第221話 北の肩の向こうの煙
当番小屋の藁は昼の熱を吸ってやわらかくなっていた。
エルクは仰向けのまま天井の梁を数えていた。七本目まで来て、また一本目に戻った。目を閉じると夜明けの段の口が浮かぶ。閉じなければ梁が見える。どちらにしても眠りは来なかった。
藁の縁で冷たいものが三つ並んだ。
『主、起きてるッス』
『目が開いてるッス』
『下りた人は昼に寝るッス。決まりッス』
分身が三つがかりで脇腹を押してきた。押されたぶんだけ体が藁の奥へ転がる。転がった先でエルクは天井を見たまま笑った。
「寝ようとはしてるんだよ」
『寝ようとしてる顔じゃねえッス。考えてる顔ッス』
「ばれてるなあ」
エルクは肘をついて上半身を起こした。分身たちは膝の上へ乗り移ってまだ押してくる。一つずつ両手ですくって藁の上へ戻した。
「ちょっとだけ外に出るね。戻ったら寝るから」
『ちょっとだけッスよ。数えてるッスからね』
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坂の上の石垣はよく日が当たる。
メアはその陰と日向のちょうど境に体を伸ばしていた。蛇の下半身を半分だけ日に出している。エルクが近づくと薄く目を開けた。
「主様。今日は下りた日のはずです」
「うん。寝られなくて」
エルクは石垣の端に腰を下ろした。日に焼けた石が尻の下で温かい。
「北のこと、覚えてる? 前に一度だけ読んでくれたとき」
「覚えています」
メアは目を北へは向けなかった。石垣の影の縁を見ていた。
「北は、あのとき一度だけです。今は読めません。読もうとしても、遠すぎて何も掛かってきません」
「そっか」
エルクは膝を抱えた。峰の並びは昼の光の中で輪郭だけをはっきりさせている。その向こうは見えない。
「どこから来てるのか、見てないんだよね。誰も」
メアは返事をしなかった。代わりに尾の先を少しだけ日向のほうへずらした。
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昼過ぎの空にグリフの影が一つ落ちてきた。
夜明け前の見回りを終えて、杭の上でうたた寝をしていたのだ。エルクが坂の上から手を振ると、首を一度だけこちらへ回してから降りてきた。
「北の肩の向こう、見てきてくれる?」
グリフは翼をたたみかけたまま止まった。
『見るだけだ。肩より先は王に言ってからだ』
「うん。見るだけでいいよ」
『夕方には戻る』
翼がまた開いた。風が石垣の上の乾いた草を一度だけ伏せさせ、影はすぐに峰のほうへ小さくなった。
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夕方の薪小屋には割った薪の匂いがこもっていた。
畑から戻った者が順に顔を出していく。ソウが鍬の泥を落としながら入ってきて、ケインは上の番を終えたその足で続いた。クラウとメルは薪の山の脇で今日の草のことを話していた。レオルは戸口の柱に背を預け、尾を外へ出している。ミナがノノの手を引いて入ってきて、薪の束の上に二人並んで座った。
足もとにはスラの本体がいた。昼の寝かせ係を抜けてきたらしい。ライは器の前から上がってきて、戸口の敷居の上に乗っている。
エルクが戸口に立つと話し声が少しずつ落ちた。
「ゆうべのこと、もう聞いてると思うんだけど」
誰も頷かなかったが誰も首を振らなかった。
「声の来るとこ、見に行きたいんだ」
薪小屋の中がしんとした。
最初に口を開いたのはケインだった。薪の山に片手をついたまま顔だけをこちらへ向けている。
「呼ばれて行くのと、どう違うんすか」
エルクはすぐには答えられなかった。
あの声は聞くのだろうと言った。それを聞いて北へ行きたくなった。順番だけ並べれば呼ばれて行くのと同じ形をしている。
「違うと思うんだけど……うまく言えないや」
ケインは手を薪の山から離して腕を組んだ。
ソウは鍬の柄を壁に立て掛けた。
「ドラゴが行くなら、門の日暮れは誰かが受けないと」
「まだ誰が行くかは決めてないよ」
「ドラゴは行くわよ。あの子、遠いところは自分の仕事だと思ってるもの」
エルクの爪先にぶつかるようにしてスラの本体が跳ねた。
『おいらも行くッス! 全部は行けねえッス、分身で行くッス』
「分身で?」
『本体は寝かせ係ッス。分身は転がれるッス』
エルクは小さく笑った。ケインとソウにはスラの声は届いていない。二人とも跳ねた丸いものを見ているだけだった。
敷居の上のライが体を少し縮めた。
『器の前は、長くは離れられません』
「うん。ライは下にいてほしいな」
『はい。……ただ、北の脈を読める者がいないと、見ても分からないかもしれません』
「それは、あとで考えよう」
ライは黙った。けれど敷居から下りもしなかった。
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薪小屋の空気を動かしたのはクラウだった。
薪の山から離れて戸口のエルクの前まで来る。メルとの話の続きを顔に残したまま、目だけがまっすぐだった。
「行くなとは言わない」
「うん」
「一つだけだ。お前しか行けない場所を作るな」
エルクは瞬きをした。
「跳べば早い。だがお前が跳べるのはお前と従魔と、いいと言った者だけだ。跳んだ道は残らない。次に誰かが行こうとしても、また跳べる者を待つことになる」
「……うん」
「歩いて行け。帰ってきた道を、ほかの者も使えるように」
クラウはそれだけ言って薪の山の脇へ戻った。
戸口の柱でレオルが尾を一度だけ打った。
「行くのには反対だ」
エルクが振り返った。レオルは坂の下を見たままだった。
「……我も行く」
「反対なのに?」
「反対だから行く。反対の者がおらぬ旅は、戻る理由を一つ失う」
メルは手を胸の前で組み直した。
「夏の交代を、今日から数えます」
エルクがメルを見た。メルは目を逸らさなかった。
「抜ける人の穴も、行く子たちの持ち場も、今日から数えれば足ります。数えないで出られると足りなくなります」
「ありがとう」
「お礼は帰ってからでいいです」
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薪の束の上でノノが身じろぎした。
ミナの手を離して束から滑り降り、エルクのところまで歩いてくる。袖の端を指でつまんで二回引いた。
「エルク」
「なに?」
「ひとつめ」
ノノはエルクを見上げたまま言った。
「となりの子の手をにぎる」
皆が話していた「行く」の意味は、たぶん分かっていない。授業の順番が来たから言いに来た、という顔だった。
エルクはしゃがんでノノと目の高さをそろえた。
「うん。ノノが最初に教えてくれたやつだね」
少し考えてから頷いた。
「持ってくね」
ノノは首を傾げたが、袖は放した。それから束の上のミナのところへ戻っていった。ミナがノノの髪を一度撫でた。どこへ何を持っていくのか、ノノは訊かなかった。
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日が峰に掛かったころ、グリフが戻ってきた。
薪小屋の前の地面に降りるなり、まだ羽の先を震わせたまま首を伸ばした。
『北の肩の向こうに谷がある。谷に煙が三本。人の煙だ。その先は白い。夏なのに白い』
エルクは薪小屋の中のクラウを振り返った。クラウはもう戸口のほうを見ていた。
「谷に人がいるって。煙が三本。その先は白いって」
クラウの目が一度だけ遠くなった。
「……王国の地図の北の端に、村が一つ載っていた」
「王国の?」
「峰を越えたところだ。名は覚えていない。地図はそこで終わっていた」
ケインが組んでいた腕をほどいた。
「王国って……あの監察官の」
「同じ王国だ。北の端の村だ」
クラウはそれだけ言った。ケインはまた腕を組んだ。さっきより少しきつく。
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行く者と残る者は、その場で決まった。
北へ行くのはエルクとレオルとメア。ウルは外を回り、グリフは空を見て、ドラゴは運ぶ。アラーネは糸で測れるところを測る。スラは本体を残して分身を出す。
残るのはクラウとメルとソウとケインとエネとドレク、ミナとノノ。ライは器の前に、ラネは家の一本に、ライオは日向にいる。
戸口の外からウーゴがのそりと顔を出した。話を最後まで聞いていたらしい。
「コヤ、タテル。トチュウ、ニ」
「途中に?」
「カエリ、ネル。ツギノヒト、ネル」
エルクはウーゴの顔を見た。ウーゴは自分の言ったことの大きさに気づいていない顔をしていた。
「うん。建てよう」
ウーゴの肩の上からダクトが顔を出した。
「荷は私が収めますぞ。小屋が建つなら、置いておく場所もありますな」
糸の束を引いて戻ってきたアラーネが、話の終わりだけを拾って脚を止めた。
「糸で測れるところなら測るわよ~」
その後ろからラネが跳ねてきた。
「私は行かないわ! 夜の一本は私のよ!」
「知ってるわよ~」
「ほんとに行かないのよ!」
「だから知ってるってば~」
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門ではドラゴがいつもの場所に伏せていた。
エルクが近づくと、片目を開けて坂の上を見た。話はもう届いているらしかった。
『北か。遠いのだ』
「遠いんだって。グリフが言ってた」
『……遠いところは我が運ぶのだ』
ドラゴの隣ではライオが日の温もりの残る石に腹を付けていた。風が来るたびに鬣の先が揺れる。
『竜が門を空けるなら、我は取らぬぞ。やめた刻だ』
「うん。ライオの刻はそのままだよ」
『ならばよい』
坂の外れからウルが戻ってきた。夕方のひと回りを終えたところだった。エルクの横で足を止め、鼻先を北へ向けた。
『主が行くなら、我は外を回る』
「旅の間も?」
『どこにおっても外はある』
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その夜、エルクは門の上に立った。
昼の熱が石から抜けて、足の裏がひやりとした。坂の下の畑は暗く、上の番の灯りが点々と並んでいる。その向こうに峰の黒い背があった。北の肩はそのいちばん右の端だ。
昼にグリフが見た煙は、ここからは見えなかった。
谷も見えない。白いところも見えない。肩の線が星の少ない空を切っているだけだった。
門の下でドラゴが首を持ち上げた。
『見えぬものは、行って見るのだ』
エルクは北の肩を見たまま答えた。
「うん。行って見るよ」
夜風が一度だけ峰のほうから吹いてきた。夏の夜なのに、その風はほんの少しだけ冷たかった。




