第210話 渡した先が言う
段の縁から最初に覗いたのはドレクの頭だった。
空はもう白みはじめていた。提げてきた灯りは足もとしか照らしていない。帳を抱えたクラウが一段遅れて上がってきた。ライはまだ下で器の前にいる。
ウルは口の脇に伏せたまま首だけを持ち上げた。
『二人とも戻った。入れた』
エルクは石から腰を浮かせた。
「ドレク。上がったのも入れたって」
ドレクは足を止めてウルのほうへ一度顔を向けた。向けたところで何が聞こえるわけでもない。それでも顔を向けてから、黙って当番小屋のほうへ歩いていった。
クラウは輪の外で立ち止まって帳を抱え直した。
「昼に起きたら畑へ出る。渡し先の欄がまだ空いておる」
「今日来るかな」
「来んでもよい。来た日に入れる」
クラウもドレクのあとから坂を上がっていった。藁の上ではスラが二人ぶんの寝床をあっためて待っているはずだった。
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昼を過ぎると畑の縁の杭という杭に糸が渡されていた。
アラーネが下の糸を干しているのだ。朝にほどいて芯へ巻いたものをもう一度繰り出して、杭から杭へ掛けていく。湿ったまま巻いておくと芯の内側から傷むのだという。ラネは自分の一本の端に陣取って、乾いたところを前脚の先で弾いていた。
エルクは畝の端で草を抜いていた。朝のぶんはもう縁の山に積んである。手が空いたので糸の近くまで寄っていった。
「このあいだね、受け取ったら名前を付けて受け取ったって言うんだって話になったんだ。前から書いてあったやつ」
アラーネは糸を一本杭へ回しながら首を傾げた。
「受け取ったって言うのね~。あの子、あのとき言ったかしら~」
「あのとき?」
「下の糸を一本渡したときよ~」
ラネが糸の端から顔を上げた。
「言ったわ! 私の名前で張るって言ったもの!」
「それは張るって言ったのよ~。受け取ったとは言ってないわ~」
「同じよ!」
「同じかなあ」
エルクは杭に渡された糸を目で辿った。結び目は全部ほどいてある。ラネの一本のほうが少しだけ短かった。
「近いけど、ちょっと違う気もするね」
「違わないわ! 張って見に行くんだもの、受け取ってるでしょ!」
「受け取ってるのは合ってるのよ~。言ったかどうかの話をしてるのよ~」
ラネは返事の代わりに自分の一本を強く弾いた。糸が杭のあいだで低く鳴った。
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畝のあいだから男が一人上がってきた。
板の前で自分の行の数を指で辿っていた男だ。今日は籠を腰に下げていて、中には抜いた草が半分ほど溜まっている。男は干した糸の下をくぐって縁の道へ出てきた。
「クラウはいるか。渡し先、言いに来た」
「さっきまで寝てたよ。そろそろ下りてくると思うけど」
言っているそばから坂の上に帳を抱えた姿が見えた。袖に藁が一本ついたままだ。クラウは杭の脇まで来て足を止め、男の顔を見た。
「来たか」
「来た。今日でなくていいって言われたけどよ。草抜いてたら思い出した」
クラウは帳を開いて頁を繰った。言うた日と受け取った日の二行の下に、まだ何も入っていない欄がある。筆に墨を含ませると、クラウはそこで手を止めて待った。
男は畑のほうを振り返った。二つ向こうの畝でケインが腰を折っている。メルはその先の杭の脇で綴りを開いていた。
「上の数は、あいつがもう持ってんだろ」
顎で示しただけだった。クラウは筆を構えたまま何も言わない。
エルクは筆先と男の顔を見比べた。ケインのことだよね、と言えば済む。言えばクラウは書く。
エルクは言うのをやめて、干した糸の一本に指を掛けた。渡すのは男のほうだった。
男はしばらくクラウの筆先を見ていた。それから自分の籠の中へ目を落とした。
「……ケインだ。上の番は、ケインに渡す」
声は畝の向こうまで届いた。ケインが草を握ったまま体を起こした。
「……おれっすか」
「毎晩数を持って下りてんのはお前だろ」
ケインは握っていた草を縁の山へ放ってこちらへ上がってきた。
「持ってるっすけど。それは数っすよ。番じゃねえっす」
「数を持ってくるやつが上に立ってねえわけねえだろ。冬からずっと見てたぞ。畑から」
「畑から見えるんすか、上」
「見えねえよ。灯りが見える。灯りが一つ足りねえ夜が無かった」
男はそこで籠の紐を指に巻いた。
「……おれが抜けたら上が一つ減るだろ。だから言いに来たんだ」
「減らねえっす。おれが持つっすから」
杭の脇からメルが寄ってきていた。綴りは開いたままだ。
「三人までは回ると、前に言いました」
「言ってたね。やめる人がいっぱい出たらどうするって話のとき」
「二枚目の名は、今日で五つになります。回っています」
「三つより多いのに?」
「渡した先が書いてある持ち場は、空いていませんので」
メルは綴りの上の数を指で押さえた。
「上は冬から、この人のぶんを抜いて回していました。抜いたまま足りていたのは、誰かが持っていたからです。持っていた人の名は、どこにも書いてありませんでした」
ケインは土のついた指を腿で拭った。メルは綴りの数から指を離さずに続けた。
「……前の私は、渡した先を数に入れていませんでした」
メルはそれだけ言って口を閉じた。
ケインは男を見て、それからクラウの筆先を見た。
「受け取ったっす。ケインが」
言い終えると、すぐにクラウの手元を覗きこんだ。
「言い方、合ってるっすか」
「合っておる」
筆が動いた。渡した先の欄にケインの名が入った。
エルクは溝の縁で返した「そっか」を思い出していた。名前を一つ足して言い直すまでに、自分はクラウに一度促されている。ケインは誰にも促されていなかった。
「理由は前に聞いた。畑だな」
「畑だ」
「言うた日も受け取った日も今日だ。一行で足りる」
クラウは筆を拭って帳を閉じた。男は籠を腰に戻した。ケインはまだ自分の名の入った欄のほうを見ていた。
杭の上ではラネが前脚を振り上げていた。
「ほら! 名前で言ってるでしょ! 私と同じよ!」
「あの人は張るとは言ってないわよ~」
アラーネは干し終えた最後の一本を杭へ留めた。それから乾いたほうの糸を指でつまんで湿りを確かめた。
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板の前に人は集まっていなかった。
クラウが二枚目の前に立ち、ソウが墨壺を持って脇についた。男は籠を下げたままついてきて、二人の背中から少し離れたところで止まった。エルクはその隣に並んだ。
二枚目の名の並びは四つだった。いちばん下にライオの行がある。名と渡した先と理由がそれぞれの欄に一つずつ入っていた。その下はまだ広く白い。
クラウはライオの行のすぐ下へ筆を下ろした。名を書き、渡した先にケインと書く。理由の欄に入ったのは「畑」の一字だった。
ソウが墨壺から目を上げた。
「理由、畑でいいの」
男が籠の紐から指をほどいた。
「いいよ。ほんとのことだ」
「ほんとのことなら短いほうがいいわね。長いと、あとから読んだ人が何か足したくなるもの」
クラウは一枚目のほうへ移った。休みの欄の男の名に細い線を一本引く。線の下から名はまだ読めた。脇の数にはこのあいだソウが引いた線が先に入っている。名の線と数の線が同じ行に二本並んだ。
男は線の引かれた自分の名を黙って見ていた。
坂の上から紙を抱えたエネが下りてきた。板の前で足をゆるめて二枚目の新しい行を見る。
「渡した先が埋まったのは、三つ目です」
「糸と、竜と、これね」
ソウが墨壺の蓋を閉めながら言った。
板の脇にはいつの間にかダクトがいた。写しを一枚脇に抱えて、二枚目の新しい行と見比べている。墨の光っているところで目を止めた。
「二枚目が変わりましたら、明日運びますぞ」
「今日じゃないんだ」
「乾かぬうちに写しますと、写したほうが滲みますからな。滲んだ字は、写した者の字になりますぞ」
エルクはソウのほうを向いた。
「ダクトがね、写しは明日運ぶって。墨が乾いてからだって」
「そうね。急いで滲ませるより、一晩待つほうがいいわ」
男は籠の中の草を一度揺すった。それきり板には目を戻さず、畝のほうへ戻っていった。腰の籠が歩くたびに小さく跳ねていた。
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当番小屋の戸口の内側では、メルが寝る場所の割り振りの板切れを釘から外していた。エルクは敷居の外に立って、外された板切れを眺めた。
藁の上のスラの本体は平たく伸びている。奥のほうに盛り上がりが二つあった。夜明けに上がってきたドレクとクラウのぶんだったが、片方はもう空いている。
『ケインも寝かせるッス。上の人ッスから』
「前から寝かせてなかった?」
『寝かせてたッス。でも板切れだと、どこの人か書いてなかったッス。端っこに名前だけだったッス』
メルは板切れの端のほうからケインの名を一つ探し出した。炭でその脇に小さく線を引く。消すほうの線ではなかった。上の番の行の終いへ、同じ名をもう一度書き入れた。
「上の番に移します。端のほうは、手伝いのときの書き方でしたので」
「手伝いじゃなかったんだね、もう」
「冬からそうでした。こちらが書いていなかっただけです」
『それと、今日は草抜いてたッス』
スラの本体の縁が少しだけ持ち上がった。
『上の人は昼に草抜いたら駄目ッス。寝る刻が無くなるッス』
メルは板切れを釘へ戻した。
「今日のぶんはもう抜いてしまっています。明日からは畑の列から外します」
『夕方から寝かせるッス。上に立つ前に、ちょっとでも寝るッス』
「ちょっとでもって」
「ケインに伝えてください。私は畑の列の数を直しに行きますので」
メルは綴りを抱えて出ていった。藁の盛り上がりの片方がもぞりと身じろいだ。スラは本体の端を薄く伸ばして、その肩口へ掛け直した。
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峰の影が畑の縁まで伸びたころ、ケインは段の口へ下りてきた。
板切れを小脇に抱えている。目の下が少し腫れていた。スラが夕方から寝かせると言っていたのは本当だったらしい。髪の後ろが一房、藁の形のまま立っていた。
「寝られた?」
「寝たっす。……寝ろって言われて寝たの、初めてっす」
「言い忘れてた。上の番の人は昼の草抜きは無しだって、スラが。メルも明日から畑の列から外すって」
「外されるんすか、畑」
「寝る刻が無くなるからだって」
ケインは板切れを地べたへ置きかけて、途中でやめた。膝の上に載せ直す。炭の欠片を指でつまんだ。
「おれ、今までも上に立ってたんすよ」
「うん」
「立ってたのに、線は引いてなかったっす。数を持つほうだから、自分は数えなくていいと思ってたっす」
板切れの上には宵のぶんの線がまだ一本も無い。今夜上に立つ者たちはこれから順に上がってくる。
「今日からは、渡されたぶんっすからね」
ケインは炭を板切れの端に当てた。
最初に引いた一本は、自分のぶんだった。




