第223話 番所の柵
小屋の戸口をくぐると白いものが膝のあたりまで寄ってきた。
靄だった。肩の窪みいっぱいに溜まって、庇の下の荷の袋まで湿らせている。吸いこんだ息が喉の奥で冷えた。
屋根の上ではウーゴが板を一枚ずつ手のひらで押さえていた。夜のうちに反ったところがあるらしい。
「イタ、ソッタ。ヨル、ツメタイ」
「直りそう?」
「ナオス。モドル、マデ」
ウーゴは押さえた板の端から細い枝を一本伸ばして隣の板へ絡ませた。反りはそれで戻った。
庇の下ではダクトが袋の口を一つずつ締め直していた。ゆうべ開けた干し肉の袋だけが少し痩せている。
「減ったぶんは私が覚えておきますぞ。お戻りの日に、残りをそのまま申し上げますからな」
ダクトの足もとでは分身が平たくなっていた。ゆうべ置いていった一つだ。
『寒いから薄くなってるだけッス。ちゃんと起きてるッス』
「うん。ここ、お願いね」
『任されたッス。荷の匂い嗅ぎに来る獣がいたら、おいらが上に乗っかるッス』
ダクトは黙って袋の脇を少し空けた。分身はそこへ転がりこんだ。
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靄が切れたのは日がだいぶ高くなってからだった。
北へ下る斜面の先に谷が開けた。底に屋根が寄り集まっている。ゆうべ灯りの見えたあたりだった。細い煙が三本立ちのぼり、畑の緑が屋根のまわりを縫うように広がっていた。
村の北の外れを灰色の線が一本横切っていた。
石を積んだ低い柵だった。谷を北へ抜けていく古い道を、柵はちょうど真横から断っている。道の脇には小屋が一つ寄り添っていた。柵の向こうでも道は続いていて、その先は尾根へ上がり、尾根の上は白かった。
「あれがグリフの見た煙だね」
レオルは斜面の下を見たまま頷いた。
中ほどまで下りたところでドラゴが翼を広げた。
『坂は腹が擦れるのだ。先にあの尾根で待っておる』
止める間もなかった。黒い影は斜面の上を滑るように渡り、村を見下ろす尾根の背へ降りた。
谷の底で鐘が鳴りはじめた。
一つ鳴って間を置かずに次が鳴った。屋根のあいだを小さな人影が走っていく。戸の閉まる音が斜面の上まで届いてきた。
尾根の上でドラゴが首を縮めた。
『……見られたのだ』
「見られたね」
エルクたちが尾根に着いても鐘はまだ鳴っていた。ドラゴは腹を岩につけ、首も尾も背より低く寝かせていた。翼はたたんだうえに体の下へ押しこんである。それでも尾根の上でいちばん大きいのはドラゴだった。
『我はここで伏せておる。降りれば鐘がもっと鳴るのだ』
「うん。ここにいて」
メアはドラゴの肩の影へ体を滑りこませた。
「私もここにいます。人の村に私の顔は早すぎます」
「早すぎる?」
「先に主様の顔を覚えてもらうほうがいいです」
分身の一つがドラゴの腹の下へ潜りこんだ。
『二個目はここッス! 竜の腹の下は風が来ねえッス』
『いいッスねえ、そこ』
『早い者勝ちッス』
残った二つはエルクの足もとでしばらく弾んでいたが、やがて静かになった。
ウルは尾根の陰の岩に体を伏せた。
『我は日が落ちるまで出ぬ。呼べば行く』
アラーネも同じ岩の陰で脚をたたんだ。
「私も待つわ~。脚が八本あると、人はだいたい叫ぶのよ~」
エルクは空のグリフに手を振った。
「村のまわり、見てきてくれる? 上からだけでいいから」
『上からだけだ』
グリフは村の真上を通らずに谷の縁を高く回っていった。
レオルがエルクの横に立った。
「二人で行くか」
「うん。隠れないで行こう」
エルクの肩でライの小さいほうが縁を少し持ち上げた。
『私は数に入りますか』
「入れたら三人だね。でも小さいから、たぶん数えてもらえないよ」
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谷へ下りる道は村の端をかすめて柵のすぐ手前で古い道に出た。
番所の前に年寄りが一人立っていた。
古い革の胸当てをつけて槍の石突きを地面に立てている。白い無精ひげが顎を覆っていた。左の足を少しかばう立ち方だった。鐘はいつの間にか止んでいた。
「止まれ」
声はかすれていたが大きかった。
「そこでいい。それ以上来るな」
エルクは足を止めて両手を体の前に出した。何も持っていないのを見せた。
「峰の向こうから来たんだ。北に行きたくて。通っていいか訊きに来たよ」
年寄りの目がエルクの顔からレオルへ動いた。槍を握る指に力が入るのが見えた。
「……蜥蜴の兵隊を連れてか」
「兵ではない」
レオルは腕も組まずに立っていた。尾も地面に下ろしたままだった。
「リザードマンの長、レオルだ。今日はこの者の連れだ」
「長だろうが何だろうが」
年寄りは尾根のほうへ顎をしゃくった。
「さっきあそこに降りたのは何だ」
「ドラゴ。竜なんだ。降りてくると鐘がもっと鳴るから、あそこで伏せてるって」
「……竜が鐘の心配をするのか」
「するよ。さっきもちょっと落ちこんでた」
年寄りはしばらく黙っていた。それから地面に唾を吐いた。
「竜を連れて来て、通っていいかもねえだろう」
「うん。だから訊きに来たんだ」
エルクは手を下ろさなかった。
「黙って通ったら、あとから訊いても遅いでしょ」
年寄りは槍を立てたまま番所の戸口へ半歩下がった。
「ここはトゥルカだ。王国の北の端の村だ。この柵から北へは監察官の許しが要る」
「監察官?」
「おれが開けていい柵じゃねえってことだ」
年寄りは谷の下手を振り返った。
「竜を見たら町へ使いを出す決まりになってる。もう出した。監察官が来るまで、あんたらはここで待て」
「待つよ」
答えが早すぎたのか年寄りは眉を寄せた。
「……何日かかるか分からねえぞ」
「うん。待つ」
レオルが小さく鼻を鳴らした。笑ったのかどうかはエルクにも分からなかった。
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年寄りは番所の中から厚い帳を一冊持ち出してきた。
表紙の革は擦り切れて角が丸くなっていた。戸口の脇の台に置いて開く。どの頁にも同じ形の欄が並んでいた。来た日。来た者。来た所。行き先。
筆が最初の行に入った。
「峰の向こうの者。二人と竜一頭」
年寄りは声に出しながら書いた。字は太くて少し右へ傾いていた。
「名は」
「エルク」
「レオルだ」
二つの名を書いてから筆が止まった。
「来た所は。峰の向こう、じゃ書けねえ」
「辺境共生領って呼んでるよ」
筆の先が持ち上がった。
「……聞いたことはある。峰の向こうで魔物と一緒に住んでる連中がいるって話だ。下の町から上がってきてた」
「それ、たぶんうちだ」
年寄りは来た所の欄に辺境共生領と書いた。一字ずつ確かめるような書き方だった。
その隣の欄で筆がまた止まった。
「ここは国の名だ」
年寄りは帳から目を上げた。
「共生領ってのは国の名か」
エルクは少しだけ考えた。
「……仮の名前なんだ。国の名前は、まだ決めてないんだ」
年寄りは長いあいだエルクを見ていた。それから帳に目を落とし、その欄には筆を入れずに次へ移った。
「空けとく。おれが埋める欄じゃねえ」
行き先の欄には北とだけ書いた。
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帳を閉じるあいだ、エルクは番所の壁にもたれて待った。
壁は柵の端とひと続きになっていた。灰色の石が隙間なく積まれている。どの石も角が丸く削れていて、表に細かな苔が貼りついていた。
ライの小さいほうがエルクの腕を伝って下りた。壁の石の継ぎ目へ体の縁を当てる。
「おい。それは何だ」
「スライム。小さいほうなんだ」
「小さいほうって何だ」
ライは継ぎ目からしばらく離れなかった。体の色が少しだけ濃くなった。
『この石は、家の地下と同じ手で積んであります』
エルクは壁を見直した。言われてみれば角の落とし方が同じだった。家の段の下の古い石も、こんなふうに丸く欠けている。
「この柵の積み方、うちの地下の古い石と同じなんだって」
年寄りは帳を脇に抱えたまま壁を見た。
「……じいさんの代から言われてる。王国より古い柵だってな。誰が積んだのかは誰も知らねえ」
「そっか」
レオルが壁の上の石を一つ見上げた。何も言わなかった。家の地下の石を積んだのは、王国ができるよりずっと前の国だ。エルクもそれは口に出さなかった。
年寄りは槍の先で番所の脇の草地を示した。
「村には入れねえ。寝るならそこだ。柵には寄るな。触るな」
「ありがとう」
エルクはそれから少し言いにくそうに付け足した。
「あのね。あと何人か、尾根にいるんだけど」
「……まだいるのか」
「狼が一頭と、糸の子が一人。日が落ちたら呼んでいい? あと鳥が一羽、さっきから谷の上を回ってるよ」
年寄りの口が開いたまましばらく閉じなかった。
「……竜よりは小せえんだろうな」
「みんな竜よりは小さいよ」
年寄りは槍の柄で自分の膝を一度叩いた。返事はそれだけだった。
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昼を過ぎたころグリフが谷の縁から戻ってきた。
番所の屋根は避けて草地の端の岩に降りた。年寄りが戸口で槍を持ち直した。グリフはそちらへは首を向けなかった。
『家は二十と少し。柵は一つ。北の道は柵の向こうで続いておる』
「村の人は?」
『畑に出ておった者は戻った。戸は閉まっておる。窓から覗いておるのが何人か』
グリフは翼をたたみ直した。
『柵の向こうの道は尾根へ上がる。上は白い。白の中で道は見えなくなる』
エルクは柵の向こうの尾根を見上げた。昼の光の中でもそこだけ色が抜けていた。
「ありがとう。尾根に戻ってていいよ。ドラゴが一人で落ちこんでるかもしれないから」
『落ちこんではおらん。伏せておるだけだ』
そう言いながらもグリフは尾根のほうへ飛んでいった。
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日が西の峰に掛かると谷の底はすぐに青くなった。
エルクは尾根へ向かって手を振った。しばらくして岩の陰から黒い影が一つ下りてきた。斜面の草をほとんど揺らさずに来て、草地の手前で止まる。
番所の戸口で年寄りが息を呑んだ。
「……狼ってのは、それか」
「ウル。いちばん古い仲間なんだ」
ウルの後ろからアラーネが下りてきた。八本の脚が斜面の石を一つも落とさずに渡ってくる。年寄りは今度は息を呑まなかった。槍を握ったまま一歩だけ戸口の内へ入った。
「叫ばなかったわね~。強い人ね~」
アラーネはエルクのそばで小さく言った。
ウルは草地へは入らなかった。
柵に触れない幅を保って鼻先を土へ近づけ、端から端まで歩いていく。途中で一度止まり、同じところを二度嗅いだ。それから戻ってきた。
『裸足の跡だ。北へ向いて、柵で止まって、そこで回っておる』
ウルの声は低かった。
『……眠った足だ』
エルクは柵の前の土を見た。暗くなりかけた地面には何も見えなかった。
年寄りのほうへ向き直る。
「ウルがね。柵の前に裸足の跡があるって。北を向いて来て、柵で止まって、そこでぐるぐる回ってるって」
年寄りの顔から色が引いた。
「眠ったままの足だって」
槍の石突きが地面を擦った。年寄りは柵を見てウルを見て、最後にエルクを見た。
「……誰に聞いた」
「ウルに。今」
「村の誰かが喋ったんじゃねえのか」
「誰とも話してないよ。ずっとここにいたでしょ」
年寄りは口を閉じた。番所の戸口の柱に背を預ける。槍は立てたままだった。
「よそ者にする話じゃねえと思ってた」
声がさっきより低くなっていた。
「眠ったまま歩くんだ。柵で止まって、朝には覚えてねえ。昔からときどきあった。この夏は多い」
「どこへ行こうとしてるの」
「北だ。決まって北だ。なんで北なのかは、歩いてる当人も知らねえ」
年寄りは柵の向こうの尾根を見上げた。
「この柵はな。北から来るもんを止める柵だと、おれは若い時分に教わった。……番に立ってみたら、止めてるのは村の中から出ていく足のほうだった」
レオルが草地の端で顔を北へ向けた。エルクも同じほうを見た。尾根の白はもう暗がりに沈んでいた。
北と聞いたとき、胸の底で何かが一つ鳴った。エルクはそれを口に出さなかった。
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アラーネは柵から少し離れたところに糸を一本渡していた。
地面すれすれに柵と並べて端から端まで張ってある。糸は柵の石に一度も触れていない。アラーネはその糸を脚の先でつま弾きながら歩いていた。
真ん中より少し村寄りで脚が止まった。
「ここだけ広いわね~」
エルクがそばへ寄るとアラーネは柵の一か所を顎で示した。石と石を留めていたらしい古い金具が一つ、根もとから外れて草に埋もれている。そこだけ石が外へ傾いて隙間ができていた。
「子どもなら通れる幅よ~。大人は肩がつかえるわね~」
「……そっか」
エルクは隙間の前にしばらく立っていた。隙間の向こうは暗くて、古い道がどこへ続いているのかもう見えなかった。
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夜は番所の脇の草地で寝た。
番所の中には灯りが一つ点いていた。戸は開けたままだった。ときどき槍の石突きが床を打つ音がする。眠っているのか起きているのか外からは分からなかった。
ウルは草地の端に伏せて名を聞いた。エルクが言い、レオルが言い、アラーネが言った。ライの小さいほうと二つの分身も順に言った。
尾根の上からは名が来なかった。ドラゴとメアとグリフと、竜の腹の下の一つだ。
『尾根の四つは尾根におる。そう入れた』
番所の戸口から年寄りの声がした。
「狼に何をぼそぼそ言ってる」
「名前。毎晩聞いてくれるんだ」
「……狼がか」
「狼がだよ」
それきり年寄りは何も訊いてこなかった。
エルクは隙間の見える場所に毛布を敷いた。レオルはその少し後ろで尾を体に巻いて横になった。
「訊いて、待つことにしたな」
「うん」
「柵の番が、柵は自分では開けられぬと言うた」
レオルは目を閉じたまま続けた。
「……正直な番だ」
エルクは仰向けになった。谷の空は家で見るより星が多かった。尾根の上にドラゴの影が黒く盛り上がっている。日が落ちてから一度も形を変えていなかった。鐘も二度とは鳴らなかった。
村の灯りが一つずつ消えていった。
最後の一つが消えてしばらくしたころだった。
ウルの耳が立った。
草を踏む音がした。村のほうからだった。軽くて間が長い。靴の音ではなかった。
裸足の小さな足音が一つ、柵へ向かって来ていた。




