第226話 尾根に並んで眠る狼
石の道は白い尾根へ向かってゆるく上っていた。
霜は先へ行くほど厚くなった。継ぎ目の白が石の面まで広がって、やがて石そのものが見えなくなった。踏むと靴の下で細かく鳴る。夏の日はまだ高いのに足もとだけが冬だった。
ウルは道の少し先を歩いていた。さっきから一度も振り返らない。鼻を低くしたり高くしたりしながら、ときどき足を止めて風を嗅いだ。
「匂い、近い?」
『近い。向こうもこちらを嗅いでおる』
ライの小さいほうがエルクの肩の上で身を縮めた。襟もとへ寄っていき、そこにいた分身の隣で平たくなる。
『兄さんの端は少し温かいです』
『おいら、あったけえッス。くっついていいッス』
エルクは襟の上から二つまとめて手のひらで押さえた。
後ろではドラゴが道幅いっぱいに体を寄せて歩いていた。たたんだ翼の先に霜がついている。アラーネはその影に入るようにして脚を運んでいた。
「足の裏がしゃりしゃりするわ~」
頭の上で羽音がした。番所の杭から後を追ってきたグリフだった。道の上を低くひと回りしてから高いところへ上がっていった。
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尾根の背が低くくぼんだところで道は鞍部へ入った。
両側から岩が迫り、そのあいだを雪が埋めていた。夏の雪だった。古くて固そうで、表は風に削られて波の形をしている。石の道はその雪の下へ消えていた。
雪の上に灰色のものが並んでいた。
狼だった。
鞍部の幅いっぱいに肩と肩が触れるほどの間で立っている。どれも耳を伏せて鼻に皺を寄せていた。低い唸りが雪の上を這ってくる。一頭が唸りやめると隣が唸る。途切れることがなかった。
レオルが足を止めた。尾がわずかに持ち上がった。
「……塞いでおるな」
「うん」
エルクは狼たちの足もとを見た。どの足も雪の上で揃っていた。前へ出る一頭もいない。牙は見せているのに間合いは少しも詰まってこなかった。
「襲ってはこないね」
「来ぬ。来るなら風下から来る。あれは真正面に立っておる」
列の真ん中にひときわ肩の高い一頭がいた。毛は灰色で首のまわりだけが白っぽい。その一頭だけは唸っていなかった。黙ってこちらを見ていた。
空からグリフの声が降りてきた。
『十二。子が三。年寄りが一』
見上げるとグリフは鞍部の上をゆっくり回っていた。
『年寄りは後ろの岩の陰で伏せておる。子は年寄りの腹の下だ』
「ありがとう。そのまま上にいてね」
『上から見ておる』
エルクは前へ出なかった。
代わりに少しだけ腰を落とした。唸りが一段高くなってまた元に戻った。
「ウル。話せる?」
ウルはもう道の先で立ち止まっていた。首だけを半分こちらへ回す。
『話す。主はそこにおれ』
「一人で平気?」
『一頭のほうがよい。数で行けば数で返される』
ウルは前を向いた。
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ウルは歩き出す前に頭を下げた。
鼻先が雪に触れるほど低かった。耳は寝かせている。尾も上げていなかった。黒銀の毛並みは雪の白の上でひどく目立つのに、体はいつもより一回り小さく見えた。
ゆっくりと雪の上へ出ていく。一歩ごとに間を取った。唸りがウルの足音に合わせて高くなる。灰色の列がわずかに揺れて、何頭かが後ろ足へ重みを移した。
列から二跳びほど手前でウルは止まった。そこで腹を雪につけて伏せた。
唸りが少しずつ低くなった。
肩の高い一頭が列から出てきた。ウルの前まで来て首を伸ばし匂いを嗅ぐ。ウルは伏せたまま動かなかった。灰色の鼻先がウルの耳の後ろから首筋へ、首筋から肩へと移っていった。
エルクの後ろで大きな体の沈む気配がした。
振り返るとドラゴが道の上で腹を伏せていた。首を前脚の上に寝かせ、翼を体の下へたたみこんでいる。目だけが鞍部を見ていた。
『我が立てば散る』
声は低く抑えてあった。
『散った群れは戻らぬのだ』
「うん。そこにいてね」
ドラゴは返事の代わりに鼻から細く息を吐いた。白い息が雪の上で薄くほどけていった。
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長い間だった。
灰色の長はウルの前に座った。ウルも伏せたまま顔を上げた。二頭は鼻先を近づけたり離したりしている。ときどき長が首を北へ振り、そのたびにウルの耳が少しだけ動いた。声はここまで届かなかった。届いたとしても口を挟むつもりはエルクには無かった。
待つあいだに足もとが冷えてきた。
襟もとで分身が身じろぎした。様子を見に行くつもりだったのか、胸から転がり出て雪の縁に落ちた。落ちたとたんに跳ね上がった。
『冷てえッス! 体の端が固まるッス!』
「戻っておいで」
『戻るッス! 懐、あったけえッス!』
分身はエルクの胸もとへ飛びこんだ。襟の内側で平たくなってからもしばらく震えていた。
レオルがそちらへ目をやって鼻から短く息を漏らした。
アラーネは道の脇の雪に脚を一本差しこんでいた。脚の先から細い糸を下ろしている。糸は雪の中へまっすぐ沈んでいき、ある深さで止まった。アラーネはその糸を二度三度と軽く引いた。
「上はさらさらなのに下は氷みたいよ~」
「歩ける?」
「歩けるわ~。でも走ったら滑るのよ~。追いかけっこはしないほうがいいわね~」
メアはドラゴの肩の陰にいた。狼たちの顔ではなく足もとを見ていた。
「主様。並んでいるところの雪だけ平らです。端から端までひと筋に」
エルクは目を細めた。言われてみれば狼の並んだ線に沿って雪が低く沈んでいた。足跡の乱れではなかった。何かが長いこと同じところに寝た跡のように見えた。
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ウルが戻ってきたのは日がひとつ岩の端を越えたころだった。
帰りの歩き方も行きと同じだった。頭を低くしたまま列から離れ、十分に離れてからようやく首を上げた。背中の毛に雪が少しついていた。
『話した』
「どうだった?」
ウルはエルクの前に座った。息を一つ整えてから口を開いた。
『群れの若いのが、地の鳴る夜に北へ歩く』
エルクは黙った。
『戻らなんだのもおる』
ウルの目は鞍部の雪の筋へ向いていた。
『だから群れは夜、この鞍部に並んで寝る。北へ行く者は、寝ておる者をまたがねばならぬ』
少しだけ間があった。
『またげば起きる』
エルクはメアの言った雪の筋を見た。灰色の列はまだそこに立っている。日が落ちればあの筋の上に群れがそのまま横になるのだ。端の一頭から端の一頭まで、隙間を空けずに。
「……一人で寝ないんだ」
口に出してから柵の前の女の子を思い出した。母親の手のあるほうへ顔を傾けて、そのまま目を閉じた顔だった。
レオルは鞍部から目を離さなかった。
「柵より柔いが、柵より起きるな」
ウルは尾を一度だけ雪に打ちつけた。
『長は我らを通したくないと言うた』
「どうして?」
『北へ行く者は地を起こす。起きた地は夜に鳴る。鳴れば若いのが歩く』
エルクは自分の足もとの雪を見た。
「僕たちが行くと、ここの子が歩いちゃうかもしれないんだ」
『長はそう思うておる。……そう思うだけの夜を見てきた顔だった』
「戻れって言われた?」
『言われた。我は主に訊くと答えた』
エルクはしばらく考えた。北の空を見る。尾根の白が日の光を受けて薄く光っていた。
「ウル。もう一回だけ話してもらっていい?」
『何を言う』
「昼のうちに通るって。夜にはここにいない。ここで寝てる子たちをまたいだりしない」
ウルの耳が前へ向いた。
「それとね。向こうに着いても一人では寝ないって」
『誰が寝ぬのだ』
「みんな。僕も」
ウルは黙ってエルクの顔を見上げた。少しして腰を上げた。
『言うてくる』
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二度目はさっきより短かった。
ウルが伏せて長が座り、鼻先がまた近づいて離れた。長は一度だけ首を北へ振った。それから後ろの岩のほうへ振った。年寄りの伏せているあたりだった。
やがて長が立ち上がった。
列の真ん中へ戻っていく。戻った長が横へ一歩ずれた。隣の一頭が同じだけずれた。その隣も同じだった。灰色の列が両の端へ寄っていって、雪の筋の真ん中に竜が這って通れるだけの幅が開いた。
唸りはもう聞こえなかった。
戻ってきたウルが鼻先で北を指した。
『通れ、と言うた。日のあるうちに』
「ありがとう」
『それと』
ウルは開いた幅の向こうを見た。
『地が鳴く裂け目は次の尾根の向こうだ。近づくな、と言うた』
エルクは息を止めた。
「裂け目……」
『長はそこへは群れを行かせぬと言うておった。それより先は知らぬそうだ』
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開いた幅を通るとき、エルクは狼たちの目を見ないようにした。見れば長が決めたことに横から口を出すような気がした。
襟の内側から分身が顔を出した。
『主。名前つけないッスか?』
「つけないよ」
『いっぱいいるッス。一頭くらい』
「この子たちは、この尾根の群れだからね」
分身はしばらくエルクの顎を見上げていた。それから襟の中へ引っこんだ。
ドラゴは開いた幅を、腹が雪に擦れるほど低くして這っていった。翼は最後までたたんだままだった。灰色の何頭かが耳を伏せた。それでも一頭も足を動かさなかった。
岩の陰から子が顔を出していた。年寄りの腹の下から這い出してきてこちらを見ている。すぐに年寄りの鼻先で押し戻された。
メアがそれを見て尾の先を小さく丸めた。
レオルは列を過ぎてから一度だけ振り返った。
ウルは最後に通った。列の端の一頭と並んだところで一瞬だけ足を止めた。相手は唸らなかった。ウルも何も言わずに通り過ぎた。
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鞍部を抜けると道はまた石になった。
雪は脇へ退いて岩の窪みに溜まっているだけになった。そのかわり風が強くなった。ドラゴは先に立って風上を歩いた。
グリフが一度降りてきてドラゴの角の先に止まった。
『群れはまだ立っておる。こちらを見ておる。日が落ちるまでああしておるだろう』
「見送ってくれてるのかな」
『見張っておるのだ。……同じことかもしれん』
グリフはまた上がっていった。
次の尾根に着いたとき日は西の峰の上で少し傾いていた。
尾根の背は広かった。石の道はそこで北へ向かって下りに変わっている。下りた先は白い靄で見えなかった。
アラーネが前へ出た。歩きながら脚の先から糸を一本垂らしている。地面すれすれに引いて石の継ぎ目を一つずつなぞっていた。鞍部を抜けてからずっとそうしていた。
その脚が止まった。
八本ともが同時に止まった。
エルクも足を止めた。レオルもウルも止まった。ドラゴが首を持ち上げた。
風の音の下に別の音があった。
低くて切れ目がない。耳で聞いているのか足の裏で聞いているのかエルクには分からなかった。石の道がかすかに震えている気がした。
アラーネは糸を脚の先でそっとつまんだ。
「あら~……」
いつもの間延びした声だった。けれど続きが少しだけ遅れた。
「……糸が鳴ってるわ~」




