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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第七部・読めない者/断り方のない決まり編
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第203話 やめると打った者

 ライの筆は紙へ戻らなかった。


 針は頭のあとで細い揺れに戻っている。エネは膝の紙を押さえたまま動かない。エルクは折りかけた指を膝の上で止めたままでいた。


 しばらく何も来なかった。


 それから長いのが来た。


 一つ。同じ幅を空けてもう一つ。もう一つ。


 三つ目のあとで針はもとの細かい揺れへ戻った。


 ライは先に筆を取った。紙の端へ刻を入れ、その下に読んだのは自分だと名を置く。書き終えるまで口は開かなかった。


『やめる、です』


「……やめてよい、じゃないんだ」


『打ったのはこちらではありません。ですから、やめる、です』


「誰が打ったの」


『打った者は分かりません』


 エルクは台の縁へ手をついて紙を覗きこんだ。頭は長いのが先で短いのがあとだった。冬に綴じた一枚と同じ順だ。


「あの人じゃないんだよね」


『あの人の頭は別です。今夜のぶんはもう来ています』


 ライは紙の少し上へ指を置いた。今夜いつもの刻に来たぬるの行がそこにあって、今の三つとは指一本ぶん離れていた。


 壁の向こうでは塗る音が続いている。速くもならないし途切れもしない。


 エルクは長いこと黙っていた。


「じゃあ、誰かがやめるって言ったんだ」


 誰も答えなかった。


「……通さないんだよね」


 ライの筆は紙の端で止まったままだった。エネは顔を上げかけて、また紙へ目を落とした。


 しばらくしてエネが台の脇まで寄ってきた。ライの紙に並んだ頭を指でなぞっていく。宵のうちに打った二つがそこに入っていた。エルクの頭とエネの頭だ。


「ぬるのを別にすると、頭は三つです。打ったのは二人です」


「冬と同じ形だね」


「同じです。……上に言わないと」


「二人で上がろう。ライはここにいて」


『います。器の前は初めから私の場所です』


---


 段は上へ行くほど冷えていた。


 口の灯りが見えたところでエネが先に上がりきった。ウルは脇の石から首を起こして二人を見た。


『上がったのが二だ』


「うん。二人だよ」


 口の周りには今夜も人が残っていた。ケインは灯りの脇で板切れに炭の線を引いている。上の数を持つのが今夜の持ち場だ。ソウとクラウは並んで石に腰を下ろしていた。ドレクは灯りの輪の外で薪の束に腰を掛け、段の口から顔をそらしている。


 エネは紙を開いてウルの前へ膝をついた。


「ぬるのほかに頭が三つ来ました。宵の二つと板に無いのが一つです。そのあとに長いのが三つです」


 ウルの耳が立った。


『我が数えたのは二人だ。打った頭は三つある』


「春にも二回あったよね」


『同じ形だ。冬は誰も気づかなんだ。春の二度は、紙が上がってきてから分かった。……今夜は器の紙が上がる前に、下りた者が言いに来た』


 ソウが立ち上がった。クラウは帳を膝から下ろさずに開いた。


「長いのを三つって、うちが打ったのと同じ並びよね」


「同じだよ。向こうから来ると、やめるになるんだって」


 ドレクが顔を上げた。灯りの輪には入ってこない。


「……おれが打ったやつか」


「形は同じだ。打ったのはお前ではない」


 クラウがそう返すと、ドレクはそれ以上訊かなかった。顔がまた段の口からそれた。


 口の脇の杭が軋んだ。見上げるとグリフが爪を掛け直している。上から下りてきたばかりで、翼がまだ畳みきれていない。


『上は皆起きておる。戸の外まで出てきた者もおる』


「聞こえたの?」


『聞こえてはおらん。ここの灯りが動いたのが見えた。……数だけ持ってきた』


「空には?」


『持って行かん。これは上と下のことだ』


 ケインは炭を持つ手を止めていた。


「通さないのは決まってるっすよね。板に無えんすから」


「決まってるわ」


「じゃあ返すのは何のためっすか。通さねえのに返すって、意味あるんすか」


「あるわ」


 ソウは膝の上の順の紙を帯へ押しこんだ。


「通さないって聞こえたなら、こっちが居るって分かるでしょ」


「分かられたら困るって話、おれずっとしてるんすけど」


「知ってるわ。でも黙ってたら、ここには誰も居ないのと同じよ。誰も居ないところへは明日も同じのが来るわ」


 ケインは言い返さずに板切れへ目を落とした。


「打つわ」


「ソウが?」


「頭は私の印よ。……打たないと、去年と同じだもの」


 クラウが帳を抱えて立った。


「俺も下りる。書くのは下だ」


「クラウも打つの」


「打たん。器の前で書く」


 ケインは板切れへ短い線を一本足した。


「おれは分かってねえまま数えるっす」


「うん。数えて」


「数えるっすよ。上は一人も減らさねえっす」


 ウルが首を段の奥へ向けた。


『名は』


「名前だって」


 クラウが名を言い、ソウが続けた。


『下りるのが二。上がったのが二。……合うておる』


 エルクは口の縁で足を止めた。前へ出かけた足を自分で戻す。ソウは一度も振り返らずに段の暗がりへ入っていった。


---


 ドラゴは入口の脇の土手に顎を預けていた。


 尾は胴に沿わせて丸めてあり、打つときだけ先がほどける。エルクはその脇の石へ腰を下ろした。エネが少し離れて座る。


『下りたな』


「ソウとクラウだよ」


『二つとも軽い足だ。……ソウのほうが速い』


 しばらくして尾が動いた。


 頭はソウの印だった。エルクは左の指を一本折った。


 間。


 短いの。短いの。それから長いのが一つ。


 右の指を三本折る。板の下の縁でウーゴが欠いた並びの一つだった。


 尾は打ち終えると土の上に置かれたまま動かなかった。


「向こうから返ったら、分かる?」


『分からぬ。我が刻むのはこちらの音だけだ』


 灯りの届かないところでケインが炭を擦る音がした。線を一本引いたのだろう。


 エネは紙を開いていなかった。膝の上で両手を重ねている。


「あたし、去年は数えるだけでした」


「うん」


「言えなかった人を数えて、言った人がいたことだけ残して。自分は数に入れてませんでした」


「今年は」


「今年は、言いました」


 エネは重ねていた手を一度ほどいてから、また重ねた。


「……言ったほうがよかったかは、まだ分かりません。あたしが言ったから渡す話になって。渡したから同じ形が来たのかもしれません」


「それ、僕もクラウに言ったよ。そう読むなって言われた」


「なんでですか」


「材料が無いって。一緒に起きたからって、そのせいとは限らないんだって」


「……じゃあ、分からないほうに入れておきます」


 尾の先がわずかに持ち上がって、また土へ下りた。


---


 足音が段を上がってきた。


 先に出てきたのはクラウで、帳を開いたまま腕に載せている。ソウは口の外へ出てから手のひらを腿で拭った。ウルが二人を順に見た。


『上がったのが二。下におるのは零だ』


「ライは」


『ライは初めから数に入れておらぬ』


 エルクはクラウの前へ出た。


「返った?」


「返らん」


「頭も?」


「頭も来ん。針は細かいままだ」


「書いた?」


「書いた。誰が、は書かん」


「分からないもんね」


 クラウは帳の頁を押さえて灯りのほうへ向けた。字は二行ぶんしか入っていない。


「……来た、と書く。通さんかった、と書く。二つだ」


 ソウは口の脇の石へ腰を落とした。


「一度だけ打ったわ。二度目は打たない」


「一回でいいの」


「通さないのは一回で足りるの。何度も打ったら、待ってるのがこっちになるわ」


 エルクは段の奥へ目をやった。塗る音はここまでは届かない。


「あの人には? 今夜のこと、打つの」


「打たん」


「言わなくていいの」


「あれの話ではない。……うちの話だ」


 ドレクはいつのまにか段の口へ顔を向けていた。灯りの輪の外で腕を組んだまま、そこから目を動かさない。何も言わなかった。


---


 棚の小屋にはライが先に戻っていた。


 器の紙を抱えたまま箱の前で膝を折っている。スラの分身は戸板の下の隙間から半分だけ入りこんでいた。エルクは戸の内側に立った。


『朝まで何も来ませんでした。針は細かく揺れていただけです』


「返しは」


『ありません。頭もです』


「箱は」


『二つとも昨日の朝と同じです。左も真ん中も変わっていません』


 戸板の下の分身が縁を持ち上げた。


『ソウとクラウは本体のほうで寝かせてるッス。ゆうべのぶんッス』


「起きてたのに寝られるかな」


『寝られなくても横にするッス。横にしとけば抜けた夜のぶんが少しは戻るッス』


 エネが紙を持って戸口に来た。線の上に並んだ印の端へ一つ足す。


「今朝も入れます」


「入れるんだ」


「長いのが三つは来ました。でも返りじゃないので」


「別のとこに書くの」


「線の下に書きます。同じ線の上には置きません」


---


 段の口の脇で糸の束が振られていた。


 ほどきに下りた姉妹が上がってきたところだった。ラネのほうが先に出てくる。エルクは口の縁の石から腰を上げた。


「私の一本、ゆうべ揺れてたわ! 結び目がひとつ寄ってたのよ!」


「ラネが先に言うんだね」


「私の糸だもの! 姉さんに見てもらってから言うんじゃないのよ!」


 アラーネはあとから上がって脚の先の土を落とした。


「私のは寄ってなかったわ~。先に言われちゃったわね~」


「いつ揺れたか分かる?」


「分からないわ! ほどくときに寄ってたの!」


「ライには言ったの~?」


「言ったわ! 別の行に書いてたわ! 長いのと同じ行には入れないって!」


 アラーネは妹の束を受け取らずに自分の束だけを肩へ掛けた。


「じゃあ私はもう見なくていいわね~。あの一本はあの子が言うのよ~」


---


 板の下の縁ではウーゴが屈んでいた。


 欠きは三つ並んでいる。ウーゴはそのうちの一つの脇へ小刀の先を当てて、浅く一度だけ入れた。エルクはしゃがんで同じ高さから見た。


「何彫ったの」


「カエシタ。ホル」


「使ったしるし?」


「ハジメテ、ツカッタ。ソノブンダケ」


「次に使ったら」


「ホラナイ。ホッタラ、カズニナル」


 薪小屋のほうからダクトが写しの束を抱えて来た。四枚とも紐で括ったままだ。


「写しは替えませんぞ」


「替えないんだ」


「書いてある通りに使えた夜ですからな。替えるのは書いてある通りに使えなかった日ですぞ」


「使えなかったら」


「そのときは直すところがありますな。……板に何か足された日なら、そのぶんは明くる日に運びますぞ」


 ウーゴは欠きの脇の粉を指で払った。深さを指の腹で確かめてから小刀を帯へ戻した。


---


 昼の門柱は影が短い。


 ライオは決めた場所より少し手前に胴を下ろしていた。刻はまだ入っていない。クラウは帳を門柱の根元へ開いて置いた。起きてきたばかりのソウが柱に肩を預けている。エルクは柱の影に入った。


『ゆうべ、やめると打った者がおったそうだな』


「聞いたんだ」


『聞いた。誰かは知らぬ。……だが言うた』


 ライオはたてがみを一度振った。


『我も書かせよ。二枚目だ』


 クラウの筆が止まった。


「何を書く」


『日暮れから中夜の手前まで。この刻をやめる』


「減らすんじゃなくて?」


『減らすではない。やめるだ』


 ライオは前脚の位置を変えなかった。


『減らすは、やめるの顔をしておるゆえな』


「理由は」


『決めた刻に下がるのが、近ごろは楽になった。楽になった番は次に減らしたがる』


「減らしたがるのは嫌なんだ」


『嫌ではない。減らしても欄に名は残る。残った名の刻は誰も数えぬ』


 クラウは頁を繰って二枚目のぶんの行へ筆を下ろした。


「渡し先は」


『竜だ』


 坂の下のほうから重い足が上がってきた。ドラゴは一歩ごとに止まりながら門の石組みの手前まで来て、そこで胴を下ろした。


『呼んだか』


「ライオの刻、ドラゴに渡すって」


『門に座るのか』


 ライオは顎で坂の下を指した。


『座るだけでよい。坂の下を見ておれ。見えたものは朝に言え』


『座るだけならできる。我の欄は何もせぬ日がいちばん広いのだ』


 ドラゴは首を板のあるほうへ向けた。ここからは見えない。


『……我の欄が増えたな』


「打った日のところに足すの?」


『打つ日とは別の欄だ』


 ソウはクラウの手元を覗いていた。筆は名と渡した先と理由の一行を入れて止まった。


「二人目ね」


「二人目?」


「渡した先が書けたのは二人目よ。糸のあとで、これがやっと二つ目」


 クラウは帳を閉じて立った。日はまだ高い。板へ入れるなら今のうちだった。


---


 日が門の面から外れた。


 ライオの決めた場所にはドラゴが顎を載せている。ライオは来なかった。


 坂の上から人が二人下りてきた。どちらも春に戻ってきた者で、灯りを一つずつ提げている。二人は門柱の前で順に名を言った。クラウがそれを帳へ入れる。レオルは石組みの角に背を当てて、二人の手の灯りを見ていた。エルクはその横に並んだ。


「夜の門だね」


 ソウは二人の後ろで足を止めていた。


「取りに来たのよ。誰にも頼まれてないわ」


「一人じゃないんだ」


「一人には取らせないわ。二人で来たから入れたのよ」


 レオルの目が灯りから外れなかった。


「……要るときに要る者が取る。取りに来たか」


「来たね」


「来た。板に渡したのは間違いではなかったな」


 灯りを提げた二人は門の外側の石に立った。エルクはレオルの横で同じほうを見た。


「ゆうべのこと、聞いた?」


「聞いた。長いのが三つ来たと」


「うん」


「我が去年言うたのは、我らの誰も覚えておらぬ頃に、あれがやめると言うたらどうする、であった」


「言ってたね」


「答えは今年渡された。打つ形でな。……あれが言うたら、こちらはそれと分かる」


 レオルは坂の下へ目をやったまま腕を組んだ。


「では、やめると言うたのが、あれでなかったらどうする」


 クラウは閉じかけた帳を開き直した。


「答えん」


「答えぬか」


「……去年と同じだ。書いておく」


 レオルの口の端が少しだけ動いた。


「去年と同じだと分かっておるのはよいことだ」


 ドラゴの顎は石の上から動かなかった。坂の下はもう暗い。


---


 畑の縁から綴りを抱えたメルが上がってきた。


 門の二人とドラゴを目で数えて頁へ指を挟む。エルクは門柱から背中を離した。


「明日は畑です」


「早く終わる?」


「終わりません。起こすところがまだ残っています」


「じゃあ、みんな朝から下なんだ」


「朝からです。今夜のぶんは、明日の昼に寝てもらいます」


「ドラゴも?」


「ドラゴは寝ません。……横になってもらいます」


 メルは綴りを閉じて坂の上へ戻っていった。門の二人の灯りが石組みを白く照らしている。


---


 板は二枚のままだ。一枚目に行が三つ増えた。二枚目に名が四つになり、渡した先が二つ埋まった。


 国は通さないと返すことを決まりにした。決まりにしたあとで、通さないと返すものが来た。


 打った者は分からない。分からないと書いてある。通さなかった、とも書いてある。


 そして声は、この春も何も言わなかった。


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