第220話 あの人が打った頭
ライの紙は灯りの下で半分ほどほどけていた。
ぬる、の跳ねから間を一つ置いたところに、長い跳ねが一つ入っていた。短いのが二つ、すぐ後ろについている。
エルクはその三つを見たまま動けなかった。ソウが白い石のそばで膝から手を浮かせたあの晩に、紙に入ったのと同じ形だった。
『ぬる、のあとに間があって、用件の位置に、長いのが一つ、短いのが二つです』
ライは紙の端を体で押さえていた。
『頭の位置ではありません』
「あの頭の形だよね」
『形は同じです。入っている場所が違います』
口の縁ではウルが首だけを持ち上げていた。鼻先は紙のほうへは来ない。段の暗がりへ向いたままだった。
「そのあと、まだ、ぬる、は来た?」
『まだ、ぬる、は来ていません』
ライの筆の尻が紙の終いを指した。中夜からあとは細い線が続いているだけだった。
『何を言ったのかは分かりません』
ライはそこで少し黙った。
『……私の紙では、あの人がほかの頭を打ったのは初めてです』
「塗るのは? 止まってた?」
『塗る音は朝まで続いていました』
エルクは段の奥を見た。灯りの届かない先に器の台があり、そのずっと向こうに壁がある。擦る音はここまで上がってこない。上がってこないまま今も鳴っているのだろう。
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灯りが二つ段を上がってきた。
先に口へ出てきたのはクラウだった。帳を胸に抱えている。すぐ後ろにドレクが続き、その足もとをすり抜けるようにしてラネが跳ね上がってきた。
ウルの鼻先がようやく動いた。
『二つ上がった。糸の者は別に一つ』
ひと呼吸置いて低く足した。
『入れた』
エルクはドレクのほうを向いた。
「入ったって。ラネも」
ドレクは顎を一度引いただけだった。灯りを足もとに下ろしてクラウの隣に立つ。目は自分が上がってきた段の口へ戻っていた。
「エルク!」
ラネがエルクの爪先の前で前脚を上げた。
「揺れなかったわ! ぬるのときは、一回も!」
「あの頭の形が来たときも?」
「そのときもよ! ずっと脚を載せてたもの!」
紙を巻き戻しかけていたライの手が止まった。
『塗る音のするほうから来ています。糸の結び目のところではありません』
エルクは紙からラネの脚の先へ目を移した。それから段の暗がりへ戻した。
「……あの人、知ってるんだ。あの頭のこと」
クラウは待つ人の石に膝を載せて帳を開いていた。ゆうべの頁にはもう刻が並んでいる。
「知っているかどうかは、あれに訊かなければ分からない」
筆の先が墨を吸った。
「……訊かない」
「うん」
クラウは口の中で一度区切ってから書きはじめた。
「あれが、板に無い頭を用件に打った」
字は細くていつもと同じ速さだった。
「それだけ入れる。読みは入れない」
「下では返したの?」
「返していない。段取りは板に無い頭が用件を打ったときのものだ。ゆうべのは頭がぬるだった」
「書いてあるとおりだね」
「書いてあるとおりだ」
ウルの耳が片方だけクラウのほうへ動いた。
『返さぬでも、聞いてはおったな』
「聞いてたよ。紙にも帳にも入ってる」
『ならばよい。前に我が言うたのは、そこまでだ』
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坂の上から羽音が下りてきた。
グリフは杭を使わずに灯りの脇の平たい石へ降りた。翼をたたむ前にエルクのほうへ首を向ける。
『上は静かだった。起きておったのは上の番だけだ』
「何も無かったんだね」
『無かった。数も夜のはじめと同じだ』
羽音を追うようにして段の上り口からアラーネが来た。脚の一本に空の芯を掛けている。張った糸を巻き取りに行くのだ。
「あら~。揺れなかったのね~」
「一回もよ!」
「じゃあ、あの子の糸のところじゃないわね~」
アラーネはそれだけ言って段の一段目に脚を掛けた。ラネがすぐその後ろへ跳ねた。
「私のもほどくわ!」
「あら~。今夜もあれに張るんじゃなかったの~」
「ゆうべは張ったわ! 今夜は寝る夜なの! 二晩続けて下りたもの、さっき決めたのよ!」
「自分で決めたのね~。じゃあ一緒に下りましょ~。私は自分のしかほどかないわよ~」
「知ってるわ!」
姉妹の脚音が段の暗がりを下りていった。
入れ替わりに草の上を分身が三つ転がってきた。二つはクラウとドレクの足もとで止まった。残りの一つは段の口の縁に陣取って奥へ縁を向けた。
『ゆうべのぶんは今日の昼ッス。二人とも横になるッス』
「もう少しだ」
クラウは筆を止めなかった。
『もう少しって言う人は、だいたい長えッス』
縁に陣取った一つが体を伸ばした。
『糸の子はほどいたらおいらが乗せるッス。ここで待ってるッス』
クラウが帳を閉じた。墨の乾いていない頁に薄い紙を一枚挟んでから脇へ抱える。それから隣のドレクへ顔を向けた。
「寝ろと言っている。スラが」
ドレクは灯りを拾った。何も言わないまま分身の後ろについて歩きだした。
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当番小屋へは門の脇を抜けていくのが近い。
朝の日は門柱の片側にだけ当たっていた。ドラゴはその陰のほうに胴を伏せている。腹の下の鱗には黒い土がこびりついていた。夜のあいだ入口の外の柔い土にいたからだ。
エルクの顔を見るとドラゴは顎を持ち上げた。
『入口の外におった。こちらは誰も打っておらぬ』
「下の音は何も来なかったんだ」
『来なんだ。……我は何も刻んでおらぬ』
「何も刻まない夜もあるんだね」
『ある。刻まなんだ夜も朝には言うのだ』
門の外の石にはレオルが座っていた。尾を石の脇に垂らし、目は坂の下の畑へやっている。ゆうべは段の口に来ていなかった。
分身に押されて歩いていたクラウが門柱のところで足を止めた。レオルが首だけをこちらへ回していた。
「何が来た」
「あれが板に無い頭を用件に打った。読みは入れていない」
レオルはすぐには何も言わなかった。坂の下の畑ではもう鍬の音がしていた。
「聞かぬと決めた名を、あれが持っておったらどうする」
分身がクラウの踵を押した。クラウは動かなかった。
「……一枚目の、四つ目の下に書いてある」
レオルの目がクラウの顔で止まった。
「今日は、それを読むだけだ」
エルクもその大書を知っていた。名は聞かないと決めた。聞けば言える口が増えるからだ。毎日あの前を通っている。
「読むだけで済む日は、長くは続かぬぞ」
クラウは返さなかった。分身にもう一度踵を押されて今度は歩きだした。ドレクが黙ってそのあとに続いた。
レオルはまた坂の下へ顔を戻した。尾の先は石の脇から少しも動かなかった。
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門の内側の日向ではライオが寝そべっていた。
鬣の上で分身が一つ日を浴びていた。日の当たるところを探して乗ったらしい。ライオは追い払いもしないで前脚に顎を預けていた。
エルクは鬣の脇にしゃがんでゆうべのことを話した。ぬるのあとの間。用件の位置に入った形。まだ、ぬる、が来なかったこと。
ライオは片目だけを開けた。
『ぬるが、ぬる以外を打ったか』
「うん。ライの紙では初めてだって」
ライオはしばらく黙っていた。
『……持ち場だけの者は、持ち場のほかを打たぬ』
それきり片目も閉じた。鬣の上の分身が小さく揺れた。
『寝たッスか』
「寝てないと思う」
『寝てねえ顔ッスね。目つぶってるだけッス』
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日が門柱の頭を越えたころ、ケインが上の番から戻ってきた。板切れは帯に差している。畑へ向かうソウとメルがちょうど門の内側を通りかかっていた。ソウは鍬を肩に担いでいる。
エルクは三人のほうへ立ち上がった。
「ゆうべ、あの人が打ったんだって。ぬるのあとの用件のところに、あの頭の形」
ケインの足が止まった。
「……あの人って、塗ってるほうっすか」
「うん。ラネの糸は揺れなかったって。塗る音のほうから来てたって、ライが」
ケインは帯の板切れに手をやりかけてやめた。
「……あれが何言ったのか、おれ分かんねえっす」
しばらく門の外を見ていた。
「分かんねえまま、上に立つっす」
ソウは肩の鍬を下ろしていた。
「通さないのは変わらないわ。聞いたのも変わらない」
「うん」
「なら、私は畑よ」
メルは抱えていた綴りを開いた。
「今日は草です」
「夏の交代、使うんすか。こういうの来るなら」
「夏のぶんは、まだ数えません」
メルの指が次の行へ移った。
「今夜の下は——」
指がそこで止まった。メルの目が当番小屋のほうへ動いた。
「ラネ、今夜は寝る夜だって。自分で決めたって言ってた」
「ラネは今夜は寝る夜です」
メルは行の端に小さな点を一つ入れた。
「今夜の下はエネとエルクです」
「もう回ってきたんだ」
「畑が長いぶん、夜に立てる人が減っています。紙の上で回るのも早くなります。今日の草はいいです。エネには私から言います」
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当番小屋へ戻る途中で板の前を通った。
ウーゴが板の下の縁を指でなぞっていた。端の欠きから順に指の腹を一つずつ落としていく。三つ目で止まって指を離した。
「ミッツ、ママ」
「足さないもんね」
「タサナイ」
板の脇ではダクトが写しの束を腕に掛けて立っていた。四枚の端を揃えて板の字と見比べている。
「板は動いておりませんな。私の束も動きませんぞ」
「今日も替えないんだ」
「替える字がありませんからな」
草を踏む軽い音がしてライが跳ねてきた。紙はもう抱えていない。
『箱を見てきました』
「どうだった?」
『二つとも、同じです。強くも弱くもなっていません』
くるぶしに冷たいものが当たった。分身が一つ縁を寄せていた。
『主もッス。今夜下りる人は今から寝るッス』
「メルから聞いた?」
『聞く前から数えてたッス』
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日が峰に掛かるころ、エルクはエネと並んで段の口に立った。
出てくるときに当番小屋の奥を覗いた。ラネは脚まで丸めて眠っていた。藁の縁から一本もはみ出していなかった。
アラーネが芯を二本抱えて先に下りていき、しばらくして一人で上がってきた。
「張ったわよ~。今夜はあの子の一本は無しね~」
ウルに名を言うとすぐに入れたと返ってきた。エネにも同じ声が届いている。エルクは誰にも言い直さずに段へ足を掛けた。
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下はいつもの夜だった。
ライは器の台の前で紙を送っていた。エネは台から少し離れた石に座って膝に紙を広げている。宵の頭は二人で壁の前に立って打った。
台の脇の平たい石には何も巻かれていなかった。ゆうべまでラネの一本が掛かっていた石だ。
壁の向こうでは塗る音が続いていた。擦っては止まりまた擦る。エルクは台の脇の石に腰を下ろした。
中夜の手前だった。
擦る音が止まった。
いつもの止まり方とは違った。次の擦る音が来ない。ライの筆が紙の上で浮いたまま待っていた。
『……止まりました』
ライは刻を書いた。読んだ者の欄に名を置く手がいつもより遅かった。
エネの筆も止まっていた。顔を上げて壁を見ている。
エルクは膝の上で両手を握った。塗る手が休めば黒が薄くなる。薄くなる夜に来るものがあった。前はこの壁の前で黙っていると来た。
来たのは後ろからだった。
「聞いたと返すようになったな。……私の声も、聞くのだろう」
急いでいなかった。落ち着いていて笑ってもいなければ怒ってもいない。長く聞いていなかったのに、耳はその高さをすぐに思い出した。
それだけだった。
エルクは口を開かなかった。
聞いたと返すなら次に来たものも聞け、とウルは言った。聞いた。聞いたけれど返すものは無い。これは頭を打ってくる相手ではなかった。
エネは膝の紙に何も書いていなかった。筆を持ったまま壁ではなくエルクのほうを見ていた。エルクは小さく首を横に振った。エネは頷いて筆を下ろした。
しばらくして壁の向こうで擦る音が戻った。一つ擦ってまた止まり、それからいつもの調子へ戻っていった。
『また塗っています』
ライは刻を書いた。止まった刻と戻った刻のあいだに線を一本引く。それ以上は何も書かなかった。
声はそれきり来なかった。
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夜明けに紙を抱えたライと一緒に段を上がった。エネが後ろについてくる。
段の口にはクラウがいた。待つ人の石に座って帳を膝に置いている。昼のうちに寝てまだ暗いうちに起きてきたのだろう。口の縁でウルが二と数えて入れたと言った。
エルクはクラウの前に立った。
「声が来たよ。中夜の手前。塗る音が止まったとき」
帳の上でクラウの指が止まった。
「何か言ったか」
「言った」
エルクは一度だけ息を吸った。
「聞いたよ。エルクが聞いた」
クラウはエルクを見上げた。それからエネを見てライを見た。
「繰り返さなくていい」
「うん。繰り返さない」
クラウは帳を開いた。今日の頁の頭に筆を置く。
「言った」
筆が短く動いた。
「……一言だけだ」
それで筆は上がった。何と言ったかの行は無い。読みの行も無い。
エルクは段の口から坂の上を見た。上の番の灯りが端から一つずつ消えていく。その向こうに峰が並んでいた。峰の肩のさらに先は朝になっても色が薄いままだった。北の奥だ。あの声の来るもとをメアが一度だけ読んだ方角だった。
しばらくそちらを見ていた。何も見えなかった。
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板は今も二枚きりだ。行は一つも増えていない。二枚目の名は五つになって、渡した先は三つ埋まっている。
やめると言った者に、聞いたと返した。通してはいない。通していない、とも書いてある。
毎晩同じことだけを打っていたほうが、ほかの者の頭を打った。
声は、夏になって一度だけ喋った。




