第204話 通さないと返した朝
門の石組みの角の石が夜露を吸って前へ傾いていた。
ドラゴがいつも顎を載せる石だ。ウーゴは木の指を石の下へ差しこんで少しずつ起こしている。起こしたぶんだけ下へ小石を噛ませていく。
ドラゴはさっき坂を上がってきたばかりだった。中夜の手前で門を離れて下へ戻り、朝になってまた来たのだ。胴を伏せて首だけを浮かせ、石が戻るのを待っている。
エルクは門柱の脇に立って坂の下を見た。夜の門の二人はもう上へ戻っている。外側の石には灯りの煤が丸く二つ残っていた。
あの晩に長いのが三つ来てから、壁の向こうからは何も返っていない。ソウが一度だけ打ち返した並びにも返りは無かった。
「アゴ、ノセル。イシ、ナオス」
「傾いたの、ドラゴの顎が重いから?」
「ツユ。アゴ、チガウ」
ウーゴは石の面を掌で撫でた。指の腹で縁をなぞってから一歩下がる。ドラゴがそこへ顎を戻した。石はもう鳴らなかった。
『見えたものは無い』
ドラゴは坂の下へ目を向けたままだった。
『……無いと言いに来た』
「わざわざ上がってきたんだ」
『朝に言えと言われた。無い朝も朝だ』
「無い朝かあ」
『坂の下は暗かった。暗いほかは何も無かった。上がってきた者も下りていった者もおらぬ』
ウーゴは余った小石を拾って石組みの隙間へ押しこんだ。据えた石を横から覗いて、もう一度だけ掌で押す。
「ヨルマデ、ウゴカナイ」
『夜にまた載せる。……だが今は横になりに行く。メルがそう決めておる』
ドラゴは顎を持ち上げてゆっくり向きを変えた。重い足が一歩ずつ坂の下へ遠ざかっていく。エルクは直したばかりの石に手を置いた。朝の冷たさがまだ残っていた。
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当番小屋の板の隙間から、藁の上の二つの盛り上がりが見えた。
夜の門に立った二人だ。スラの本体が二人の足もとから腰のあたりまで薄く広がって覆っている。灯りを提げていた手はどちらも藁の外へ投げ出されていた。エルクは戸を開けずに隙間から覗いたままでいた。
『門の二人、横にしといたッス』
声は藁の上の本体からした。
「寝てる?」
『寝たかどうかは知らねえッス。目は閉じてるッス』
「閉じてるならいいかな」
『いいかどうかも知らねえッス。おいらが分かるのは横になった刻だけッス』
「それで足りるの?」
『足りるッス。刻が分かってりゃ、次の門に誰を立てるかメルが決められるッス』
小屋の裏の道を糸の束が二つ通っていった。段の口から上がってきた姉妹だ。ラネが先を行き、アラーネは束を肩に掛けて少し遅れてついてくる。エルクは板の隙間から離れて道のほうへ出た。
「ラネ。今朝の糸は?」
「寄ってなかったわ! ゆうべは何も無しよ!」
「あの晩の結び目は」
「覚えてるわ! どれだったか私はちゃんと覚えてるのよ!」
「覚えてるうちに言いなさいね~。忘れたら糸のほうは教えてくれないわよ~」
「言うのは糸の前よ! ここじゃ指せないもの!」
ラネは束を振り上げて先へ行った。アラーネは小屋の角で足を止めて板の隙間のほうへ一度だけ目をやった。それから妹のあとを追った。
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薪小屋の割り台には朝のうちから紙が並んでいた。
ライは割り台の角に乗って器の紙を二枚押さえている。ゆうべの一枚とあの晩の一枚だ。その隣にクラウの帳が開いてあって、クラウ本人は割り台の端に腰を掛けていた。エネは自分の紙を膝に載せて、線の上へ印を一つ足したところだった。
「今朝も入れました」
「ゆうべも来なかったんだ」
『来ていません。ゆうべの紙はいつもの二つだけです』
ライが短いほうの紙を脇へ寄せた。割り台の真ん中に残ったのはあの晩の一枚だった。
反対の端ではダクトが写しを四枚広げていた。一枚ずつ裏を返して、二枚目の名が並んだ下へ筆を下ろしている。四枚とも同じところに折り目がついていた。
「明くる日ですぞ。言うた通りですな」
「ライオのとこ?」
「名と渡した先と理由で一行ですな。表は変えませんぞ。一枚目には触っておりませんからな」
「下のはどうするの」
「昼のうちに私が吊るし直しますぞ。運ぶのは私の役目ですからな」
エネが器の紙の上へ指を置いた。ライが紙の一か所に触れて、そこから指を送らせていく。
『ここが板に無い頭です』
エネの指が右へ動いた。
『間です。長いのはそこから三つ』
指はそこで一度止まった。その先はしばらく細い揺れの線が続くだけで、どこも跳ねていない。
『何も来ていないところです。……ここからソウです。頭。間。短いの、短いの、長いの』
エネは指を紙から離して帳を見た。クラウの字は二行きりだ。上の行に「来た」とあり、下の行に「通さんかった」とある。
「やめる、が先です。通さない、はそのあとです」
小屋の脇で薪を割っていたソウが斧を下ろした。刃を台に食いこませたまま振り返る。
「そうよ。私が打ったのはあとだもの」
「向こうから見たら、やめるって言ったら通さないが返ってきたんです」
ソウは斧の柄を握ったままだった。何か言いかけて口を閉じる。
エルクは器の紙の上に指を置いた。二つの並びのあいだの何も跳ねていない線のところだ。指はそこから動かなかった。
「……やめるって言った人に、通さないって返したんだ」
ソウの顔は見ていなかった。紙に向かって言ったような声だった。
しばらく誰も口を開かなかった。ダクトの筆が裏の行の終いで止まって墨を含みにいく。
「打ったのは私の印よ。打ち直さないわ」
ソウは斧の柄を割り台に立てかけた。
「……でも、通さないしか言ってないのよね、うち」
エルクは紙から指を上げた。
「ライ。長いの三つって、向こうはどこで覚えたんだろ」
『長いのを三つ、こちらが壁で打ったのは、ドレクの二度だけです』
「それだけ?」
『それだけです。その先は紙にありません』
エネが帳のほうへ身を乗り出した。
「帳にも順を入れておきますか。やめるが先って」
「入れん」
クラウは帳を引き寄せもしなかった。
「順番は紙にある。帳へ写せば、同じことが二か所になる」
「二か所だと駄目なんですか」
「片方だけ直すやつが出る。直したほうが本物に見える」
小屋の角から縄の束を肩に掛けたケインが来た。割り台の上を覗いて並んだ紙を目で追う。ソウが順を短く言った。ケインは縄を担ぎ直した。
「やめたんなら、もう来ねえっすよ」
「来ないかな」
「来ねえっす。やめるって言ったんすから。……終わりっす」
「向こうは終わったのかもしれないけど、こっちは何も言ってないよ」
「通さねえって返したじゃねえっすか」
「それは返したね。でも、やめるのほうには何も言ってない」
「言うことあるんすか」
返事をする者はいなかった。エネは紙の端から指を離さなかった。ライは器の紙を巻きかけて途中でやめた。ダクトの筆だけが次の一枚の裏へ移っていった。
メルが坂の上から下りてきた。綴りは脇に挟んでいる。割り台の前で足を止めてケインの縄を見る。
「今日も畑です。起こしは終いまで行きます」
「終わるの?」
「終わらせます。草が出てから起こすと手間が倍になりますので」
ケインは返事の代わりに縄を肩へ揺すり上げた。メルのあとについて坂を下りていく。一度だけ振り返ったが、見たのは割り台の紙ではなくソウのほうだった。
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薪小屋の裏は日が当たらない。ライオはそこを抜けた先の、積み薪の端の日向にいた。
薪の陰から半歩だけ出たところに腹を下ろしている。ここからは門が見えない。薪の山と小屋の壁が坂のほうをふさいでいた。日は傾きはじめている。エルクは薪の山の端を回って日向に入った。
「門、行かないんだ」
『あそこは竜の場所だ』
「まだ日暮れじゃないよ」
『日暮れの前から見えるところにおれば、刻が来たとき足が向く。……向かぬところにおる』
「ここ、あったかいね」
『日向を探したのではない。門の見えぬところを探したら日向であった』
エルクはライオの横に腰を下ろした。割ったばかりの薪の匂いがした。
「今朝ね、エネがあの晩の紙を並べたんだ。やめるが先で、通さないがあとだった」
ライオは目を細めた。たてがみの先が風で一度だけ揺れた。何も言わなかった。
「……うん。それだけ」
日向の端が少しずつ薪の山のほうへ寄っていく。ライオは寄っていく端に合わせて前脚を半歩引いた。門のほうへは一度も首を向けなかった。
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畑の端の土手でメルが綴りを開いていた。
起こした土は坂の下から端まで同じ色になっている。鍬を担いだ列が畝の終いから上がってきて、土手の下で順に足を止めた。エルクは土手の草に腰を下ろして列を眺めていた。
上から風が落ちてきた。グリフが土手の草の上に降りて翼を畳む。爪の先に土はついていない。
『鍬は十七。終いの畝まで行った』
「上がってくるの、グリフのほうが早いね」
『上からだと、どの列が最後か先に見える。……数は下で合わせろ』
メルは土手の下の列を指で送っていった。
「十七です。合っています」
『残っておる列は無い』
「起こしは終いです」
メルは綴りの起こしの欄の終いに一本線を引いた。
「明日は?」
「明日のことは明日の朝に言います。今日は終いまで行った、だけです」
グリフは首を回して峰のほうを一度見た。それから何も言わずに土手を蹴った。
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段の口の灯りは日が落ちきる前に入れる。
今夜下りるのはクラウとドレクだった。クラウは帳を抱えている。下の写しは、昼のうちにダクトが裏へ一行足して吊るし直してあった。ドレクは荷札を帯に挿したまま灯りの輪の縁に立っていた。
ウルは口の縁に前脚を揃えて伏せている。エルクはその横にしゃがんだ。坂のほうから重い足音が門へ上がっていくのが聞こえた。日暮れからはドラゴの刻だ。
「ケインが言ってた。やめるが先だったってな」
ドレクがクラウのほうを見ずに言った。
「先だった」
「……で、今夜また来たらどうすんだ」
「来たと書く」
「それだけか」
クラウは答えずに帳の角を揃えた。ドレクもそれ以上は訊かなかった。
『名は』
「名前だって」
クラウが名を言った。ドレクは一拍遅れて自分の名を短く言った。
『下りるのが二だ』
ウルは二人の背が段の暗がりへ入るまで目を離さなかった。エルクは灯りの脇に残った。
「今夜は来るかな」
『我は頭を数えぬ。数えるのは段を通った者だけだ』
「そうだったね」
『来たかどうかは、朝に紙が上がってくる』
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夜明けの少し前、段の下で灯りが揺れた。
最初に顔を出したのはドレクだった。クラウが帳を抱えて続き、その後ろからライが器の紙を丸めて上がってくる。ウルが首を起こした。
『二人、戻った』
「おかえり」
ドレクは輪から二歩出て腕を回した。肩が鳴る音がした。
「来た?」
エルクはライのほうへ訊いた。
『いつもの二つです。ほかは来ていません』
ライが丸めた紙を半分だけほどいた。中夜のあたりにいつもの行がある。ぬる。少し空いて、まだ、ぬる。その前にも後ろにも細い揺れが続いているだけだった。
クラウは口の脇の石に腰を下ろして帳を開いた。頁を何枚か戻す。板に無い頭が来た日を数える行だ。冬に一つ。春に三つ。印はそこで終わっている。
筆は出さなかった。クラウは頁を押さえたまま、しばらく印の数を見ていた。
「……来なかったのか」
ドレクが輪の外から訊いた。
「来ておらん」
ライの手元の紙は朝の風で端がめくれかけていた。エルクが指で端を押さえた。
頭のあとに間があって長いのが三つ続く並びは、この紙のどこにも無かった。板に無い頭も一つも無かった。




