↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第八部・やめると言った者/宛先のない返事
221/236

第217話 夏の夜の糸

 畑の草は抜いたそばから隣の畝で頭を出していた。


 エルクは畝のあいだにしゃがんで根の深いのを指で掘っていた。抜いた草は畝の脇へ寝かせておく。昼の日に当てておけば夕方には軽くなる。


 隣の列では鍬の女が腰を伸ばしていた。その向こうではケインが籠を引きずっている。夜の上の番は日が落ちてからだ。それまでは皆ここで草を相手にしている。


 畝の端からメルが綴りを抱えて歩いてきた。草を踏まないように一歩ずつ置き場所を選んでいる。


「エルク」


「なに?」


「今夜の下は、ソウとエルクです」


 エルクは掘りかけの根から指を抜いた。


「僕か。順番だっけ」


「順番です。紙の上で回ってきました」


 メルは綴りの頁をこちらへ傾けた。日付の横に名が二つずつ書いてある。今夜の行にも二つ入っていた。


「選んだわけではありません。この夜のために空けておいたわけでもありません」


「来るかどうか分かんないもんね」


「分かりません。分からない夜に当たった二人が下りるだけです」


 メルは綴りを閉じた。


「昼からは寝てください。スラにはもう言ってあります。草はこの列で終いにしてください」


「あと一列だけ抜いちゃだめ?」


「だめです。一列抜いたら、もう一列と言います」


 エルクは笑って根の残りを引き抜いた。湿った土が指のあいだからこぼれた。


---


 当番小屋の中はひんやりしていた。


 藁の上にはスラの本体がもう三つぶんの形に広がっている。手前の一つにはソウが横になっていた。奥の端の一つからは細い脚が何本か縁の外へはみ出している。


『三つ寝かせるッス。糸の子も入れて三つッス』


「ラネ、もう寝てるの?」


『朝の糸をほどいてからずっとッス。今日は自分から来たッス』


 奥の脚の一本がひょいと持ち上がった。


「寝てるわ! 今夜は行く夜だもの!」


「起きてるじゃん」


「寝る途中なのよ!」


 本体の縁がその脚をそっと藁の中へ戻した。


 エルクは空いている真ん中の形に腰を下ろした。本体の冷たさが背中から伝わってくる。畑でかいた汗がすっと引いていった。


 手前のソウが目を閉じたまま口を開いた。


「当たったわね」


「当たったね」


「来なくても下りるのは同じよ。来たら、すぐ。それだけ」


「うん」


「エルクは打たないのよ」


「打たない。僕は言うだけ」


 ソウはそれ以上何も言わなかった。しばらくすると息が長くなった。


 本体の縁がエルクの肩の上まで薄く伸びてきた。窓から差す日がそこで遮られる。


『寝る前に考えごとすると、夜まで残るッス。考えるのは起きてからッス』


「スラ、寝かせるのうまくなったね」


『前からッス』


 エルクは目を閉じた。藁の匂いと本体の冷たさのあいだで、段取りのことはすぐ遠くなった。


---


 起こされたのは日が峰の肩へかかったころだった。


 ラネはエルクより先に藁から抜け出していた。戸口ではアラーネが糸の芯を二本抱えて待っている。


「行くわよ~。張るのは明るいうちなのよ~」


「分かってるわ!」


 姉妹は先に段の口へ向かっていった。


 エルクは顔を洗ってから門へ寄った。


 ドラゴはもう石組みの前に胴を据えていた。顎は石に載せていない。首を立てて坂の下を見ている。日暮れからはここがドラゴの刻だった。


「今夜、下なんだ。ソウと」


『聞いた。スラが朝のうちに言いに来た』


「スラ、なんでも先に言っちゃうね」


『あれは寝かせる者を数えて回っておる。数えたら言いたくなるらしい』


 ドラゴは坂の下から目を離さなかった。


『中夜の手前で門は夜の二人に渡す。そのあとは入口の外だ』


「外で聞いててくれるんだ」


『ソウが打てば土を伝って我のところまで来る。来たぶんは刻んでおく』


「向こうから来たのは?」


『刻まぬ。それは下の紙の仕事だ』


 門の外の石には春に戻った二人がもう灯りを下げて立っていた。中夜の手前までは、あの二人とドラゴが同じ坂を見ていることになる。


「じゃあ、朝ね」


『朝に言う。見えたものも、刻んだものもだ』


---


 段の口の灯りの周りには今夜も何人か残っていた。


 ケインは灯りの脇にしゃがんで板切れを膝に立てている。待つ人の石の端にはドレクが座っていた。そこから少し離れた石にはレオルが腰を落としている。尾を石の脇へ垂らしたまま、段の暗がりのほうを黙って見ていた。


 ソウは替えの芯を帯に挟んで段の縁に立っていた。


 坂の上から羽音が降りてきた。グリフが口の脇の杭に爪を掛けた。


『上は皆立った。休みから戻った女も上におる』


「戻ってきた人、もう立ってるんだ」


『灯りの下で板切れを覗いておった。ケインと同じ数を数えておる』


 エルクはケインのほうへ振り返った。


「上、全部立ってるって。戻った人も」


「知ってるっす。おれが数えたっすから」


 ケインは板切れの線を炭の指で叩いた。


「……グリフのほうが早かったっすけど」


 グリフは杭の上で首を一度だけ傾けた。何も返さずに翼を畳み直す。今夜はこの杭にとどまるつもりらしかった。


 ドレクが石から腰を上げないままソウを見た。


「来たら、すぐだぞ」


 ソウが眉を上げた。


「それ、私が教えたのよ」


「知ってる。だから言った」


 ソウは短く息を吐いて笑った。


 ウルが口の縁で顎を上げた。


『名は』


「名前だって」


 ソウが名を言い、エルクが続いた。


『下りるのは二。……入れた』


「入れたって」


「分かったわ」


 ウルの目が段の奥へ動いた。灯りの届かないほうから糸を張る細い音が上がってくる。


『糸の者は、今夜も居る』


「数には?」


『入れぬ。居るのを知っておるだけだ』


 レオルは最後まで口を開かなかった。エルクが段に足を掛けたとき、石の脇の尾の先が一度だけ持ち上がって下りた。


---


 段を下りきると、壁際でアラーネが糸の端を掛けどころに結んでいるところだった。


 二本とも壁に沿って張られていた。上の際から垂れてきて、壁とのあいだに手のひらほどの隙を残したまま横へ走っている。どちらの糸にも結び目がいくつか並んでいた。


 器の台の前ではライが紙を送っていた。台の脇ではダクトが屈みこんで、脚の下の木に指を当てている。


「張り終わったわよ~。私は上よ~」


 アラーネは芯を抱えて段のほうへ戻りかけた。そこで足を止めて妹のほうを見た。


 ラネは自分の一本の上にいなかった。台から少し離れた床の上で、腹の先から細い糸を一筋出している。


「ラネ、何してるの」


「引いてるのよ!」


「引いてる?」


 ラネは前脚で壁の高いところを指した。灯りの届かない高さに結び目が一つある。春の終わりのあの晩に寄ったところだった。


「あそこ、暗いと見えないの! この前は朝まで見てたけど、ほんとは見えてなかったわ! 寄ったのが分かったのも、ほどくときだったし!」


「見えてなかったんだ」


「だから、あそこからここまで一本引くの! 脚を載せておけば、揺れたらこっちに来るわ!」


 ラネは出した糸を前脚に掛けて壁を伝い上がっていった。暗がりの中であの結び目のところまで行く。新しい糸の端を結び目のすぐ脇に留めると、糸をたるませたまま床へ戻ってきた。


 アラーネが芯を抱えたまま首を傾けた。


「引っぱったら駄目よ~。結び目が寄っちゃうわ~」


「引っぱらないわ! 載せるだけよ!」


「載せるだけなら、いいわね~」


 ラネは手元の端を台のほうへ持ってきた。台の脚に巻こうとしたところで、ダクトが顔を上げた。


「台にはお掛けにならんでくだされ。脚が引かれますと水平が逃げますぞ」


「じゃあ、どこに掛けるのよ!」


「台の脇の石ならよろしいですぞ。私は触りませんがな」


 ダクトは脚の下の木から指を離さないまま、顎で床の一点を示した。台の脇に手のひらほどの平たい石がある。


 ラネはその石に糸を一巻きして、余りを自分の脚の先へ渡した。糸は石から結び目までゆるい弧を描いて暗がりへ消えている。


 エルクはライのほうへ顔を向けた。


「ライ、これ紙のほうに響かない?」


 ライは針の先を見ていた。しばらく見てから筆の尻で台の縁を軽く叩いた。


『台には来ていません。石と台は離れています』


「よかった」


『糸が揺れても、私の紙には入りません。別にしておけます』


 アラーネが段の一段目に掛けていた脚を戻した。


「じゃあ一回だけ試すわね~」


 姉は壁を伝って妹の一本のほうへ行った。あの結び目の手前まで来ると、前脚の先で糸を一度だけ弾いた。


 台の脇でラネの脚がぴくりと浮いた。


「来たわ!」


 エルクは脚の先と暗がりのあいだを目でたどった。弧を描いた糸は揺れたようにも見えなかった。


「今の、ぜんぜん見えなかったよ」


「見えなくていいのよ! 脚に来るんだもの!」


 アラーネは結び目から離れて段のほうへ戻ってきた。


「あの子の脚のほうが私のより細いのよ~。だから届くのね~」


「姉さんは寝ててちょうだい!」


「言われなくても寝るわよ~」


 間延びした声が段の暗がりを上がっていった。


 ラネは脚を糸の上に載せたまま床の上で体を低くした。


「私はここよ!」


 ソウは壁の前の白い石のそばでずっとこちらを見ていた。


「あの子、何を張ったの」


「あの晩寄った結び目から、ここまで一本引いたんだって。揺れたら脚に来るって」


「見なくても分かるのね」


「見えないから脚にしたんだって」


 ソウはしばらく暗がりの弧を目で追っていた。


「なら、揺れたら言うのはあの子で、私に言うのはエルクね」


「うん。僕が言う」


 ダクトが台の縁へ目の高さを合わせた。端から端まで眺めてから楔の袋の口を締める。


「平らですぞ。宵の刻もこれで書けますな」


『書きます』


 ダクトは立ち上がって段へ向かった。途中でラネの糸を一度だけ見た。触れはしなかった。跨ぐときに脚をずいぶん高く上げていった。


---


 宵の頭は二人とも壁の前で打った。


 先にソウが白い石に立って自分の頭を打った。エルクはそのあとで同じ石に立った。指の背に当たる壁は昼より冷たかった。打ち終えるとエルクは台の脇へ戻った。


 ライが刻を書いて頭を二つ並べた。


『宵の二つです。ソウのと、主のです』


「うん」


 あとは待つだけだった。


 ソウは白い石の脇に腰を下ろした。膝を立てて壁に肩を寄せている。打つほうの手は膝の上に置かれたまま動かない。


 エルクは台の脇で膝を抱えた。口の中で一度だけ段取りをなぞる。来たら、すぐ。頭だけ。言うのは僕で、打つのはソウ。声にはしなかった。


 壁の向こうからは塗る音が届いていた。細かく擦っては止まり、また擦る。その調子は昼に聞いたときと少しも変わらなかった。


---


 中夜を過ぎたあたりで針が細かく踊った。


 ライの筆が先に動いた。刻を書き、読んだ者のところに自分の名を置く。それが済んでから口を開いた。


『ぬるのあとに、まだ、ぬる。今夜もそれだけです』


「それだけなんだね」


『はい』


 ソウが壁際で顔を上げた。


「なに?」


「あの人の、いつものだって」


「そう」


 ソウはまた膝へ顎を戻した。


 ラネの脚は糸の上に載ったままだった。


「今の、脚に来た?」


「来てないわ! 何にも!」


 そのあとは長いあいだ、紙の上に細い線が引かれていくだけだった。


 灯りの油がゆっくり減っていく。ソウが一度だけ立って、帯に挟んでいた替えの芯と取り替えた。新しい芯の火は前より少し背が高い。白い石の擦れた跡がはっきり浮かんで見えた。


 エルクの瞼は何度か重くなった。そのたびにラネの声が小さく飛んできた。


「寝ちゃだめよ!」


「寝てないよ」


「首が下がってたわ!」


「……下がってたかも」


 ラネのほうは一度も首を下げていなかった。脚の先を糸に載せたまま、目だけは暗がりの結び目のほうへ向けている。見えないと分かっていても、見るのをやめる気はないらしかった。


 ライは紙から目を上げずに言った。


『主。夜明けまで、もう長くはありません』


「分かるの?」


『刻を書いていますので。宵からの数で分かります』


 エルクは膝を抱え直した。


 上ではもう門が夜の二人に渡っている刻だった。ドラゴは入口の外の窪みで尾を土に寝かせているだろう。グリフは杭の上で首を羽に埋めているかもしれない。ウルはきっと口の縁で目を開けたままだ。ドレクは石から立っていないだろうし、レオルの尾もたぶん同じところにある。


 ここからは何も見えなかった。見えないまま、そうなっているのを知っていた。


 夏の夜は短い。宵に替えた芯がまだ半分も燃えていないのに、ライの紙はもう夜明けの手前の刻を指していた。


---


 針の先が紙の端まで振れた。


 ライの筆が紙から浮いた。白い石の脇でソウの手が膝から離れた。エルクは抱えていた膝をほどいて台の縁に手をついた。


 紙に長い跳ねが一つ入った。間を置かずに短いのが二つ続いた。


 宵に打った二人のどちらの形でもなかった。


 エルクは口を開きかけて、そのまま閉じた。まだだった。頭だけには返さない。用件が来て、そのすぐあとだ。


 壁の前でソウが白い石の上に立ち上がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。