第205話 溝のそばで聞いたこと
起こしたばかりの畑に草が出はじめていた。
畝の肩に細い緑が点々と並んでいる。どれも指の先ほどの丈しかない。それでも朝のうちに抜いておかないと昼には根が張ってしまう。鍬を持った者たちは畝のあいだに散らばって、腰を折ったまま少しずつ坂の下へずれていった。
エルクは畑の縁で抜いた草を束ねていた。束はもう片手では握りきれない。根についた土が乾いて指のあいだからこぼれた。
あの晩から板に無い頭は来ていない。クラウの帳の行は冬に一つと春に三つで止まっている。
杭の脇ではメルが綴りを膝に載せていた。畝のほうは見ていない。頭の上で羽音がして、グリフが杭の頭に爪を掛けた。
『鍬は十五だ。畝から外れておる者はおらん』
メルは綴りの端に数を書き入れた。指で畝をなぞることはしなかった。
『数えんのか』
「グリフが数えたぶんで足ります。草は明日も出ますので」
『明日も持ってくる。……数だけだ』
グリフは杭の頭を一度握り直してから空へ上がった。影が畝の上を横切って峰のほうへ小さくなっていく。
メルは書いたばかりの数の下へ指を滑らせた。そこにはもう一つ行がある。
「春の三回は使いませんでした」
「交代の?」
「交代のです。春のうちに出せた三回です。一度も出していません」
「使えなかったってこと?」
「使わなかったと書きます。使えなかったとは書きません」
エルクは草の束を持ち替えた。
「違うんだ」
「違います。使えなかったと書くと出す人が足りなかった話になります。春は足りていました。出さずに済んだだけです」
畑の縁の道を杭の束を担いだソウが通りかかった。話の終いのほうだけ聞こえたらしい。
「使わないで済んだのよ。済んだのは悪いことじゃないわ」
「取っておいたのに使わなかったの、もったいなかったかなって」
「もったいなくないわよ。取ってあったから、使わないで済んだって言えるの」
ソウは肩の杭を揺すり上げて坂のほうへ歩いていった。メルは綴りを閉じかけて途中で止めた。
「夏のぶんは、草が落ち着いてから数えます」
「落ち着くのっていつ?」
「草の出ない朝が来たらです。来たら言います」
エルクは束ねた草を畑の縁の山へ載せた。山は朝より膝ひとつぶん高くなっていた。
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溝は畑の縁に沿って坂を下っている。
春のあいだは縁の石の上まで水があった。今は底の石が半分ほど乾いて白く見えている。水は溝の真ん中を細く一筋だけ流れていた。
ウーゴが縁の石を一つずつ外していた。外した石の下の土を木の指で掻いて、一段低いところへ据え直す。据えた石の肩をちょうど細い水が越えていく。
「ミズ、ヘル。イシ、サゲル」
「夏になると減るんだ」
「ヘル。……アキ、アゲル」
「また上げるの?」
「ミズ、フエル。イシ、アゲル」
ウーゴは据えた石の上に水が乗るのを見届けてから次の石へ移った。溝に沿って下へ一つ、また一つ。エルクは据え直したばかりの石の脇に膝をついて縁の草を抜きはじめた。根が石の隙間に入りこんでいて、引くと土ごと持ち上がってくる。
石を外す音が少しずつ遠くなった。ウーゴの背は畑の角を回って見えなくなった。
溝の向こう側でも男が一人草を抜いていた。春に入ってから畑でよく見かける顔だ。鍬を土手に寝かせて素手で縁の草を引いている。二人のあいだを水が細く流れていった。
しばらくはどちらも黙って抜いていた。男は抜いた草を土手へ放ると鍬を拾って肩に担いだ。腰を伸ばしたついでのような声だった。
「おれ、夜の上の番やめるわ。畑のほうが要るからよ」
「そっか。畑、忙しいもんね」
「草が待ってくれねえからな」
男は溝の先を顎で指した。
「そっちの端、まだ残ってんだ。頼むわ」
「うん」
男は坂を上がっていった。鍬の柄が肩の上で左右に揺れている。エルクは石の隙間の根をもう一度引いた。今度は途中でぷつりと切れた。
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切れた根を指で掘り出していると、土手の上から細い脚が先に覗いた。
「エルク! ここにいたのね!」
ラネは土手を半分滑るように下りてきて、溝の縁の石の上で脚を揃えた。
「夜も私の一本を見に行きたいの! いつ揺れたか知りたいのよ!」
「夜に?」
「朝に寄ってたって分かっても、いつ寄ったかは分からないのよ! ライだって別の行に書いたんだもの!」
アラーネは土手を下りてこなかった。上の縁で脚を畳んで、そこから溝を覗きこんでいる。
「私は行かないわよ~。夜は寝るのよ~」
「アラーネは行かないんだ」
「あの子の糸だもの~、あの子が行けばいいのよ~」
ラネは石の上で体ごとエルクのほうへ向き直った。
「下りていいでしょ!」
「僕が決めることじゃないかな。下のことはソウに訊かないと」
「今訊いて!」
「ソウ、ここにいないよ」
「じゃあ訊いてきて! ここで待ってるわ!」
アラーネは妹の脚の先を見て、それからエルクを見た。
「待ってるって言ったら、この子ほんとに動かないのよ~」
エルクは抜いた草を土手に置いて立ち上がった。膝に溝の泥が丸くついていた。
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戸口から覗くと、藁の上でスラの本体が平たく伸びていた。今は誰も寝かせていない。戸口の内側でメルが板切れに寝る場所の割り振りを書いていた。ソウはその横に腰を掛けて灯りの芯を切りそろえている。担いでいた杭の束は戸の外に立てかけてあった。
エルクは敷居の外から顔だけ入れた。
「ラネがね、夜も自分の糸を見に行きたいんだって。いつ揺れたか知りたいって」
ソウの鋏が止まった。
「一人で下りるのは無しよ」
「一人で行くって言いそうだけど」
「言わせないで。……下りる二人と一緒なら、いいわ」
「糸のそばにいるだけだと思うよ」
「それでもよ。二人が下りない夜は下りないの。それだけ」
エルクはうなずいた。それから溝の石の上で待っている脚を思い出した。
「毎晩行くって言いそう」
「毎晩は駄目よ。寝る夜も作るの」
メルが板切れから顔を上げた。
「ラネが下にいる夜は、昼に一つ寝る場所が要ります」
「足りる?」
「今は足ります。畑が長くなったら分かりません」
藁の上の本体が少しだけ盛り上がった。
『糸の子も寝かせるッス。夜に起きてるなら昼に寝るッス』
「スラが寝かせるって」
エルクはソウのほうへ言い直した。ソウは芯の先を指で揃えた。
「なら、いいわ。下りる二人にも言っとくのよ。知らないで下りたら暗がりで踏むわ」
「踏んだら怒るね」
「怒るわね。あの子なら」
『糸の子、どこに寝かせるッスか』
「奥の端です。戸口の近くは明るくて起きやすいので」
メルは板切れのいちばん端に小さな枠を一つ足した。中にはまだ何も書いていない。
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溝へ戻るとラネは同じ石の上にいた。脚を一本も動かしていないように見えた。土手の上ではアラーネがまだ脚を畳んだままだった。
「下りる二人と一緒ならいいって」
「やったわ!」
「毎晩は駄目なんだって。寝る夜も作るの」
「どの夜かは私が決めるわ! 私の糸だもの!」
「うん。決めたら言ってね。昼はスラが寝かせるって」
「寝るのは得意よ!」
「得意なのは寝坊のほうでしょ~」
ラネは土手を駆け上がって、上にいた姉の脇をすり抜けていった。アラーネは畳んでいた脚をほどくと、妹の消えたほうとは逆の、日の当たる斜面へ移っていった。
エルクは土手に置いてあった草の束を拾った。それから溝の先の端へ移って残りの草を抜いた。日が傾くまでに端まで終わった。
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夕方の板の前にはソウが一人でいた。
墨壺を足もとに置いて一枚目の休みの欄の脇を上から順に下りていく。行ごとの数を今日のぶんだけ書き改めていく。零の行は零のまま残る。
エルクは段の口へ向かう途中で足を止めた。指にはまだ草の青い匂いが残っている。坂の下からは門へ上がっていく重い足音が聞こえた。
「それ、毎日足してるの?」
「毎日よ。まとめて足すと、どの日を足し忘れたか分からなくなるもの」
「手間だね」
「手間よ。だから毎日やるの」
ソウの筆は途中で一度も止まらなかった。四十を越えた二つの行の数も、ほかの行と変わらない太さで一つずつ増えた。




