第213話 昼の器の台
昼のうちに下へ行こうと言いだしたのはクラウだった。
きのうの夕方、エルクはソウと話したことをそのまま薪小屋へ持っていった。向こうには聞いたと言っていない、のところまで話すと、クラウは帳を開かずに明日の昼に下りるとだけ返した。夜の下は当番の二人の場所だ。決めごとのために借りるわけにはいかない。
棚の小屋ではライがもう紙を巻き終えていた。板に無い頭の来た夜を写した四本だ。きのうエルクが見せてもらった紙が紐でひとまとめにされて台の端に寄せてある。
布の上の箱は左と真ん中が光ったままだった。スラの本体はその手前で薄く広がっている。
戸口にエネが立った。自分の紙の束を胸に抱えている。
「あたしも行っていいですか。並べたのはあたしなので」
「来てよ。エネが並べてくれなかったら、順番に気づいてないもん」
箱の手前の本体から丸い盛り上がりが一つ離れた。床を転がって台の脚をよじ登り、巻いた紙の束の上にちょこんと載る。
『おいらも行くッス。紙の端っこ押さえるッス。下は石ばっかりだから小石だと転がるッス』
『兄さん、箱は』
『本体が見てるッス。行くのは分身ッス』
ライは少しだけ黙っていた。それから分身ごと紙の束を抱え上げた。
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段の口の灯りは昼でも一つだけ点けてある。
ウルは段の口の脇に寝そべっていた。昼に下りる者はめったにいない。片目だけ開けて尾を一度振った。
クラウ、エネ、エルクの順に名を言った。ライは数に入らない。
『三人、下りる。……入れた』
振り返りかけてエルクは途中でやめた。言い直す相手がいない。今ここにいる者には、みんなウルの声が届いている。
「今日は言い直さなくていいんだね」
『……昼は楽でよい』
ウルはそれきり目を閉じた。
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記録の間は昼に来ても夜と同じ暗さだった。
器の台の脇ではダクトが脚の一本に屈みこんでいた。脚の下に噛ませた薄い木を抜いて、もっと薄いものと替えている。替えるたびに台の面へ目の高さを合わせて傾きを見ていた。
「ゆうべの番がこの脚を踏んでいかれましたな。少しだけ沈んでおりますぞ」
「直りそう?」
「直しますぞ。直した刻は、あとでライに書かせますからな」
壁際ではアラーネとラネが糸の掛けどころを見て回っていた。糸は朝のうちにほどいて上へ持っていってある。張るのは夕方だ。掛けどころの石の出っ張りに一つずつ前脚を当てて、欠けていないか確かめている。
「あら、決めごと~? 私たちは掛けどころだけ見てるわね~」
ラネは姉より先に壁を伝って戻ってきた。エルクの前で前脚を揃える。
「あの結び目、今朝ほどくときも寄ってなかったわ!」
「毎朝見てるの?」
「見てるわ! 私の一本だもの!」
言うだけ言うと、ラネはまた壁へ取りついた。
ライは器の台の空いたところへ四本の紙を伸ばした。紙の端が巻き戻ろうとするところへスラの分身が二つに割れて載る。一本ぶん押さえるとまた割れて次の端へ移る。四本が並び終わるころには、紙の両端に小さな丸いのが八つ並んでいた。
『小石より重いッス。風が来ても動かねえッス』
『下に風は来ません』
『来たらの話ッス』
エネがくすりと笑いかけて口を押さえた。
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クラウは帳を台の端に置いた。開きはしなかった。
「返すものを決める。板には足さない。下の縁の欠きも足さない。今ある形の中から選ぶ」
「用件って三つだよね」
エルクは指を折った。返さない。通さない。やめてよい。
「長いの三つを返せばいいんじゃない? 向こうがやめるって言ったんだから、やめていいよって」
ライは四本目の紙に目を落とした。
『繰り返すと、あちらには、こちらが同じことを言ったと聞こえます』
「同じこと?」
『長いのが三つです。あちらが打てばやめる。こちらが打てばやめてよい。音は同じです』
「聞こえても、繰り返さない、だ」
クラウの声は低かった。
「それに、やめてよいと返して代わる者を出せるか。何をやめたのかも知らないのに」
エルクは黙った。
「レオルが春に反対したのも、そこだった」
「……そっか」
折っていた指が一本戻った。
台の脇でダクトが木の槌を止めた。止めたのは一打ちぶんだけで、すぐにまた小さく叩きはじめた。
「通さないをもう一度打つ手もある」
次に言ったのはクラウ自身だった。
エネが紙の束から一枚を抜いた。春の終わりの、あの夜のぶんだ。
「ソウさんが、通さないのは一回で足りるって。あの夜に」
「足りている。……あれは入れろへの返事だ」
「でもさ」
エルクは壁のほうを見た。
「黙って通さないのは来なかったのと同じだって、一枚目に書いたよね」
「黙ってはいない」
クラウは帳の背に手を置いた。
「あの頭のやめるには、通さないをもう返してある。同じ頭の同じ用件には、もう返してある。同じことをまた言ってきたら、返してあるほうが生きている」
「違うことを言ってきたら?」
「二行目の通りにまた返す。あの行は守ったままだ」
クラウはそこで息を一つ継いだ。
「守ったうえで、まだ何か要る」
エネが抜いた紙を胸に戻した。それからもう一度束の中を探った。
「あの、宛てるのはどうですか」
「宛てる?」
「エルクさんが前に、ぬるへ打ったときのやり方です。自分の頭と間を打って、用件のところに相手の持ち場を置きました。……あの頭の形を用件のところに打ったら、やめると打った人に宛てたことになりませんか」
「宛てれば、欄へ入れたのと同じだ」
クラウは首を振らなかった。声だけで退けた。
「印は板が持つ。板に無い頭を、こちらが打つわけにはいかない」
エネは目を伏せた。
「……じゃあ、三つとも無しですね」
誰もすぐには返さなかった。壁の奥では塗る音が続いている。細かく擦る音が、昼も夜と同じ調子で石を伝ってきた。
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ライが台の上で身を伸ばした。
『あの人は、こちらの長いのに、頭だけを返しました』
ドレクが長いのを三つ、二度打った夜のことだ。二度とも頭だけが返ってきた。
『頭だけなら繰り返しではありません。用件がありませんので』
「頭だけかあ」
エルクは紙の上の跳ねを目で辿った。
「でも頭なら、宵にみんな打ってるよね。下りた人が、来たよって」
『はい』
「それと、どう違うの」
ライはすぐには答えなかった。紙の上で形を探すように手が止まっている。
紙の端から分身が一つ、ぴょんと台から飛び降りた。
『並べてみるッス』
続けてもう一つ降りる。石の床の上で二つが割れて四つになり、四つがまた割れた。
『こっちの端が宵ッス』
いちばん左の二つが並んでぺたりと平たくなった。下りた二人ぶんの頭のつもりらしい。
『そこからずっと、何にも来ねえッス』
残りの分身が石を一つ二つ三つと飛ばして転がっていく。床の上に長い間が空いた。
『来たッス。板に無い頭ッス』
一つが細長く伸びた。その隣で二つが小さく丸まる。長いのが一つ、短いのが二つ。
『で、長いの三つッス』
さらに三つが続けて細長く伸びた。
エネが紙の束を抱えたまま床へしゃがみこんだ。
「……そこに、こっちの頭を返すんですね」
『そうッス。すぐ返したら、ここッス』
最後の分身が細長い三つのすぐ隣へ転がっていった。そこでぺたりと平たくなる。
『遅く返したら、ここッス』
平たくなった分身が跳ねた。右へ右へと転がっていって、石を五つ六つ越えたところで止まった。そこでもう一度平たくなった。
エルクは床の並びを端から見ていった。左の端に平たいのが二つ。右の端に平たいのが一つ。そのあいだに伸びたのと丸まったのが並んでいる。
「……右のは、左のとおんなじに見えるね」
「宵の頭が、一個だけ遅れて来たみたいです」
エネの声が少し上ずっていた。
『そうなんス。離れると、何に返したのか分かんなくなるッス』
ライが床の並びから目を上げた。
『頭だけを返すのは、来たすぐあとだけです。間を空けると、宵の頭と同じになります』
「すぐって、どのくらい」
『迷わないくらいです。考えてから打つと、もう遅いと思います』
分身たちは並びを崩して一つずつ台へ戻りはじめた。紙の端にまた丸いのが載っていく。最後の一つは右の端にいたぶんで、台の脚を登るのがいちばん遅かった。
『おいら、並べただけッス』
『兄さんの並べ方で、言えました』
ライの声はいつもと同じ平らさだった。分身は紙の端で少しだけ高く盛り上がった。
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「用件には返さない。頭だけ。来たすぐあと」
クラウは一つずつ区切って言った。帳はまだ閉じたままだ。
「雪の夜に決めた二行は、下にいる者どうしで使うつもりだった。向こうへ言うものだとは思っていなかった」
「でも、向こうに言っても形は同じだね」
「同じだ。繰り返さずに、聞いたとだけ言う。繰り返せば向こうの言ったことがこちらの記録になる。それは前に避けたことだ」
エネが床から立ち上がった。膝の砂を払ってから、抜いていた紙の端を指でつまんだ。
「ぬるが頭だけ返してきたのも、聞いたって意味だったんでしょうか」
「読みは入れない」
クラウはすぐに返した。
「あれが何を言ったかじゃない。こちらが何と言うかだ」
エネは紙をつまんだまま少し考えて、それから束へ戻した。
「……はい。こっちの話ですね」
エルクは台の脇を見た。ダクトは脚の下の木を噛ませ終えて、台の面に目を寄せていた。
「ダクトはどう思う?」
「台は平らになりましたぞ」
「そっちじゃなくて」
ダクトは槌を腰へ戻した。
「決めるところに私の手が入りますと、決めたのが私になりますからな。私は台のほうで」
壁際からアラーネの間延びした声が降ってきた。
「決まったの~? 夕方、張っていいかしら~」
「張っていいよ。何も変わんないから」
「変わらないのね~。それならいいわ~」
ラネはもう掛けどころの一つに前脚を掛けていた。あの結び目があった高さだった。
クラウが帳を脇に抱えた。
「夕方、薪小屋で話す。ソウとケインも呼ぶ。メルとレオルもだ」
「ケイン、反対しそうだね」
「するだろう。させておく」
ライは紙を一本ずつ巻き戻しはじめた。押さえていた分身が端から一つずつ外れて、エルクの肩へ移ってくる。
エルクは器を見た。
針は細かく揺れていた。来たものは何も無い。それでも止まってはいない。壁の向こうの塗る音は、いつもの調子でずっと続いている。




