第222話 肩の上の小屋
夜の番が上がりきったあとの段を、エルクは一人で下りた。
灯りは台の脇に一つだけ残っていた。ライはその前にいた。夜通し読んでいた体はいつもより少し平たい。足音に気づいて縁を持ち上げた。
『来ましたね』
「うん。そろそろ出るから」
台の上の器は朝になっても静かだった。奥の壁からは擦る音が細く聞こえてくる。
『では、分けます』
ライは台の前で体を低くした。
しばらく何も起きなかった。やがて体の端が少しずつ盛り上がった。盛り上がったところに細いくびれができる。くびれは息をするたびに細くなり、ある拍子にふっと切れた。
石の上に小さな丸いものが一つ転がった。拳ほどの大きさだった。
『分けたぶん、小さいほうは読むのが遅くなります』
声は二つから同時に来た。片方だけ少し高かった。
『持ち帰るのは小さいほうです。こちらは器の前に残ります』
「今どっちがしゃべってるの?」
『どちらも私です』
小さいほうが答えてエルクの靴の先まで転がってきた。エルクはしゃがんで手のひらを差し出した。小さいほうは迷わずに乗ってきた。冷たくて思ったより軽い。
「つらくない? 分けたの」
『薄くなった気はします。……でも、器の前を空けずに北が読めます』
台の前の本体はもう器のほうへ向き直っていた。
『兄さんには言ってあります。家の寝かせ係は兄さんが続けるそうです』
「スラ、張り切ってたもんね」
『張り切りすぎて、ゆうべは三つほど余計に分けていました』
エルクは笑って小さいほうを肩へ移した。段を上がるあいだ、肩の上の丸いものは一度も揺れなかった。
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門の前には見送りの者が集まりはじめていた。
ドラゴは門柱の脇で背を低くしていた。背中には縄で束ねた材木が載っている。ウーゴがきのうのうちに森の端から出してきたものだ。
エルクが近づくとドラゴは首を下ろした。
『行く前に渡すものがあるのだ』
「門の日暮れだね」
『門の日暮れはソウに渡す』
ソウは鍬を持たずに来ていた。エルクが振り返るより先にドラゴの顔とエルクの顔を見比べていた。
「ドラゴがね。門の日暮れはソウに渡すって」
「受け取ったわ。ソウよ」
ソウはドラゴの鼻先へ向かって言った。届かないのは知っている顔だった。それでも目は逸らさなかった。
エルクはドラゴのほうへ向き直った。
「受け取ったって。ソウが自分の名前で」
『うむ』
ドラゴは鼻から長く息を吐いた。
『見えたものは朝に言え、と言うておけ』
「見えたものは朝に言ってね、だって」
「知ってるわよ。ドラゴがずっとそうしてたもの」
ソウは腕を組んでから少しだけ声を落とした。
「何も見えなかった朝も言うわ。それも知ってる」
ソウは門の脇の平たい石に腰を下ろしてみた。ドラゴが日暮れに伏せる場所だった。
門柱の向こうの日だまりではライオが前脚に顎を載せていた。片目だけ開けてソウの背を見た。
『……座り方は悪くない』
「ライオが、座り方は悪くないって」
「見られてると座りにくいわよ」
ライオはもう目を閉じていた。
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メルは門柱の陰に立っていた。
「僕の下の番、メルに渡すね」
「受け取りました。メルです」
返事は早かった。ゆうべのうちに決めてあったのだろう。
「下の穴は、ドレクさんに入ってもらいます。本人にはもう言いました」
メルの後ろでドレクが小さく頷いた。何も言わなかったが目は段の口のほうへ行っていた。
「数えた分で足りそう?」
「足ります。足りなくなったら、足りないと言います」
門の外の草地ではアラーネとラネが向き合っていた。
「夜の一本は私が見るわ! 寝る夜も私が決めるわ!」
「知ってるわよ~。あんたの一本だもの~」
アラーネは脚の一本でラネの頭を軽く押さえた。
「決めた夜は、ちゃんと寝るのよ~」
「寝るわよ! 寝る夜はちゃんと寝るの!」
ラネは脚の下から抜け出すと門の内側へ跳ねていった。一度も振り返らなかった。アラーネはしばらくその背を見送っていた。
「あら~。もう行っちゃった~」
声はいつもより少しだけ低かった。
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ドラゴが材木の束を顎で示した。
『乗れ。肩まではすぐだ』
言われた先はレオルだった。レオルはもう首を横に振っていた。
「我は自分の足で越える」
「肩まで一日かかるよ」
「かかればよい。帰りの道を足で知っておる者が一人もおらねば、道は残ったことにならぬ」
エルクは門の脇にいるクラウを見た。クラウは何も言わなかった。ただ一度だけ頷いた。
ウルがレオルの隣へ来て並んだ。
『我も歩く。外は足で回るものだ』
石垣の陰からメアも下りてきた。
「私も歩きます。日の当たる道なら遅れません」
レオルは二人を見下ろして鼻を鳴らした。断りはしなかった。
クラウが見送りの輪の端から短く言った。
「行ってこい」
「うん。行ってきます」
ケインは門柱にもたれていた。腕は組んでいなかった。何か言いかけて口を閉じ、手だけを一度上げた。
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ドラゴの背は思っていたより揺れなかった。
材木の束の脇にウーゴが座り、その膝の上にダクトが乗っている。アラーネは束の縄に糸を足して自分の体を留めていた。スラの分身が四つエルクの膝のまわりで弾んでいる。肩の上ではライの小さいほうがじっとしていた。
坂が下へ遠ざかる。畑が布の切れ端のように小さくなり、門の上の人影が点になった。
『落ちるなよ。拾いに戻るのは骨が折れるぞ』
『落ちねえッス! おいら、くっついてるッス!』
『くっついてるのはおいらの上ッス! 重いッス!』
峰の背が近づくにつれて風が変わった。夏の風なのに芯が冷たい。
横からグリフが並んできた。翼の先が一度だけこちらへ傾いた。
『王の峰へ寄る。通ると言ってくる』
「お願い。言うだけでいいからね」
『言うだけだ』
グリフは左へ逸れていった。影はすぐに峰の陰へ隠れた。
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北の肩は下から見上げていたよりずっと広かった。
岩の背が二つ並んでいて、そのあいだが浅く窪んでいる。ドラゴが降りると窪みの底の草が一斉に伏せた。
ウーゴは背から下りるなり窪みのあちこちを歩いた。岩に手を当てる。草の根元を踏む。風上へ顔を向けてしばらく黙る。
「ココ」
指したのは窪みのいちばん奥だった。北側の岩が庇のように張り出している。
「カゼ、ウエ、トオル。シタ、トオラナイ」
エルクはそこに立ってみた。頭の上を風が鳴って過ぎていく。足もとは静かだった。
ウーゴが両手を地面についた。
土が盛り上がった。盛り上がったところから白い芽が出て、芽はすぐに茶色い幹になった。幹は太りながら上へ伸び、エルクの背を越えたあたりで止まった。一本立つとウーゴは三歩横へずれて同じことをした。
四本目が立ったころ、ドラゴが材木の束を窪みへ下ろした。
『梁はこれか』
「ハリ、ソレ。ナガイノ、サキ」
ドラゴは長い材木を口でくわえて柱の頭へそっと渡した。端がずれるとウーゴが下から押して直す。継ぎ目にはアラーネが糸を巻いた。
「仮止めよ~。ウーゴが木で留めたらほどくわね~」
「トメル。マッテ」
ウーゴが継ぎ目に手を当てた。木と木のあいだから細い枝が伸び、互いに絡んで締まった。アラーネは自分の糸を巻き取った。
ダクトはそのあいだ窪みの手前で荷を出していた。体の縁を伸ばすと何もない岩の陰に袋が一つ現れる。干し肉の袋。水の革袋。毛布の束。出てくるたびに庇の下へ並べていく。
「ここに置いておきますぞ。雨が来ても濡れぬ高さですな」
「ダクトはここに残るんだよね」
「ええ。私はここの番をしますぞ。荷のあるところには番が要りますからな」
昼を過ぎると壁ができた。ウーゴは細い幹を横に寝かせて柱のあいだに積み、はみ出した小枝を互いに編ませた。屋根には平たく割った木が重なっていった。
分身たちは壁の隙間を見つけるたびに体を押し当てて回った。
『ここ、風が来るッス!』
『こっちは来ねえッス!』
『来ねえとこは言わなくていいッス!』
ウーゴはそのたびに小枝を一本伸ばして塞いだ。
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西の稜線へ日が沈みかけたころ、頭の上で羽音が鳴った。
グリフは屋根の端に止まった。止まってから屋根を二度踏んで固さを確かめた。
『王は「通れ」と言った。「北は我らも長く行っておらぬ」とも言った』
「長く、かあ」
『それだけだ。それより先は言わなかった。俺も訊いておらん』
エルクは北の空を見た。肩の向こうは夕方の光の中でも色が薄い。
ウーゴが小屋の前に立って戸口の柱を手のひらで叩いた。
「コヤ、デキタ。カゼ、トオラナイ」
エルクは戸口をくぐった。外では風が鳴っているのに中の空気は少しも動かなかった。木の匂いがまだ若かった。
坂の下の岩場から影が三つ上がってきたのはそのすぐあとだった。先を行くのはウルで、その後ろにメアがいて、いちばん後ろにレオルがいた。レオルの尾は土で汚れていた。息は荒かったが足は止まらなかった。
「着いたね」
「……着いた」
レオルは小屋を見上げた。それから窪みの手前の岩に腰を下ろした。
「一日で建てたか」
「ウーゴがね。柱から屋根まで」
「帰りに寝られるな」
ウーゴはそれを聞いて戸口の柱をもう一度叩いた。
ウルは小屋のまわりをひと回りしてから戻ってきた。
『外は静かだ。獣の跡はどれも古い』
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夜になると、小屋の中で一人ずつ名を言った。
ウルは戸口に伏せたまま一つずつ聞いた。人の名と従魔の名が順に並び、最後にウーゴとダクトの名が来た。
『入れた』
家なら、ここでテイマーが人の言葉に言い直す。この小屋には言い直す相手がいなかった。ウルの声は皆に届いていた。
エルクは毛布の上に座って目を閉じた。
家のライを呼んだ。いつもなら呼べばすぐに向こうの気配が返ってくる。
何も来なかった。
もう一度呼んだ。今度はラネを呼んだ。それからスラの本体を。
どれも返ってこなかった。
肩の上で小さいほうのライが身じろぎした。
『私も、こちらから呼んでみました』
「どう?」
『届きません』
ライの声はいつもより少し遅れて来た。
膝のそばで分身が一つ跳ねた。
『じゃあおいらが運ぶッス』
「運ぶって」
『おいらはここに一個残るッス。転がって家まで行くッス。家にもおいらがいるッス。会えば分かるッス』
ほかの三つが同時に弾んだ。
『何日かかるか分かんねえッスけど、転がるのは得意ッス』
エルクは分身の頭を指で撫でた。
「お願いね。じゃあ、ここに一つ置いていくね」
『置かれたッス! 番はダクトと二人ッス』
「二人ですかな。……まあ、よいでしょう」
ダクトは荷の袋の脇で体を少し広げた。分身はその隣に収まって動かなくなった。
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小屋の外へ出ると風は止んでいた。
窪みの縁まで歩いた。北側の岩の上にドラゴが首を伸ばして伏せていた。その脇にメアがいる。
北へ下る斜面の先は暗かった。谷の底がどこにあるのかも分からない。
その暗いところに灯りが三つあった。
小さくて、少しも動かなかった。星にしては低すぎる。
メアはしばらく黙ってその灯りを見ていた。
「人の灯りです」
尾の先がわずかに動いた。
「……その先は、まだ何も見えません」




