第203話 やめると打った者
ライの筆は紙へ戻らなかった。
針は頭のあとで細い揺れに戻っている。エネは膝の紙を押さえたまま動かない。エルクは折りかけた指を膝の上で止めたままでいた。
しばらく何も来なかった。
それから長いのが来た。
一つ。同じ幅を空けてもう一つ。もう一つ。
三つ目のあとで針はもとの細かい揺れへ戻った。
ライは先に筆を取った。紙の端へ刻を入れ、その下に読んだのは自分だと名を置く。書き終えるまで口は開かなかった。
『やめる、です』
「……やめてよい、じゃないんだ」
『打ったのはこちらではありません。ですから、やめる、です』
「誰が打ったの」
『打った者は分かりません』
エルクは台の縁へ手をついて紙を覗きこんだ。頭は長いのが先で短いのがあとだった。冬に綴じた一枚と同じ順だ。
「あの人じゃないんだよね」
『あの人の頭は別です。今夜のぶんはもう来ています』
ライは紙の少し上へ指を置いた。今夜いつもの刻に来たぬるの行がそこにあって、今の三つとは指一本ぶん離れていた。
壁の向こうでは塗る音が続いている。速くもならないし途切れもしない。
エルクは長いこと黙っていた。
「じゃあ、誰かがやめるって言ったんだ」
誰も答えなかった。
「……通さないんだよね」
ライの筆は紙の端で止まったままだった。エネは顔を上げかけて、また紙へ目を落とした。
しばらくしてエネが台の脇まで寄ってきた。ライの紙に並んだ頭を指でなぞっていく。宵のうちに打った二つがそこに入っていた。エルクの頭とエネの頭だ。
「ぬるのを別にすると、頭は三つです。打ったのは二人です」
「冬と同じ形だね」
「同じです。……上に言わないと」
「二人で上がろう。ライはここにいて」
『います。器の前は初めから私の場所です』
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段は上へ行くほど冷えていた。
口の灯りが見えたところでエネが先に上がりきった。ウルは脇の石から首を起こして二人を見た。
『上がったのが二だ』
「うん。二人だよ」
口の周りには今夜も人が残っていた。ケインは灯りの脇で板切れに炭の線を引いている。上の数を持つのが今夜の持ち場だ。ソウとクラウは並んで石に腰を下ろしていた。ドレクは灯りの輪の外で薪の束に腰を掛け、段の口から顔をそらしている。
エネは紙を開いてウルの前へ膝をついた。
「ぬるのほかに頭が三つ来ました。宵の二つと板に無いのが一つです。そのあとに長いのが三つです」
ウルの耳が立った。
『我が数えたのは二人だ。打った頭は三つある』
「春にも二回あったよね」
『同じ形だ。冬は誰も気づかなんだ。春の二度は、紙が上がってきてから分かった。……今夜は器の紙が上がる前に、下りた者が言いに来た』
ソウが立ち上がった。クラウは帳を膝から下ろさずに開いた。
「長いのを三つって、うちが打ったのと同じ並びよね」
「同じだよ。向こうから来ると、やめるになるんだって」
ドレクが顔を上げた。灯りの輪には入ってこない。
「……おれが打ったやつか」
「形は同じだ。打ったのはお前ではない」
クラウがそう返すと、ドレクはそれ以上訊かなかった。顔がまた段の口からそれた。
口の脇の杭が軋んだ。見上げるとグリフが爪を掛け直している。上から下りてきたばかりで、翼がまだ畳みきれていない。
『上は皆起きておる。戸の外まで出てきた者もおる』
「聞こえたの?」
『聞こえてはおらん。ここの灯りが動いたのが見えた。……数だけ持ってきた』
「空には?」
『持って行かん。これは上と下のことだ』
ケインは炭を持つ手を止めていた。
「通さないのは決まってるっすよね。板に無えんすから」
「決まってるわ」
「じゃあ返すのは何のためっすか。通さねえのに返すって、意味あるんすか」
「あるわ」
ソウは膝の上の順の紙を帯へ押しこんだ。
「通さないって聞こえたなら、こっちが居るって分かるでしょ」
「分かられたら困るって話、おれずっとしてるんすけど」
「知ってるわ。でも黙ってたら、ここには誰も居ないのと同じよ。誰も居ないところへは明日も同じのが来るわ」
ケインは言い返さずに板切れへ目を落とした。
「打つわ」
「ソウが?」
「頭は私の印よ。……打たないと、去年と同じだもの」
クラウが帳を抱えて立った。
「俺も下りる。書くのは下だ」
「クラウも打つの」
「打たん。器の前で書く」
ケインは板切れへ短い線を一本足した。
「おれは分かってねえまま数えるっす」
「うん。数えて」
「数えるっすよ。上は一人も減らさねえっす」
ウルが首を段の奥へ向けた。
『名は』
「名前だって」
クラウが名を言い、ソウが続けた。
『下りるのが二。上がったのが二。……合うておる』
エルクは口の縁で足を止めた。前へ出かけた足を自分で戻す。ソウは一度も振り返らずに段の暗がりへ入っていった。
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ドラゴは入口の脇の土手に顎を預けていた。
尾は胴に沿わせて丸めてあり、打つときだけ先がほどける。エルクはその脇の石へ腰を下ろした。エネが少し離れて座る。
『下りたな』
「ソウとクラウだよ」
『二つとも軽い足だ。……ソウのほうが速い』
しばらくして尾が動いた。
頭はソウの印だった。エルクは左の指を一本折った。
間。
短いの。短いの。それから長いのが一つ。
右の指を三本折る。板の下の縁でウーゴが欠いた並びの一つだった。
尾は打ち終えると土の上に置かれたまま動かなかった。
「向こうから返ったら、分かる?」
『分からぬ。我が刻むのはこちらの音だけだ』
灯りの届かないところでケインが炭を擦る音がした。線を一本引いたのだろう。
エネは紙を開いていなかった。膝の上で両手を重ねている。
「あたし、去年は数えるだけでした」
「うん」
「言えなかった人を数えて、言った人がいたことだけ残して。自分は数に入れてませんでした」
「今年は」
「今年は、言いました」
エネは重ねていた手を一度ほどいてから、また重ねた。
「……言ったほうがよかったかは、まだ分かりません。あたしが言ったから渡す話になって。渡したから同じ形が来たのかもしれません」
「それ、僕もクラウに言ったよ。そう読むなって言われた」
「なんでですか」
「材料が無いって。一緒に起きたからって、そのせいとは限らないんだって」
「……じゃあ、分からないほうに入れておきます」
尾の先がわずかに持ち上がって、また土へ下りた。
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足音が段を上がってきた。
先に出てきたのはクラウで、帳を開いたまま腕に載せている。ソウは口の外へ出てから手のひらを腿で拭った。ウルが二人を順に見た。
『上がったのが二。下におるのは零だ』
「ライは」
『ライは初めから数に入れておらぬ』
エルクはクラウの前へ出た。
「返った?」
「返らん」
「頭も?」
「頭も来ん。針は細かいままだ」
「書いた?」
「書いた。誰が、は書かん」
「分からないもんね」
クラウは帳の頁を押さえて灯りのほうへ向けた。字は二行ぶんしか入っていない。
「……来た、と書く。通さんかった、と書く。二つだ」
ソウは口の脇の石へ腰を落とした。
「一度だけ打ったわ。二度目は打たない」
「一回でいいの」
「通さないのは一回で足りるの。何度も打ったら、待ってるのがこっちになるわ」
エルクは段の奥へ目をやった。塗る音はここまでは届かない。
「あの人には? 今夜のこと、打つの」
「打たん」
「言わなくていいの」
「あれの話ではない。……うちの話だ」
ドレクはいつのまにか段の口へ顔を向けていた。灯りの輪の外で腕を組んだまま、そこから目を動かさない。何も言わなかった。
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棚の小屋にはライが先に戻っていた。
器の紙を抱えたまま箱の前で膝を折っている。スラの分身は戸板の下の隙間から半分だけ入りこんでいた。エルクは戸の内側に立った。
『朝まで何も来ませんでした。針は細かく揺れていただけです』
「返しは」
『ありません。頭もです』
「箱は」
『二つとも昨日の朝と同じです。左も真ん中も変わっていません』
戸板の下の分身が縁を持ち上げた。
『ソウとクラウは本体のほうで寝かせてるッス。ゆうべのぶんッス』
「起きてたのに寝られるかな」
『寝られなくても横にするッス。横にしとけば抜けた夜のぶんが少しは戻るッス』
エネが紙を持って戸口に来た。線の上に並んだ印の端へ一つ足す。
「今朝も入れます」
「入れるんだ」
「長いのが三つは来ました。でも返りじゃないので」
「別のとこに書くの」
「線の下に書きます。同じ線の上には置きません」
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段の口の脇で糸の束が振られていた。
ほどきに下りた姉妹が上がってきたところだった。ラネのほうが先に出てくる。エルクは口の縁の石から腰を上げた。
「私の一本、ゆうべ揺れてたわ! 結び目がひとつ寄ってたのよ!」
「ラネが先に言うんだね」
「私の糸だもの! 姉さんに見てもらってから言うんじゃないのよ!」
アラーネはあとから上がって脚の先の土を落とした。
「私のは寄ってなかったわ~。先に言われちゃったわね~」
「いつ揺れたか分かる?」
「分からないわ! ほどくときに寄ってたの!」
「ライには言ったの~?」
「言ったわ! 別の行に書いてたわ! 長いのと同じ行には入れないって!」
アラーネは妹の束を受け取らずに自分の束だけを肩へ掛けた。
「じゃあ私はもう見なくていいわね~。あの一本はあの子が言うのよ~」
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板の下の縁ではウーゴが屈んでいた。
欠きは三つ並んでいる。ウーゴはそのうちの一つの脇へ小刀の先を当てて、浅く一度だけ入れた。エルクはしゃがんで同じ高さから見た。
「何彫ったの」
「カエシタ。ホル」
「使ったしるし?」
「ハジメテ、ツカッタ。ソノブンダケ」
「次に使ったら」
「ホラナイ。ホッタラ、カズニナル」
薪小屋のほうからダクトが写しの束を抱えて来た。四枚とも紐で括ったままだ。
「写しは替えませんぞ」
「替えないんだ」
「書いてある通りに使えた夜ですからな。替えるのは書いてある通りに使えなかった日ですぞ」
「使えなかったら」
「そのときは直すところがありますな。……板に何か足された日なら、そのぶんは明くる日に運びますぞ」
ウーゴは欠きの脇の粉を指で払った。深さを指の腹で確かめてから小刀を帯へ戻した。
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昼の門柱は影が短い。
ライオは決めた場所より少し手前に胴を下ろしていた。刻はまだ入っていない。クラウは帳を門柱の根元へ開いて置いた。起きてきたばかりのソウが柱に肩を預けている。エルクは柱の影に入った。
『ゆうべ、やめると打った者がおったそうだな』
「聞いたんだ」
『聞いた。誰かは知らぬ。……だが言うた』
ライオはたてがみを一度振った。
『我も書かせよ。二枚目だ』
クラウの筆が止まった。
「何を書く」
『日暮れから中夜の手前まで。この刻をやめる』
「減らすんじゃなくて?」
『減らすではない。やめるだ』
ライオは前脚の位置を変えなかった。
『減らすは、やめるの顔をしておるゆえな』
「理由は」
『決めた刻に下がるのが、近ごろは楽になった。楽になった番は次に減らしたがる』
「減らしたがるのは嫌なんだ」
『嫌ではない。減らしても欄に名は残る。残った名の刻は誰も数えぬ』
クラウは頁を繰って二枚目のぶんの行へ筆を下ろした。
「渡し先は」
『竜だ』
坂の下のほうから重い足が上がってきた。ドラゴは一歩ごとに止まりながら門の石組みの手前まで来て、そこで胴を下ろした。
『呼んだか』
「ライオの刻、ドラゴに渡すって」
『門に座るのか』
ライオは顎で坂の下を指した。
『座るだけでよい。坂の下を見ておれ。見えたものは朝に言え』
『座るだけならできる。我の欄は何もせぬ日がいちばん広いのだ』
ドラゴは首を板のあるほうへ向けた。ここからは見えない。
『……我の欄が増えたな』
「打った日のところに足すの?」
『打つ日とは別の欄だ』
ソウはクラウの手元を覗いていた。筆は名と渡した先と理由の一行を入れて止まった。
「二人目ね」
「二人目?」
「渡した先が書けたのは二人目よ。糸のあとで、これがやっと二つ目」
クラウは帳を閉じて立った。日はまだ高い。板へ入れるなら今のうちだった。
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日が門の面から外れた。
ライオの決めた場所にはドラゴが顎を載せている。ライオは来なかった。
坂の上から人が二人下りてきた。どちらも春に戻ってきた者で、灯りを一つずつ提げている。二人は門柱の前で順に名を言った。クラウがそれを帳へ入れる。レオルは石組みの角に背を当てて、二人の手の灯りを見ていた。エルクはその横に並んだ。
「夜の門だね」
ソウは二人の後ろで足を止めていた。
「取りに来たのよ。誰にも頼まれてないわ」
「一人じゃないんだ」
「一人には取らせないわ。二人で来たから入れたのよ」
レオルの目が灯りから外れなかった。
「……要るときに要る者が取る。取りに来たか」
「来たね」
「来た。板に渡したのは間違いではなかったな」
灯りを提げた二人は門の外側の石に立った。エルクはレオルの横で同じほうを見た。
「ゆうべのこと、聞いた?」
「聞いた。長いのが三つ来たと」
「うん」
「我が去年言うたのは、我らの誰も覚えておらぬ頃に、あれがやめると言うたらどうする、であった」
「言ってたね」
「答えは今年渡された。打つ形でな。……あれが言うたら、こちらはそれと分かる」
レオルは坂の下へ目をやったまま腕を組んだ。
「では、やめると言うたのが、あれでなかったらどうする」
クラウは閉じかけた帳を開き直した。
「答えん」
「答えぬか」
「……去年と同じだ。書いておく」
レオルの口の端が少しだけ動いた。
「去年と同じだと分かっておるのはよいことだ」
ドラゴの顎は石の上から動かなかった。坂の下はもう暗い。
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畑の縁から綴りを抱えたメルが上がってきた。
門の二人とドラゴを目で数えて頁へ指を挟む。エルクは門柱から背中を離した。
「明日は畑です」
「早く終わる?」
「終わりません。起こすところがまだ残っています」
「じゃあ、みんな朝から下なんだ」
「朝からです。今夜のぶんは、明日の昼に寝てもらいます」
「ドラゴも?」
「ドラゴは寝ません。……横になってもらいます」
メルは綴りを閉じて坂の上へ戻っていった。門の二人の灯りが石組みを白く照らしている。
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板は二枚のままだ。一枚目に行が三つ増えた。二枚目に名が四つになり、渡した先が二つ埋まった。
国は通さないと返すことを決まりにした。決まりにしたあとで、通さないと返すものが来た。
打った者は分からない。分からないと書いてある。通さなかった、とも書いてある。
そして声は、この春も何も言わなかった。




