第214話 薪小屋の戸板
薪小屋の戸板は下の角が割れていた。
ウーゴが割れ目に木の指を差し入れて外から押さえている。替えの板は脇の壁に立てかけてあった。押さえたままもう片方の手で古い釘の頭を探っている。
中にはもう灯りが入っていた。積んだ薪の手前に腰かけがいくつか寄せてある。クラウは帳を膝に載せてその一つに座っていた。
戸口をくぐろうとしたエルクの袖を木の指がつまんだ。
「カクノ、イタ?」
「帳だよ。板じゃない」
「ナラ、イイ」
ウーゴは袖を放して釘の頭へ戻った。板に何か足すなら自分の仕事になる。それを先に確かめておきたかったらしい。
敷居の上でスラの分身が丸くなっていた。手のひらほどの丸いのが入ってくる者の足もとを順に見上げている。
『反対の人も寝かせるッス。寝てないと反対も細くなるッス』
「ケインのこと?」
『昼過ぎに寝かせたッス。いびきかいてたッス』
そのケインは奥の腰かけにいた。膝に板切れを立てて炭の欠片を指で転がしている。まぶたがまだ重そうだった。
ソウは壁に背を預けていた。メルは綴りを開いたまま薪の山の端に腰を下ろしている。戸口の脇の土間にはレオルがしゃがんでいた。尾の先が敷居の外まで出ている。大きな体には狭い小屋だった。
「昼に下で決めたことを言う」
帳は膝の上で閉じたままだった。
「あの頭がまた何か打ってきたら、下にいる者が自分の頭だけを返す。来たすぐあとにだ。用件には返さない」
「通さないは?」
ソウが壁から背を離した。
「変わらない。もう返してあるからな」
「じゃあ通さないまま頭だけ返すのね」
「そうだ」
ケインの指が炭を転がすのをやめた。
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「やめた相手に今さら返したら、また来るっすよ」
声は大きくなかった。ケインは板切れの縁を親指でなぞっている。
「やめるって打って、それきり来てねえんすよ。こっちから音を出したら、まだ居るって向こうに……」
そこで口が止まった。
「……居るのは、もう知られてるっすね。通さないって打ったっすから」
ケインは自分で首を振った。誰かが何か言う前に次へ移った。
「でも、まだあるっす。前にクラウさんが言ったっすよね。うちの決まりは名乗る者を信じる形で書いてあるって」
「言った」
「聞いたって返すのも同じ形っすよ。誰だか知らねえ頭に聞いたって言うんすから。向こうからしたら通ったのと同じっす」
エルクは腰かけの端からケインの板切れを見ていた。宵の線はまだ一本も入っていない。
「それ、分かる」
ケインがこちらを向いた。言い返されると思っていた顔だった。
「名前も知らない人にちゃんと聞いたよって言うんだもんね。信じてるのとたぶん見た目は同じだよ」
「……そうっすよ」
クラウは膝の帳に手を置いたままだった。ケインの言ったことを打ち消しはしなかった。
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土間のレオルが尾の先をわずかに動かした。
「やめると言うて、入れぬと返された者は、それきり来ぬ」
皆がそちらを向いた。レオルは戸口の外の暗くなりかけた坂を見ていた。
「来るなら、聞こえておらなんだと思うた時だ」
「聞こえてなかったって、通さないが?」
「やめると言うたことがだ。言うたことが向こうへ着いたか分からぬ者は、もう一度言いに来る」
エルクは膝の上で手を組んだ。溝のそばで聞いた「やめるわ」が耳に残っていた。あの男も休みの欄の前へもう一度言いに来た。
レオルはクラウのほうへ顔を戻した。
「聞いたは、やめてよいではないな」
「ない。やめてよいとは返さない。それは昼に潰した」
「……ならば我は反対せぬ」
それだけ言うとレオルはまた坂のほうへ目をやった。
ケインが板切れを抱え直した。
「じゃあ受け取ったって返すんすか。村のほうでやってるみたいに」
「受け取ったとは言わない」
クラウの返事は早かった。
「何を受け取ったか分からないからな。……聞いた、だ」
ソウが腕を組んだ。
「通さないと、聞いたは、両方言えるのよ」
ケインはソウの顔を見た。それから土間の土を見た。
「……言えるのは分かるっす」
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クラウがようやく帳を開いた。
筆に墨を含ませる。戸口の外ではウーゴが替えの板を割れた角へ当てていた。釘を打つ音が一つして、少し間を置いてもう一つ鳴った。
「これは段取りだ。行ではない」
クラウは書きながら言った。
「板には何も足さない。一枚目には書く場所も無い。帳に入れて、下りる者が使う」
筆先が紙の上を進んでいった。三つ目の文を書き終えて筆が止まった。
メルが綴りから顔を上げた。
「下りない夜もあります」
「あるの?」
「あります」
メルは綴りの頁を一枚めくった。指はそこで止まったまま動かない。
「それに、あの頭がいつ来るかは、こちらが決める日ではありません」
クラウは筆を持ったまま動かなかった。
「下りていない夜に来たら、返す者がいない。来たと分かるのは朝に紙が上がってからだ」
「じゃあ、その夜は……」
エルクは言いかけてやめた。どう書けばいいのか自分にも分からなかった。
敷居の分身がぴょこりと伸び上がった。
『ウルに訊いてくるッスか』
「ウルに?」
『段の口ならすぐッス。日が落ちる前に戻るッス』
「じゃあ訊いて。下りてる人がいない夜に来たら、どうしようって」
分身は敷居から土間へ落ち、戸口の外の坂を丸いまま転がっていった。小屋の中の誰も口をきかなかった。ソウとケインには分身の声は届いていない。それでもエルクが黙ったので二人とも黙って待っていた。
戸口の外で釘の音がやんだ。
しばらくして坂の下から丸いのが跳ね戻ってきた。敷居へ上がると、少しだけ背を伸ばした。
『ウルからッス』
息を整えるように一度平たくなってから、分身は続けた。
『下りた者が零の夜も、零と数えておる。……って言ってたッス。数えない夜は無いそうッス』
「零も数えてるんだ」
『それと聞かぬ夜を作るなら作ったと言え、だそうッス』
エルクは小屋の中へ向き直った。
「ウルがね、下りた人がいない夜も零って数えてるって。数えない夜は無いって。それと、聞けない夜を作るなら作ったって言えって」
クラウの筆先が紙から少し浮いた。
「零と数えてあるなら、その夜は分かる。朝の紙と並べれば済む」
筆がまた下りた。さっきの続きに一文だけ足される。
書き終えるとクラウは筆を置いた。頭から読み上げる。
「板に無い頭が用件を打ったら、下にいる者がその場で自分の頭だけを返す。用件には返さない。通さないのは変わらない。下りていない夜に来たら、返せなかったと書く」
誰も口を挟まなかった。敷居の分身だけが小さく揺れていた。
ケインが板切れを膝から下ろした。
「今度のは、分かってねえんじゃねえっす。分かってて反対っす」
「反対と入れる」
クラウはもう一度筆を取った。
「分かったうえで反対した、と入れる」
筆が帳の端で短く動いた。ケインはそれを見届けてから少し声を落とした。
「あと……おれ、あの頭が声だったらって思ってるっす」
小屋の中が一段静かになった。メルの指が綴りの上で止まった。
「……思ってるだけっす」
「思っていることは帳には入れない」
クラウは筆を上げたままだった。
「言ったことは入れる。お前が反対と言ったのは、もう入っている」
ケインは黙っていた。炭の欠片を板切れの端に当ててはまた離した。
戸口の外でウーゴが戸板を拳で押していた。新しい板はもうたわまなかった。
「上、点けてくるっす」
ケインは腰かけから立った。板切れは脇に抱えている。戸口でウーゴの脇をすり抜けて、暗くなった坂を上へ駆けていった。
敷居の分身がエルクの足もとへ転がってきた。
『おいらも引き上げるッス。日が落ちたッス』
「うん。ありがとう。ウルにはあとで自分で言うよ」
『……ウル、礼は要らぬって言うと思うッス』
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段の口の待つ石はまだほんのりあたたかかった。
坂の土に丸い跡が一筋残っている。ウルはいつもの場所で腹ばいになっていた。門ではドラゴが坂の下へ首を向けている刻だ。
今夜の当番の二人には、夕方のうちにクラウが段取りを話してあった。名を聞いてウルが入れたと言い、エルクが二人へ言い直した。それももう半刻ほど前のことになる。
「ウル。さっきの、帳に入ったよ。返せなかったと書くって」
『聞いた』
ウルは鼻先を暗がりへ向けたまま答えた。
『聞いたと返すなら、次に来たものも聞け』
「次のも?」
『一度だけ聞いて次を聞かぬなら、一度目は何であったかと向こうが迷う』
エルクは石の上で膝を抱えた。待つ人の石はほかに一つも埋まっていない。灯りの下にいるのは、エルクと二頭だけだった。
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中夜を過ぎたころ、坂の脇の暗がりで草が鳴った。
ライオだった。門のほうからではない。薪の山の陰から出てきて、灯りの届かないところを回ってくる。ウルの隣まで来ると何も言わずに腹を下ろした。
ウルの耳がライオのほうへ一度だけ動いた。
『入れぬぞ。下りる者ではない』
『入らぬ。座りに来ただけだ』
それきり二頭とも黙った。
エルクは少し待ってから口を開いた。
「ライオ。夕方にね、薪小屋で決めたんだ」
頭だけ返すこと。用件には返さないこと。通さないのはそのままなこと。下りていない夜は返せなかったと書くこと。ケインが反対したことも、反対と帳に入ったことも話した。
ライオは目を半分閉じたまま聞いていた。
「ライオがきのう言ってくれたからだよ」
『我は起きた順を言うただけだ』
ライオの尾が一度だけ土を払った。
『我は、書かれたのを見て、聞かれたのだと知った』
「うん」
『あの頭の者には、打たれて分かるほかない』
エルクは段の暗がりを見た。その奥に器の台があり、さらに先に壁がある。下の二人は段取りを聞いている。来れば今夜のうちに頭が一つ返る。
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坂の上から足音が一つ近づいてきた。脇に板切れを抱えている。ケインだった。
「下、もう今夜からっすか。あれ」
「今夜から。下りた二人には、クラウが先に話してあるって」
「……そうっすか」
ケインは灯りの縁で足を止めたまま中へは入ってこなかった。目がウルの隣の大きな影へ行く。
「獅子、なんか言ってたっすか。さっきからこっち向いてたっすけど」
「言ってたよ。自分はクラウが書くのを見て、聞いてもらえたって分かったって。あの頭の人は、打ってもらわないと分かんないって」
ケインはしばらくライオを見ていた。ライオの瞼は下りたままだった。
「……おれは反対のままっすからね」
「うん。帳に入ってる」
「入ってるなら、いいっす」
ケインは脇の板切れを挟み直した。坂の上の灯りは端から端まで点いている。その一つが自分の持ち場だった。
何歩か上がったところでケインは一度だけ振り返った。
見ていたのはエルクではなかった。段の口の暗がりのほうだった。
それから前を向いて、上の灯りへ歩いていった。




