第216話 物置の裏の草地
物置の裏の草は夏に入ってから日ごとに丈を上げていた。
エルクは草地の端にしゃがんで鎌を引いていた。夕方になれば子らがここに輪を作る。草が膝まで伸びると後ろに座った子から前に立つ子の顔が見えなくなる。だから昼のうちに刈っておく。
刈った草は物置の壁ぎわへ寄せていった。積み上がった山のてっぺんでは、スラの分身が一つ丸まって日を浴びている。
『草の下って冷てえッス。昼でもひんやりッス』
「乗ってたら山が潰れちゃうよ」
『潰れてねえッス。おいらが載ると山の形が締まるッス』
分身は得意げに一度伸び上がって、また草の上へ沈み込んだ。
段取りが帳に入ってから何日か過ぎていた。板に無い頭はまだ来ていない。毎朝下から上がってくる紙はどれも同じ形をしていた。宵に下りた二人の頭があり、中夜を過ぎたあたりに塗る者のいつもの打ち方が一つある。それきりだった。
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草地の上を大きな影がすっと渡った。
顔を上げるとグリフが物置の屋根へ降りてくるところだった。棟に爪を掛けて翼を半分だけたたむ。羽の先はまだ高いところの風を含んでふくらんでいた。
『見た』
「なにを?」
『王が峰の上を一度飛んだ。北の肩から南の肩までだ。降りてはこなかった』
エルクは鎌を草の上に置いた。
「ゼルガ、飛んでたんだ」
『飛んでいた。俺の目で見た』
グリフは峰のほうへ首を伸ばした。今はもう何も飛んでいない。白い雲が一つ肩に引っかかっているだけだった。
『見た、と書け。飛んだ、とも書け。今日は両方書ける』
「春は見てないって書いたもんね」
『あれは俺が見ておらんかっただけだ。今日は見た。だから二つだ』
山の上の分身が縁を持ち上げた。
『王さま、何しに飛んだッスか』
グリフは答えなかった。翼の付け根を嘴で一度梳いて、あとは峰のほうを見ていた。
「クラウに言ってくるね。帳に入れてもらう」
『頼む。俺はもう一度回ってくる』
棟を蹴る音がして影がまた草地を横切っていった。分身が山から跳ねてエルクの肩へ移った。
『ついてくッス。薪小屋の裏、今日も打ってるッス』
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薪小屋の裏ではドラゴが乾いた地面に長く伸びていた。
丸太の前には今夜下りる二人が並んでいる。畑から上がってきたままの男と、桶を脇に置いた女だ。竜の尾が地面を一つ叩くと二人とも息を詰めた。間が置かれて重い音が三つ続く。三つ目が消えたところで男の指が丸太を鳴らした。女の指はほんの少しあとだった。
『男は良い。女は迷ったのだ』
二人には届かない声だった。エルクは丸太のほうへ向き直った。
「ちょうどだって。……あとから打ったほうは、もうちょっとだけ早くていいって」
女は自分の指を見て小さく笑った。
「もう一回」
尾が持ち上がってまた地面に落ちた。今度は二つの指がほとんど同じところで鳴った。
『良いのだ。二人とも終わりを聞いておる』
「今のは二人ともいいって」
男が肩の力を抜いた。女は桶を持ち上げて畑のほうへ戻っていった。
ドラゴは尾を地面に寝かせたまま片目だけでエルクを見た。
『毎日打っておると尾の先がこの土の固さを覚えるのだ。入口の外の土は柔い。ここのは硬い』
「土で違うんだ」
『違う。……違うのが分かるのは、少し面白いのだ』
肩の分身がくすくすと震えた。
『ドラゴ、楽しそうッス』
『楽しくはない。面白いだけだ』
『おんなじッスよ、それ』
ドラゴは返事の代わりに片目を閉じた。鼻先の乾いた砂が少しだけ舞った。
積み薪の端ではクラウが帳を膝に載せていた。脇に置いてあるメルの輪番の紙には、ドレクの行のほかにも小さな点がいくつか入っている。今日の二人の行にも帰りぎわに一つずつ入るのだろう。
エルクはクラウの前にしゃがんだ。
「グリフがね、ゼルガが峰の上を一回飛んだのを見たって。見たって書いて、飛んだとも書いてって」
クラウの指が帳の頁を前へ繰った。春の頁で止まる。見ていないとグリフが言った日の行が細い字で一つ入っていた。
「両方か」
「今日は両方書けるんだって」
「書ける。見た者がいて、見たものがある」
筆が今日の頁に二つの行を並べた。見た、の行の頭にはグリフの名が入った。
帳を閉じかけたとき頁が一度別のところで開いた。薪小屋で決めた段取りの頁だった。四つの文はあの夕方に書かれたときのまま並んでいる。墨の脇はどこも白かった。
クラウはその頁で手を止めなかった。止めないまま閉じた。
エルクは閉じた帳の背を見ていた。あの頭が来なければ、四つの文は一度も使われずにあそこへ並び続ける。エルクも口にはしなかった。
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当番小屋の戸は昼のあいだ半分だけ引いてある。
奥の端の藁の上でスラの本体が薄く広がっていた。その真ん中で寝ているはずのラネが、エルクが戸口から覗いたときにはもう縁から脚を何本も出していた。
「エルク! 今夜も行くわ!」
「起きちゃったの?」
「起きたわ! ゆうべの続きを見るのよ!」
本体の縁がそっと持ち上がった。はみ出した脚を一本ずつ内側へしまっていく。
『今日は寝る日ッス。糸の子も寝る日があるッス』
「寝る日じゃないわ! 行く日よ!」
敷居に細い脚の影が差した。アラーネだった。日向から入ってきたばかりで、背の毛がまだあたたかそうに光っている。
「毎晩は駄目なのよ~。寝る夜も糸のうちよ~」
「姉さんはいつも寝てるじゃない!」
「寝てるから、張る日に脚が揃うのよ~」
ラネは出しかけた脚を宙で止めた。本体がその脚もまた一本ずつしまっていく。今度は押し返さなかった。
「……今夜は寝る夜にするわ。決めたのは私よ!」
『分かったッス。じゃあ今は寝るッス』
本体がラネの上へ薄い縁をかぶせた。藁と変わらないほどの薄さで、窓から入る日を遮るだけのものだ。しばらくすると縁の下で脚の先がもぞもぞ動くのも止まった。
アラーネは敷居の上で脚をたたんだ。
「今夜は私が張りに下りるわ~。張ったら上がるわよ~」
肩の分身がエルクの耳のそばで伸び上がった。
『ライに言ってくるッス。今夜は糸の子、下にいねえって』
「うん。お願い」
分身は肩から飛び降りて戸口の外へ転がっていった。棚の小屋のほうへ、草の上を丸いまま跳ねていく。
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日が物置の屋根の高さまで下りてきたころ、刈ったばかりの草地に子らが集まってきた。
輪の前にはノノが立っていた。首の護符の紐を指に巻いてはほどいている。エネは輪のいちばん後ろで膝に紙を載せていた。ミナは輪から少し離れた草の上に座り、二人の聞き手を両脇に置いている。エルクは刈り草の山の脇に腰を下ろした。
山のてっぺんにさっきの分身が転がり戻ってきた。
『ライ、分かりましたって言ってたッス。糸の子が寝た夜も紙に入れときますって』
「ありがと」
分身は山の上で平たくなった。輪のほうへ縁だけを向けている。
「きょうのは、あたらしいのじゃないの」
子らが顔を見合わせた。
「まえに、きこえても、いわないってきめたの」
「ゆきのとき?」
「ゆきのとき」
ノノはうなずいてから少し黙った。紐がまた指に一巻きされた。
「……はんぶんだったの」
「はんぶん?」
「ミナのおはなしには、ぜんぶあったの。ノノのは、まえのとこだけだったの」
輪の外でミナが顔を上げた。何も言わずにまた膝を抱えた。
「いわないのは、きこえたこと。いうのは、きいたってこと」
輪の中は静かだった。草の先を指でちぎっている子もいる。分かったのかどうか顔だけでは分からなかった。
エルクは山の脇から少しだけ身を乗り出していた。
「……聞いたよ」
ノノがこちらを向いた。目が丸くなって、それから顔ぜんぶで笑った。
「エルク、いまのが、ななつめ」
ミナが右の聞き手のほうへ首を傾けた。
「いまの、きいた?」
「きいた」
「うん」
ミナはそれだけで前へ向き直った。
ノノはエネのほうへ振り返った。
「エネ、ノノのなまえ、かく?」
「書きません」
エネは筆の先を紙から浮かせたままだった。
「決めた子の名前は、七つ目の中にはいらないので」
「じゃあ、いうね」
「一度目です」
エネの筆が紙の上で止まった。ノノは護符の紐から指を外して、両手を体の脇に下ろした。
「きいたら、きいたっていう」
ノノの声が草地に落ちたすぐあとを、輪の子らの声が追った。詰まる子も先へ行く子もいなかった。
「きいたら、きいたっていう」




