第219話 戸口の分身
目を開けると窓から差す日はもう真上を過ぎていた。
スラの本体は藁の上で平たく伸びていた。手前のソウが寝ていたところはもう空いている。奥の端ではラネの脚が二本だけ縁からはみ出していて、ときどき思い出したように宙を掻いた。
戸口の敷居に丸いのが一つ載っていた。スラの分身だ。日向と日陰のちょうど境目に収まってこちらへ縁を向けている。
『起きたッスね。起きたなら、昼ッス』
「ずっとそこにいたの?」
『主が寝てからずっとッス。起こさねえで起きるまで置いとくって決めてたッス』
「置いとくって、何を」
『おいらの一個をッス』
分身は縁をちょっとだけ持ち上げた。得意なときの形だった。
『ソウはさっき起きて井戸へ行ったッス。顔洗ったら薪小屋へ行くって言ってたッス』
「薪小屋?」
『クラウが帳を開けて待ってるッス。レオルも来てるッス。朝からずっと土間にしゃがんでるッス』
エルクは藁から体を起こした。
「なんで分かるの。ここから見えないのに」
『薪小屋の屋根にも一個置いてあるッス。井戸の縁にも一個ッス。見たのを本体に戻すと、こっちの一個にも来るッス』
「つないでるんだ」
『夜は下に入らねえッスけど、昼の上なら全部つながるッス』
分身はころりと転がってエルクの膝の前で止まった。
『レオル、帳の前にいるのに中を覗かねえッス。クラウが先に読むかって訊いたら、主が起きてからでよいって言ったッス』
「僕を待ってたの?」
『待ってたッス。だから起こさなかったッス。待ってる人がいるって知ったら、主はもう寝られねえッス』
エルクは笑いかけて途中でやめた。たぶん当たっていた。
奥の藁でラネの脚がまた宙を掻いた。本体が縁を薄く伸ばしてその脚を包みこんだ。
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薪小屋へ向かう道は板の前を通っている。
板の上の縁にウーゴが木の指を当てていた。名の脇に並んだ欠きの一つを指の腹でゆっくり撫でている。ソウの名の脇だった。
「ソウノ、カケ。キノウ、ツカッタ」
「もう知ってるの?」
「スラ、イッタ。アサ、イチバン」
ウーゴは欠きから指を離さなかった。下の縁には目もやらない。用件の欠きの脇にある浅いしるしにも触れなかった。
「こっちにも彫る? 使ったしるし」
「ホラナイ。アタマハ、マイニチ、ツカウ」
ウーゴはもう一度だけ欠きを撫でて指を下ろした。木の上には何も残っていなかった。
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薪小屋の戸板はまだ新しい木の色をしていた。
中ではクラウが割り台に帳を広げていた。脇には器の紙が一本丸めて置いてある。エネは自分の紙を膝に載せていた。メルは綴りを抱えて戸口の脇の柱にもたれていた。
スラの言ったとおりレオルも来ていた。大きな頭だけを戸口から差し入れ、体は外の日向に残している。屋根の端からは小さな丸いのが一つ覗いていた。
「起きたか」
「うん。待たせちゃった?」
「待ったのは我の勝手だ」
クラウが帳の向きを変えてエルクのほうへ押した。今日の頁に行が並んでいる。
「読むぞ」
エルクは割り台の前にしゃがんだ。
「来た。二度目のやめる。聞いたと返した。頭だけ返った」
筆の尻が最後の行の下を軽く叩いた。
「……通してはいない」
エルクは帳の字を目でたどった。どの行もクラウのいつもの細い字だった。墨はもう乾いている。
何か言おうとして口を閉じた。言えば言ったぶんだけ行の上に何かが乗る気がした。エルクは割り台の縁から手を下ろした。
エネが膝の紙から顔を上げた。
「板に無い頭は五つ目です」
クラウが帳を前の頁へ戻した。来た日を数える行に印が並んでいる。冬に一つと春に三つ。そのあとに一つ。最後の一つだけ墨が濃かった。
「聞いたと返したのは一つです」
エネは自分の紙にも同じ数を書き入れた。筆を置いてから少しだけ付け足す。
「箱のことは、分からないほうに入れたままです」
「うん」
エネはそれ以上言わなかった。
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戸口でレオルが首を起こした。
「我が今年の春に言うたのは、あれでなかったらどうする、であった」
クラウの筆が止まった。
「覚えている。答えなかった」
「答えぬままであったな。それでよい」
レオルの目は帳ではなく戸口の外の坂へ向いていた。
「来たのはあれではなかった。やめると言うた。こちらは通さぬと返した。そして今度は聞いたと返した」
垂れた尾の先が外の土を一度払った。
「通さぬまま、聞いたと返した」
「そうだよ」
エルクが言うとレオルはしばらく黙った。
「……半分だ」
小屋の中で誰も動かなかった。
「何をやめたのかは、誰も知らぬ」
メルの綴りの頁が風で一枚めくれた。メルの指がそれを元へ戻した。クラウは帳に何も足さなかった。
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戸口に影が差した。
ケインだった。髪に藁が一本ついている。上の番を終えてから寝ていたらしい。目のまわりがまだ腫れぼったかった。
「……もう読んだんすか」
「今読んだとこ」
ケインは戸口に立ったまま割り台の帳を覗いた。字を一つずつ追っていく目だった。
「返ってきたじゃねえっすか」
しばらく黙ってから小さく付け足した。
「……また来るっすよ、これ」
「来たら、一行目の通りよ」
声は戸口の外からした。ケインが脇へ寄るとソウが入ってきた。前髪の先がまだ濡れている。
ケインの目がソウと帳を一度ずつ往復した。
「……一行目っすね」
「そうよ」
ソウは戸口に近い壁へ寄りかかった。ケインはそれ以上は言わなかった。髪の藁に気づいて指でつまみ、戸口の外へ捨てた。
メルが綴りを開いた。
「今夜の下はクラウとドレクです」
「順番だね」
「順番です。ゆうべのことで動かしてはいません」
メルの指が行を一つ下りた。
「ラネは今夜も下です。今は寝ています」
屋根の端の丸いのが縁を伸ばしてきた。
『寝てるッス。脚はもう半分起きてるッス』
エルクは噴き出しそうになって口を押さえた。ケインが何かという顔でこちらを見た。
「なんでもない。ラネはちゃんと寝てるって」
「……そうっすか」
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日が峰へ傾きかけたころ、段の口へ向かう道でラネに追いつかれた。
「エルク! 今夜も私が下よ!」
「メルから聞いた」
「聞いたあとが知りたいのよ! 返ったあとの夜って、どんなだか!」
エルクは足を止めてラネを見下ろした。
「寝た?」
「寝たわ! スラが寝かせたもの!」
「石の糸は?」
「ほどくのはやめたわ! 今夜もあれに張るもの!」
後ろから芯を二本抱えたアラーネがついてきていた。
「寝てたのは本当よ~。脚は寝てなかったけどね~」
「脚はいいのよ!」
「張ったら私は上がるわよ~。あとはあの子の糸だものね~」
姉妹は先に段の口のほうへ下りていった。
エルクは門のほうへ回った。
ドラゴは土手から下りてきて門の前で首を振っていた。昼に寝ていた草の切れ端がまだ鱗の間に挟まっている。
「昼はちゃんと寝た?」
『横になった。……寝たかどうかはスラに訊け』
門柱のてっぺんから丸いのが一つ顔を出した。
『寝てたッス。いびきで土手の草がそよいでたッス』
『そよいではおらぬ』
『そよいでたッス。おいら上から見てたッス』
ドラゴが首を下げて門柱の上へ鼻先を寄せ、ふっと吹いた。分身はころりと転げ落ちた。
『……今のはそよがせたのだ』
『ずるいッス!』
分身は石組みの陰で平たくなって震えていた。笑っているのか怒っているのか形だけでは分からない。エルクは門柱に手をついて笑いをこらえた。
ドラゴは坂の下へ首を向けた。
『朝のことを一つ言う。坂に見えたものは無い。……ただ』
「うん」
『坂の下の畑に朝の早い者が一人立っておった。溝の向こうの畑だ』
「夜の上の番をやめた人だね」
『鍬を振っておった。畝の端まで一度も手を止めなんだのだ』
「畑のほうが要るって言ってたからね」
『言うたのならそうであろう。我は鍬を見ただけだ』
ドラゴは顎を石に載せた。
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段の口ではクラウとドレクが灯りを提げて待っていた。
口の縁のウルが鼻先を上げた。
『名は』
クラウが名を言った。ドレクが少し遅れて続いた。
『二。……糸の者と器の者は先に下りておる』
ウルは鼻先を段の奥へ一度向けてから戻した。
『入れた』
クラウがドレクのほうへ顔を向けた。
「入れたそうだ」
「おう」
ドレクは灯りを持ち替えた。エルクが言い直す前にクラウが自分で言い直していた。
羽音がして口の脇の杭にグリフが降りた。
『上は揃った。ゆうべと同じ顔だ』
「ありがと」
クラウは頷いただけで段の一段目へ下りた。ドレクがそのあとに続く。灯りが二つ、段の暗がりへ沈んでいった。
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その夜エルクは自分の寝床で眠った。
昼過ぎまで寝ていたせいか眠りは浅かった。目が覚めたとき窓の外はまだ暗かった。もう一度目を閉じても藁の匂いばかりが近い。エルクは起き上がって段の口へ歩いた。
灯りの輪の中でウルが腹ばいになっていた。
『主は下りぬぞ』
「分かってる。座るだけ」
『座るだけなら数えぬ』
エルクは待つ人の石に腰を下ろした。ほかの石は空いている。坂の上には上の番の灯りが小さく並んでいた。
『眠れなんだか』
「昼に寝すぎたみたい」
『ゆうべの続きを見に来たのであろう』
「……そうかも」
ウルはそれ以上訊かなかった。耳だけが段の暗がりへ向いていた。
東の峰の縁が少しずつ薄くなっていった。
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段の奥から跳ねる音が上がってきた。
灯りの輪の中へ転がり出てきたのはライだった。体の前に丸めた紙を一本抱えている。クラウとドレクの足音はまだ聞こえなかった。
『主』
「早いね。二人は?」
『朝の刻は書きました。二人は灯りを落としてから上がります。私が先に来ました』
ライはエルクの膝の前で止まった。紙を抱えたまましばらく動かなかった。
『……まだ、ぬる、ではありません』
エルクは石から腰を浮かせた。
ライが紙を少しだけほどいた。灯りの下に中夜のあたりの線が出てくる。ぬる、の跳ねがいつもの形で並んでいた。そこから少し間が空いている。
その先に入っている跳ねは、毎晩そこにあった並びではなかった。




