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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第九部・北の門への調査行編
227/233

第223話 番所の柵

 小屋の戸口をくぐると白いものが膝のあたりまで寄ってきた。


 靄だった。肩の窪みいっぱいに溜まって、庇の下の荷の袋まで湿らせている。吸いこんだ息が喉の奥で冷えた。


 屋根の上ではウーゴが板を一枚ずつ手のひらで押さえていた。夜のうちに反ったところがあるらしい。


「イタ、ソッタ。ヨル、ツメタイ」


「直りそう?」


「ナオス。モドル、マデ」


 ウーゴは押さえた板の端から細い枝を一本伸ばして隣の板へ絡ませた。反りはそれで戻った。


 庇の下ではダクトが袋の口を一つずつ締め直していた。ゆうべ開けた干し肉の袋だけが少し痩せている。


「減ったぶんは私が覚えておきますぞ。お戻りの日に、残りをそのまま申し上げますからな」


 ダクトの足もとでは分身が平たくなっていた。ゆうべ置いていった一つだ。


『寒いから薄くなってるだけッス。ちゃんと起きてるッス』


「うん。ここ、お願いね」


『任されたッス。荷の匂い嗅ぎに来る獣がいたら、おいらが上に乗っかるッス』


 ダクトは黙って袋の脇を少し空けた。分身はそこへ転がりこんだ。


---


 靄が切れたのは日がだいぶ高くなってからだった。


 北へ下る斜面の先に谷が開けた。底に屋根が寄り集まっている。ゆうべ灯りの見えたあたりだった。細い煙が三本立ちのぼり、畑の緑が屋根のまわりを縫うように広がっていた。


 村の北の外れを灰色の線が一本横切っていた。


 石を積んだ低い柵だった。谷を北へ抜けていく古い道を、柵はちょうど真横から断っている。道の脇には小屋が一つ寄り添っていた。柵の向こうでも道は続いていて、その先は尾根へ上がり、尾根の上は白かった。


「あれがグリフの見た煙だね」


 レオルは斜面の下を見たまま頷いた。


 中ほどまで下りたところでドラゴが翼を広げた。


『坂は腹が擦れるのだ。先にあの尾根で待っておる』


 止める間もなかった。黒い影は斜面の上を滑るように渡り、村を見下ろす尾根の背へ降りた。


 谷の底で鐘が鳴りはじめた。


 一つ鳴って間を置かずに次が鳴った。屋根のあいだを小さな人影が走っていく。戸の閉まる音が斜面の上まで届いてきた。


 尾根の上でドラゴが首を縮めた。


『……見られたのだ』


「見られたね」


 エルクたちが尾根に着いても鐘はまだ鳴っていた。ドラゴは腹を岩につけ、首も尾も背より低く寝かせていた。翼はたたんだうえに体の下へ押しこんである。それでも尾根の上でいちばん大きいのはドラゴだった。


『我はここで伏せておる。降りれば鐘がもっと鳴るのだ』


「うん。ここにいて」


 メアはドラゴの肩の影へ体を滑りこませた。


「私もここにいます。人の村に私の顔は早すぎます」


「早すぎる?」


「先に主様の顔を覚えてもらうほうがいいです」


 分身の一つがドラゴの腹の下へ潜りこんだ。


『二個目はここッス! 竜の腹の下は風が来ねえッス』


『いいッスねえ、そこ』


『早い者勝ちッス』


 残った二つはエルクの足もとでしばらく弾んでいたが、やがて静かになった。


 ウルは尾根の陰の岩に体を伏せた。


『我は日が落ちるまで出ぬ。呼べば行く』


 アラーネも同じ岩の陰で脚をたたんだ。


「私も待つわ~。脚が八本あると、人はだいたい叫ぶのよ~」


 エルクは空のグリフに手を振った。


「村のまわり、見てきてくれる? 上からだけでいいから」


『上からだけだ』


 グリフは村の真上を通らずに谷の縁を高く回っていった。


 レオルがエルクの横に立った。


「二人で行くか」


「うん。隠れないで行こう」


 エルクの肩でライの小さいほうが縁を少し持ち上げた。


『私は数に入りますか』


「入れたら三人だね。でも小さいから、たぶん数えてもらえないよ」


---


 谷へ下りる道は村の端をかすめて柵のすぐ手前で古い道に出た。


 番所の前に年寄りが一人立っていた。


 古い革の胸当てをつけて槍の石突きを地面に立てている。白い無精ひげが顎を覆っていた。左の足を少しかばう立ち方だった。鐘はいつの間にか止んでいた。


「止まれ」


 声はかすれていたが大きかった。


「そこでいい。それ以上来るな」


 エルクは足を止めて両手を体の前に出した。何も持っていないのを見せた。


「峰の向こうから来たんだ。北に行きたくて。通っていいか訊きに来たよ」


 年寄りの目がエルクの顔からレオルへ動いた。槍を握る指に力が入るのが見えた。


「……蜥蜴の兵隊を連れてか」


「兵ではない」


 レオルは腕も組まずに立っていた。尾も地面に下ろしたままだった。


「リザードマンの長、レオルだ。今日はこの者の連れだ」


「長だろうが何だろうが」


 年寄りは尾根のほうへ顎をしゃくった。


「さっきあそこに降りたのは何だ」


「ドラゴ。竜なんだ。降りてくると鐘がもっと鳴るから、あそこで伏せてるって」


「……竜が鐘の心配をするのか」


「するよ。さっきもちょっと落ちこんでた」


 年寄りはしばらく黙っていた。それから地面に唾を吐いた。


「竜を連れて来て、通っていいかもねえだろう」


「うん。だから訊きに来たんだ」


 エルクは手を下ろさなかった。


「黙って通ったら、あとから訊いても遅いでしょ」


 年寄りは槍を立てたまま番所の戸口へ半歩下がった。


「ここはトゥルカだ。王国の北の端の村だ。この柵から北へは監察官の許しが要る」


「監察官?」


「おれが開けていい柵じゃねえってことだ」


 年寄りは谷の下手を振り返った。


「竜を見たら町へ使いを出す決まりになってる。もう出した。監察官が来るまで、あんたらはここで待て」


「待つよ」


 答えが早すぎたのか年寄りは眉を寄せた。


「……何日かかるか分からねえぞ」


「うん。待つ」


 レオルが小さく鼻を鳴らした。笑ったのかどうかはエルクにも分からなかった。


---


 年寄りは番所の中から厚い帳を一冊持ち出してきた。


 表紙の革は擦り切れて角が丸くなっていた。戸口の脇の台に置いて開く。どの頁にも同じ形の欄が並んでいた。来た日。来た者。来た所。行き先。


 筆が最初の行に入った。


「峰の向こうの者。二人と竜一頭」


 年寄りは声に出しながら書いた。字は太くて少し右へ傾いていた。


「名は」


「エルク」


「レオルだ」


 二つの名を書いてから筆が止まった。


「来た所は。峰の向こう、じゃ書けねえ」


「辺境共生領って呼んでるよ」


 筆の先が持ち上がった。


「……聞いたことはある。峰の向こうで魔物と一緒に住んでる連中がいるって話だ。下の町から上がってきてた」


「それ、たぶんうちだ」


 年寄りは来た所の欄に辺境共生領と書いた。一字ずつ確かめるような書き方だった。


 その隣の欄で筆がまた止まった。


「ここは国の名だ」


 年寄りは帳から目を上げた。


「共生領ってのは国の名か」


 エルクは少しだけ考えた。


「……仮の名前なんだ。国の名前は、まだ決めてないんだ」


 年寄りは長いあいだエルクを見ていた。それから帳に目を落とし、その欄には筆を入れずに次へ移った。


「空けとく。おれが埋める欄じゃねえ」


 行き先の欄には北とだけ書いた。


---


 帳を閉じるあいだ、エルクは番所の壁にもたれて待った。


 壁は柵の端とひと続きになっていた。灰色の石が隙間なく積まれている。どの石も角が丸く削れていて、表に細かな苔が貼りついていた。


 ライの小さいほうがエルクの腕を伝って下りた。壁の石の継ぎ目へ体の縁を当てる。


「おい。それは何だ」


「スライム。小さいほうなんだ」


「小さいほうって何だ」


 ライは継ぎ目からしばらく離れなかった。体の色が少しだけ濃くなった。


『この石は、家の地下と同じ手で積んであります』


 エルクは壁を見直した。言われてみれば角の落とし方が同じだった。家の段の下の古い石も、こんなふうに丸く欠けている。


「この柵の積み方、うちの地下の古い石と同じなんだって」


 年寄りは帳を脇に抱えたまま壁を見た。


「……じいさんの代から言われてる。王国より古い柵だってな。誰が積んだのかは誰も知らねえ」


「そっか」


 レオルが壁の上の石を一つ見上げた。何も言わなかった。家の地下の石を積んだのは、王国ができるよりずっと前の国だ。エルクもそれは口に出さなかった。


 年寄りは槍の先で番所の脇の草地を示した。


「村には入れねえ。寝るならそこだ。柵には寄るな。触るな」


「ありがとう」


 エルクはそれから少し言いにくそうに付け足した。


「あのね。あと何人か、尾根にいるんだけど」


「……まだいるのか」


「狼が一頭と、糸の子が一人。日が落ちたら呼んでいい? あと鳥が一羽、さっきから谷の上を回ってるよ」


 年寄りの口が開いたまましばらく閉じなかった。


「……竜よりは小せえんだろうな」


「みんな竜よりは小さいよ」


 年寄りは槍の柄で自分の膝を一度叩いた。返事はそれだけだった。


---


 昼を過ぎたころグリフが谷の縁から戻ってきた。


 番所の屋根は避けて草地の端の岩に降りた。年寄りが戸口で槍を持ち直した。グリフはそちらへは首を向けなかった。


『家は二十と少し。柵は一つ。北の道は柵の向こうで続いておる』


「村の人は?」


『畑に出ておった者は戻った。戸は閉まっておる。窓から覗いておるのが何人か』


 グリフは翼をたたみ直した。


『柵の向こうの道は尾根へ上がる。上は白い。白の中で道は見えなくなる』


 エルクは柵の向こうの尾根を見上げた。昼の光の中でもそこだけ色が抜けていた。


「ありがとう。尾根に戻ってていいよ。ドラゴが一人で落ちこんでるかもしれないから」


『落ちこんではおらん。伏せておるだけだ』


 そう言いながらもグリフは尾根のほうへ飛んでいった。


---


 日が西の峰に掛かると谷の底はすぐに青くなった。


 エルクは尾根へ向かって手を振った。しばらくして岩の陰から黒い影が一つ下りてきた。斜面の草をほとんど揺らさずに来て、草地の手前で止まる。


 番所の戸口で年寄りが息を呑んだ。


「……狼ってのは、それか」


「ウル。いちばん古い仲間なんだ」


 ウルの後ろからアラーネが下りてきた。八本の脚が斜面の石を一つも落とさずに渡ってくる。年寄りは今度は息を呑まなかった。槍を握ったまま一歩だけ戸口の内へ入った。


「叫ばなかったわね~。強い人ね~」


 アラーネはエルクのそばで小さく言った。


 ウルは草地へは入らなかった。


 柵に触れない幅を保って鼻先を土へ近づけ、端から端まで歩いていく。途中で一度止まり、同じところを二度嗅いだ。それから戻ってきた。


『裸足の跡だ。北へ向いて、柵で止まって、そこで回っておる』


 ウルの声は低かった。


『……眠った足だ』


 エルクは柵の前の土を見た。暗くなりかけた地面には何も見えなかった。


 年寄りのほうへ向き直る。


「ウルがね。柵の前に裸足の跡があるって。北を向いて来て、柵で止まって、そこでぐるぐる回ってるって」


 年寄りの顔から色が引いた。


「眠ったままの足だって」


 槍の石突きが地面を擦った。年寄りは柵を見てウルを見て、最後にエルクを見た。


「……誰に聞いた」


「ウルに。今」


「村の誰かが喋ったんじゃねえのか」


「誰とも話してないよ。ずっとここにいたでしょ」


 年寄りは口を閉じた。番所の戸口の柱に背を預ける。槍は立てたままだった。


「よそ者にする話じゃねえと思ってた」


 声がさっきより低くなっていた。


「眠ったまま歩くんだ。柵で止まって、朝には覚えてねえ。昔からときどきあった。この夏は多い」


「どこへ行こうとしてるの」


「北だ。決まって北だ。なんで北なのかは、歩いてる当人も知らねえ」


 年寄りは柵の向こうの尾根を見上げた。


「この柵はな。北から来るもんを止める柵だと、おれは若い時分に教わった。……番に立ってみたら、止めてるのは村の中から出ていく足のほうだった」


 レオルが草地の端で顔を北へ向けた。エルクも同じほうを見た。尾根の白はもう暗がりに沈んでいた。


 北と聞いたとき、胸の底で何かが一つ鳴った。エルクはそれを口に出さなかった。


---


 アラーネは柵から少し離れたところに糸を一本渡していた。


 地面すれすれに柵と並べて端から端まで張ってある。糸は柵の石に一度も触れていない。アラーネはその糸を脚の先でつま弾きながら歩いていた。


 真ん中より少し村寄りで脚が止まった。


「ここだけ広いわね~」


 エルクがそばへ寄るとアラーネは柵の一か所を顎で示した。石と石を留めていたらしい古い金具が一つ、根もとから外れて草に埋もれている。そこだけ石が外へ傾いて隙間ができていた。


「子どもなら通れる幅よ~。大人は肩がつかえるわね~」


「……そっか」


 エルクは隙間の前にしばらく立っていた。隙間の向こうは暗くて、古い道がどこへ続いているのかもう見えなかった。


---


 夜は番所の脇の草地で寝た。


 番所の中には灯りが一つ点いていた。戸は開けたままだった。ときどき槍の石突きが床を打つ音がする。眠っているのか起きているのか外からは分からなかった。


 ウルは草地の端に伏せて名を聞いた。エルクが言い、レオルが言い、アラーネが言った。ライの小さいほうと二つの分身も順に言った。


 尾根の上からは名が来なかった。ドラゴとメアとグリフと、竜の腹の下の一つだ。


『尾根の四つは尾根におる。そう入れた』


 番所の戸口から年寄りの声がした。


「狼に何をぼそぼそ言ってる」


「名前。毎晩聞いてくれるんだ」


「……狼がか」


「狼がだよ」


 それきり年寄りは何も訊いてこなかった。


 エルクは隙間の見える場所に毛布を敷いた。レオルはその少し後ろで尾を体に巻いて横になった。


「訊いて、待つことにしたな」


「うん」


「柵の番が、柵は自分では開けられぬと言うた」


 レオルは目を閉じたまま続けた。


「……正直な番だ」


 エルクは仰向けになった。谷の空は家で見るより星が多かった。尾根の上にドラゴの影が黒く盛り上がっている。日が落ちてから一度も形を変えていなかった。鐘も二度とは鳴らなかった。


 村の灯りが一つずつ消えていった。


 最後の一つが消えてしばらくしたころだった。


 ウルの耳が立った。


 草を踏む音がした。村のほうからだった。軽くて間が長い。靴の音ではなかった。


 裸足の小さな足音が一つ、柵へ向かって来ていた。


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