第212話 入れろとは言っていない
坂を上がりきるころには、空の白いところがもう峰の肩まで来ていた。
エルクは一晩ぶん段の口の石に座っていた。膝を伸ばすと骨が小さく鳴った。門の内側ではドラゴが首を下ろしかけている。朝の報せを終えたら坂を下りて横になる刻だ。
「ドラゴ。ソウがね、聞いたって。ドラゴが見たの、ちゃんと聞いたって」
下りかけていた首が途中で止まった。
『ソウが言うたのか』
「うん。下りる前に。ドラゴにも言っといてって」
『そうか。……届いたのだな』
ドラゴの鼻先が坂の横道のほうへ少しだけ動いた。
『ゆうべも一人あの道へ折れた。日が落ちてしばらくしてからだ』
「段の口に一人来たよ。戻るって言いに来た人」
『その者かどうかは我には分からぬ。折れた先は見ておらぬのだ』
「そうだね。僕も顔より袖の土のほうを覚えてるや」
ドラゴは鼻から長く息を抜いた。それから今度こそ長い首を敷石の上へ預けた。石の下の砂が小さくきしんだ。
---
板の前ではソウが墨壺を抱えて立っていた。
下から上がってきたばかりらしい。灯りの煤が頬に薄くついている。寝に行く前に寄ったのだろう。ソウは休みの欄のある行の前から動かなかった。
その行の脇の数は四十を越えている。冬から一日も欠かさず足してきた数だった。
坂の上から帳を抱えたクラウが下りてきた。目の縁が赤い。ゆうべは薪小屋の灯りが遅くまで消えなかった。
「戻る、と入った。受け取ったのはドレクだ」
「聞いたわ。日は」
「夜のうちに来た。言った日と受け取った日は同じだ」
ソウは筆の穂先を整えた。数の脇の空いたところへ「戻」と一字だけ小さく入れる。数のほうには筆を寄せなかった。
「線は引かないんだ」
「引かないわよ。休んでた日は休んでた日のままでいいの」
墨が乾くのを待つあいだにケインも上から下りてきた。板切れは脇に挟んである。夜明けまで上に立っていたはずだ。指の先は今朝も黒い。ケインは板の前で足を止めて、入ったばかりの一字を覗きこんだ。
「ゆうべ上で見た顔、その人だったっす。立ってただけで、番には入ってなかったっす」
「今夜からよ」
「……やめたんじゃなかったんすね」
「休みだったのよ。本人がそう言ったもの」
ケインは板切れの角を指でこすった。
「おれ、やめたほうに数えてたっす。冬のうちからずっと見なかったっすから」
「見なかったら、やめたことになるの?」
エルクが訊くと、ケインは口を開けたまま少し考えた。答えたのはソウのほうだった。
「こっちがそう決めたら、そうなるわね。だから決めないの」
メルが綴りを抱えて坂を下りてきた。綴りの上の番の列へ名を一つ書き足してから、板のいちばん下の枠の前へ移る。要る数と立った数を毎朝出す枠だった。
「上が一人増えました。春に入ってから初めてです」
「一人っすか」
「一人です。足りてはいません。増えたのが初めてというだけです」
ケインは板切れを持ち直した。今夜の線を引く場所を、端にもう一つ空けておくつもりらしかった。
ソウは墨壺の蓋を閉めた。
「寝るわ。夕方まで」
「スラが待ってるよ。藁あっためてるって」
ソウは頬の煤に気づかないまま当番小屋へ歩いていった。エルクもあとについた。夜通し起きていたのはエルクも同じだった。
---
昼すぎに藁から出ると、エルクの足はライの棚のほうへ向いていた。
棚は小屋の奥の暗いところにある。ライは棚の下の平らな板に紙を伸ばして、ゆうべの一枚に刻を書き足していた。来たのはいつもの二つだけだと、朝のうちにエネから聞いている。
「ライ。冬の紙と春の紙、見せてもらってもいい?」
『板に無い頭が来た夜のですか』
「うん。四つとも」
ライは棚の段から巻いた紙を四本抜いた。一本ずつ板の上へ伸ばして端を小石で押さえていく。冬の一本だけ端が黄ばんでいた。
『冬の紙も春の紙も、板に無い頭のあとに間があって、用件が来ています』
「それは前にも聞いたね。打ち方も順番もこっちと同じだって」
『はい』
ライの手が三本の紙の上を順に渡っていった。四本目には触れなかった。
『やめる、の夜のほかは、その夜に下りた人と同じ用件です』
「同じ?」
『同じ並びです。三本とも』
エルクは身をかがめて三本を見比べた。跳ねたところの並びは、どの紙でも板に無い頭のすぐ脇にある。その少し前に、同じ形がもう一つずつあった。
「真似してたのかな」
『真似かどうかは紙にありません。同じものが来た、とあるだけです』
「そっか」
ライは四本目の端を少しだけほどいた。頭のあとに間があって、長いのが三つ。その先には小さな跳ねがまばらに散っているきりだった。
『違うのは、この夜だけです』
エルクはしばらく四本目の紙を見下ろしていた。それから小石を一つずつ外して、端が巻き戻るのを手で受けた。
---
積み薪の端の日向には先客がいた。
ウーゴが日向の真ん中にしゃがんで平たい石を据えている。膝にも届かない低い石だった。下に小石を噛ませては、木の指で縁を押して揺れを見ている。ライオはその脇に腹を下ろして目を閉じていた。尾の先にはスラの分身が一つもたれかかっている。
「ウーゴ、それなに?」
「スワル、トコ」
「ライオの?」
ウーゴは石の縁を掌で二度叩いた。揺れは無かった。
「ヤメタモノ、スワル」
『我は土でよい』
ライオは目を閉じたままだった。ウーゴは首を横に振った。
「ライオダケ、チガウ。ヤメタラ、ダレデモ」
ウーゴは最後に石の面の砂を払った。それから立ち上がって薪の山の向こうへ戻っていった。
尾の先の分身がエルクのほうへ伸びた。
『昼寝の見張りッス。ライオ、ちゃんと目つぶってるッス』
『つぶっておるだけだ』
エルクは石には座らずにその脇の土に腰を下ろした。据えたばかりの石は、まだ誰のぬくもりも持っていなかった。
「ねえライオ。やめるって言った人に、通さないって返したの、ずっと変な感じなんだ」
ライオは目を開けなかった。耳だけがこちらへ向いた。
「さっきライに紙を見せてもらったんだ。冬のと春のは、その夜に下りた人と同じ用件が来てたって」
ライオの目が開いた。見ているのは日向の土だった。
『あの頭の者は、入れろとは一度も言うておらぬ』
「……え」
『冬も春も、順も間も守って、皆と同じように打っておった』
尾の先が少し動いた。もたれていた分身がずり落ちかけて、すぐに這い上がった。
『並んで打っておった者が、やめると言うた。……そこへ、入れぬと返したのだ』
エルクは膝を抱えた。責める声ではなかった。ライオが言ったのは、起きた順だけだった。
「……じゃあ、なんて返せばよかったの」
『我がやめると言うた日、クラウは何をした』
「名前と、渡した先と、理由を書いた」
『それで我は、聞かれたと分かった』
ライオは前脚を揃え直した。日向の縁が少しだけ寄ってきている。
『あの頭の者には、書いたものは見えぬ』
「壁の向こうだもんね」
ライオはそれきり何も言わなかった。目をまた閉じる。エルクも次を訊かなかった。
低い石の上を薪の影が這っていった。日暮れが近い。ライオは影が石の端を越える前に腰を上げた。門の見えない側の、もう一つ奥の陰へ移っていく。石には一度も乗らなかった。
---
夕方、ソウは髪をまとめながら当番小屋を出てきた。
頬の煤はもう落ちていた。スラが起こしたのだろう。藁の匂いが袖から少しだけ流れた。エルクは戸口の脇の柱にもたれて待っていた。
「ライオがね、言ってた。あの頭の人、入れろって一度も言ってないって」
ソウの手が髪の途中で止まった。
「冬も春も、こっちと同じように順番守って打ってただけだって。ライの紙でも、その夜に下りた人と同じ用件が来てた」
「……同じ用件」
「うん。やめるの夜だけ違うって」
ソウは髪を結い終えた。結び目を指で一度確かめる。
「……通さないって、入れないってことよね」
「そうだね」
「やめるって言った人に言うことじゃないわね」
坂の上の番のほうに灯りが一つずつ立ちはじめていた。いちばん端に、ゆうべは無かった灯りが一つある。メルが朝に書き足した一人ぶんだった。
ソウはしばらくその灯りを見ていた。
「打ち直しはしないわよ。……でも、それだけじゃ足りないのね」
エルクはうなずこうとして、首を止めた。
ゆうべ灯りの外から戻ると言われて、ドレクは受け取ったと返した。言われた者が、言われたと言った。それで女は暗いほうへ帰っていけた。
段の口の暗がりの先には壁がある。壁の前で言われたやめるに、こちらが返したのは通さないの一つだけだった。
「……聞いたって、言ってないんだ。向こうには」




