第215話 竜の尾と丸太
薪小屋の裏の土は昼にはすっかり乾いていた。
クラウは積み薪の端に腰を下ろして帳を膝に開いていた。きのうの夕方に入れた段取りの頁だ。墨はもう光っていない。
輪番の紙を持ったメルが小屋の角を回ってきた。
「ゆうべの紙はいつもの二つだけでした。板に無い頭は来ていません」
「下りた二人は段取りを覚えていたか」
「夕方に話したぶんは覚えていました。使う夜ではありませんでしたけど」
メルは紙を土の上に広げた。下りる夜の二人が日ごとに並べて書いてある。指が行をいくつか下りていって止まった。
「下りる夜の二人は毎晩違います。毎晩の二人が覚えます」
「一晩ずつ話していけばいいか」
「話して足りる人には、それで足ります」
メルの指の下にはドレクの名があった。
そのドレクは小屋の陰の切り株に座っていた。呼ばれて来てはいるが、膝に肘をついたまま帳のほうを見ようとしない。帯の荷札を指でいじっていた。
エルクは切り株の脇にしゃがんだ。
「クラウが書いたの、僕が読もうか」
ドレクは首を横に振った。一度きりだった。
エルクはそれ以上すすめなかった。聞いたものが下りる夜まで残っているかどうかは、ドレク自身がいちばんよく知っている。
薪小屋の壁にもたれていたソウが腕をほどいた。
「読まないわ。打って見せるの」
「打つの? ここで?」
「下で使うのは音でしょ。音で覚えたほうが早いわよ」
クラウが帳から目を上げた。
「壁は駄目だ。向こうへ届く」
「壁じゃなくていいの。土でも丸太でも」
「それと、あの頭は打たない。練習でもだ」
ソウは少しだけ考えた。
「来たほうは頭のところを一つ叩くだけにしましょ。そのあと長いのを三つ。それなら誰の頭でもないわ」
ドレクが顔を上げた。
「読めねえやつに渡すのに、帳に書いてどうすんだ」
クラウは帳を閉じなかった。
「帳は読める者が使う。お前には打って見せる。両方要る」
「片っぽじゃ済まねえのか」
「済まない。一枚目に最後に入れた三行の三つ目だ。読めない者へ渡した決まりは、渡した者が読みに行く」
クラウは開いた頁の端を指で押さえた。
「書いたのは俺だ。だから俺がここにいる」
ドレクは鼻から息を抜いた。荷札をいじっていた指が止まった。
---
来たほうの音を誰が出すかで話が少し止まった。
ソウが手で打てば手の音になる。ドレクの返す音と似てしまう。似た音が二つ並べば、どちらが来たほうか下りた夜に迷う。
エルクは坂の下の窪みのほうを見た。
「ドラゴに頼んでくる」
ドラゴは窪みの影で長くなっていた。朝の報せを終えて横になっている刻だ。盛り上がった背の上にスラの分身が一つ載っている。
『見張りッス。ドラゴが起きたらおいらが真っ先に分かるッス』
「起きてる?」
『……今、起きたッス』
閉じていた瞼が片方だけ上がった。
「ドラゴ、休んでるとこごめんね。尾を貸してほしいんだ」
エルクは薪小屋の裏で決まりかけていることを話した。来たほうの音を出してほしいこと。壁でも入口の外でもなく、土の上で打ってほしいこと。
『土か』
「うん。下に届いたら困るから」
ドラゴは首を持ち上げて薪小屋の方角を見た。
『入口の外なら届く。前に打って、ライが拾った』
「覚えてたんだ」
『あそこから薪小屋の裏までは遠い。段の壁にも当たらぬ。薪小屋の裏なら下へは行かぬのだ』
ドラゴは前脚をついて身を起こした。背の分身が転げ落ちてエルクの足もとで弾んだ。
『おいらの見張り、終わりッス。次は誰を寝かせるッスか』
「今日はまだ誰も」
『じゃあ見物するッス』
---
ドラゴが小屋の裏へ回ってくると乾いた土の上に大きな影が落ちた。ドレクは切り株から腰を浮かせかけて、また下ろした。
ウーゴが丸太を一本抱えてきた。腕ほどの太さで膝の高さに切ってある。ドレクの前の土へ根元をねじ込み、上から一度体重を掛けた。腰の帯には鑿が差してあった。
ドレクはその鑿を見た。
「板に刻むのか」
ウーゴはドレクではなくエルクのほうを向いた。
「キザマナイ。アタマダケ、ダカラ」
「刻まないって。頭だけだからって」
「……用件のとこに欠きは要らねえってことか」
「そういうこと」
ウーゴは丸太の天辺を木の掌で撫でて、ささくれを一つ折り取った。鑿は帯に差したまま一度も抜かれなかった。
積み薪の向こうの日向ではライオが腹を下ろしていた。ウーゴの据えた低い石の脇の土だ。前脚に顎を載せて、たてがみの先だけを風に揺らしていた。
---
ドラゴは丸太から三歩ほど離れたところに胴を下ろした。尾だけを乾いた土の上へ伸ばす。
尾の先が土を叩いた。一つ。
少し置いて長いのが三つ続いた。重い音が足の裏から上がってくる。
ドレクは動かなかった。
三つ目が終わってからもまだ動かなかった。息を一つ吸って、それから丸太の端を指の背で打った。自分の頭だった。
『遅い』
ドラゴの声はエルクのほうへだけ向いていた。
「遅いって」
「……終わったか確かめてたんだ」
「確かめてるあいだに遅くなるんだって。ライも考えてから打つと遅いって言ってた」
ドレクは顎を掻いた。
尾がもう一度土を叩いた。一つ。間。長いのが三つ。
今度のドレクの指は早かった。三つ目の長いのがまだ鳴っているうちに丸太が鳴った。
『重なった。用件の上に打てば用件に返したのと変わらぬ』
「早すぎたって。長いのに重なったら、用件に返したのとおんなじになっちゃうって」
「……面倒くせえな」
ぼやきは小さかった。指は丸太の端に置いたままだった。
三度目。四度目。尾は同じ形を打った。ドレクの指はそのたび少し遅れるか少し早かった。五度目にようやく三つ目のすぐあとで丸太が鳴った。
『そこだ』
ドラゴは尾を土から上げなかった。
『……だが、間を覚えただけかもしれぬ』
「間を?」
『我は五度とも同じ間で打った。こやつは間を数えて指を出しておる。来るほうの間は毎度違うぞ』
エルクは尾の先を見た。次を待つように土の上でじっとしている。
「ドレク。ドラゴがね、次から間を変えるって。数えないで終わりを聞いてって」
「……数えてたの、ばれてんのか」
「ばれてるみたい」
ドレクの口の端がわずかに動いた。
---
そこから尾の打ち方が変わった。
頭のところの一つのあと長く置くときがある。すぐに続けるときもある。長いのが三つ鳴る速さも毎度少しずつ違った。
ドレクの指は二度外れた。一度は早く、一度は遅く。三度目に指が出たのは三つ目の長いのが土に吸われたその隙だった。
『そこだ。それより遅れれば、宵に打つ頭と見分けがつかぬ』
「今のでいいって。それより遅いと宵の頭と見分けがつかないって」
見物していた分身がぴょんと跳ねて、エルクの肩へ乗った。
『今の、いい音だったッス』
ソウが薪小屋の壁を離れて丸太のそばへ来た。
「来たら、すぐよ」
ドレクがソウを見上げた。
「宵のと混ざらないうちにね。用件は打たない。頭だけ」
「おれの頭だけ打ちゃいいんだな」
「そう」
「用件は打たねえ」
「通さないって返したのも、あのままよ。もう返してあるもの」
ドレクは丸太の端を指でなぞった。荷札の切り欠きを拾う指が、そのまま丸太の木目を拾っていた。
尾がまた土を叩いた。今度は頭のところのあとが長かった。ドレクの肩が一度だけ前へ出かけて止まった。長いのが三つ鳴った。鳴り終わったところで丸太が鳴った。
ドラゴは何も言わなかった。尾を少しだけ持ち上げて、もとの土へ下ろした。
「……それなら覚えてられる」
ドレクは自分の指の背を見た。乾いた木の粉が白くついていた。
---
薪小屋の角からダクトが顔を出した。紐を掛けた写しの束を脇に抱えている。
「賑やかですな。音のほうは私の持ち場ではありませんがな」
「ダクト。この段取り、写しにも入れる?」
ダクトはクラウの膝の帳へちらりと目をやった。
「入れませんぞ。板に無いものを運びますと、写しのほうが板になりますぞ」
「写しは板とおんなじじゃないと困るもんね」
「そういうことですな」
ダクトは束を抱え直して丸太とドラゴの尾を見比べた。
「音で運ぶのでしたら、私の束よりよほど確かでしょうな」
それだけ言って坂の上へ歩いていった。
屋根の上で羽音がした。グリフが薪小屋の屋根の端に爪を掛けて止まっていた。
『上から見えた。何を打っておる』
「段取りの練習だよ。下りる人が覚えるんだ」
『上の者にも見せるか』
「上は打たないから」
『なら、下りる者だけだな』
グリフはそれ以上訊かなかった。屋根の上で首を伸ばして、丸太とドレクの指と竜の尾を順に見ていった。
---
メルが輪番の紙を丸太のそばの土に広げ直した。
ドレクの名の脇へ筆の先を落とす。小さな点が一つ入った。
「覚えた人の脇に点を入れます。字ではありませんので、読めなくても分かります」
ドレクは紙の上へ身をかがめた。自分の名の字は読めない。どの行が自分のかは位置で覚えている。その行の端に黒い点が一つあった。
「……点か」
「点です」
「ほかのとこには無えな」
「まだ誰も打って見せてもらっていませんので」
ドレクは点を見たまま黙っていた。それから顎で丸太を指した。
「次に下りるやつらも、ここで打ちゃいい」
「そうします」
クラウが帳を閉じた。
「帳には何も足さない。点はメルの紙だ」
「足さないのね」
「足す場所が要らない」
ソウは小さく笑って壁のほうへ戻った。
---
坂のほうからライが這い上がってきた。
段の口から上がってきたらしい。丸太の手前まで来て止まった。
『下の紙を見てきました。昼のあいだ、何も跳ねていません』
「ここの音、届いてなかった?」
『届いていません。尾の音も、丸太の音も』
「よかった」
エルクはソウとドレクのほうへ向き直った。
「ライが、下には何も届いてないって」
「なら、ここでいいわね」
ソウは乾いた土を靴の先で一度こすった。尾の跡がいくつも重なっていた。
---
日が積み薪の上まで傾いてきた。
ドラゴが門へ向かう刻だった。胴を起こして坂の上へ首を向ける。日向のライオはもうさっきの石の脇にいなかった。門の見えない薪の山の裏へ移っている。
ドレクはまだ切り株から立っていなかった。
『行く。……一度だけ打っていく』
「ドレク。ドラゴが最後に一回打ってくって」
ドレクは返事をしなかった。指の背を丸太の端に置いた。
尾の先が土を叩いた。一つ。
間は長かった。薪小屋の向こうで誰かが桶を置く音がした。ドレクの指は動かなかった。
長いのが三つ鳴った。三つ目が土に吸われたところで、ドレクの指が丸太の端で自分の頭を打った。数えてはいなかった。
尾の音と丸太の音が、ほんのわずかの間を置いて二つ並んだ。




