第201話 やめてよいと打つ
畝の終いは日の残っているうちに片づいた。
鍬は縁の石へ柄を上にして並べてある。並べたのはウーゴで、数え終えるとそのまま小屋のほうへ戻っていった。戻る者の列が坂へ折れて、下りる二人のぶんだけ列から抜けていた。メルは綴りを腕へ載せたまま畑の縁に立っている。エルクは石の上を歩いて、列の切れたところで止まった。
「今日です」
「ほんとに早く終わったね」
「早いです。残っていたのは端の二列だけでした」
「刻は決まってるの」
「日が落ちてからです。落ちきるまでは待ちます」
「待つんだ」
「段の中が暗くなってからのほうが、灯りの届くところが分かります」
メルは頁の端を折って、折ったところへ指を挟んだ。
「上げるのは私が言います」
「下ろすほうじゃなくて?」
「下りる刻には向こうの都合もあります。上げる刻はこちらだけで決められます」
「決められるほうを持つんだね」
「持ちます。決められないほうは持ちません」
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坂の下の水の筋は夕方になると音だけになる。
ソウは順の紙を板へ留めずに手のひらへ載せて持っていた。書いてあるのは名と刻だけだ。エルクは細いほうの筋をまたいで、乾いている縁へ立った。
「僕は上だよ」
「先に言うのね」
「うん。上の欄、僕が作ったやつだもん」
「作った人が真っ先に抜けたら、欄のほうが嘘になるわ」
「だから入るよ」
ソウは紙の端を指の腹で押さえた。
「返ってこなかったら、どうするつもり」
「……待つと思う」
「待つのはいいわ。待ってるあいだに、渡してないことにするのは駄目よ」
「渡したことにするんだ」
「するわ。返事は向こうのものだもの」
草の上をスラの分身が転がってきて、エルクの足の先で止まった。
『寝かせたッス。今日は五人ッス』
「二人じゃないの」
『二人はゆうべからッス。あとの三人は昼からッス。上で夜まで立つ人ッス』
「そっちも寝かせるんだ」
『待つ人が寝てねえと、帰ってきた人が先に寝られねえッス』
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段の口の脇の草は踏まれて一方向へ倒れている。
下から糸の匂いが先に上がってきた。アラーネが出て、そのあとからラネが出てくる。脚の先に乾いた土が付いていた。エルクは口の縁の石へ腰を下ろした。
「二本とも張ってきたわ~」
「戻せたんだ」
「戻せたわ~。しめりが引いたのよ~。上げたぶんをそのままにしとくと、結び目のほうが伸びるの~」
「きょうは私がさきに下りたのよ!」
「早いね」
「二本とも私がむすんだわ! 姉さんは見ただけよ!」
「見たわね~。数だけ数えたわ~」
「今日だから二本にしたの?」
「ちがうわ! かわいてたからよ!」
「かわいた日に戻すって書いてあるのよ~。今日のためじゃないわ~」
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灯りの芯を短くしてから、クラウが火を移した。
口の前の石は昼のあいだに乾いている。ドレクは帯の荷札へ指をあてたまま縁のところで足を止めた。エルクは二人の後ろで立ち止まった。灯りの芯は口のところで一度だけ横へ振れて、それから下を向いた。
ウルは段の口の脇にいた。灯りが寄ると、目だけがこちらへ向いた。
『名は』
「名前言ってって」
ドレクが先に言った。クラウは灯りを持ち替えてから自分の名を言う。
「二だね」
『二と、一だ』
「一?」
『下りたのが二。立っておるのが一だ』
「僕のこと?」
『主が欄へ入っておる。前は零であった』
「零だったんだ」
『零であった。今日は一だ。……一のほうが数えにくい』
「なんで」
『零は書けば済む。一は途中で抜けても形が残る』
段の下からダクトが上がってきた。手には楔の入った布袋だけを提げている。
「水平は出してまいりましたぞ」
「糸のほうは」
「触っておりませんぞ。触れば張った者の数と合わなくなりますからな」
「触りたくならなかった?」
「なりましたな。なりましたが、私の持ち場はあそこで終いですぞ」
ドレクは段の一つ目へ足を置いてから、手のひらを二度、腿へこすりつけた。
「震えてるね」
「震えてる」
「やめとく?」
「やめねえ」
「うん」
ドレクは灯りのほうを見ずに下りていった。クラウが灯りを提げ直して続く。足音は途中の踊り場で一度だけ止まって、それから遠くなった。
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門の石組みは日が落ちてからのほうが白く見える。
ライオは門の内側で坂の下のほうを向いて座っていた。前脚は揃えたまま動かない。エルクは横へ並んで同じほうを見た。
「もう下がるんだよね」
『下がる』
「今日くらいって言わないんだ」
『言わぬ。今日くらいと言うた者は、次も今日くらいと言う』
内の道を足音が一つ下りてきた。レオルは門の手前で止まって、そこから先へは出なかった。
「レオルも来たんだ」
「我はもう欄におらぬ。……見に来ただけだ」
「門の外には立たないんだね」
「立たぬ。やめた持ち場だ」
前脚が組み替えられて、土が浅く鳴った。ライオはレオルのほうへ首を向けた。
『渡したものは、渡した者の手を離れる』
「離れるか」
『離れる。離れぬのなら渡しておらぬ』
レオルは返事をしなかった。門柱の影に半分入ったまま、坂の下を見ていた。
「返ってこなかったら、僕たぶん取り返しに行きたくなるよ」
『なるだろう。……我は下がる。決めた刻ゆえな』
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土の鳴る音は坂を上らずに段のほうへ落ちていく。
エルクは段の口の縁へ座って膝を抱えた。エネは少し離れた石の上で紙を広げている。ドラゴは灯りの輪の外にいて、尾の先だけが乾いたところへ伸びていた。
『下りたぞ』
「分かるの」
『足の音が段の下で消えた。あそこから先は土が違う』
尾が土を打った。一つ置いて、もう一つ。
「合わせてるんだ」
『同じ音を刻む。上と下で同じにしておけば、あとで並べられる』
しばらくして打ち方が変わった。
短いのと長いのが続けて入る。エルクは膝の上で指を折った。冬に配ったときに自分も覚えた形だ。ドレクの頭だった。
間が空いた。
それから長いのが三つ、同じ間で続いた。
打ち終わってから尾は動かなかった。エルクは息を止めていたのに気づいて、止めていたぶんをゆっくり吐いた。
「返ったのも打つ?」
『打たぬ』
「なんで」
『我が打てば我の数になる。返りは我の数ではない』
「じゃあ、こっちからは分かんないんだね」
『分からぬ。上がってくるのを待て』
エネは紙へ何か書いて、書いたところを指で押さえた。
「打ったのは一人です」
「聞こえたの?」
「聞こえません。頭が一つだったので一人です」
「二人だったら」
「頭が二つ入ります。並べるときに分かれます」
羽音が坂の上から回り込んできて、口の脇の石へグリフが降りた。
『上は十一だ。誰も動いておらん』
「数えてきたんだ」
『数えた。ここへ下りて言う』
「上の欄でもいいのに」
『書いたぶんは上に残る。ここで待つ者へは届かぬ』
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尾がもう一度同じ形を刻んだ。
頭。間。長いのが三つ。間のほうが前より広い。エルクは膝の上で二本目の指を折った。ドラゴは打ち終えてから首を灯りの届くところまで上げた。
『二つ目だ』
「広くしたの?」
『下が変えた。我は合わせる側だ』
それきり土は鳴らなかった。
メルが段を三つ下りて、そこから声を落とした。足音が上がってくるまでに、灯りの色が段の壁へ二度映った。
先に出たのはクラウだった。灯りはまだ消していない。ドレクはそのあとから出て、口の外の石へ座り込んだ。エルクは縁から腰を上げて、クラウの灯りの前へ出た。
「返った」
「ほんとに?」
「二度とも返った。頭だけだ」
「頭だけ」
「頭だけだ。そのあとは何も来ん」
「ライは」
「器の前に残っておる。刻をその場で書いておった」
エネは紙の上の二つ目の行へ指を置いた。
「返ったのは頭だけです。二回とも同じです」
ドレクは膝の上で両手を開いて、開いたまま動かさずにいる。
「手はどうだった」
「震えておった」
「打てたの?」
「打った。震えたまま、札を分けるときの手で打っておった」
「速くならなかった?」
「ならん。あれは間を取れる手だ」
ドレクは座っていた石を離れて、口のほうへ二歩戻った。
「もう一回下りる」
ソウは順の紙を畳んで、畳んだまま段の口の前へ体を入れた。
「三度目は、こっちが欲しいだけだわ」
「聞き損ねたかもしれねえだろ」
「二度同じ形で打って、二度とも頭が返ってるの。聞こえてるわ」
「……返事はしてねえ」
「してないわね。それは向こうのぶんよ」
メルは綴りの刻を読んでから閉じた。
「今日はここまでです」
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口の外に人が残った。
誰も先に坂を上がらない。薪を担いできた男が荷を下ろさずに立っている。
「返ってねえのと同じだよな」
ミナは口の脇の石へ座っていた。膝の上には何も載せていない。
「あたまだけでも、かえってきたでしょ」
「頭だけだぞ」
「きこえてないなら、あたまもかえってこないもん」
男は言いかけたものを飲み込んで、荷を背負い直して坂を上がっていった。
エルクはミナの隣の石へ腰を下ろした。
「ミナ、下にいた?」
「いないよ。ここでまってた」
「聞こえた?」
「きこえない。でも、みんなの顔みてた」
「どうだった」
「みんな、おなじほうむいてた」
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ドラゴの尾の跡が土の上に二つ残っていた。
跡は同じ深さで、同じ向きに引いてある。エルクはしゃがんで手前のほうの縁へ指を置いた。
「板の欄、今日のぶん入るね」
『入るか』
「入るよ。打った日でしょ」
『二つ並んでおったところへ、三つ目だ』
「待ってたもんね」
『待った。……埋まったと言え。要るかとは、もう訊かぬ』
尾は跡を崩さぬように上げられて、そのまま影のほうへ引かれていった。
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棚の前に置く灯りは一つと決めてある。
夜の見張りの当番が戸口の内側に立っていた。布の上の三つはいつもと同じ間を空けて据えてある。ライは棚の下の台へ紙を広げて、筆を持った手を上げたところで止めていた。エルクは戸を閉めずに、入ってすぐのところへ立った。
左はいつもと変わらない。縁のところだけが細く光っている。
その隣が光っていた。
「……真ん中だよね」
『真ん中です』
「弱いね」
『弱いです。今朝のぶんを測ったときには何もありませんでした』
「左は」
『消えていません。今夜のぶんはまだ書いていません』
「二つになったんだ」
『二つです』
ライは筆の先を紙へ下ろさずにいた。エルクは布の手前へ膝をついて、同じ高さから二つの光を見た。
左は冬から強さが変わっていない。真ん中のほうは、目を離すと見失うくらいの明るさだった。




