第199話 誰が読みに行くか
段は上から三つ目までが濡れていた。
雪解けの水が石の継ぎ目を伝って下りている。エルクは乾いているほうへ足を置いてから口の手前で止まった。ドレクは濡れていない段へ座って荷縄をほどいている。桶は昨夜と同じところへ伏せてあった。
「昨日のやつ、本気だよね」
「本気だ」
「勢いかと思った」
「勢いじゃねえ」
ドレクは縄を膝の上でそろえた。端の結び目だけをほどかずに残す。
「読める人が持ってったほうがよくない?」
「駄目だ」
「なんで」
「おれが読めねえからだよ」
エルクは段の縁へしゃがんだ。濡れた石は指を置いても冷たいだけで滑らない。
「読めねえやつが持ってきゃ、読めねえまま渡せる」
「読めないままって」
「読める奴が持ってくとな。読める形にして渡しちまうだろ」
「形にしたらだめなの」
「だめじゃねえ。そのぶんはこっちの形だ。向こうのじゃねえ」
言いかけたことは声にならなかった。エルクはそのまま段の下のほうへ目をやっていた。
「僕が打ったら、たぶん読んでから打つよ」
「打つだろうな」
「打つと思う」
「やめとけ」
「やめとくよ」
ドレクは縄を肩へ回して立ち上がった。桶はそのまま置いていった。
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段の内側に黒銀が伏せていた。
前脚は口の外の日のほうへ伸ばしてある。エルクは上の縁に立ったまま声をかけた。
『今朝は誰も通っておらぬ』
「下りないよ」
『そうか』
「行きたいとは思ったけどね」
『思うたか』
「思った。それで、やめた」
ウルは前脚を日の当たらないところまで引いた。爪の跡が石の粉の上に三筋だけ残る。
『よい。……我は止めぬつもりでおった』
「止めてくれないんだ」
『止めれば、主は次も待つ』
「待つと駄目なの」
『待たれる者は自分で引かぬ。引くのは自分で決めた者だけだ』
「厳しいこと言うね」
『我は数える者だ。引いた日も数に入る』
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当番小屋の戸の前は朝のうちだけ土がやわらかい。
ソウは戸の脇の杭へ縄を掛け直していた。掛けたぶんから順に長さをそろえていく。エルクは戸の枠へ肩をあずけて立った。
「ドレクだって」
「聞いたわ」
「反対?」
「反対じゃないわ。一人で下りるのは無しよ」
「二人にするんだ」
「二人にするの。決めたのはこっちでしょ」
「相手は」
「あんたじゃないわ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出てるのよ」
ソウは残りを杭へ掛けきってから、手の甲で額を押さえた。
「下には読める者が要るの」
「ライのこと?」
「ライの言うことが分かる人よ。器の数はライが持つでしょ。持ったぶんを受け取る人がいないと、下で止まるわ」
「僕かクラウだね」
「クラウよ」
「なんで」
「下で二人とも打ちたくなったら、止める人がいないもの」
エルクは戸の枠から肩を離した。
「僕、打ちたくなるかな」
「なるわよ」
「そっか」
「なるから外すの。嫌いだから外すんじゃないわ」
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畝の端は昨日より一列ぶん先へ延びていた。
綴りは畦の上に開いたままだ。メルは風で捲れないよう端を石で押さえている。エルクは列の切れたところから畦へ上がった。
「日はいつにするの」
「決めません」
「決めないんだ」
「決めた日にすると、その日に合わせて無理をする人が出ます」
「じゃあどうやるの」
「その日の畑で決めます」
「畑が決めるんだ」
「畑が早く終わった日の夕方に言います。朝には分かりません」
「短いね」
「短いです。長く取ると、取った日から数える人が出ます」
メルは押さえていた石をずらして、頁を一枚めくった。名の入っている側へ指を移す。
「下は二人です。上は減らしません」
「上を減らすと」
「上が空きます。上が空くと、下の人が上がってから立つ人がいません」
「三回のうちの一回は使うの?」
「使いません」
「使わないんだ」
「これは交代ではありません。渡しに行くだけです。三回は取ってあります」
「取ったままなんだ」
「取ったままです。使う日が別に来ます」
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溝の底は上のほうだけ砂が溜まっている。
ケインは木の板で砂をすくって脇の窪みへ移していた。エルクは溝をまたいだ向こう側へしゃがんだ。
「おれは上っす」
「下じゃないんだ」
「上っす。上が空いたら、下の人が上がって来られねえっすからね」
「去年から同じこと言ってるね」
「同じっす。去年言って通ったんすから、今年も同じっす」
ケインは板を土へ倒して、柄になっているところを足で押さえた。
「おれ、まだ反対っすよ」
「知ってるよ」
「反対のまま上に立つっす」
「それでいいの」
「よくねえっす。でも穴あけるほうがもっとよくねえっす」
「納得はしてないんだ」
「してねえっす。してねえまま立つっす」
「じゃあ、そう言っといてよ」
「言うっす。おれ、言うのだけは得意っす」
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段を三歩下りると空気の匂いが変わる。
ウルは内側の石で顔を上げた。エルクの後ろにクラウがいて、その後ろにドレクが立っている。
『名は』
「名前だって」
三人とも名を言った。ウルは聞き終えてから顎を前脚へ戻す。
『三だ』
「今日は当番じゃないよ」
『分けて持つ。下りた三と、立った零だ』
「零のほうも持つんだね」
『持つ。立っておらぬ日は立っておらぬと分かるようにしておく』
灯りはクラウが提げた。ドレクは手ぶらのまま先に下りていった。
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器の台の脚は下の三本だけ新しい。
ダクトは楔を一つ抜いて、口で長さを確かめてから打ち直していた。エルクは台の向こう側へ回って高さを覗く。ライは器の縁へ指を添えたまま動かずにいた。
「水平、狂ってた?」
「狂っておりませんぞ。踏まれておりますな」
「踏まれるんだ」
「人が増えますと足が増えますからな。増えた足のぶんだけ噛ませ直しますぞ」
「毎回やってるの」
「毎回ですな。減った日はやりませんぞ」
ライは器から指を離して壁のほうへ顔を向けた。
『打つ人は壁の前です。器の前とは離します』
「離して聞こえるの」
『聞こえます。返りは器が先に拾います。耳より早いです』
クラウはドレクのほうへ体を向けた。
「器が先だそうだ。お前の耳より早い」
「早くていい。おれは打つだけだ」
「打つだけだ」
「返ってきたのは誰が言うんだ」
「俺が言う」
ドレクは壁の前の床を靴の先で二度なぞった。窪んでいるところは夜のうちに踏み固められている。
「あんたが打ちたくなったらどうする」
「打たん」
「言い切るのか」
「言い切る。打つ者と読む者は分ける」
「分けねえと」
「読んだ通りに打つ。返ってきた形へこちらが合わせにいく」
ドレクは壁から一歩離れた。
「合わせたら向こうのが消えるのか」
「消えはせん。こちらのが混じる」
「混じったら分かんねえな」
「分からん。だから分ける」
ライは器の縁へ指を戻した。エルクは壁の低いところを見ていた。指で押した跡はどこにも付いていない。
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丸太の足は六本のうち二本だけ据え直してあった。
レオルは残りの一本を肩で押さえている。ドレクが下から楔を噛ませ、噛ませ終わってから二人で手を離した。エルクは積んである丸太の上に腰かけて見ていた。
「読めぬ者に持たせるのか」
「持たせるよ」
「読めぬままだぞ」
「読めねえほうがいいんだよ」
ドレクが言ったきり誰も続けなかった。レオルは肩の土を払って、払った手をそのまま下ろした。
「……我は反対したと書いてある。それでよい」
「取り消さないんだ」
「取り消さぬ」
「取り消してもいいんだよ」
「取り消せば、次に反対する者が困る」
「困るの」
「一度取り消した者がおれば、反対は取り消すものになる」
レオルは次の丸太のほうへ歩いていった。
羽音が坂のほうから下りてきて、丸太の山の端へグリフが降りた。埃が横へ流れて、エルクは袖で顔をかばった。
『坂の下まで見てきた。誰も来ておらん』
「零だね」
『零だ。……上へ置いてくるのをやめた』
「置いてくるって」
『これまでは上の欄に書けばそれで済んでおった。今日は下まで持ってきた』
「わざわざ降りたんだ」
『降りた。持ってこねば、ここの者は誰も来ぬことを知らぬままだ』
「上まで見に行かないとね」
『行かぬ者がおる。行けぬ者もおる。……ならば俺が下りればよい』
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入口の外の地面は昼のうちに乾く。
ドラゴは乾いたところへ尾だけを伸ばしていた。胴は窪みの影に入ったままだ。エルクは段の三つ目の踊り場まで下りて、そこで止まった。
『打つぞ』
「並びじゃないよね」
『並びではない。一つだけだ』
尾が土を打った。音は段の壁へ一度当たってから下りてきた。
下からライが上がってきて、踊り場の手前で止まる。
『拾いました』
「紙には」
『書きません。並びではありませんので、棚には入りません』
「じゃあ届いたってことだけ分かるんだ」
『届いたことだけ分かります』
エルクは段を上がってドラゴの脇へ出た。
「届いてたって」
『ならばここでよい』
「もっと近くなくていいの」
『近いと上に響く。上に響けば上の者が数える』
「数えると困る?」
『上の数と下の数が同じ形になるのだ。同じ形は後で分けられぬ』
「離れてても遅れないの」
『遅れる。我は遅いのだ』
「合わせるよ」
『合わせよ。場所はここだ』
ドラゴは尾を引いて窪みの影へ戻した。土に残った跡は一つだけだった。
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当番小屋の土間は昼でも冷える。
敷き藁の上にスラの本体が広がっている。分身は戸口に一つ。エルクは敷居をまたいでしゃがんだ。
『寝かせる相手が決まったッスね』
「聞いたんだ」
『聞いてねえッス。二人ぶん場所を空けろって言われたッスよ』
「誰に」
『ソウッス。前の日の昼だって言われたッス』
「当日じゃないの」
『当日じゃ遅いッス』
「遅いんだ」
『夜に立つ人はその前の日から始まってるッス。当日だけ寝かせても足りねえッス』
「知らなかったよ」
『おいらも去年は知らなかったッス。寝てもらった人に聞いたッス』
「聞いたんだ」
『聞いたッス。寝かせる側は寝てねえッスからね。分かんねえッスよ』
本体の縁が敷き藁の端まで伸びて、それから戻った。
『二人とも寝るとは限らねえッスけどね』
「寝ないかな」
『ドレクは寝ねえッス。横にはなるッス』
「横になるだけでもいいの」
『いいッス。横にならねえよりはいいッス』
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水場の縁の石は日が落ちてもしばらく温い。
クラウは帳を膝へ載せて開いた。頁の端は下の湿りを吸って少し波を打っている。エルクは伏せた桶の上へ腰を下ろした。
「今日決まったの、いくつ?」
「四つだ」
「言ってみて」
「下りる二人。器の前。外の音。上に残る者」
「五つじゃないの」
「上に残る者は決めておらん。ケインが自分で言うただけだ」
「決めたことになるでしょ」
「ならん。言うたことになる」
「厳しいね」
「言うたぶんは書く。決めたぶんとは別の行だ」
クラウは頁を手のひらで押さえた。押さえたところから先はまだ白い。
「日は」
「入っておらん。畑が出す」
「並びは」
「載せておらん」
「載せないと打てないんだよね」
「打てん」
「ライも言ってたよ。板が持ってからだって」
「そうだ。載せるには行が要る」
「行って、板の?」
「板だ。載せる場所を先に作らねばならん」
エルクは踵で桶の縁を軽く鳴らした。
「明後日の半日、あるよね」
「ある。ソウが取ってある」
「それ、並びを載せるのに使うんだ」
「使わん」
「使わないの」
「先に足す三行のほうだ」
「三行って、こないだのやつ?」
「守れておらんと書いたやつだ。あれを書かんうちは、並びの場所は空かん」
「順番があるんだ」
「ある。並びから載せれば、守れておらんところの上に並びが乗る」
「乗ったら?」
「乗ったぶんは見えなくなる」
クラウは頁の端をそろえて帳を膝から下ろした。表紙の上を親指で三度叩く。三度目のところで指が止まった。
「明後日だ」
「間に合う?」
「三行だ」
水場の下の道をドレクが下りていく。途中で足を止めて、石段のほうを一度だけ振り返った。振り返ったまま、しばらく動かなかった。




