第217話 夏の夜の糸
畑の草は抜いたそばから隣の畝で頭を出していた。
エルクは畝のあいだにしゃがんで根の深いのを指で掘っていた。抜いた草は畝の脇へ寝かせておく。昼の日に当てておけば夕方には軽くなる。
隣の列では鍬の女が腰を伸ばしていた。その向こうではケインが籠を引きずっている。夜の上の番は日が落ちてからだ。それまでは皆ここで草を相手にしている。
畝の端からメルが綴りを抱えて歩いてきた。草を踏まないように一歩ずつ置き場所を選んでいる。
「エルク」
「なに?」
「今夜の下は、ソウとエルクです」
エルクは掘りかけの根から指を抜いた。
「僕か。順番だっけ」
「順番です。紙の上で回ってきました」
メルは綴りの頁をこちらへ傾けた。日付の横に名が二つずつ書いてある。今夜の行にも二つ入っていた。
「選んだわけではありません。この夜のために空けておいたわけでもありません」
「来るかどうか分かんないもんね」
「分かりません。分からない夜に当たった二人が下りるだけです」
メルは綴りを閉じた。
「昼からは寝てください。スラにはもう言ってあります。草はこの列で終いにしてください」
「あと一列だけ抜いちゃだめ?」
「だめです。一列抜いたら、もう一列と言います」
エルクは笑って根の残りを引き抜いた。湿った土が指のあいだからこぼれた。
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当番小屋の中はひんやりしていた。
藁の上にはスラの本体がもう三つぶんの形に広がっている。手前の一つにはソウが横になっていた。奥の端の一つからは細い脚が何本か縁の外へはみ出している。
『三つ寝かせるッス。糸の子も入れて三つッス』
「ラネ、もう寝てるの?」
『朝の糸をほどいてからずっとッス。今日は自分から来たッス』
奥の脚の一本がひょいと持ち上がった。
「寝てるわ! 今夜は行く夜だもの!」
「起きてるじゃん」
「寝る途中なのよ!」
本体の縁がその脚をそっと藁の中へ戻した。
エルクは空いている真ん中の形に腰を下ろした。本体の冷たさが背中から伝わってくる。畑でかいた汗がすっと引いていった。
手前のソウが目を閉じたまま口を開いた。
「当たったわね」
「当たったね」
「来なくても下りるのは同じよ。来たら、すぐ。それだけ」
「うん」
「エルクは打たないのよ」
「打たない。僕は言うだけ」
ソウはそれ以上何も言わなかった。しばらくすると息が長くなった。
本体の縁がエルクの肩の上まで薄く伸びてきた。窓から差す日がそこで遮られる。
『寝る前に考えごとすると、夜まで残るッス。考えるのは起きてからッス』
「スラ、寝かせるのうまくなったね」
『前からッス』
エルクは目を閉じた。藁の匂いと本体の冷たさのあいだで、段取りのことはすぐ遠くなった。
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起こされたのは日が峰の肩へかかったころだった。
ラネはエルクより先に藁から抜け出していた。戸口ではアラーネが糸の芯を二本抱えて待っている。
「行くわよ~。張るのは明るいうちなのよ~」
「分かってるわ!」
姉妹は先に段の口へ向かっていった。
エルクは顔を洗ってから門へ寄った。
ドラゴはもう石組みの前に胴を据えていた。顎は石に載せていない。首を立てて坂の下を見ている。日暮れからはここがドラゴの刻だった。
「今夜、下なんだ。ソウと」
『聞いた。スラが朝のうちに言いに来た』
「スラ、なんでも先に言っちゃうね」
『あれは寝かせる者を数えて回っておる。数えたら言いたくなるらしい』
ドラゴは坂の下から目を離さなかった。
『中夜の手前で門は夜の二人に渡す。そのあとは入口の外だ』
「外で聞いててくれるんだ」
『ソウが打てば土を伝って我のところまで来る。来たぶんは刻んでおく』
「向こうから来たのは?」
『刻まぬ。それは下の紙の仕事だ』
門の外の石には春に戻った二人がもう灯りを下げて立っていた。中夜の手前までは、あの二人とドラゴが同じ坂を見ていることになる。
「じゃあ、朝ね」
『朝に言う。見えたものも、刻んだものもだ』
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段の口の灯りの周りには今夜も何人か残っていた。
ケインは灯りの脇にしゃがんで板切れを膝に立てている。待つ人の石の端にはドレクが座っていた。そこから少し離れた石にはレオルが腰を落としている。尾を石の脇へ垂らしたまま、段の暗がりのほうを黙って見ていた。
ソウは替えの芯を帯に挟んで段の縁に立っていた。
坂の上から羽音が降りてきた。グリフが口の脇の杭に爪を掛けた。
『上は皆立った。休みから戻った女も上におる』
「戻ってきた人、もう立ってるんだ」
『灯りの下で板切れを覗いておった。ケインと同じ数を数えておる』
エルクはケインのほうへ振り返った。
「上、全部立ってるって。戻った人も」
「知ってるっす。おれが数えたっすから」
ケインは板切れの線を炭の指で叩いた。
「……グリフのほうが早かったっすけど」
グリフは杭の上で首を一度だけ傾けた。何も返さずに翼を畳み直す。今夜はこの杭にとどまるつもりらしかった。
ドレクが石から腰を上げないままソウを見た。
「来たら、すぐだぞ」
ソウが眉を上げた。
「それ、私が教えたのよ」
「知ってる。だから言った」
ソウは短く息を吐いて笑った。
ウルが口の縁で顎を上げた。
『名は』
「名前だって」
ソウが名を言い、エルクが続いた。
『下りるのは二。……入れた』
「入れたって」
「分かったわ」
ウルの目が段の奥へ動いた。灯りの届かないほうから糸を張る細い音が上がってくる。
『糸の者は、今夜も居る』
「数には?」
『入れぬ。居るのを知っておるだけだ』
レオルは最後まで口を開かなかった。エルクが段に足を掛けたとき、石の脇の尾の先が一度だけ持ち上がって下りた。
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段を下りきると、壁際でアラーネが糸の端を掛けどころに結んでいるところだった。
二本とも壁に沿って張られていた。上の際から垂れてきて、壁とのあいだに手のひらほどの隙を残したまま横へ走っている。どちらの糸にも結び目がいくつか並んでいた。
器の台の前ではライが紙を送っていた。台の脇ではダクトが屈みこんで、脚の下の木に指を当てている。
「張り終わったわよ~。私は上よ~」
アラーネは芯を抱えて段のほうへ戻りかけた。そこで足を止めて妹のほうを見た。
ラネは自分の一本の上にいなかった。台から少し離れた床の上で、腹の先から細い糸を一筋出している。
「ラネ、何してるの」
「引いてるのよ!」
「引いてる?」
ラネは前脚で壁の高いところを指した。灯りの届かない高さに結び目が一つある。春の終わりのあの晩に寄ったところだった。
「あそこ、暗いと見えないの! この前は朝まで見てたけど、ほんとは見えてなかったわ! 寄ったのが分かったのも、ほどくときだったし!」
「見えてなかったんだ」
「だから、あそこからここまで一本引くの! 脚を載せておけば、揺れたらこっちに来るわ!」
ラネは出した糸を前脚に掛けて壁を伝い上がっていった。暗がりの中であの結び目のところまで行く。新しい糸の端を結び目のすぐ脇に留めると、糸をたるませたまま床へ戻ってきた。
アラーネが芯を抱えたまま首を傾けた。
「引っぱったら駄目よ~。結び目が寄っちゃうわ~」
「引っぱらないわ! 載せるだけよ!」
「載せるだけなら、いいわね~」
ラネは手元の端を台のほうへ持ってきた。台の脚に巻こうとしたところで、ダクトが顔を上げた。
「台にはお掛けにならんでくだされ。脚が引かれますと水平が逃げますぞ」
「じゃあ、どこに掛けるのよ!」
「台の脇の石ならよろしいですぞ。私は触りませんがな」
ダクトは脚の下の木から指を離さないまま、顎で床の一点を示した。台の脇に手のひらほどの平たい石がある。
ラネはその石に糸を一巻きして、余りを自分の脚の先へ渡した。糸は石から結び目までゆるい弧を描いて暗がりへ消えている。
エルクはライのほうへ顔を向けた。
「ライ、これ紙のほうに響かない?」
ライは針の先を見ていた。しばらく見てから筆の尻で台の縁を軽く叩いた。
『台には来ていません。石と台は離れています』
「よかった」
『糸が揺れても、私の紙には入りません。別にしておけます』
アラーネが段の一段目に掛けていた脚を戻した。
「じゃあ一回だけ試すわね~」
姉は壁を伝って妹の一本のほうへ行った。あの結び目の手前まで来ると、前脚の先で糸を一度だけ弾いた。
台の脇でラネの脚がぴくりと浮いた。
「来たわ!」
エルクは脚の先と暗がりのあいだを目でたどった。弧を描いた糸は揺れたようにも見えなかった。
「今の、ぜんぜん見えなかったよ」
「見えなくていいのよ! 脚に来るんだもの!」
アラーネは結び目から離れて段のほうへ戻ってきた。
「あの子の脚のほうが私のより細いのよ~。だから届くのね~」
「姉さんは寝ててちょうだい!」
「言われなくても寝るわよ~」
間延びした声が段の暗がりを上がっていった。
ラネは脚を糸の上に載せたまま床の上で体を低くした。
「私はここよ!」
ソウは壁の前の白い石のそばでずっとこちらを見ていた。
「あの子、何を張ったの」
「あの晩寄った結び目から、ここまで一本引いたんだって。揺れたら脚に来るって」
「見なくても分かるのね」
「見えないから脚にしたんだって」
ソウはしばらく暗がりの弧を目で追っていた。
「なら、揺れたら言うのはあの子で、私に言うのはエルクね」
「うん。僕が言う」
ダクトが台の縁へ目の高さを合わせた。端から端まで眺めてから楔の袋の口を締める。
「平らですぞ。宵の刻もこれで書けますな」
『書きます』
ダクトは立ち上がって段へ向かった。途中でラネの糸を一度だけ見た。触れはしなかった。跨ぐときに脚をずいぶん高く上げていった。
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宵の頭は二人とも壁の前で打った。
先にソウが白い石に立って自分の頭を打った。エルクはそのあとで同じ石に立った。指の背に当たる壁は昼より冷たかった。打ち終えるとエルクは台の脇へ戻った。
ライが刻を書いて頭を二つ並べた。
『宵の二つです。ソウのと、主のです』
「うん」
あとは待つだけだった。
ソウは白い石の脇に腰を下ろした。膝を立てて壁に肩を寄せている。打つほうの手は膝の上に置かれたまま動かない。
エルクは台の脇で膝を抱えた。口の中で一度だけ段取りをなぞる。来たら、すぐ。頭だけ。言うのは僕で、打つのはソウ。声にはしなかった。
壁の向こうからは塗る音が届いていた。細かく擦っては止まり、また擦る。その調子は昼に聞いたときと少しも変わらなかった。
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中夜を過ぎたあたりで針が細かく踊った。
ライの筆が先に動いた。刻を書き、読んだ者のところに自分の名を置く。それが済んでから口を開いた。
『ぬるのあとに、まだ、ぬる。今夜もそれだけです』
「それだけなんだね」
『はい』
ソウが壁際で顔を上げた。
「なに?」
「あの人の、いつものだって」
「そう」
ソウはまた膝へ顎を戻した。
ラネの脚は糸の上に載ったままだった。
「今の、脚に来た?」
「来てないわ! 何にも!」
そのあとは長いあいだ、紙の上に細い線が引かれていくだけだった。
灯りの油がゆっくり減っていく。ソウが一度だけ立って、帯に挟んでいた替えの芯と取り替えた。新しい芯の火は前より少し背が高い。白い石の擦れた跡がはっきり浮かんで見えた。
エルクの瞼は何度か重くなった。そのたびにラネの声が小さく飛んできた。
「寝ちゃだめよ!」
「寝てないよ」
「首が下がってたわ!」
「……下がってたかも」
ラネのほうは一度も首を下げていなかった。脚の先を糸に載せたまま、目だけは暗がりの結び目のほうへ向けている。見えないと分かっていても、見るのをやめる気はないらしかった。
ライは紙から目を上げずに言った。
『主。夜明けまで、もう長くはありません』
「分かるの?」
『刻を書いていますので。宵からの数で分かります』
エルクは膝を抱え直した。
上ではもう門が夜の二人に渡っている刻だった。ドラゴは入口の外の窪みで尾を土に寝かせているだろう。グリフは杭の上で首を羽に埋めているかもしれない。ウルはきっと口の縁で目を開けたままだ。ドレクは石から立っていないだろうし、レオルの尾もたぶん同じところにある。
ここからは何も見えなかった。見えないまま、そうなっているのを知っていた。
夏の夜は短い。宵に替えた芯がまだ半分も燃えていないのに、ライの紙はもう夜明けの手前の刻を指していた。
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針の先が紙の端まで振れた。
ライの筆が紙から浮いた。白い石の脇でソウの手が膝から離れた。エルクは抱えていた膝をほどいて台の縁に手をついた。
紙に長い跳ねが一つ入った。間を置かずに短いのが二つ続いた。
宵に打った二人のどちらの形でもなかった。
エルクは口を開きかけて、そのまま閉じた。まだだった。頭だけには返さない。用件が来て、そのすぐあとだ。
壁の前でソウが白い石の上に立ち上がっていた。




