幹部の足元に緻密で巨大な魔法陣が展開された。ライの持つ『魔力強化』と『魔法範囲拡大』。
そこに、スラの無尽蔵の魔力も注ぎ込まれる。
『――――ッ!!』
スラの規格外の魔法が、ライの完璧な照準によって暴発することなく一点に収束する。
発動したのは【極大氷結槍】。
幹部悪魔は悲鳴を上げる暇もなく、細胞の芯まで一瞬で絶対零度に凍りつき、直後にスラの体当たりによって粉々に砕け散った。
「ウル」
エルクが、短く名を呼んだ。
次の瞬間、巨大な黒狼――ウルの姿がブレた。
素早さに特化したウルの、リミッターを解除された神速の機動。それはもはや、瞬間移動に等しかった。
「なんだこいつら……がっ!?」
空中に浮かんでいた二体目の幹部が、己の身に何が起きたのか理解する前に、その首から上がウルの凶悪な牙によって文字通り『噛み千切られて』いた。
血飛沫を上げながら、頭を失った幹部の死体が墜落する。
「ドラゴ」
最後に、竜の覇気を纏った黒竜が、巨大な顎を開いた。
標的は、三体目の幹部と、その背後に固まっていた悪魔の群れ。
『――――ッ!!』
放たれたのは、熱すらも超越した純白のブレス。
抵抗など一切許されない。直撃を受けた幹部と数百の悪魔たちは、悲鳴を上げる間もなく、骨の欠片すら残さずに空中で蒸発し、消し炭となった。
たった数十秒。
エルクの従魔たちが現れただけで、三体の幹部と空を覆っていた悪魔の群れは、ほぼ完全に壊滅してしまった。
「ば、馬鹿な……! 我が深淵の軍勢が、ただの魔獣ごときに……!」
空の遥か上空。
ジン爺の光魔法と激しい攻防を繰り広げていた大悪魔が、信じられないというように顔を引き攣らせた。
ジン爺と互角に渡り合うほどの実力を持つ大悪魔の額にも、焦りの汗が滲んでいる。
「ほっほっほ。……おや、どうやらワシの出番は終わりのようじゃな」
ジン爺が、空中で杖を下ろし、すっと道を譲るように後ろへ下がった。
大悪魔が怪訝に思い、振り返った瞬間。
そこには、いつの間にか「転移」で現れた一人の少年が浮遊していた。
エルクだ。
「人間風情がぁぁッ!!」
大悪魔がジン爺との戦いで高めていた極大の闇魔力を、一気にエルクへと叩き込む。
ジン爺の結界すら削り取るほどの漆黒の嵐が、エルクの身体を包み込んだ。
だが、嵐が晴れた後、エルクは瞬き一つせずに無傷で立っていた。常軌を逸した【魔法抵抗】。
「……お前らが、悪いんだ」
エルクの冷たい瞳が大悪魔を射抜く。
次の瞬間、空中で二つの影が激突した。
ズドォォォォォォンッ!!
大悪魔が瞬時に生成した『深淵の巨剣』と、エルクの『素手』が激突し、王都の空に強烈な衝撃波が巻き起こった。雲が吹き飛び、空気が悲鳴を上げる。
「馬鹿な……! 人間の腕力で、我が剣を受け止めるだと!?」
ジン爺と闘い続けるだけの異常な膂力と魔力を持つ大悪魔が、驚愕に目を見開く。
エルクは剣を受け止めた右手に【土魔法】を集中させ、岩のように超硬化させた上で、大悪魔の刃を握り潰した。
【憤怒】によって数倍に跳ね上がったその膂力は、もはや災害である。
「ガアァァァッ!!」
大悪魔が巨体を捻り、暴風のような連続攻撃を仕掛ける。巨大な爪、尻尾、そして至近距離からの魔力弾。
そのすべてが致死の一撃。王都の騎士団長ですら一瞬で塵となる猛攻だ。
だが、エルクは空間魔法による微細な『転移』と、圧倒的な素早さでそれらをすべて捌き切り、大悪魔の懐へと潜り込んだ。
「消えろ」
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
土魔法で超圧縮され、圧倒的な質量を持ったエルクの拳が、大悪魔の胸部に突き刺さる。
強固な魔力障壁が紙屑のように割れ、硬質な外殻が砕け散る。
エルクの拳から放たれた衝撃波が大悪魔の身体を内部から破壊し、巨大な化け物は断末魔の叫びを上げる間もなく、血の雨となって空中に散華した。
ジン爺と互角の死闘を演じた強大な悪魔は、すべてを凌駕する【憤怒】の化身の前に、為す術なく粉砕されたのだった。
・・・・・
静寂。
空を覆っていた悪魔の群れは、一匹残らず消滅した。
闘技場には、悪魔の死骸の山と、血の跡だけが残されている。
「おぉ……」
「助かった……のか?」
死を覚悟した観客たちが、信じられないものを見るように上空を見上げた。
そこには、空中に浮かぶ巨大な黒竜と黒狼。ライオ、グリフ、スラとライ。
そしてその中心で、返り血を浴びたまま、一切の感情を排した冷たい瞳で立ち尽くすエルクの姿があった。
「あれが……エルク……」
武術科の天才アレンも。
王都騎士団の精鋭たちも。
その場にいるすべての人間が、沈黙の中で理解した。
学園長すら手を焼く大悪魔と、空を裂いて現れた軍勢すらも捻り潰す絶対的な力。
彼は、国を救った英雄などではない。
触れてはならない。怒らせてはならない。
人間の理解の範疇を完全に超えた、歩く災害そのもの。
王都中の人間が、エルクという少年を『規格外の存在』として、魂の底から認識し、畏怖した瞬間であった。
読んでいただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。




