第202話 返らなかったぶん
畑は坂の下から端まで起こしてある。
朝のうちに鍬の列が坂を下りていって、昼まで上がってこない。夜に立てる人は春に入ってから一人も増えていなかった。
棚の小屋の戸は朝のあいだだけ開けておく。布の上の三つを測る刻だからだ。ライは台の前で紙を二枚並べていた。戸口の敷居の上ではスラの分身が一つ平たくなっている。エルクは戸の枠をくぐって台の脇に立った。
光は二つとも残っていた。左の縁の細い光の隣で、真ん中が薄く灯っている。
「今朝もだね」
『今朝もです。強くも弱くもなっていません』
「ゆうべの紙は」
『頭は、ぬるです。間があって、まだ、ぬる』
「長いのは」
『来ていません』
ライは紙の隅へ今朝の刻を入れてから顔を上げた。
『あの夜から毎晩同じです。まだ、ぬる、が一つ来ます。ほかは来ません』
「一回も?」
『一度もです。来ていない、と毎朝入れています』
敷居の上のスラが縁だけを持ち上げた。
『昼はおいらが見てるッス。真ん中、昼も消えねえッスよ』
「ずっとなんだ」
『ずっとッス。明るくもならねえッス』
エルクは布の手前まで寄って、触らないところで止まった。
「……変わらないと、なんか落ち着かないね」
『変わらない日を並べておきます。並んでいれば、変わった日はすぐ分かります』
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畑の縁の杭には、水を飲みに上がってきた者が順に寄りかかっていく。
エルクは杭の列の端で桶の柄杓を回していた。畑から戻った二人が柄を肩へ載せたまま足を止める。
「まだ返ってこねえのか」
「こないね」
「なら届いてねえんだろ。もう一回打ちゃいい」
もう一人が柄杓を受け取りながらうなずいた。
「一回で伝わんねえことだってあるだろ。荷の受け渡しだって二度言うぞ」
ソウが畝の端から上がってきた。手の土を払いもしないで二人の前へ出る。
「打ったわ」
「一回だろ」
「二回打ったわ。同じ形で二回よ」
「なら三回目を打ちゃいいじゃねえか」
「三回目からは、こっちの話になるのよ」
男は柄杓の水を飲み干して底を覗いた。
「こっちの話ってなんだよ」
「返事が欲しいのはこっちでしょ。欲しいぶんだけ打ったら渡してるのか急かしてるのか分からなくなるわ」
杭の向こうでケインが縄を巻いていた。巻く手は止めずに口だけ挟む。
「おれは打たねえほうっすよ。最初から打たねえほうっす」
「知ってるわよ」
「だから今日はそっち側っす。……理由は違うっすけど」
二人は顔を見合わせてから鍬を担ぎ直して畑へ戻っていった。エルクは柄杓を桶へ戻した。水の面はしばらく揺れていた。
「言いに来る人、増えてるね」
「増えてるわ。増えるのは悪くないの。黙って打ちに行く人が出るよりずっといいわ」
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薪小屋の庇の下は昼を過ぎると影になる。
エネは割り台の端に紙を載せていた。横に一本線が引いてあって、線の上に小さな印が並んでいる。エルクは割り台の向かいの切り株に手をついて覗きこんだ。
「それ、なに数えてるの」
「返らない日を数えてます」
「返らない日」
「長いのが三つ、返ってこなかった日です。朝に器の紙を見て、来てなければ一つ入れます」
印は六つ並んでいた。
「今日で六日です」
「……六日かあ」
「六日は、まだ短いほうです」
「短いの?」
「誰も来ないって打ってた年のほうと並べたら、短いです」
エネは線の下の空いているところを指で示した。
「上が返らない日です。下は空けてあります」
「下はなに」
「返らないのと届いてないのは、紙の上だと同じ形なんです。どっちの日か、あたしには分けられません」
「分けられないんだ」
「なので、どっちとも書きません。日だけです」
「日だけ」
「届いてないって書いたら、その次の朝にはもう一回打つ話になりますから」
エルクは切り株から手を離した。手のひらに付いた木屑を払うと、一枚だけ残った。
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溝は薪小屋の脇から坂の下まで抜けている。
クラウは溝の縁に膝をついて底の砂を指で掻いていた。帳は乾いた石の上に置いてある。エルクは溝の向こう側に立ったまま、水の行く先を目で追った。
「ねえ、クラウ」
「なんだ」
「真ん中が光ったの、やめてよいって言ったせいかな」
砂を掻く指が止まった。
「長いのが返ってこないのも。……言わないほうがよかったのかなって、夜になると思うんだ」
「そう読むな。材料が無い」
「無いの」
「打った夜に光った。並んでおるのはそれだけだ。並んでおるのと、そのせいなのは別だ」
「でも違うとも言えないよね」
「言えん」
「じゃあ僕、やっぱりそう読んじゃうよ」
クラウは指の砂を水で落とした。膝で手を拭いて、帳のほうへ伸ばしかけてやめる。
「読むのはお前の勝手だ。帳には入れん」
「入れないんだ」
「入れれば、あれがこちらに何かされたことになる。あれに訊いてはおらん」
エルクはうなずかなかった。溝の水は同じ速さで坂の下へ流れていった。
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溝の脇の杭のてっぺんにグリフがいた。
いつから止まっていたのか、エルクは気づいていなかった。翼は半分だけ畳んである。
『峰のほうを回ってきた』
「ゼルガ、飛んでた?」
『王は今年まだ峰の上を飛んでおらん。俺は見ておらん、と書け』
「見てないって書くんだ」
『飛んでおらんとは書くな。俺が見ておらんだけだ』
「グリフが見てない時に飛んでたかもしれないもんね」
『そうだ。去年は一度飛んだ。用も無しにな。今年はまだ見ておらん』
グリフはそれだけ置いて杭を蹴った。溝の縁ではクラウが帳を開いていた。
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物置の裏の草地には夕方の少し前に子らが集まる。
ノノは輪の前に立っていた。指を六本立てようとして片手では足りず、もう片方から一本借りている。エルクは物置の壁に背中を預けて輪の外にいた。エネは紙を膝に載せて、輪のいちばん後ろに座っている。
「むっつめ、きめたの」
子らが顔を上げた。
「ことわるときは、ことわるっていう」
返ってきた声はばらけた。二人が途中で詰まって、一人が先へ行きすぎた。
ノノはもう一度言った。二度目も揃わない。三度目は終いのところで笑った子がいて、頭からやり直しになった。
四度目で揃った。
「そろった」
ノノは借りていた指を返して、両手を膝へ下ろした。
「ことわるって、なにを」
「いやなこと。だまってると、いやなのかいいのか、わかんないでしょ」
「いやっていうの?」
「ことわるっていうの。いやっていうと、けんかになるもん」
エネは紙に印を一つ入れた。六つ目の脇だけに入れて、ほかのところには何も足さない。
「四度目です」
「六つ目だけ数えてるんだ」
「六つ目だけです」
「誰が決めたかは書かないの?」
「書きません。書くと、次に困った子があの子の顔を探すようになります」
ミナは輪から少し離れたところで、自分の聞き手のほうを向いていた。今日は二人来ている。エルクは壁から背中を離してそっちへ寄った。
「ミナのお話にも入れるの? やめてよいって決めたこと」
「いれない」
「入れないんだ」
「やめてよいって、ミナがいうことじゃないもん」
「言っちゃだめなの」
「だめじゃないよ。でもミナがいったら、ミナからきいたことになるでしょ」
「うん」
「あれはドレクがもっていったの。ミナのおはなしは、もっていってないの」
聞き手の一人が何か訊きかけて、自分で口を押さえた。ミナはそれを見て少しだけ笑った。
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夕方の門には坂の下から風が上がってくる。
ライオは門の内側の決めた場所にいた。前脚を揃えて伸ばし、耳だけを坂のほうへ寝かせている。レオルは門柱から半歩離れて腕を組んでいた。エルクは門柱の脇を回って二人のあいだに入った。
「真ん中の箱、まだ光ってるよ」
『聞いておる。ライが毎朝書いておるゆえな』
「左も消えてないんだって」
『二つになったな』
ライオは坂の下から目を離さない。
『増えたのは守りたいのほうだ』
「……それって、悪いこと?」
『箱は良いとも悪いとも言わぬ。増えたと言うだけだ』
レオルは組んでいた腕をほどいた。
「減ったものは無い」
「無いの」
「光って困ると言うた者を、我はまだ一人も見ておらぬ。消してくれと言いに来た者もおらぬ」
「困ってる人、いないんだ」
「おらぬ。困った顔をしておるのはお前だけだ」
「……僕だけかあ」
ライオの尾が一度だけ砂を掃いた。エルクは門柱の脇から一歩出て、暗くなりかけた坂の下を見た。
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日が落ちると段の口の脇の石はどれも人の座る形に見える。
今夜は誰も下りない。それでも口の周りには人がいた。畑から上がってきたままの格好の者が三人。薪を運んでいた男。ドレクは少し離れたところで坂のほうへ背中を向けて座っている。エルクは口の縁の外に立ってウルの横に並んだ。
『下りた者は零だ』
「うん。今夜は誰も下りないよ」
『立っておる者は五だ。……欄には一人もおらぬ』
「当番じゃない人たちだもんね」
『当番ではない。だが毎晩おる。ゆうべも五だった。その前は四だ』
「数えてたんだ」
『数えておる。欄に無い者を数えると数が合わぬ。合わぬまま持っておる』
段の脇の暗がりからメアが出てきた。灯りの輪には入らずに止まる。メアが読むのは拍でも字でもない。石に残っているもののほうだ。
「今日は近づかないほうがいいです」
「下が?」
「下じゃないです」
メアは段の一つ目へ目を落とした。
「上です。ここで止まってる足が毎晩増えてます」
「待ってる人の足?」
「待ちすぎてます。向こうへ行く足より、ここで止まってる足のほうが重いんです」
「重いと駄目なの」
「駄目じゃないです。でも今夜読むと、待ってる人の顔ばかり読みます。あの人のほうは読めません」
エルクは口の縁から一歩下がった。下がってから自分の立っていたところを見た。石の粉に踵の跡が二つ残っていた。
口の奥で紙の擦れる音がして、ダクトが顔を出した。写しの束は抱えていない。
「下の写しは替えずにまいりましたぞ」
「替えないの?」
「変わっておりませんからな。決まりは何も動いておりませんぞ」
「返ってない日のことは」
「写しに入るものではありませんな。写しは決まりを運ぶものですぞ。日の数はエネの紙ですな」
「足しちゃだめなの」
「足しますと、日の数を見に来る者が出ますな。数を見に来た者は決まりのほうを読みませんぞ」
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当番小屋の土間には朝から敷き藁が五つ並んでいた。
スラの本体は藁と藁のあいだへ伸びて、戸口に分身を一つ置いている。寝ているのはゆうべ口の脇にいた顔ばかりだった。エルクは戸口の柱に寄りかかって中を見た。
「この人たち、当番じゃないよね」
『当番ッスよ』
「欄には入ってないってウルが言ってたよ」
『待つのも当番ッスからね。当番なら寝かせるッス』
「待ってるだけでも?」
『待ってるだけで夜が抜けるッス。抜けた夜のぶんを昼に寝ねえと、次の夜も抜けるッス』
メルが紙を一枚だけ持って戸口へ来た。中の藁を目で数えてから、紙を柱へ当てる。
「入れます」
「入れるの?」
「当番の欄へ入れます。口の脇に立った刻から、坂を上がった刻までです」
「下りてないのに」
「下りていなくても夜は使っています。使ったぶんを書いておかないと、次の日の畑で誰が抜けたのか分かりません」
「待ってた刻も書くんだ」
「書きます。何も来なかった夜でも、待っていた人の刻は過ぎています」
藁の上の一人が寝返りを打って、スラの縁へ手が触れた。本体は押し返さずに少しだけ形を変えた。エルクは戸を半分だけ引いて、藁の上へ入る日を遮った。
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入口の外の土は日が落ちる前から冷えはじめる。
ドラゴは窪みの縁へ顎を載せていた。尾は乾いたところへ伸ばしてあるが今夜は打つ日ではない。エルクは窪みの手前で足を止めた。
「板の欄、三つになってたね」
『見た。三つ並んでおった』
「嬉しい?」
『分からぬ。……一度見に行って、もう一度見に行った』
「二回見たんだ」
『並んでおるか確かめたのだ。並んでおった』
「今夜は打たないよね」
『打たぬ。打つ日ではない』
「待ってるの?」
『待ってはおらぬ。ここにおるだけだ。……待つのは、あそこの者らがやっておる』
ドラゴは段の口のほうへ顎を向けた。灯りのそばに今夜も人が座っている。今夜のぶんは、座った刻からメルの紙に入っている。
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その夜はエルクとエネが下りる番だった。
器の台の前でライが紙を送っている。灯りは台の脇に一つきりだ。針は細かく揺れて、紙の上へ細い線を引き続けていた。エネは台から離れた石に座って自分の紙を膝で開いた。
「今夜のぶん、もう入れる?」
「朝です。朝まで待ってから入れます」
壁の向こうで塗る音がしていた。短く切れては、また続く。
中夜を過ぎたころにいつもの頭が来た。ぬる。間があって、まだ、ぬる。ライは口で言う前に刻を書いて、読んだ者の欄へ自分の名を入れた。
『いつものです』
「いつものだね」
エネの指は紙の上で止まっていた。朝になったら印を入れるところの上だった。
それから長く何も来なかった。灯りの芯が一度だけ細くなって戻った。
針が跳ねた。
ライの筆が紙から離れた。エルクは膝の上で指を折りかけて、途中で止めた。
頭が来た。
長いのが一つ。短いのが二つ。




