第198話 やめると打つ形
ドレクは桶を提げたままだった。
灯りは板の下の土へ直に置いてある。二枚目の字は夜には出てこない。木の色が一枚ぶん濃いだけだ。
「読めねえって言ってんだろ」
返す言葉は出てこなかった。
ソウは灯りを動かさない。ドレクも動かない。エルクは指の腹で木目を一度だけなぞってから手を下ろした。
「……ごめん」
「謝られても読めねえよ」
「うん」
エルクは板から一歩だけ離れた。
「渡してないね」
「渡してねえな」
「書いたら渡したことになると思ってたよ。……僕、読めるからさ」
ドレクは桶を持ち替えた。水の面は揺れなかった。
「おれが持ってんのは聞いたぶんだけだ。聞いてねえところは今日もおれのとこには来てねえ」
「来てないんだ」
「来てねえ」
「そっか」
板の前の土は昼のあいだに踏み固められている。足の形がいくつも残っていた。
「字が読めないなら、字じゃないので渡せばいいよね」
「音か」
「音。……じゃあ、打つしかないんだ」
ソウが灯りを持ち上げた。光は板の上の縁まで届いてすぐ戻った。
「言うだけならただよ」
「ただじゃないの」
「打つとなると別だわ。板に載っていないものは打てないでしょ」
「載せる形から作るんだね」
「作るのよ。ライのところはまだ起きてるわ」
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ライの棚は小屋の奥の暗いところにある。
箱は三つとも布の上だ。左は今夜も弱く光っている。真ん中は光らない。ライは棚の下の平らな板へ紙を伸ばして、細い線を二本引き終えたところだった。
「ねえ。足せるの」
『足せます』
「十で終わりじゃなかったっけ」
『頭が十です。頭は増やせません』
「じゃあ足せないでしょ」
『用件は板に載せれば足せます。返さない、を作ったときと同じです』
「混ざらないの」
『頭の位置と用件の位置は違います。同じ形でも混ざりません』
エルクは膝をついて紙の線へ顔を寄せた。線の右側はまだ何も入っていない。
「どんな形にするの」
『長いのを三つです』
「もう考えてたんだ」
『今決めました』
「早いよ」
『返さない、が短いのを三つだからです。ひっくり返しただけです』
「わざと似せたんだ」
『似せました。別の形にすると、あちらは二つ覚えることになります』
「一つで済むんだ」
『一つで済みます。長いか短いかだけです。頭は一日で覚えた相手です』
ライは筆を置いて、線の右の空きへ指を置いた。
『ここが困ったところです』
「困るんだ」
『こちらが打てば、やめてよい、です。あちらが打てば、やめる、です』
「音は同じなんだよね」
『同じ音です。打つ側が変われば、意味は変わります。私はそう書きます』
「書くんだ」
『書きます。どちらか一つだと思って読むと必ず取り違えます』
「取り違えたら、どうなるの」
『こちらがやめてよいと打ったつもりで、あちらがやめると打ったことになります。逆もあります』
「こわいね」
『こわいです。ですが二つに分ければ、あちらの覚えるものが増えます。増えたぶんは間違えます』
「どっちも間違えるんだ」
『どちらも間違えます。間違えが少なく済むほうを選びました』
「今日は打たないの」
『今日は決めるところまでです。打てるのは板が持ってからです』
「守るんだね」
『守ります。先に打てば、次に迷うのは私ではありません。打つ人です』
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小屋を出ると風が止まっていた。
物置の角を黒銀が回ってくるところだった。外周のひと回りの途中だ。エルクは横に並んで二歩だけ一緒に歩いた。
『渡す前に、受け取れるか決めておけ』
「聞いてたの」
『聞いておらぬ。同じ形ならそうなる』
「返ってくるってこと」
『返る日があるということだ。返った日に受け取れぬなら渡すな』
「受け取るってどうすればいいの」
『知らぬ。決めるのは我ではない』
「決めとくよ」
『決めておけ。決めておらぬものは来た日に決めることになる』
黒銀は歩調を変えずに坂のほうへ抜けていった。
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朝の畑は縁のところだけまだ固い。
メルは綴りを腕に載せて開いていた。開いてあるのは人の名の並んでいるほうだ。エルクは畦の上へ乗って、開いているほうを覗いた。
「春は三回出せます」
「三回」
「冬は二回でした。一回増えます」
「増えたんだ」
「出せますが、出す人が畑にいます」
「畑の人を呼ぶんだ」
「呼びます。一回出すと、その日の畑は半分で止まります。翌日の夜もその人たちは立てません」
「三回ともそうなるの」
「三回ともです。出せる数と、出せる人は別です」
列の前が動いて、鍬の柄が肩の上でそろった。
「ねえ。三回って、いつ出すか決まってるの」
「決まっていません。こちらが決める日なら組めます」
「決まってない日は」
「組めません。その日に畑にいる人を、その日のうちに抜くことになります」
「抜いたら」
「抜けたぶんは、次に人の空く日まで空いたままです」
「……やめるって言われる日って、こっちが決める日じゃないよね」
「違います」
「じゃあ三回あっても、その日に出せるとは限らないんだ」
「限りません。合う日に来れば出せます」
「半日のやつは」
「明日のままです。畑が半分で終わりますので」
「何に使うかは決まってないよね」
「決まっていません。取ってあるだけです」
「取っといてよかったね」
「まだ分かりません。使った日に分かります」
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杭は坂の下から順に打ってある。
ケインは束をほどいて次の一本を立てた。ソウは縄の端を持って待っている。
「やめられたら終わりなんすよね」
「終わりって、あっちの持ち場が」
「そうっす。一回空いたら戻せねえって去年聞いたっすよ」
「誰から」
「メルっす。冬の前っす」
ソウは縄を短く持ち直した。
「終わるわ」
「ほらっす」
「終わるけど、やめるって言えないまま細るのは、もう見たわ」
「細るって、どっちのことっすか」
「どっちもよ」
ケインは槌の頭を土へ下ろした。
「おれ、止めてるつもりなんすけどね」
「止めてるわよ」
「止まってねえっす」
「止まってないわね。……あんたが間違ってたら、とっくに止まってるわ」
「褒められてる気がしねえっす」
エルクは打ち終わった杭の列の途中に立ったままでいた。
「ケインは打たないほうがいいって思ってるんだよね」
「思ってるっす」
「僕もそれ、消せてないよ」
「消せてねえのに打つんすか」
「打つよ。……消えないまま打つんだと思う」
「そういうの、おれいちばん困るっす」
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当番小屋の角の糸は張り替えたばかりだった。
ラネは結び目を口の中で数えている。アラーネは柱の裏で根元のほうを押さえていた。
「二本とも私は今日触っていないのよ~」
「私がみたの! 二本ともよ!」
「見たわね~。書いたかしら~」
「書いたわ! 右のは私の糸よ!」
ミナは小屋の壁へ背をつけて座っていた。今日は聞き手が来ていない。
「一人なんだ」
「みんなはたけ」
「怒ってる?」
「おこってない。はたけはしごとだもん」
エルクは壁づたいに座ってミナと同じほうを向いた。ミナは膝の上で指を組み直した。
「したのはなし、きまったの」
「形だけね。音で渡すことにしたよ」
「やめてよいっていうの?」
「うん」
「やめるっていっていいっていわないと、やめるしかなくなるよ」
すぐには返せなかった。
「それ、誰のこと言ってるの」
「いわない」
「聞いちゃだめ?」
「だめ。ミナのじゃないもん」
「分かった」
「でもね。いうところがないと、だまってやめるしかないでしょ」
「……ほんとだね」
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門の内側の砂は日暮れから先に冷える。
ライオは門柱の内側へ体を据えていた。刻は入ったばかりだ。クラウは門柱の根元へ帳を開いて置いている。エルクはその向かいへしゃがんだ。レオルは門をくぐったところで止まって、坂のほうは見ずに立った。
「長いのを三つにするって」
「返さないの逆か」
「逆。ひっくり返しただけだって」
レオルは腕を組んだ。組んだまま動かさない。
「渡した形はそのまま返るぞ」
「返るよ」
「やめてよいと打てば、やめると打ち返せる。同じ形だ」
「ライもそう言ってた」
「分かって渡すのか」
「分かって渡すよ」
「受ける形は」
「無いよ。まだ作ってない」
「我は反対だ」
「反対なんだ」
「反対だ。やめてよいと渡しておいて、やめると言われた日に代わる者を出せぬ。それは渡したことにならぬ」
「三回じゃ足りないんだよね」
「足りぬ。出せる人は畑におると聞いた」
「聞いたんだ」
「メルから聞いた。……それでも我は数を理由にはせぬ」
クラウが筆を抜いた。
「我は反対したと書いておけ」
「書く」
「書いた上で、我は止めぬ」
「止めないの」
「止めぬ。止めれば、こちらは黙ったままだ。黙って通さぬのが今の形だ」
「……冬じゅうやってたやつだね」
「やっておった」
ライオは門の外の道から目を離さずにいた。
『止めぬと言うた者も、あとで数えられる。……それも書かせておけ』
「レオルのぶんも?」
『我のぶんもだ。今日ここで聞いた者は皆入る』
筆が入って、行は二つで止まった。
「形は板へ載せておらん。載せる日は別に決める」
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入口の外は宵のうちだけ風が下りてくる。
ドラゴは石段の脇の土へ腹をつけていた。胴の先だけが灯りの届くところにある。
「ねえ。上と下で同じ音って出せる?」
『尾ならどこでも同じ音だ』
「合わせるのは難しい?」
『我は遅い。速いほうが合わせよ』
「じゃあこっちが合わせるね」
『それでよい』
ドラゴは首をわずかに上げてから戻した。
『呼べ。外におる』
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夜の板の前には灯りが二つ出ていた。
一つは板の下。もう一つはソウが手に提げている。クラウは帳を石へ開いた。ライは紙を膝へ載せて座っている。エルクは灯りの輪の外側へ立った。グリフは柱のてっぺんで足だけを動かした。
『上からだと、二枚目の白いところがよく見える』
「見えるんだ」
『見える。下の三分の二だ』
「数えてたの」
『数えておらん。白いところは数えぬ』
クラウは門で入れた行の下へ日を書いた。
「反対は入れた。形はまだ入れておらん」
「明日入れるの」
「明日は誰が持って行くかを決める。載せるのはそのあとだ」
『こちらも一枚きりです。この形の写しはまだ作りません』
「なんで」
『写しを配ると、板に載る前にそのぶんの場所へ行きます』
「どこも同じ形だよね」
『同じ形です。ですが、どれが元か決めていません』
クラウは筆を置いた。
「決まったのは形だ。あと一つ残っておる」
ソウが灯りを石へ戻した。
「誰が打つの」
誰も言わなかった。
ライは紙を膝から上げない。クラウの筆は硯の縁に置かれたままだ。柱の上の足も止まっている。
ソウは板から目を上げて、灯りの届かないところへ顔を向けた。
ドレクが立っていた。桶は今夜も提げたままだった。
ドレクは桶を石へ下ろした。
「おれだ」




