第211話 呼ぶのは言うのと同じ
門の脇の石には今朝もドラゴの顎が載っていなかった。
この前の朝は坂の中ほどへ向いていた鼻先が、今朝はそこから少し横へ逸れている。エルクが石の脇に立つと、ドラゴは鼻先をそのままにして片目だけをこちらへ寄越した。
『ゆうべの日暮れも一人来た』
「また?」
『また一人だ。同じ者かは知らぬ』
エルクは鼻先の向いているほうを目で追った。坂の緩いところを過ぎた先で細い道が横へ分かれている。板の前を通って段の口へ向かう道だった。
『今度はあそこで止まらなかった。足をゆるめただけだ』
「門には?」
『来ぬ。あの道へ折れた』
「段の口のほうだね」
『顔までは見えなかった。もう暗かった。折れた先は我の見る坂ではないのだ』
ドラゴは逸らしていた鼻先を坂の中ほどへ戻し、それから石の上へ顎を落とした。縁に溜まっていた露が押されて細い筋になった。
「聞いた。ソウにも言っとくね」
『主の口でか』
「うん、口で。守りのことはソウだもん。ドラゴが見たってちゃんと言う」
『……ならばよい』
ドラゴは目を閉じた。坂を下りて横になるのは、今朝もまだ先になりそうだった。
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板の前ではダクトが写しを裏返していた。
四枚のうち三枚は紐を掛けて脇に積んである。手に残った一枚の裏で二枚目の名の並びを指でなぞって、いちばん下の行で止めた。ライオの行のさらに下だ。昨日入ったばかりの行は墨がもう光っていなかった。
「五つになりましたな。裏の白いところが、少し減りましたぞ」
「減ると困る?」
「困りませんな。減ったぶんは使ったぶんですからな」
ダクトは最後の一枚を丸めて紐を掛けた。下の写しはこの一枚になる。段の下へ持っていくのは昼のうちだ。
板の脇にはドレクが立っていた。いつから居たのかエルクは気づかなかった。二枚目の前で腕を組んで下のほうの行を見上げている。
「下に一つ増えてんな」
「うん。夜の上の番をやめた人のだよ」
「渡した先は」
「ケイン」
「……あいつか」
ドレクは腕をほどかなかった。字は読めなくても、行の数と欄の位置なら分かる。自分の名がどこにあるかもそうやって覚えている。
「ケインが受け取ったって言ったのは聞いた。畑でな。クラウが筆持って待ってたんだろ」
「待ってた」
「筆の前なら言いやすいわな」
ドレクは帯の荷札に指を掛けた。切り欠きの向きを指の腹で確かめる。いつもの手つきだった。
「言いやすいの?」
「言や、すぐ書いてもらえる。書いてもらったら、もう持ってなくていい」
「持ってるって、何を」
「言われたことをだ」
ドレクの指が荷札から外れた。
「おれは言われても書けねえからな。書けるやつのとこまで持ってかなきゃなんねえ」
組んでいた腕がようやくほどけた。
「……まあ、おれに言いに来るやつもいねえか」
それだけ言うとドレクは畑のほうへ歩いていった。ダクトは紐の結び目を締めて、丸めた写しを脇に抱え直した。
エルクはドレクの背を見送った。帯の荷札が歩くたびに小さく揺れていた。
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段の口の灯りは日が峰に入る前に入った。
今夜下りるのはソウとエネだった。ソウは替えの芯を一本帯に挟んでいる。エネは紙を胸に抱えて段の縁に立っていた。ライはもう下で器の台の前にいる。
エルクは段の縁まで寄ってソウに朝の報せを渡した。日暮れに一人来て段の口へ向かう道に折れたこと。顔は見えなかったこと。
「門に来ないで段の口へ折れたなら、待ちに来た人かもしれないわね」
「そうかもね」
「聞いたわ。ドラゴにも、そう言っといて」
「言っとく」
ウルが口の縁で顎を上げた。
『名は』
「名前だって」
ソウが先に名を言い、エネが続いた。
『二人、下りる。……入れた』
「ソウ。入れたって」
段へ掛けかけたソウの足が止まった。
「分かったわ」
「あたしには聞こえてましたけど」
「うん。ソウには聞こえないから」
エネは小さくうなずいてソウのあとについた。灯りを提げた背が一段ごとに暗くなっていった。
待つ人の石は半分ほどが空いていた。その端にドレクが腰を据えている。昼に板の前で見たのと同じ格好で腕を組んでいた。
「今夜は下りないよね」
「下りねえ。……石が空いてるってメルが言ってたからな」
「埋めに来たんだ」
「埋まりゃしねえよ。一つだけだ」
ドレクの顔は灯りから少し外れた暗いほうへ向いていた。坂の上のほうだった。
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板切れを抱えたケインが坂の上から下りてきた。
指の先はもう炭で黒い。灯りの脇にしゃがんで板切れを膝に立てた。いちばん端の一本だけがほかより少し濃い。昨日の夕方に引いた線だった。
「上は揃ってるっす」
「聞いた」
ケインは顔を上げた。
「……どうもっす」
鼻の頭へ行きかけた指が、黒いのに気づいて途中で止まった。
「ゆうべ、灯りの外に一人立ってたっす」
「ゆうべ?」
「宵の線を全部引き終わってからっす。石には座らねえで、あっちの暗いとこに立ってたっす。おれが線を数え直してるあいだに、もういなかったっす」
「数には入れた?」
「待つほうに入れといたっす。待ってたかどうかは知らねえっすけど」
「ドラゴも見てたよ。日暮れに一人、こっちへ来る道に折れたって」
「……同じやつっすかね」
「分かんない」
ドレクが組んでいた腕を少しゆるめた。何も言わなかった。
羽音が坂の上から降りてきた。グリフは灯りの縁の外で翼を畳んだ。
『上の数だ。欠けた番は無い』
「聞いた」
『……上に一つ、見ない顔がある』
グリフは首を坂の上へ向けた。
『いや、見た顔だ。冬の顔だ』
「冬の?」
『冬は上に立っておった。春からは見ておらん』
「聞いた。ありがと」
グリフは今夜は何も返さなかった。翼を半分ひらいて土を蹴る。羽音が坂の上へ遠ざかっていった。
「ケイン。上に冬に立ってた人が一人来てるって。グリフが見たって」
「冬の上の番っすか」
ケインは板切れを抱えて立ち上がった。
「冬に立ってたのなら、おれ顔は全部知ってるっす。見てくるっす」
「見てくるだけ?」
「見てくるだけっす。数は合ってるっすから」
ケインは坂を上がっていった。脇の板切れが歩くたびに揺れていた。
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中夜にはまだ間があった。
門のほうから重い足音は聞こえてこない。ドラゴはまだ坂の下を見ている刻だ。段の下からも何も上がってこない。器の前のライが今夜の紙に何を置いているのかも、上からは分からなかった。
ウルの耳が坂の上のほうへ動いた。
『休みの者だ』
エルクは顔を上げた。待つ人の石の列が途切れるあたり、灯りの外に人が一人立っていた。
『数には入れぬ。……立っておるのは見ておる』
「うん」
エルクは声を落とした。
立っている人は灯りの縁より一歩外にいた。肩に薄い布を掛けている。手には何も持っていない。袖口に乾いた土がついていた。昼は畑に出ているのだろう。
女は待つ人の石を一つずつ見ていった。空いた石の上を目が渡って列の端で止まった。そこに座っているのはドレクだった。
女は灯りの縁を一歩だけ越えた。
「……戻るよ。明日から、上」
ドレクの腕がほどけた。
ドレクは女を見て、それからエルクのほうを見た。エルクは石から腰を上げなかった。少しだけ開きかけた口を、そのまま閉じた。言われたのはドレクだった。
「……おれに言うのか」
「あんたが一番近かったから」
女は布の端を指で引き寄せた。
「ゆうべも来たんだけどね。言いそびれた」
ドレクは帯の荷札に手をやった。切り欠きを指でなぞる。昼に板の前でしていたのと同じ手つきだった。指が止まった。
「……受け取った。おれが」
少し間があった。
「ドレクだ」
交代の戸口でドレクが言うのと同じ言い方だった。違うのはここが戸口ではないことだけだった。
女は一度うなずいた。理由は言わなかった。ドレクも訊かなかった。女は布を肩に掛け直して灯りの外の暗いほうへ戻っていった。足音はすぐに聞こえなくなった。
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ドレクは石から立ち上がった。
灯りの脇には替えの灯りが一つ置いてある。ドレクはそれを拾い上げて輪の灯りから火を移した。
「どこ行くの」
「クラウんとこだ」
「朝でもいいんじゃない? もう寝てるかも」
「朝まで持ってたら、おれの中で薄くなる」
ドレクは移した火が落ち着くのを待っていた。
「書けねえから呼ぶ。……呼ぶのは、言うのと同じだ」
前にもドレクはそう言ったことがあった。あのときは書いてもらう側の話だった。今夜ドレクが持っているのは、さっきの女のぶんだった。
ウルが顎を上げた。
『待つ石から一つ立った』
「ドレク。待つほうが一人減ったって」
「戻る。下のやつらが上がってくる前にはな」
『……戻れば、また入れる』
「戻ったらまた入れるって」
「おう」
ドレクは灯りを持ち上げた。輪から出ると足もとの小さな明るさだけが坂を上がっていった。
エルクは石に座ったままそれを目で追った。
坂の途中で灯りは板の前を過ぎた。そこから先は薪小屋へ向かう細い道になる。薪小屋の戸の隙間には細い明かりがまだ一本立っていた。
ドレクの灯りは戸の前で止まった。
しばらく動かなかった。戸の隙間の明かりも動かなかった。叩こうとして上がった手が途中で下りたのが影で見えた。
もう一度手が上がる前に、戸が内側から開いた。
広がった明かりの中へ、ドレクの提げた灯りが入っていった。




