第208話 聞いたのに運んでいない
墨壺の蓋はまだエルクの手の中にあった。
棚まではあと指一本ぶんだった。そこから先へ手が出ない。蓋の裏にたまった墨が一滴、指の腹へ伝ってきた。
男は鍬の柄を肩で支えて待っていた。急かす顔ではなかった。ソウの筆は墨壺の口に載ったままで、穂先から落ちた墨が縁に小さな黒い輪を作った。
「……聞いた。溝で」
エルクは蓋を棚へ置いた。今度は手が届いた。
「聞いたのに、誰にも言ってない」
「言ったじゃねえか。お前に」
「うん。言われたのは僕だった」
指の腹の墨を親指でこすった。伸びただけで落ちなかった。
「そっちが板まで言いに行くと思ってたんだ。……僕、聞いただけで」
「なんでおれが二度言うんだよ。一度言やあ済むだろ」
男の声は変わらず平らだった。ソウは筆を持ち上げかけて、また墨壺の口へ戻した。
「ごめん」
エルクは男のほうへ向き直って言った。男は鍬を反対の肩へ移した。
「別に怒っちゃいねえよ」
男の指がもう一度自分の行を辿った。今度は数の上で止まったまま動かない。
「……伸びてんのが気持ち悪いだけだ。毎日畑に出てんのに、毎日休んだことになってる」
「どこから線を引けばいいの」
ソウが訊いた相手は男ではなくエルクだった。
「溝で聞いた日から」
「溝の草なら毎日誰か抜いてるわ。どの日よ」
エルクは口を開きかけて閉じた。草を束ねた日なら何日もある。縁に膝をついた日もいくつかあった。どれも同じ匂いがしていた。
「……クラウのとこ、一緒に行こう。帳なら何か残ってるかもしれない」
「おれもかよ」
「うん。言ったの、そっちだもん」
男は少し眉を上げて、それから鍬を担いだまま板の前を離れた。
「線は日が分かってから引くわ。当てずっぽうで引いたら、線のほうが嘘になるもの」
ソウは穂先を拭って筆を墨壺の脇に寝かせた。蓋は棚に置かれたままだった。
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当番小屋の前まで来ると、敷居の下からスラの分身が転がり出た。
エルクの足もとで止まって、男のほうへ一度だけ伸びる。それからエルクのほうへ向きを戻した。
『その人、休みだから寝かせてなかったッス』
「うん。知ってる」
『……休みじゃなかったッスね。畑に出てたッス』
「出てたね。毎日」
『名簿に無いのは合ってたッス。夜は立ってねえッスから。……合ってたのに、違ってたッス』
分身はその場でしばらく平たくなっていた。やがて敷居の下へ戻っていった。
「今の、なんだって」
男が顎で敷居のほうを指した。
「スラがね、休みだと思ってたから昼に寝かせてなかったって。でも畑に出てたんだねって」
「寝かせてもらうほど夜に立っちゃいねえよ。冬からずっとな」
男は当番小屋の戸口を横目で見て通りすぎた。藁の匂いが少しだけ外まで流れていた。
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帳は薪小屋の割り台に開いて置かれていた。
クラウは今夜下りる支度の途中で、帳の脇には灯りの替えの芯が束ねてあった。エルクが男を連れて入ってきても、束ねる手は止まらなかった。
エルクは溝のことを話した。男が言ったことも、自分が返したこともそのまま言った。「そっか」のところで声が少し小さくなった。
クラウは最後まで口を挟まなかった。
「いつだ」
「それが分かんないんだ。ウーゴが溝の縁の石を下げてた日」
庇の上で爪が板を掻く音がした。グリフが庇の端から首だけを下げて中を覗いた。
『石が下がった日なら、鍬は十五だ』
「覚えてるんだ」
『数は覚える。メルの綴りにも十五と入っておる』
クラウは帳の頁を何枚か戻した。
「鍬十五の日だな。綴りと合わせれば引ける」
『それと、上の数だ』
グリフは首を下げたまま続けた。
『上は、休みの二つを抜いて数えておった。冬からだ。……数に狂いは出ておらん』
言い終えると首を引っこめた。庇を蹴る音がして、影が戸口の前を一度横切った。
エルクは男のほうを向いた。男はグリフの声を聞いていない。鍬の刃にこびりついた土を指で落としていた。
「上の数はね、冬から二人のぶんを抜いて数えてたんだって。だから夜が足りなくなったことはないって」
「なら、おれが居なくても回ってたんだな」
男はそう言って、落とした土を足で散らした。
クラウは替えの芯を脇へ寄せて筆を取った。
「言うた日と、受け取った日は別だ。二つ入れる」
「僕が聞いた日じゃないの」
「聞いただけでは受け取っておらん。受け取ったと言うた日が、受け取った日だ」
エルクは男を見た。男は小屋の柱に肩を預けて、まだ刃の土をいじっていた。
「じゃあ今言うね。……受け取った。僕が」
「名で言え」
エルクは一度だけ息を吸った。
「エルクが受け取った」
言ってしまうと、それだけのことだった。溝でも言えた長さだった。
男の指が刃の上で止まった。
「……おう」
クラウの筆が動いた。言うた日の行に鍬十五の日。受け取った日の行に今日。言うた者の欄に男の名が入り、受け取った者の欄にエルクの名が入った。
「あいだは埋めん。遅れたぶんも遅れたまま残す」
筆を墨に浸しながら、クラウは短く足した。
「……うちの行だ。交代のときは、皆言うておる」
行の話はその一言で終わった。
「理由は言えるか」
クラウが男のほうへ顔を上げた。男は柱から肩を離した。
「畑だ。夜に立つと、昼の鍬が持てねえ」
「冬は」
「冬はそれでよかった。今は違う」
「なんで溝で言ったの」
「板の前で言うと大ごとみてえだろ。溝なら草のついでに言える」
男は鍬の柄を握り直した。
「……ついでに言ったから、ついでに聞かれたんだな」
「ついでにしたの、僕のほうだよ」
クラウは帳へ目を落としたまま、筆の尻で男のほうを指した。
「渡し先は」
「渡し先?」
「お前が言え。今日でなくてよい」
男は少し考える顔をして、何も言わずにうなずいた。
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戸口の外で薪を積む音が止んだ。
レオルが戸口の脇に立っていた。胸に抱えた薪をまだ下ろしていない。
「我のときは、言うたその場に筆を持った者がおった」
男が振り返った。レオルは男ではなく割り台の帳を見ていた。
「こやつのときは、聞いた者はおったが、運ぶ者がおらなんだ」
「僕が聞いたんだけどね」
「聞いた者が運ばぬなら、やめられるかどうかはその日の運に預けたままだ」
レオルは薪を戸口の脇へ下ろした。一本ずつ切り口の向きを揃えて積んでいく。
「あんたもやめた口か」
「夜の門をやめた。今日は薪を運んでおる」
「そっちのほうが性に合ってんのか」
「合うかどうかは知らぬ。運ぶ先が決まっておるのは良い」
男は鼻を鳴らしただけで何も言い返さなかった。
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割り台の端まで夕方の光が伸びてきたころ、ライが戸口から入ってきた。
割り台の下の箱から巻いた紙を一本抜いて抱える。今夜ぶんの紙だ。下りる前に寄ったのだろう。
エルクはその背に訊いた。
「ライ。向こうのやめるも、誰かが聞いてたんだよね」
『器が聞いていました。私が書きました』
「うん」
『……聞いた、とは返していません』
ライは紙を抱え直して段の口のほうへ出ていった。クラウの筆はそのあいだも止まらなかった。レオルは薪の向きを揃えていた。エルクだけが戸口の外から目を戻さなかった。
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日が峰にかかるころ、エルクと男は板の前へ戻った。
ソウは墨壺の脇で待っていた。エルクが鍬十五の日を言うと、ソウは男の行の数を指でさかのぼった。溝の日から先のぶんを数え分けて、そこから今日までに細い線を一本引いた。
数は消えていない。線の下から透けて読める。
「消さないんだ」
「線なら、どこまで数えてたか残るでしょ」
男は鍬を担いだままその線を覗きこんだ。
「残すのかよ」
「残すわよ。伸びてたのは本当だもの。……伸ばしてたのはこっちだけど」
冬から休んでいるもう一人の行には、筆は寄っていかなかった。
板の脇ではダクトが写しを一枚広げていた。板と見比べて、休みの欄のところで目を止める。
「板に線が入りますと、写しにも入りますぞ」
「今日やるの?」
「朝のうちに四枚とも入れますぞ。写しだけ線が無いままですと、写しのほうを信じる者が出ますな」
「ダクトがね、写しにも朝のうちに同じ線を入れるって」
ソウは筆を拭いながらうなずいた。
「助かるわ」
男は線の引かれた行をもう一度だけ見て、鍬を肩の上で揺すった。坂の下へ向かう足取りは来たときより少し速かった。
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薪小屋へ戻ると、クラウは替えの芯を帯に挟んでいた。帳は割り台の上に開いたままだった。
墨はもう乾きかけている。言うた日の行と受け取った日の行が上下に並んでいた。上の行は鍬十五の日。下の行は今日。
行と行のあいだに隙間は無い。隔てているのは日のほうだった。溝で聞いた日から今日まで、何日ぶんかがその二行のあいだに挟まっている。
エルクは戸口に立ってしばらくその二行を見ていた。どちらも短い行だった。
クラウはまだ帳を閉じなかった。墨が乾ききるまで、その頁に何も重ねなかった。




