第218話 白い石の上
ラネの脚が糸から浮いた。
「今、揺れたわ! 前と同じとこよ!」
脚の先はすぐに糸の上へ戻った。石から暗がりの結び目へ渡った弧は、灯りの下では少しも動いて見えなかった。
ライの筆は紙の端で刻を入れ終えていた。読んだ者のところへ自分の名を置くまでが一息だった。
『あの頭です。宵の二つとは別です』
エルクは壁のほうへ顔を向けた。
「来たよ。でも、まだ」
白い石の上でソウが顎を引いた。
「分かってるわ。頭には返さない」
打つほうの手は壁から指一本ぶん離れたところで止まっていた。
針は細い揺れへ戻っていた。
壁の向こうの塗る音は変わらない。擦る音が途切れてはまた続いた。ラネは床へ腹をつけるほど体を低くして、脚の先だけを糸に預けていた。
何も来なかった。
エルクは台の縁に手を置いたまま待った。薪小屋でレオルが言っていた。言ったことが着いたかどうか分からなければ、また言いに来る。春の夜に来たやめるには、こちらは一度だけ通さないと返した。それきり夏になっていた。
針が振れた。
長い跳ねが紙に入った。少し離れてもう一つ。同じだけ離れて三つ目。幅はどれも揃っていた。
ラネの脚がそのたびに小さく浮いた。三度浮いて三度とも糸へ戻った。
ライの筆が走った。刻とその下の名が紙の上でひと続きになる。
『長いのが三つです』
ひと呼吸だけ置いて足した。
『……二度目です』
春の夜に来たのと同じ並びだった。向こうが打てばやめるになる並びだ。
エルクは台の縁から手を離した。
「今だよ。頭だけ」
言い終わる前にソウの手が上がっていた。
指の背が壁を打った。ソウの印だった。宵に打ったのと同じ形で同じ速さだった。そこで手は止まった。間も用件も続かない。ソウは壁から指を離して胸の前へ引いた。
エルクの手は台の縁から下りて膝の上にあった。自分が打とうとは思わなかった。思わなかったことに少し遅れて気がついた。
ライが刻を書いた。打った者の欄にソウの印を写した。読んだ者の欄はいつもどおり自分の名で埋まった。
そのあとは長かった。
ソウは白い石から降りなかった。手を胸の前に引いたまま壁を見ている。ライの筆は紙から指一本ぶん浮いたところで止まっていた。ラネは脚を一本も動かさない。
灯りの火が少し傾いた。段の上から冷えた空気が下りてきたのだろう。夏の夜明けの手前には、いつも一度こういう風が通る。
針が一度大きく振れた。
紙の上に跳ねが三つ並んだ。長いのが先で、短いのが二つその後ろについている。
そこで針は細い揺れへ戻った。用件の入るはずの間が空いた。空いたまま何も入らなかった。
「今のも揺れたわ! ちょっとだけ!」
ラネの脚の先が糸の上で震えていた。さっきより浮き方が浅い。
ライは書き終えてから口を開いた。
『……頭だけです。板に無い頭です』
ソウが壁から目を離した。
「なんて」
「頭だけ、返ってきたって」
ソウは少しのあいだ黙っていた。
「……そう」
白い石の上でソウはゆっくり膝を折った。胸の前の手が膝へ下りた。
---
それから朝まで何も来なかった。
塗る音は同じ調子のまま続いていた。ライは紙を送りながら、何も来なかった刻にも短い線を引いていく。読んだ者の欄には毎回自分の名が入った。
エルクはラネの脇に膝をついた。
「脚、疲れてない?」
「疲れてないわ! でも、もう来ないと思うわ!」
「なんで分かるの」
「分かんないわ! 思うだけよ!」
そう言いながらラネは脚を糸から下ろさなかった。
段の上のほうが白んできたころ、ライが紙から目を上げた。
『主。上がってください。私は朝の刻を書いてから上がります』
ソウが先に段へ足を掛けた。ラネは石に巻いた糸の端を脚から外した。石の一巻きはそのまま残していく。
「ほどかないの?」
「あとで私がほどくわ! 寝てからよ!」
「寝てからなんだ」
「私の糸だもの!」
---
段の口へ出ると空はもう薄青かった。
ウルは口の縁に座っていた。宵と同じ場所で同じ向きだった。
『上がったのが二。……糸の者も上がった』
ラネがエルクの足もとで脚を振った。
「上がったわ!」
『入れた』
「入れたって」
ソウは返事をしないまま口の脇の石まで歩いた。腰を下ろしてから、ようやく握っていた指をほどいた。
灯りの脇の丸太ではウーゴが屈みこんでいた。片方の足を土から浮かせて下の石を噛ませ直している。夜通し誰かが腰かけていたらしく、そこだけ土が沈んでいた。
「ヒトバン、スワッタ。イッポン、シズンダ」
石が収まると丸太はもう傾かなかった。ウーゴは足を土へ戻して手のひらで二度叩いた。
ドレクは待つ人の石から動いていなかった。腕を組んで段の口の暗がりを見ている。少し離れた石ではレオルが坂の下へ顔を向けていた。夜のあいだに座り直したようには見えなかった。
口の脇の草の上にはライオが伏せていた。宵にはいなかった。
「いつ来たの」
『やめた刻が過ぎたゆえ、来た』
「中夜のあとだね」
『あとだ。前には来ておらぬ』
ライオは前脚に顎を載せたまま片目だけを開けていた。それ以上は言わなかった。
ライオと話しているあいだに、杭の上からグリフが下りてきていた。羽の先がまだ湿っている。夜明けの前に一度上を回ってきたのだろう。
『上は宵と同じだ。欠けた者はおらん』
「みんな立ったままなんだ」
『立っておった。戻った女も最後まで灯りの下だ』
グリフの羽音を追うように、坂の上からケインが下りてきた。板切れを脇に抱えている。上の番の終いの刻だった。
「上、宵と同じだって。グリフが」
「おれの線も同じっす」
ケインは板切れを持ち上げかけて途中でやめた。エルクの顔を見て、それからソウを見た。
「……来たんすか」
「来たよ。長いのが三つ。春のと同じ」
「で」
「ソウが頭だけ返した。そしたら頭だけ返ってきた」
ケインはしばらく口を開かなかった。
「……返したんすか」
「返したわ」
ソウが石の上から言った。
「向こうからしたら、通ったのと同じっすよ」
「通してないわ。聞いただけよ」
「分かってるっす。……おれは言っとくだけっす」
ケインは板切れを脇へ戻した。反対を引っこめた顔ではなかった。
ケインが黙っているうちに、当番小屋のほうから丸いものが三つ、草の上を跳ねて上がってきた。スラの分身だった。
『三つ、横にするッス』
「三つ?」
『ソウとエルクと糸の子ッス。藁はもう広げてあるッス。夏の朝は日が早えッスから急ぐッス』
分身の一つがラネの脚の下へ滑りこんだ。ラネは乗せられながら脚をばたつかせた。
「まだ姉さんに言ってないわ!」
「聞こえてるわよ~。朝から声が大きいのよ~」
段の上り口のほうからアラーネが来ていた。芯を一本抱えている。自分の糸をほどきに下りるところだった。
「あの子の、揺れたのね~」
「何べんも揺れたわ! 前と同じとこよ!」
「私のはほどいてくるわね~。あんたのには触らないわよ~」
「触らないで! 起きたら私がほどくの!」
アラーネは段へ入っていった。そのすぐ後ろにダクトがついていく。台の水平を見に行くのだろう。
そのあいだずっと、入口の脇の土手の上から大きな頭が覗いていた。ドラゴだった。夜のあいだは入口の外にいて、朝になってこちらへ首を回してきたらしい。
『下の音を刻んだ』
「ソウのだね」
『頭だけであった。打ったのはそれだけだ』
ドラゴは鼻先を少しだけ下げた。
『……短いな』
「短かったね」
『尾を一度上げて下ろしたら、もう刻むものが無かったのだ』
分身の一つがエルクの膝の裏を押した。
『早く乗るッス。ドラゴの話は寝てからでも聞けるッス』
『我の話は短いのだ』
『短いならなおさら後でいいッス』
ドラゴは鼻から小さく息を吐いた。土手の草が一度だけ寝た。
段の奥から足音が戻ってきた。ダクトが口の縁へ顔を出す。
「水平は動いておりませんぞ。石の糸は跨いでまいりました」
「ありがと」
「触っておりませんからな。あれはあの子が起きてからですぞ」
ソウは石に座ったまま自分の指の背を見ていた。
「……同じ印でよかったわ」
「同じ?」
「春に通さないって打ったのと同じ手よ。今夜もこれで打てたもの」
「当たったのがソウでよかったってこと?」
「違うわ。当たったのはたまたまよ。誰の夜でも同じことをしたわ」
レオルが一度だけソウの手のほうを見た。それからまた坂の下へ目を戻した。
エルクは分身の上から身を起こしてドレクのほうを向いた。
「ドレク。返ってきたよ。頭だけ」
ドレクは組んでいた腕をほどかなかった。
「……頭だけ返ってきたのか」
「うん。用件は無し。頭だけ」
ドレクは段の口の暗がりへ目を戻した。下ではまだ塗る音が続いているはずだった。ここまでは届かない。
「……聞こえたんだな」




