第224話 夜に歩く子
伏せていたウルの耳が先に起きた。それから首が上がった。
『一人、柵へ来る』
鼻先は村の暗がりを向いていた。
『……息が眠っておる』
エルクは毛布の上で体を起こした。音を立てないように膝を立てる。後ろでレオルの尾がほどける気配がした。
足音は畑のあいだの細い道をまっすぐ来ていた。急いでいない。迷ってもいない。草を踏むたびに同じ長さの間があった。
灯りの消えた屋根の陰から小さな影が出てきた。
女の子だった。ノノより少し大きいくらいだろうか。寝間着の裾が膝のあたりで揺れている。髪は片側だけ寝癖で潰れていた。
目は開いていた。
開いているのに何も見ていなかった。番所の灯りの前を通っても瞬き一つしない。エルクたちの毛布のそばを過ぎても顔はこちらへ向かなかった。北だけを見ていた。
女の子は柵の前で止まった。
ちょうど隙間の正面だった。北を向いたまましばらく立っている。肩も手も動かない。風が寝間着の裾だけを揺らした。
それからまた一歩出た。
エルクの隣でアラーネの脚がそっと伸びた。
「エルク。あの隙間の向こうね~」
糸を弾く音よりも小さな声だった。
「何歩か先で地面が切れてるのよ~。夕方に測ったわ~。下は糸が届かないくらい深いのよ~」
「……うん」
エルクは立ち上がりかけてやめた。
抱えて連れ戻すだけなら簡単だった。走ればすぐに届く。けれど目を開けたまま眠っている子を急に抱えたらどうなるのか、エルクには分からなかった。
「止められる? 起こさないで」
「任せなさいよ~」
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アラーネはもう動いていた。
八本の脚が草の上を音もなく渡っていく。女の子の横をすり抜けて隙間の手前へ回りこんだ。脚の先から糸が出る。一本目は地面すれすれに張った。二本目は膝の高さに、三本目は胸の高さに張った。糸の端は草の根と自分の脚に留めてある。柵の石には一本も触れていなかった。
張った糸の上にまた糸が重なっていく。見る間に隙間の前へ白っぽい網が一枚できた。網はたるんでいて、風が来るとふわりとふくらんだ。
「弾む糸よ~。硬く張るとぶつかったときに痛いのよ~」
女の子が網に胸から入った。
糸がゆっくり沈んだ。前へ傾いた体を網が受け止める。足は地面から離れていない。転びもしなかった。網は押されたぶんだけ押し返して、女の子をそっと元の場所へ戻した。
女の子はまた一歩出た。また網に入って戻された。
三度目で足が止まった。
北を向いたまま網に寄りかかって立っている。開いた目はやはり何も見ていなかった。
アラーネは網の端を脚で押さえたまま首だけをエルクへ回した。
「起こさないのよ~。眠ってる子は驚かせると転ぶのよ~」
「転んだら起きちゃう?」
「起きて、自分がどこにいるか分からなくて暴れるの~。ここで暴れたら網じゃ足りないわ~」
エルクは網の後ろの暗がりを見た。隙間の向こうに何があるのかはやはり見えなかった。
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番所の戸口で灯りが揺れた。
年寄りが槍を手に出てきた。白い髭の片側が潰れている。柱にもたれてうたた寝をしていたらしい。網と女の子を見て足が止まった。
「……下の家の子だ」
かすれた声がさらにかすれていた。
「前にも一度、柵の前で見つけた。担いで帰した」
「この子、そのあとも来てたの?」
「知らねえ。おれが見つけたのは一度だ」
年寄りは網に灯りを向けた。
「何だ、そりゃ」
「糸。アラーネが張ったんだ。柵には触ってないよ」
年寄りは網の端を照らして黙った。糸が草の根に留まっているのを見たのだ。
「おれが担いで帰す」
年寄りは槍を戸口に立て掛けた。左の足をかばいながら網のほうへ寄ってくる。
「待って」
エルクは年寄りの前に手を出した。
「担がないであげて。起きると転ぶんだって」
「この前は転ばなかった」
「担いで帰した子が、また来てるでしょ」
年寄りは答えなかった。網の中の女の子を見て、自分の手を見た。
「お母さん、いる?」
「……いる。下の家だ」
「呼んでほしいんだ」
年寄りは自分の左足を見下ろした。それから谷の下手を見た。下の家までは畑をいくつか越える。
エルクの足もとで分身が二つ弾んだ。
『おいらが行くッス』
『足跡を逆に転がれば家に着くッス』
「一つだけでいいよ。もう一つはここにいて」
『一つで足りるッス!』
分身の一つが草の上を転がり出した。女の子の来た道を、来たのとは逆の向きにたどっていく。暗い畑のあいだで白っぽい丸がすぐに小さくなった。
年寄りがその背を目で追った。
「……あれは何しに行った」
「お母さんを迎えに。言葉は通じないけど、転がってるのは見えるから」
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待つあいだ、レオルは網から少し離れたところに立っていた。
尾を地面に下ろしたまま女の子の背を見ている。女の子はときどき網に体を預け直した。そのたびに糸が小さく鳴った。
エルクの肩に乗ったライの小さいほうは、さっきから一度も震えていなかった。体の色がいつもより少し薄い。読もうとしているのか、ただ見ているのか、エルクには分からなかった。
柵の向こうは暗かった。尾根も峰も見えない。女の子の目だけがそちらを向いていた。
エルクは同じほうを見ないようにした。
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畑のあいだに灯りが一つ揺れた。
手燭を持った女が駆けてくる。裸足だった。その足もとを白っぽい丸いものが転がっていた。女が速くなると丸いものも速くなる。曲がり角では先に曲がって待っている。女はそれが何なのかを見ていなかった。転がるほうへ走っていた。
『こっちッス! もうちょっとッス!』
女には聞こえていない。それでも足はちゃんとついてきていた。
女は網の前で手燭を落としかけた。
「この子は……!」
声が裏返った。網に飛びつこうとして、八本脚の影に気づいて一度だけ固まる。それでも止まらなかった。娘の肩をつかんで揺すろうとした。
「何してんだい、こんな夜中に! 起きな!」
「待って」
エルクの声は大きくなかった。女の手が肩の上で止まった。
「揺すらないで。起こすと転ぶんだって」
「あんた誰だい」
「山の向こうから来たんだ。今夜は柵の外で寝かせてもらってて」
女はエルクを見て網を見て、また娘を見た。肩をつかんだ指が震えていた。
「毎晩なんだよ。叱っても戸に棒を渡しても、気がつくと寝床が空なんだ」
「うん」
「叱らなきゃ、また……」
「手、にぎってあげて」
女の口が開いたまま止まった。
「揺すらないで。叱らないで。手だけ」
女はしばらくエルクの顔を見ていた。それから肩の手をゆっくり下ろした。娘の右手は網の糸に軽く掛かっている。女はその手を両手で包んだ。
何も起きなかった。
女の子は北を向いたままだった。女は手を握ったまま唇を噛んだ。
番所の戸口から年寄りの声がした。
「手ぇにぎったくらいで止まるもんか」
女は振り返らなかった。手を放しもしなかった。
しばらくして女の子の肩から力が抜けた。
北を向いていた顔がほんの少しだけ横へ傾いた。母親の手のあるほうだった。網に預けていた体が母親の側へ寄っていく。目はまだ開いている。けれどもう北は見ていなかった。
アラーネが網の糸を端から一本ずつゆるめた。女の子は母親の腕に寄りかかってそこで止まった。
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女の子の唇が動いた。
「……きこえた」
ほとんど息だった。何が、とは言わなかった。開いていた目がゆっくり閉じた。
母親が娘の顔を覗きこんだ。
「何がだい。何が聞こえたんだい」
「今は訊かないであげて」
エルクは女の子の閉じた目を見ていた。
「起きたら、何が聞こえたか言ってもらって。言えたら、聞いたよって言ってあげて」
「……それで止まるのかい」
「分かんない。止まらない夜もあると思う」
母親の眉が寄った。エルクは困ったように頭を掻いた。
「うちではね、こうしてるんだ」
少しだけ間を置いた。
「聞こえても、繰り返さない。聞いたら、聞いたと言う」
母親は口の中でそれをなぞった。声にはならなかった。
「それとね。うちの小さい子が最初に教えてくれたことがあるんだ」
「小さい子?」
「となりの子の手をにぎる」
母親は自分の手の中の娘の手を見下ろした。
「……今やってるじゃないか」
「うん。今やってるね」
網から離れたところでレオルが小さく息を吐いた。
「人の子にも、同じ手が要るか」
母親がびくりとそちらを見た。蜥蜴の長は尾を地面に下ろしたまま動かなかった。母親は何も言わずに娘を抱き直した。
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母親は娘を抱いて帰ろうとはしなかった。
「動かしたら起きそうでね」
番所の脇の草地に腰を下ろす。娘の頭を膝に載せた。手は握ったままだった。エルクが自分の毛布を差し出すと、母親は黙って受け取って娘の肩に掛けた。
年寄りは戸口の柱にもたれてそれをずっと見ていた。槍には手を伸ばさなかった。
ウルは草地の端へ戻って伏せた。耳だけが村のほうへ立っている。
『ほかの足は来ぬ』
「うん。ありがとう」
迎えに行った分身はいつの間にか母親の足もとに収まっていた。体の端が母親の足の指にくっついている。母親は払いのけなかった。気づいていないのかもしれなかった。
『足が冷てえッス。あっためてるッス』
エルクは小さく笑った。
尾根を見上げた。ドラゴの影は日暮れから同じ形のままそこにあった。首も翼も持ち上がっていない。今夜は鐘が一度も鳴らなかった。
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空の端が白みかけたころ、草の上を細長い影が下りてきた。
メアだった。番所の灯りの届かない縁を選んで滑ってくる。年寄りは柱にもたれたまま顎を胸に落としていた。母親も娘の上へかがみこんで目を閉じている。
「主様。上から見ていました」
メアの声はエルクにしか届かない低さだった。
「下りてきて平気?」
「まだ誰も起きていません。すぐ戻ります」
メアは柵の前の土に顔を近づけた。女の子が立ち止まっていたところだった。しばらく目を閉じていた。
「呼ばれて、待つ足です」
エルクは黙って続きを待った。
「……前の夜も、その前の夜も、同じところで待っています」
「番所のおじいさんは、一度しか見てないって」
「見られていない夜のほうが多いです。柵まで来て、待って、帰っています」
メアはそれから草地の母親のほうへ目をやった。娘の手はまだ母親の手の中にあった。
「今夜の足は、待つのを途中でやめています」
それだけ言うとメアは尾を引いて斜面を戻っていった。灯りの届かない縁を選んで、来たときと同じ道を通った。
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夜が明けた。
谷の底に最初の煙が一本立った。母親は娘を抱き上げて年寄りに頭を下げた。エルクにも下げた。何か言いかけて、結局は言わずにもう一度頭を下げた。
娘はまだ眠っていた。母親の首に回した腕が片方だけ垂れている。その手を母親が下から支えていた。
アラーネはゆるめた網を一本ずつ巻き取っていた。
「よく寝る子ね~。うちの妹より寝つきがいいわ~」
年寄りは母子の背が畑の向こうへ消えるまで見送っていた。それから戸口の柱から背を離した。
「……一晩止まっただけだ」
「うん。一晩だね」
年寄りは鼻を鳴らした。それきり槍を取りに中へ入った。
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谷の下手で硬い音が鳴った。
石を打つ音だった。間を置いて同じ音が重なる。一つではなかった。
ウルが顔を上げた。
『蹄だ。三つ』
朝靄の底から馬が三騎上がってきた。先頭の男は外套の裾を鞍に掛けて手綱を引いている。後ろの二騎は腰に剣を吊っていた。
番所の戸口で年寄りが目をむいた。
「……早え。使いは昨日出したばっかりだぞ」
先頭の馬が靄を抜けた。朝の光の中に引き締まった顎が出た。
レオルがエルクの隣で目を細めた。
「……あの日の監察官か」




