第225話 監察官の馬
先頭の男は番所の手前で馬を止めた。
鞍から降りる動きに迷いがなかった。外套の肩には夜道の埃が白く積もっている。手綱を後ろの一騎に渡すと男は柵の前の草地を見渡した。毛布が二枚。巻き取りかけた糸の束。尾を体に巻いた蜥蜴の長。それから最後にエルクを見た。
「エルク殿」
覚えていたより低い声だった。
「……まさか北の柵の前で会うとはな」
「バルドさんだ。久しぶりだね」
後ろの二騎も馬を降りていた。どちらも若い。腰の剣の柄に手を置いたまま、目はエルクではなくレオルを見ていた。
バルドは振り返らずに言った。
「手を離せ」
二人の手が柄の上で止まった。
「あの日のようなことは今日はせん。私の名で言っておく」
若い護衛たちは顔を見合わせてから手を下ろした。片方の指はまだ柄のそばから離れなかった。
番所の戸口から年寄りが出てきた。槍を持ち直して頭を下げる。
「監察官殿。使いは昨日出したばかりで」
「下の町にいた。使いは夜中に着いた。夜のうちに出た」
バルドは番所の脇の台へ目をやった。厚い帳が置いたままになっている。
「竜を見たと聞いた」
「尾根に伏せてるのがそうです」
年寄りは顎で尾根を示した。バルドは尾根の上の黒い盛り上がりをしばらく見ていた。顔つきは変わらなかった。
「……あれが伏せているのか」
「伏せてるよ。降りると鐘が鳴るから」
バルドの目がエルクへ戻ってきた。
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「何をしに来た」
短い問いだった。責める調子はなかった。欄を一つずつ埋めていくときの声だった。
「北に声の来るところがあるんだ」
エルクは北を指さした。尾根の上の、色の抜けたあたりだった。
「見に行きたい。だから番所のおじいさんに訊いて、ここで待ってたよ」
「声とは」
「うちのほうにときどき届く声。どこから来てるのか誰も見てないんだ」
バルドはそれ以上訊かなかった。訊けば話が長くなると分かっている顔だった。
「この柵から北へは監察官の許しが要る。それは聞いたな」
「うん」
「では言っておく。王国の地図はこの柵で終わる」
バルドは柵の石に手を置かなかった。指先は石の少し手前で止まっていた。
「その先の道を王国は持っていない。持っていない道へ人を出して戻らなければ、誰が探しに行く」
「僕たちが自分で戻るよ」
「そう言って戻らなかった話は、どこの番所にもある」
年寄りが戸口で目を伏せた。
空から羽音が降りてきた。
グリフだった。夜明け前から谷の上を北へ渡っていたのが戻ってきたのだ。今度は岩を選ばず、柵の端の杭に降りる。護衛の一人が腰を浮かせた。バルドは片手を上げてそれを止めた。
『石の道は尾根を二つ越えておる。古い』
グリフはエルクだけを見ていた。
『三つ目の尾根で切れておる。崩れておる。下は深い』
「ありがとう。向こう側は?」
『向こうでまた続いておる。その先は白い』
エルクはバルドのほうへ向き直った。
「グリフが見てきてくれたんだ。石の道が尾根を二つ越えてるって。古い道だって。三つ目の尾根で崩れてて下は深い。向こう側でまた続いてて、その先は白いって」
バルドは杭の上のグリフォンを見た。グリフは首を一度だけ傾けて羽をたたみ直した。
「……鳥がそれを言ったのか」
「言ったよ。見たものだけ言う子なんだ」
バルドは何か言いかけてやめた。
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バルドは柵を見たまま長いあいだ黙っていた。
許すとも許さないとも言わなかった。護衛の二人がその背中を窺っている。年寄りは槍の柄を両手で握っていた。
レオルが草地の端から一歩出た。
「監察官」
バルドの目が動いた。
「通さぬと言われたら、我らは別の尾根を越える」
護衛の一人が息を呑んだ。レオルは声の大きさを変えなかった。
「……それも言いに来た」
草地がしんとした。
蜥蜴の長は腕も組まず尾も上げずに立っていた。バルドはその顔から目を離さなかった。
「黙って越えることもできたはずだ」
「できた」
「なぜ言う」
「黙って越えた道は、帰りに使えぬ」
バルドは目を閉じた。開けたときには手が台の上の帳へ伸びていた。
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「許す。条件が二つある」
バルドは帳を開いた。昨日年寄りが書いた行に指を置く。
「一つ。この帳に名を書け。来た者の行は番人が書いた。通る者の行は通る者が書く」
「自分で?」
「自分で書いた名は、あとで違うとは言えん」
エルクは筆を受け取った。年寄りの太い字の下に自分の名を入れる。字は細くて少し左へ傾いた。
レオルが続いた。筆を握る指は太かったが名は一画も崩れなかった。
「従魔の名はエルク殿が書け。……いくつだ」
「ここにいるのが五つ。尾根の竜で六つ」
エルクは名を並べた。ウル。グリフ。ドラゴ。アラーネ。ライと書いて筆が止まった。
「ライは小さいほうしか来てないんだけど」
「来ている者の名を書け」
「じゃあライでいいや。スラは二つ来てて、竜のお腹の下にもいて、家にも峰の肩にもいるんだけど」
筆先を見ていたバルドの目が一瞬だけ遠くなった。
「……一つ書け」
エルクはスラと一つだけ書いた。
尾根の上でメアが動いたのはそのときだった。
日はもう高い。メアは斜面を滑り降りてきて草地の手前で止まった。護衛の二人が今度こそ柄を握った。バルドはそちらを見なかった。メアを見ていた。
「……あの日、あの席にいた者だな」
メアは答えなかった。エルクの手から黙って筆を抜き取った。
「自分で書くって」
メアの字は小さくて揃っていた。書き終えると筆をエルクの手へ戻し、尾根のほうへ下がっていった。
「二つ目」
バルドは帳の余白に指を移した。
「戻ったら、ここで見たものを言え」
「見たもの?」
「見たものだけでいい。私も、見たものしか書かん」
エルクは少し考えた。
「見たものは言うよ」
筆を返しかけた手が止まった。
「……聞いたものは、言わないかもしれない」
護衛の一人が眉を寄せた。バルドは意味を訊かなかった。余白に筆を入れる。エルクの言ったとおりの言葉が言ったとおりの順で並んだ。
筆はそのまま来た所の隣まで動いて止まった。
国の名の欄だった。昨日年寄りが筆を入れなかったところが白いまま残っている。
「空いているな」
「おれが埋める欄じゃねえと思いまして」
年寄りが戸口で首をすくめた。バルドは欄から目を上げなかった。
「辺境共生領は仮の名だったな」
「うん」
「……国の名は、まだ決めておらんのか」
「うん、まだ」
筆はしばらく欄の上にあった。墨が穂先に溜まって落ちかけた。バルドは筆を引いた。
欄は白いままだった。
「王都は、名の無いものを長くは放っておかんぞ」
脅す声ではなかった。山の天気が崩れるのを言う声に近かった。
「そっか」
「そっかで済む話ではない。……私が言えるのはそこまでだ」
バルドは帳を閉じた。表紙に手を置いたままレオルを見た。
「あの日はそちらもあの席にいたな」
「おった」
「あの日の問いには、まだ答えが無い」
レオルはしばらく黙ってバルドを見ていた。
「……無いと言いに来る役人は少ない」
バルドは返事をしなかった。帳を年寄りの手へ戻した。
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柵の石を一枚引いたのは年寄りだった。
古道を塞いでいた石が横へずれて、人ひとりぶんの口が開いた。ゆうべの隙間よりずっと広い。年寄りは引いた石に手を置いたまましばらく動かなかった。
分身の二つがエルクの膝まで跳ね上がった。母親を送っていったほうは夜明けの靄の中を転がって戻ってきていた。
『おいら、ここに残るッス』
『三個目ッス! 小屋と尾根とここッス』
「石垣の上でいい?」
『日が当たるとこがいいッス』
一つが番所の石垣によじ登った。角の丸い石の上で平たくなる。ちょうど年寄りの目の高さだった。
『おじいさんに朝と晩に挨拶するッス。決めたッス』
年寄りは石垣の上の丸いものを見た。
「……何か言ってるのか、そいつは」
「朝と晩に挨拶するって」
「されても返せねえぞ」
「返さなくても、たぶん勝手にするよ」
年寄りは口をへの字にした。追い払いはしなかった。
エルクは尾根に向かって大きく手を振った。
黒い盛り上がりがほどけた。首が上がり翼が体の下から引き出される。広がった影が尾根の背から斜面へ落ちた。
谷の底でまた鐘が鳴りはじめた。
護衛の二人が同時に剣を半分抜いた。
「抜くな」
バルドは声を張らなかった。二本の剣は鞘の口で止まった。
ドラゴは村の屋根の上を通らなかった。谷の縁をなぞるように回って柵の向こうの古道へ降りた。降りる手前で羽ばたきを弱めたので土埃もほとんど立たなかった。
降りてからドラゴは首を低くした。番所の側へは一歩も寄らなかった。
『……また鳴ったのだ』
「鳴ったね。でも今日は降りていいんだよ」
ライの小さいほうがエルクの肩から跳ねた。柵の口を抜けて竜の前脚を伝い、角の付け根の窪みに収まる。
『ここは揺れません。読むのにちょうどいいです』
バルドは柵の口に立って竜を見上げていた。護衛たちは剣を鞘へ戻していたが足は半歩ずつ下がっていた。バルドの足は下がらなかった。
「道が切れるところまでは見る」
「来るの?」
「柵を開けた者が、どこまで通したのか知らんでは書けん」
バルドは馬に戻った。護衛の一人を番所に残し、もう一人を連れて柵の口をくぐった。王国の馬が王国の地図の外へ出ていくのを、年寄りは戸口から黙って見ていた。
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柵の向こうの道には石が敷いてあった。
平たい石が隙間なく並んでいる。どれも角が取れていて、継ぎ目には草が細く生えていた。番所の壁と同じ手だった。蹄が石を打つ音が尾根から返ってくる。
ウルは道に上がらなかった。脇の岩場を自分の足で渡り、ときどき先へ出ては戻ってきた。
ドラゴは道の上をのそのそと歩いていた。尾根を一つ越えるごとに道は細くなる。二つ目の尾根を越えたあたりで翼の付け根が両脇の岩に擦れはじめた。
『狭いのだ』
「飛んでもいいよ」
『ならぬ。皆が歩いておるのに竜だけ飛んだら、竜の道になるのだ』
エルクはドラゴの横顔を見た。ドラゴは前を向いたまま器用に尾を持ち上げて岩を避けた。
アラーネは馬の少し後ろを歩いていた。馬が耳を伏せるたびに足を遅くしている。
「お馬さんに嫌われたくないのよ~」
エルクにだけ届く声だった。バルドは手綱を握ったまま一度もアラーネを振り返らなかった。振り返らないようにしているのが背中で分かった。
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三つ目の尾根の肩で道が消えていた。
敷かれた石が途中からなくなり、その先には何もなかった。崖が道の幅ごとえぐり取られている。覗きこむと底に白いものが溜まっていた。雲なのか雪なのか上からは分からなかった。
向こうの崖の縁で石の道がまた始まっていた。跳んで届く幅ではなかった。
護衛が馬の首を押さえて下がらせた。
「……これは渡れん」
バルドの声は誰に聞かせるものでもなかった。
ウルはもう崖の縁にいなかった。右手の岩場へ回りこんで岩から岩へ渡っていく。黒い背が小さく見えた。足を止めずに登り、下り、また登る。しばらくすると向こうの道の上に黒い影が一つ立った。
「狼は自分の足で行ったか」
「ウルはいつも自分の足なんだ」
ドラゴが崖の縁で背を低くした。
『乗るのだ』
エルクが先に背へ上がった。メアがその後ろに体を巻きつけるように乗った。アラーネは鱗の継ぎ目に糸を二本掛けて体を寄せた。
レオルだけが崖の縁に立っていた。
「レオル」
「……分かっておる」
レオルは崖の底を見下ろした。それから竜の背を見上げた。
「……足では越えられぬ」
「うん」
「今日だけだ」
竜の肩に手をかけてレオルが背へ上がった。鱗が重みで一度沈んだ。
ドラゴが首を回した。
『人は軽いのだ』
尾がゆっくり揺れた。
『蜥蜴の長は少し重いのだ』
「……聞こえておるぞ」
『聞こえるように言うたのだ』
エルクは竜の背で肩を震わせた。後ろでメアが小さく息を漏らした。笑ったのだとエルクには分かった。
翼が開いた。
崖の縁の砂が舞い上がって護衛の馬が首を振った。竜の体が浮く。足の下から地面がなくなり白い底が真下に来た。
渡ったのは息を三つするあいだだった。
ドラゴは向こうの石の道に四本の足を下ろした。爪が石を掻かないようにそっと降りた。
エルクは背の上から振り返った。
崖の向こうにバルドが立っていた。いつの間にか馬を降りている。外套の裾が風に煽られていた。護衛が手綱を引いて何か言っていたがバルドはそちらを見ていなかった。
声が谷を渡ってきた。
「……竜が、人を運ぶのか」
問いではなかった。見たものを言っただけの声だった。
エルクは手を振った。バルドは振り返さなかった。しばらく竜の背を見ていて、それから馬の首を南へ向けた。蹄の音が尾根の向こうへ遠ざかっていった。
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竜の背から降りると足もとが冷たかった。
石の継ぎ目に白いものが貼りついている。指で触れると溶けて水になった。霜だった。夏の昼なのに道の先の石はどれも白く縁取られていた。
息が白くなるほどではない。それでも風が来るたびに首筋がすくんだ。
「寒いわね~。糸が硬くなるわ~」
アラーネが脚を一本ずつ振った。角の付け根から肩へ戻ってきたライの小さいほうが体を縮めた。
『読むのが、また少し遅くなりました』
レオルは竜の背から降りたきり崖のほうを向いていた。
「戻りも竜か」
「戻るまでに考えよう」
「考えて変わる崖ではない」
先の道の上でウルが立ち止まっていた。
鼻を高く上げている。尾は下がっていた。耳だけが北を向いたまま動かなかった。
『主』
いつもより低い声だった。
『北から、群れの匂いだ。狼だ』




