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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第八部・やめると言った者/宛先のない返事
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第211話 呼ぶのは言うのと同じ

 門の脇の石には今朝もドラゴの顎が載っていなかった。


 この前の朝は坂の中ほどへ向いていた鼻先が、今朝はそこから少し横へ逸れている。エルクが石の脇に立つと、ドラゴは鼻先をそのままにして片目だけをこちらへ寄越した。


『ゆうべの日暮れも一人来た』


「また?」


『また一人だ。同じ者かは知らぬ』


 エルクは鼻先の向いているほうを目で追った。坂の緩いところを過ぎた先で細い道が横へ分かれている。板の前を通って段の口へ向かう道だった。


『今度はあそこで止まらなかった。足をゆるめただけだ』


「門には?」


『来ぬ。あの道へ折れた』


「段の口のほうだね」


『顔までは見えなかった。もう暗かった。折れた先は我の見る坂ではないのだ』


 ドラゴは逸らしていた鼻先を坂の中ほどへ戻し、それから石の上へ顎を落とした。縁に溜まっていた露が押されて細い筋になった。


「聞いた。ソウにも言っとくね」


『主の口でか』


「うん、口で。守りのことはソウだもん。ドラゴが見たってちゃんと言う」


『……ならばよい』


 ドラゴは目を閉じた。坂を下りて横になるのは、今朝もまだ先になりそうだった。


---


 板の前ではダクトが写しを裏返していた。


 四枚のうち三枚は紐を掛けて脇に積んである。手に残った一枚の裏で二枚目の名の並びを指でなぞって、いちばん下の行で止めた。ライオの行のさらに下だ。昨日入ったばかりの行は墨がもう光っていなかった。


「五つになりましたな。裏の白いところが、少し減りましたぞ」


「減ると困る?」


「困りませんな。減ったぶんは使ったぶんですからな」


 ダクトは最後の一枚を丸めて紐を掛けた。下の写しはこの一枚になる。段の下へ持っていくのは昼のうちだ。


 板の脇にはドレクが立っていた。いつから居たのかエルクは気づかなかった。二枚目の前で腕を組んで下のほうの行を見上げている。


「下に一つ増えてんな」


「うん。夜の上の番をやめた人のだよ」


「渡した先は」


「ケイン」


「……あいつか」


 ドレクは腕をほどかなかった。字は読めなくても、行の数と欄の位置なら分かる。自分の名がどこにあるかもそうやって覚えている。


「ケインが受け取ったって言ったのは聞いた。畑でな。クラウが筆持って待ってたんだろ」


「待ってた」


「筆の前なら言いやすいわな」


 ドレクは帯の荷札に指を掛けた。切り欠きの向きを指の腹で確かめる。いつもの手つきだった。


「言いやすいの?」


「言や、すぐ書いてもらえる。書いてもらったら、もう持ってなくていい」


「持ってるって、何を」


「言われたことをだ」


 ドレクの指が荷札から外れた。


「おれは言われても書けねえからな。書けるやつのとこまで持ってかなきゃなんねえ」


 組んでいた腕がようやくほどけた。


「……まあ、おれに言いに来るやつもいねえか」


 それだけ言うとドレクは畑のほうへ歩いていった。ダクトは紐の結び目を締めて、丸めた写しを脇に抱え直した。


 エルクはドレクの背を見送った。帯の荷札が歩くたびに小さく揺れていた。


---


 段の口の灯りは日が峰に入る前に入った。


 今夜下りるのはソウとエネだった。ソウは替えの芯を一本帯に挟んでいる。エネは紙を胸に抱えて段の縁に立っていた。ライはもう下で器の台の前にいる。


 エルクは段の縁まで寄ってソウに朝の報せを渡した。日暮れに一人来て段の口へ向かう道に折れたこと。顔は見えなかったこと。


「門に来ないで段の口へ折れたなら、待ちに来た人かもしれないわね」


「そうかもね」


「聞いたわ。ドラゴにも、そう言っといて」


「言っとく」


 ウルが口の縁で顎を上げた。


『名は』


「名前だって」


 ソウが先に名を言い、エネが続いた。


『二人、下りる。……入れた』


「ソウ。入れたって」


 段へ掛けかけたソウの足が止まった。


「分かったわ」


「あたしには聞こえてましたけど」


「うん。ソウには聞こえないから」


 エネは小さくうなずいてソウのあとについた。灯りを提げた背が一段ごとに暗くなっていった。


 待つ人の石は半分ほどが空いていた。その端にドレクが腰を据えている。昼に板の前で見たのと同じ格好で腕を組んでいた。


「今夜は下りないよね」


「下りねえ。……石が空いてるってメルが言ってたからな」


「埋めに来たんだ」


「埋まりゃしねえよ。一つだけだ」


 ドレクの顔は灯りから少し外れた暗いほうへ向いていた。坂の上のほうだった。


---


 板切れを抱えたケインが坂の上から下りてきた。


 指の先はもう炭で黒い。灯りの脇にしゃがんで板切れを膝に立てた。いちばん端の一本だけがほかより少し濃い。昨日の夕方に引いた線だった。


「上は揃ってるっす」


「聞いた」


 ケインは顔を上げた。


「……どうもっす」


 鼻の頭へ行きかけた指が、黒いのに気づいて途中で止まった。


「ゆうべ、灯りの外に一人立ってたっす」


「ゆうべ?」


「宵の線を全部引き終わってからっす。石には座らねえで、あっちの暗いとこに立ってたっす。おれが線を数え直してるあいだに、もういなかったっす」


「数には入れた?」


「待つほうに入れといたっす。待ってたかどうかは知らねえっすけど」


「ドラゴも見てたよ。日暮れに一人、こっちへ来る道に折れたって」


「……同じやつっすかね」


「分かんない」


 ドレクが組んでいた腕を少しゆるめた。何も言わなかった。


 羽音が坂の上から降りてきた。グリフは灯りの縁の外で翼を畳んだ。


『上の数だ。欠けた番は無い』


「聞いた」


『……上に一つ、見ない顔がある』


 グリフは首を坂の上へ向けた。


『いや、見た顔だ。冬の顔だ』


「冬の?」


『冬は上に立っておった。春からは見ておらん』


「聞いた。ありがと」


 グリフは今夜は何も返さなかった。翼を半分ひらいて土を蹴る。羽音が坂の上へ遠ざかっていった。


「ケイン。上に冬に立ってた人が一人来てるって。グリフが見たって」


「冬の上の番っすか」


 ケインは板切れを抱えて立ち上がった。


「冬に立ってたのなら、おれ顔は全部知ってるっす。見てくるっす」


「見てくるだけ?」


「見てくるだけっす。数は合ってるっすから」


 ケインは坂を上がっていった。脇の板切れが歩くたびに揺れていた。


---


 中夜にはまだ間があった。


 門のほうから重い足音は聞こえてこない。ドラゴはまだ坂の下を見ている刻だ。段の下からも何も上がってこない。器の前のライが今夜の紙に何を置いているのかも、上からは分からなかった。


 ウルの耳が坂の上のほうへ動いた。


『休みの者だ』


 エルクは顔を上げた。待つ人の石の列が途切れるあたり、灯りの外に人が一人立っていた。


『数には入れぬ。……立っておるのは見ておる』


「うん」


 エルクは声を落とした。


 立っている人は灯りの縁より一歩外にいた。肩に薄い布を掛けている。手には何も持っていない。袖口に乾いた土がついていた。昼は畑に出ているのだろう。


 女は待つ人の石を一つずつ見ていった。空いた石の上を目が渡って列の端で止まった。そこに座っているのはドレクだった。


 女は灯りの縁を一歩だけ越えた。


「……戻るよ。明日から、上」


 ドレクの腕がほどけた。


 ドレクは女を見て、それからエルクのほうを見た。エルクは石から腰を上げなかった。少しだけ開きかけた口を、そのまま閉じた。言われたのはドレクだった。


「……おれに言うのか」


「あんたが一番近かったから」


 女は布の端を指で引き寄せた。


「ゆうべも来たんだけどね。言いそびれた」


 ドレクは帯の荷札に手をやった。切り欠きを指でなぞる。昼に板の前でしていたのと同じ手つきだった。指が止まった。


「……受け取った。おれが」


 少し間があった。


「ドレクだ」


 交代の戸口でドレクが言うのと同じ言い方だった。違うのはここが戸口ではないことだけだった。


 女は一度うなずいた。理由は言わなかった。ドレクも訊かなかった。女は布を肩に掛け直して灯りの外の暗いほうへ戻っていった。足音はすぐに聞こえなくなった。


---


 ドレクは石から立ち上がった。


 灯りの脇には替えの灯りが一つ置いてある。ドレクはそれを拾い上げて輪の灯りから火を移した。


「どこ行くの」


「クラウんとこだ」


「朝でもいいんじゃない? もう寝てるかも」


「朝まで持ってたら、おれの中で薄くなる」


 ドレクは移した火が落ち着くのを待っていた。


「書けねえから呼ぶ。……呼ぶのは、言うのと同じだ」


 前にもドレクはそう言ったことがあった。あのときは書いてもらう側の話だった。今夜ドレクが持っているのは、さっきの女のぶんだった。


 ウルが顎を上げた。


『待つ石から一つ立った』


「ドレク。待つほうが一人減ったって」


「戻る。下のやつらが上がってくる前にはな」


『……戻れば、また入れる』


「戻ったらまた入れるって」


「おう」


 ドレクは灯りを持ち上げた。輪から出ると足もとの小さな明るさだけが坂を上がっていった。


 エルクは石に座ったままそれを目で追った。


 坂の途中で灯りは板の前を過ぎた。そこから先は薪小屋へ向かう細い道になる。薪小屋の戸の隙間には細い明かりがまだ一本立っていた。


 ドレクの灯りは戸の前で止まった。


 しばらく動かなかった。戸の隙間の明かりも動かなかった。叩こうとして上がった手が途中で下りたのが影で見えた。


 もう一度手が上がる前に、戸が内側から開いた。


 広がった明かりの中へ、ドレクの提げた灯りが入っていった。


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