第207話 門の手前で戻った足
ドラゴの朝の報せは、たいてい一言で済む。
門の脇の石に顎を載せて『無い』と言う。それから横になりに坂を下りていく。門に座るようになってからは毎朝その繰り返しだった。エルクが門まで上がるころには、背中しか見えない朝もある。
今朝のドラゴは顎を石に載せていなかった。首を持ち上げて坂の中ほどへ鼻先を向けている。エルクが門柱の脇まで来ても首の向きは動かなかった。
『日暮れに一人、坂を上がってきた』
「一人?」
『一人だ。門の手前で止まった』
鼻先の向こうに坂の傾きがゆるむところがあった。門から石を投げれば届くくらいの近さだ。荷を担いで上がる者は、たいていそこで一度息を入れる。
『しばらく立っておった。……それから戻っていった』
「門まで来なかったんだ」
『来なかった。上へは来ず、下へ戻った』
「誰だろうね」
『知らぬ。我は何も言うておらぬ。言うても通じぬ』
ドラゴはそこでようやく首を下ろした。顎の重さがかかっても石は鳴らなかった。
『灯りの要らぬ刻だった。顔は見ておらぬ。見えたのは戻る背だけだ』
「背中かあ」
『見えたものは言うた。……あとは知らぬのだ』
ドラゴはしばらく目を閉じたまま石の上に顎を置いていた。それから首を上げて坂を下りはじめた。緩いところを通るときも、足を止めはしなかった。
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入れ替わりに門の内側からウーゴが出てきた。
顎が離れたばかりの石の前にしゃがみこむ。木の指の節で石の面を二度叩き、音を聞いてから掌を当てた。
「イシ、イイ」
「傾いてない?」
「カタムカナイ。……アゴノ、アト、アル」
「ドラゴ、重いもんね」
「オモイ。イシ、ヘイキ」
ウーゴの指が石の真ん中をなぞった。縁は朝露で黒く濡れているのに、真ん中だけが乾いて色が浅い。今朝まで顎が載っていたところだ。
ウーゴは乾いたところには触らず縁の露だけを掌で拭った。それから隣の石へ移って同じように叩きはじめた。
エルクは坂の中ほどを見ていた。緩いところには何も落ちていない。踏まれた草が少し寝ているだけだった。寝た草は門のほうへ向いて倒れ、その先で向きを変えて坂の下へ倒れている。
「メア、いる?」
門柱の陰で鱗が石を擦る音がした。メアは朝のうちから門の日陰に来ていた。出てきた目はもう坂のほうへ向いている。
「ドラゴが言ってたとこ、見てもらえるかな。あそこの緩いとこ」
「はい、主様」
メアは坂の土へ目を落とさなかった。土に半分埋まった石の頭を、門のほうから一つずつ辿っていく。踏まれた石には踏んだ足の重さが残る。メアの目が読むのはそれだった。
目は緩いところで長く止まった。
「来て、止まって、戻っています」
「うん。ドラゴもそう言ってた」
「……戻る足のほうが重いです」
「荷物、持ってたのかな」
「上がってくるときは何も担いでいません。止まってから重くなっています」
「止まってるあいだに、何か拾ったのかな」
「拾っていません。重くなったのは足のほうです」
メアはそれ以上続けなかった。誰の足かも言わなかった。エルクも訊かなかった。
「止まって戻ったんだね」
「はい。それだけです」
メアは門柱の陰へ戻っていった。戻る前に一度だけ、緩いところの石の頭を振り返った。
ウーゴの叩く音が石組みの端まで行って止んだ。坂の下の畑では、腰を折った背中がもういくつも畝のあいだに散っていた。
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ラネの寄った結び目は、あの朝のうちにほどかれた。
ラネが脚を離したのは、ほかの結び目がみんな芯に巻き取られてからだった。場所はライの紙の上の行に残っている。刻を置く下の行は空いたままだ。板に無い頭はそれからも来ていない。
昼に当番小屋へ寄ると、戸口の内側の釘にメルの板切れが掛かっていた。
寝る場所の割り振りだ。夜に立った者の名が上から並び、脇に藁のどのあたりかが書き添えてある。いちばん端の小さな枠には、ラネの下りた夜のぶんだけ炭の点が打ってあった。
藁の上ではスラの本体が低く伸びていた。今寝かせているのは二人で、どちらも顔まで藁をかぶっている。
『糸の子はゆうべ下りてねえッス。上でアラーネの隣に丸まってたッス』
「自分で決めた夜だけだもんね」
『決めた夜だけッス。決めた夜の明くる日は、おいらが奥の端をあっためとくッス』
エルクは板切れの名を上から目で追った。門の夜番に立った二人の名がある。上の番に立った者の名も並んでいる。段の口で待っていた者の名も、端のほうにいくつかあった。冬から休んでいる二人の名は、どこにも無かった。
「上の番って、ここに書いてあるので全部?」
『立った人は全部ッス。休みの人は寝かせねえッス。休んでるッスから』
「休みだもんね」
『休みの人は夜に寝てるッス。夜に寝てる人を昼まで寝かせたら、寝すぎッス』
「それはそうだ」
休みの人が夜にどこで寝ているのかは、この藁からは見えない。見えるのは夜に立った人の寝る場所だけだった。
寝ている二人のうちの片方が寝返りを打った。スラの本体がその形に合わせて少し寄った。エルクは板切れから目を離して小屋を出た。
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午後になると、薪小屋の裏を抜けた先の日向はもう暑かった。
ライオは今日は薪の陰のいちばん奥にいた。半歩だけ日向へ出していた前脚も、もう陰の内へ引いてある。腹を土に下ろして前脚を揃え、目を半分だけ開けている。
エルクはその脇へ腰を下ろした。
「ドラゴがね、ゆうべの日暮れに誰か坂を上がってきたって。門の手前で戻ったって」
ライオの耳が一度だけ動いた。
『竜はそれを朝に言うたか』
「言ったよ。顔は見てないって」
『ならば竜は欄の通りにしておる』
「ライオは気にならないの?」
『あの刻の門は、もう我のものではない。……見えたものも竜のものだ』
ライオは目を閉じた。陰の外へ出ているのは尾の先だけで、そこにだけ日が当たっている。
エルクは膝を抱えて、しばらく同じ陰の中にいた。尾の先は、日が傾くまでそのまま動かなかった。
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畑から人が上がりはじめるころ、ソウは板の前で墨壺の蓋を外していた。
外した蓋はエルクが持たされている。ソウは休みの欄の脇の数を一行ずつ改めていった。零の行は零のまま筆が素通りする。
ドラゴの報せはソウにも渡しておくつもりだった。守りの手配はソウの持ち場だ。
「ゆうべの日暮れにね、一人坂を上がってきて門の手前で戻ったんだって。ドラゴが見てた」
ソウの筆は止まらなかった。
「門まで来なかったのね」
「来なかったって。顔は見てないって」
「門に用がある人なら門まで来るわ。来ないなら、用が無かったのよ」
「そうかもね」
「メアには見せた?」
「見てもらった。止まって戻ったって。戻るほうが重かったって」
ソウは筆を墨壺の口で整えて次の行へ移った。
「重いのは、板には書けないわね」
「書けないね」
畑のほうから鍬を担いだ男が上がってきた。溝の向こう側で草を引いていた男だった。鍬の刃には乾いた土がこびりついている。男はエルクに軽く顎を引いてから、板の前で足を止めた。
男の指が休みの欄の一つの行を横へ辿った。名のところは飛ばして脇の数で止まる。四十を越えた数だった。数は読めるらしかった。ソウがたった今改めたばかりの数だった。
「まだ伸びてんのか」
「休みだもの。休んでる日は毎日足すのよ」
「休んでねえよ。毎日畑に出てる」
「畑に出てても、上の番は休みでしょ」
「だから、もう上の番じゃねえんだって」
ソウの筆が墨壺の縁で止まった。
「聞いてないわ」
「言ったよ。溝で」
男の目がエルクのほうへ動いた。
エルクは蓋を板の縁の棚へ置こうとしていた。伸ばした手が、縁の手前で止まった。
男は鍬を担ぎ直した。声は怒っていなかった。
「……おれ、やめるって言ったぞ」




