第206話 糸の寄ったところ
段の口の脇に並んだ石は半分しか埋まっていなかった。
春の終わりまでは夜明けの前になると灯りの両側に人が座っていた。下りた者が上がってくるのを待つ顔ぶれだ。今朝は灯りの片側にしか誰もいない。空いたほうの石には夜露が薄く乗っていた。
エルクはその空いたほうの端に腰を下ろした。石の冷たさが膝の裏まで上がってきた。
ウルは口の縁に伏せて前脚に顎を載せていた。灯りの脇ではケインが板切れを膝に載せている。宵のうちに引いた炭の線から一本も増えていない。
「上は誰も動いてねえっす。減ってもいねえっす」
「下は?」
「下は上がってこねえと分かんねえっすよ」
ケインは板切れを裏返してまた表へ戻した。
ゆうべ下りたのはエネとドレクだった。二人のあとからラネも脚を段へ掛けて下りていった。どの夜にするかは自分で決めるとラネは言っていた。その最初の夜だ。
石の列の端で足音が止まった。メルだった。綴りを胸の前で開いたまま空いた石を目で数えている。
「待つ人の行が短くなりました」
「減ったんだ」
「減りました。草のほうへ回っています」
「待ってる人、いなくなっちゃうのかな」
「いなくはなりません。朝に草を抜く人が夜も待っていると、昼に鍬が止まります。止まらないほうを選んだ人から、ここを空けていきます」
メルは空いた石を咎める目では見なかった。行の短くなったところへ今朝の数を入れて綴りを閉じる。
「待った人は待った刻で入れます。来なかった人は入れません」
それだけ言うと畑のほうへ下りていった。
---
段の奥がぼんやり明るくなった。
灯りを提げたエネが先に顔を出した。ドレクがすぐ後ろに続き、最後にラネが段の縁へ脚を掛けた。ウルが首を起こす。
『二だ』
ウルの目がラネのところで一度止まった。
『……糸の者は数に入れぬ。居たとは言うておく』
「うん。居たね」
ラネは段を上がりきるとそのままエルクの前まで来た。脚の運びが一本ずつ遅れている。一晩じゅう同じ格好でいたのだろう。
「一度も動かなかったわ! ずっと見てたのに!」
「ずっと?」
「ずっとよ! 目を離したら、その間に揺れるかもしれないでしょ!」
「寝てないのは自慢するとこじゃないかな」
ドレクが灯りの輪から外れたところで首を左右に倒した。
「そいつ、朝まで糸の横から動かなかったぞ。灯りのほうを一度も見やしねえ」
エネは抱えてきた紙を開きながらエルクのそばへ来た。
「器はいつもの一行だけでした。ぬると、まだ、ぬるです。ほかは何も跳ねていません」
「板に無い頭も?」
「ありません。ライはまだ下です。ほどくまでは器の前にいるそうです」
ラネが脚を一本持ち上げて段の奥を指した。
「エルク! あの晩の結び目、下なら指せるわ! ほどく前に来て!」
「今から?」
「今よ! ほどいたら、どこで寄ったか糸のほうが忘れちゃうのよ!」
坂の上からクラウが帳を抱えて下りてくるところだった。朝の紙を受けに来たのだ。エルクは石から腰を上げてそちらへ向いた。
「ラネがね、あの晩寄った結び目を下で指せるって。ほどく前なら」
クラウは足を止めた。帳を抱え直しただけで何も言わない。先に口を開いたのはケインだった。
「場所が分かったら、見に行きてえやつが出るっすよ」
「出るかな」
「出るっす。壁のどのへんか分かったら、そこへ耳当てに行くやつが出るっす。夜中に一人でっすよ」
「出る」
クラウは短く言った。
「……名を追わんと決めた。場所も追わん」
「追わねえのに、場所は入れるんすか」
「糸が寄った。それは糸の話だ。入れるのはそこまでだ」
「そこまでって、どこまでっすか」
「結び目一つぶんだ」
ケインは板切れの炭の線へ目を落とした。
「……一つぶんじゃ、耳当てる場所にもならねえっすね」
「ならんようにしか入れん」
灯りの脇の土が丸く盛り上がった。スラの分身だった。
『二人と糸の子の寝床、あっためてあるッス』
「スラが、寝床あっためてあるって」
エルクはドレクへ言い直した。ドレクは顎の下を掻いた。
「寝られるかは知らねえけどな」
『糸の子は来ねえッスか』
「ラネは下に戻るって。結び目を見てから」
『じゃあ奥の端はあとであっため直すッス。二人が先ッス』
分身が土の上を転がって当番小屋のほうへ先に行った。エネとドレクがそのあとを追っていく。
口の向こうの石垣の陰から、メアが体を低くして寄ってきた。石垣の端を出たところで止まる。
「今日は読めます」
「下?」
「下です。口のところの足が軽くなりました。上で止まってる足が少ないと、上の重さが下の石まで降りてきません」
「待ってる人が減ったから?」
「減ったからです。……減ったのがいいことかどうかは、私には読めません」
---
結び目を見に下りるのはエルクとクラウとメアになった。
ウルが前脚から顎を上げた。
『名は』
エルクが自分とメアの名を言い、クラウがそれに続いた。ウルは名を聞き終えてから顎を前脚の上へ戻した。先に段の縁へ脚を掛けていたラネのほうへは目を向けなかった。
アラーネは糸を巻く芯を一本抱えて坂を下りてきた。口の縁でエルクたちに追いつくとそのまま段へ脚を掛ける。そのあとからダクトが楔の布袋を提げて来た。ウルの前で一度止まって自分の名を言った。ウルは顎を上げなかった。ダクトはそれで足りたように段へ入った。朝のうちに器の台を見ておくのもダクトの持ち場だった。
---
段を下りきると、灯りは器の台の脇に一つきりだった。
ライは台の上で紙の端に手を置いていた。針の先は紙の上で細かく震えている。壁の奥では今朝も塗る音が途切れてはまた始まっていた。
『来ませんでした』
ライは紙から目を上げずに言った。
『ぬるの一行のほかは、朝まで細いままです』
ダクトは台の脇に膝をついた。脚の下の楔を一つずつ指で押して、台の縁に目の高さを合わせる。端から端まで眺めてから布袋の口を締めた。
「動いてはおりませんな。今朝は打ち直すところがありませんぞ」
ダクトは立ち上がった。そこから糸のほうを一度だけ見て、足は台の脇から動かさなかった。
「見に行かないの?」
「糸はお二人のものですからな。私はここまでですぞ」
糸は二本とも壁に沿って張ってあった。天井の際から下りてきて、壁から手のひら一枚ぶん浮かせて横へ渡っている。どちらにも結び目がいくつか並んでいた。
アラーネは自分の一本の端へ行って結び目をほどきはじめた。前脚の先で一つ外すたびに芯へ巻き取っていく。
「アラーネのほうは?」
「私のは寄ってないわ~。だから、あの子のとこなのよ~」
ラネはもう自分の一本を伝って上がっていた。灯りの届くところを過ぎて薄暗いほうへ進んでいく。途中で一度止まりかけてまた進んだ。それから止まって、脚の先を一つの結び目の上に置いた。
「ここよ!」
エルクは台の脇から見上げた。灯りから遠い。結び目は糸のこぶとしてやっと見えるくらいだった。
「そこ?」
「ここよ! あの晩、ここがひとつ寄ってたの! ほかのは全部元のとこだったわ!」
ライが紙から手を離した。台の上で身を伸ばして糸のほうを見る。見ているのは紙に入った拍ではなかった。結び目と壁と足もとの石のあいだだった。
壁の前には打つ者の立つところがある。灯りに近い床の石で、そこだけ擦れて白い。あの晩ソウが立ったのもその石だ。
『打つ人の立つところではありません』
ライの目が白い石から結び目へ動いた。それから壁の高いほうへ上がる。塗る音は壁の真ん中より上のあたりから来ていた。
『塗る音のするところでもありません』
「じゃあ、どこなんだろ」
『どこ、とは書けません。結び目の場所だけです』
ライは紙の端に新しい行を一つ引いた。その下にもう一つ引く。
『上の行に結び目の場所を置きます。刻は下の行です』
「刻は分かんないよね。あの晩のいつ寄ったのか」
『分かりません。下の行は空けておきます。同じ行に置くと、場所に刻が付いたように読めますので』
クラウは台の端に帳を開いていた。ライが上の行へ置いたのと同じ場所を自分の帳にも取る。
「寄った結び目はここ、と入れる」
「誰が、は?」
「入れん」
「入れようがないもんね」
「入れようがあっても入れん」
エルクは結び目から壁の石までを目で測った。手のひら一枚ぶんしかなかった。壁の石はどこも同じ色をしている。結び目の真向かいだけ違って見えるということもなかった。
測り終えたところでエルクの目は止まった。足は台の脇から出なかった。
---
メアは段を下りきったところにいた。灯りの届く手前の暗がりだ。
ライが拾うのは紙に残った拍だ。メアの目が拾うのは、足が石に置いていったもののほうだった。その目が壁の前の床をゆっくり渡っていく。白い石から糸の下を通って、灯りの届ききらない端まで。
メアは端の手前で膝をついた。石には手を当てていない。
「こちら側に、知らない足はありません」
「こちら側」
「ラネと、お姉さんと、下りた人たちの足だけです。あの晩のも、ゆうべのも」
「向こうは?」
メアは壁のほうへ目を上げなかった。
「石のこちらまでです」
「読まないんだ」
「読みません。こちらの石で足りますから」
クラウの筆がもう一度動いた。
「知らん足は無い。見たのはメアだと添えておく」
メアは膝を上げて、また輪の外の暗がりへ下がった。
---
アラーネの一本はもう芯にほとんど巻き取られていた。
「こっちは終わるわよ~。あんたも早くしなさいね~」
「分かってるわ!」
返事はしたがラネの脚は動かなかった。
「ほどいたら、ラネしか覚えてないんだね」
「そうよ! だから今のうちなの!」
アラーネは最後の結び目を外して芯を抱えた。妹の糸を見上げたまま、急かす言葉はもう足さなかった。
ライは上の行を筆でなぞり直している。クラウは帳を閉じずに待っていた。ダクトは台の脇から一歩も出ない。壁の奥で塗る音がまた途切れて、また始まった。
ラネの一本は壁に沿って張られたままだった。ほかの結び目はどれもほどかれるのを待っている。
ラネの脚の先は、その一つの上に置かれたまま離れなかった。




