第209話 入れたと言う
墨が乾いたのを指の背で確かめてから、クラウは頁を戻しはじめた。
一枚ずつではない。指で厚みを取ってまとめてめくる。夏の頁が終わって春になり、春が終わって冬になった。紙の端が茶色く焼けたところまで来て、ようやく手が止まった。
エルクは戸の外から動かなかった。クラウの帯に挟んだ替えの芯が頁をめくるたびに小さく揺れている。
「下りるの、遅れない?」
「遅れん。読むだけだ」
クラウは焼けた頁の一行に指を置いた。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く」
板の前で読み上げるときと同じ平らな声だった。指は二つ目の文の上に置かれたまま動かない。
「さっきお前が言うたのは、これの真ん中だ」
「エルクが受け取った、のとこ?」
「そこだ。……ずっと前から書いてある」
クラウはまた頁を送った。今度は少しだけだった。紙の隅に灯りの煤が薄く移っている。雪の夜に書いた頁だった。
「聞こえても、繰り返さない。聞いたら、聞いたと言う」
「それ、声が来てた冬のだよね」
「そうだ。……あれは、うちの者へ言う二行だった」
「うちの者へ」
「うちの者どうしの話だ。外へ向けて書いたものではない」
クラウは二つの頁のあいだに指を挟んで帳を少し持ち上げた。
「書いてある。……二つもだ」
「どっちも知ってたのにね」
「知っておった。交代の戸口では言うておる。戸口の外で聞いたときに言うておらん」
エルクはさっきの二行を思い出した。言うた日と受け取った日だ。溝で聞いたのは戸口の外だった。
「じゃあ、戸口の外でも言うって、どこかに足しとく?」
「足す行は無い」
クラウは指を抜いて帳を閉じた。
「使っておらん場がある。それだけだ」
替えの芯を帯の奥へ押しこんで、クラウは戸口へ歩いてきた。エルクは脇へ寄った。日はもう峰の向こうへ半分入っている。今夜の下はクラウとドレクだ。支度に残った刻は長くなかった。
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段の口へ下りる道は板の前を通る。
一枚目の下にウーゴがしゃがんでいた。縁の留め金の緩みを爪で弾いて確かめている。休みの欄の脇ではソウの引いた細い線がまだ乾ききらずに光っていた。
「ウーゴ。一枚目って、下のほうまだ空いてる?」
クラウは二歩先で足を止めた。振り返らずに待っている。
ウーゴは留め金から手を離して一枚目のいちばん下へ木の指を当てた。指を二本揃えて横へ渡していく。端まで行ってから戻ってくる。春に入った三行の下だ。二行目の終いの字が縁のほうへ曲がって下りている。
「イチマイメ、シロイトコ、ナイ」
「無いんだ」
「ナイ。ハルニ、ウメタ」
ウーゴの指は隣の板へ移った。二枚目は名の並んだ下がまだ広く白い。
「ニマイメハ、シロイ。……デモ、ヤメタヒトノイタ」
「そうだね。足す行は無いって、クラウ言ってた」
「サンマイメハ、マダ」
「まだなんだ」
「マダ。ニマイ、イッパイニナッテナイ」
ウーゴは留め金のほうへ戻った。最後の一つを弾いてから掌で縁を撫でる。エルクは一枚目のいちばん下をもう一度見た。指を当てる隙間も残っていなかった。
「足さんと言うた」
クラウが前を向いたまま言った。
「うん。聞いた」
クラウは何も返さずに歩きだした。エルクも遅れずに坂へ足を向けた。
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坂を下りきると、灯りの輪の中にもう人の背が並んでいた。
ドレクは先に来ていた。荷札の切り欠きを外へ向けて帯に挿し、灯りに背を向けて段の暗がりを覗いている。ケインは石の列の端にしゃがみ、板切れを地べたに立てかけていた。宵の炭の線を引いたばかりで指先が黒い。
待つ人の石には今夜も空きが目立つ。その端にミナが腰掛けていた。板を腕の内側に抱えて足を小さく揺らしている。
ウルは段の口の脇で腹を土につけ、鼻先だけを暗がりへ差し入れていた。ライはもう下にいる。器の台の前で今夜の紙を据えているころだ。
頭の上で羽音がした。グリフが灯りの輪の外に降りて翼を半分だけ畳んだ。
『上の数だ。宵の番は揃っておる。抜けた持ち場は無い』
「聞いた」
グリフの首がこちらへ回った。
『言わんでよい。俺は数を置いていくだけだ』
「言うよ。置いてったのが届いたか、分かんないでしょ」
『……好きにしろ』
グリフは土を蹴って上へ戻っていった。羽音が峰のほうへ遠ざかる。エルクはケインのほうを向いた。
「グリフがね、上は揃ってるって」
「揃ってるっす。おれの線とも合ってるっす」
ケインは板切れを地べたから少し持ち上げた。炭の線が宵のぶんだけ並んでいる。
ウルが鼻先を暗がりから抜いた。
『名は』
「名前だって」
ドレクが先に自分の名を言った。クラウが帳の背を胸に当てたまま続けて名乗った。
『入れた』
ウルは鼻先をまた暗がりへ戻しかけた。エルクはその鼻先を見ていた。
「今、入れたって言ったね」
『言うた』
「いつも言ってたっけ」
『入れた、と言うた日もある。言わぬ夜のほうが多い』
ウルの目は段の暗がりへ向いたままだった。
『言わねば、名を言うた者は入ったか分からぬ』
「……でも、ドレクには聞こえてないよ」
ドレクは輪の縁で肩を回していた。名を言い終えた者の顔をしている。言ったからもう済んだという顔だ。
『ならば主が言え』
エルクはドレクのほうへ半歩出た。
「ドレク。入れたって」
ドレクの肩が止まった。
「……おう」
短い返事だった。それでもドレクは回しかけた肩を下ろして、帯の荷札の向きをもう一度指で確かめた。
「今まで、入ってなかったのか」
「入ってたよ。言ってなかっただけ」
「入ってんなら、どっちでもいいだろ」
「どっちでもよくないんだって。言わないと、名前を言った人は入ったかどうか分かんないって」
ドレクは荷札から指を離して鼻を鳴らした。
「……あいつに言われたんなら、しょうがねえな」
クラウは帳の角を揃えていた。ウルの声はクラウには届いている。届いていない者のほうが、今まで名を言ったきりで下りていた。
坂の下から重い足音が上がってきた。門の持ち場へ向かうドラゴの足だった。その足音が段の口の脇で止まった。灯りの輪の外にドラゴの頭が低く覗いた。
『主が言い直すのか』
「うん。ウルの言ったの、ドレクには聞こえないから」
『……それは主の欄か』
「欄じゃないよ。口」
ドラゴはしばらく灯りの輪を見ていた。
『口か』
それだけ言うと首を引いた。足音がまた門のほうへ上がっていった。
ケインが持ち上げていた板切れを地べたへ戻した。
「それ、毎回言うんすか」
「言うよ。ウルが言うたびに」
ケインは炭で黒い指先を見下ろした。
「……おれにも言ってほしいっす、それ」
「ケインにも?」
「上の数、毎晩ここへ持ってきてるっすけど。置いて、それきりなんすよ。届いたかどうか分かんねえまま上に戻るっす」
「さっきのは聞いたよ。グリフのと合ってるってやつ」
「……あれ、聞いてたんすか」
「聞いてた。言ってなかったね」
ケインは返事をしないで鼻の頭を掻いた。黒い指の跡が鼻に一つ残った。
石の端でミナの足が止まっていた。
「ミナ、まえにいったよ」
「前に?」
「ゆきのよる。こえがきてたとき」
ミナは板を抱えたまま背を伸ばした。言い方を探す顔ではなかった。覚えているものを順に出していく顔だった。
「きこえても、くりかえさない。きいたら、きいたっていう」
灯りの芯が小さく鳴った。帳の角を揃えていたクラウの手が止まった。
「……いってなかったね。だれも」
ミナはそれきり黙ってまた足を揺らしはじめた。クラウは帳を開かなかった。さっき薪小屋で読んだ頁は閉じたまま腕の中にある。
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ドレクが段の縁へ足を掛けた。クラウがそのあとに続く。灯りの届くところから一段ずつ暗がりへ下りていく。
ウルの耳が段の下へ向いた。足音が三つ四つ遠くなったところで低く言った。
『下りたのが二だ。……入れた』
エルクは段の口の縁まで出た。暗がりの中のドレクの背中へ声を落とす。
「ドレク。入れたって」
足音が一つ止まった。返事は上がってこなかった。
暗がりの中で手が一つ上がった。すぐに下ろされて、足音だけが遠くなっていった。




