第197話 増やす前に見る
薪小屋の脇は風の回らないところだ。
割った薪は壁際に一列しか残っていない。ダクトはその前の平らな土へ古い戸板を伏せて、上へ写しを四枚とも広げた。表を上にしてある。角の向きはそろえて、間は指二本ぶんずつ空けてあった。
「入口じゃないんだ」
「入口は日の回るのが早いですぞ」
「ここは長いの?」
「昼を過ぎるまでは明るいですな」
エルクは端に近い一枚をつまんで裏へ返した。頭の行は途中から始まっている。今日は上から順に当たると決めてあった。
「僕が返しちゃったよ」
「よろしいですぞ。返す人が居らぬときだけ、私が返しますからな」
段の口のほうからライが紙を抱えて来た。戸板の空いた端へ広げて、細い線を一本だけ縦に入れる。
『欄を二つ作りました』
「なに書くの」
『左が行です。右が、してあることです』
「してないのは」
『空けます』
「埋めないんだ」
『埋める欄ではありません。空いているのを見るために引きました』
エルクは裏の頭から一行目まで指を下ろした。
「持ち場はやめてよい。やめるときは、やめると言う」
『やめた者の欄に名が三つあります。三つとも自分の口で言いました』
「そこは書けるんだね」
『書けます。三人が言った、と入れます』
「守れてるって書かないの」
『書きません。守れていると入れると、次の人にも同じことが起きると読めます』
「起きないの?」
『欄に名のある者には起きます。名の無い者はこの行の外です』
「外か」
『外です。行が届いていません』
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三行目まで来たところでライは筆を止めた。
『ここは空けます』
「一回もないんだ」
『一度もありません。紙は冬に一枚。春に入ってから二枚です』
「通してないもんね」
『どれも通していません。返してもいません。決まりを聞かせてもいません』
薪の山の向こうからクラウが回ってきた。帳は小脇に挟んだままだ。
「空いておるな」
「ライが空けとくって」
「空けたまま読み上げろ」
エルクは顔を上げずに読んだ。
「聞かされていない者を、続かなかった者と呼ばない」
「守れておらん」
筆の穂は戸板の端に置かれたままになっている。
「昨日も言ってたよ」
「昨日は入口で言うた。今日は紙へ入れる」
「言うのと書くのって違うの」
「違う。言うたぶんは俺が死ねば消える」
「縁起でもないこと言うね」
「縁起の話ではない。書いてある行を守れておらんと、書いた者以外が言えるようにしておくだけだ」
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灯りを提げて段を下りると、柱の面だけが先に明るくなった。
ウーゴは札の高さで膝を折っている。彫る道具は上へ置いてきたと言った。手は札には触れずに、柱の下のほうへ添えてあった。
「モチバ、ミッツ」
「持ち場が三つだね」
「シタニ、ヒトツ」
「理由のとこ」
「フユニ、ホッタ。フカイ」
エルクは写しの一枚を膝の上で開いた。紙は下へ置けない。湿りを吸うからだ。
「板には三行あるんだよ」
「サンギョウ」
「持ち場はやめてよい、ってやつ」
大きいのは柱の面へ手のひらを当てた。彫ってあるところを上から順に押さえていく。下のほうで手が止まった。そこから先は木のままだ。
「ホッテナイ」
「彫ってないね」
「ココニハ、ナイ」
「板にはあるよ」
「イタハ、ドコダ」
「上だよ。坂の上」
大きいのは手を下ろした。
「ヨムヒトハ、ウエニイル」
エルクは膝の紙を閉じた。閉じてからしばらく開き直さなかった。
「……書いたのに、渡してないんだ」
「ワタシタトオモッテタカ」
「思ってた」
「オレモダ。ホレバ、ワタルトオモッタ」
灯りが柱の下のほうで一度細くなって、また戻った。
「やめてよい、って書いてあるとこ。あの人は知らないんだよね」
「シラナイ」
「知らせたこと、一回もないもんね」
「イチドモ、ナイ」
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薪小屋の庇の下に糸が二本張り直してあった。
アラーネは梁の影のほうにいて、前脚だけを日の当たるところへ出している。
「下は冷えたでしょ~」
「冷えた」
「行ったのは分かるわ~。糸が拾ったもの~」
「何しに行ったかは分かんないんだ」
「分からないわ~。通った人しか拾えないのよ~」
「通ってない人は」
「拾えないわ~」
前脚の先が糸の端をつまんで、張りを確かめてから離れた。
「……私ね、それを困ったことだと思っていなかったのよ~」
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エネは束の上から二枚を抜いて、戸板の空いたところへ順に置いた。
「数を持ってきました」
「今日はいくつ?」
「最後まで読んだのが六人です」
「増えたね」
「増えました。立ってもらった日は三人です」
「裏のほうは」
「裏まで返したのが四人です」
「それも増えてる」
「増えています。……ここから先は、あたしの思ったことです」
エネは紙の上へ置いた手をすぐどけた。
「数だけ置いていくと、聞いた人がそれぞれの向きに読みます」
「向き?」
「多いと読む人と、少ないと読む人です。どちらもあとで、そう言っていたことになります」
「エネはどっち」
「少ないと思っています。思っていると先に言います」
「言うようになったね」
「数のあとに付けると、数のほうが弱くなる気がしていました」
「弱くなった?」
「なりません。弱くなるのは、黙って出したときのほうでした」
エルクは戸板の端へ座った。
「戻ってきた人のぶんは、別に数えてるんだよね」
「別です。あの十九人はこちらが立たせました。自分で足を止めた人は、同じ列へは入れません」
「入れると多くなるから?」
「多く見えます。多く見えたぶんは、あとで誰も引きません」
「自分で止まった人って、何人いるの」
「七人です」
「少ないね」
「少ないです」
「もうひとつのほうは」
「数え方を決めました」
「決まったんだ」
「聞かせていない人そのものは数えられません。会っていないので」
「うん」
「なので、こちらから渡した数を数えます。渡した数の下は空けます」
「空いたところが、そっちってこと?」
「はい。幅で見ます。人数では出しません」
「幅だけ書くんだ」
「幅だけです。埋まらないところを、先に作っておきます」
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メルは膝の上で綴りを開いて、日付の並んでいるほうを先に見た。
「足すなら人が要ります」
「足さないよ」
「板へ入れるなら二人です。字を書く人と、写しを直す人です」
「今日はやらないってば」
「明日は畑が遅いです」
「遅いんだ」
「遅いです。明後日なら半日取れます」
ソウは薪の山の上へ座った。
「じゃあ明後日ね」
「明後日に足すの?」
「足さないわ。半日を取っておくだけよ」
「使わなかったら」
「畑へ返すわ。取っていない半日は、要るときに出てこないもの」
クラウは帳を開いて、筆を入れる前に頁の上を指で二度数えた。
「二つ書く」
「守れてないやつ?」
「二つとも守れておらん。ひとつは三つ目の行だ。ひとつは二つ目だ」
「二つ目って、理由のやつだよね」
クラウは穂先を硯の縁で落とした。
「渡すときは理由も渡す。言えない理由は、言えないと言って渡す」
「それが?」
「あれには理由より前のものが渡っておらん。やめてよい、が渡っておらん」
「字だからだよね」
「字だからだ。字は渡した形をしておるだけだ」
筆が入った。行は二つで止まった。
「日は入れるの」
「今日を入れる。足したとは書かん」
「なんて書くの」
「見た、と書く。二つ守れておらんと書く。それだけだ」
ソウは薪の上から言った。
「明日も困っていたら、そのとき書きましょ」
「困らんかったら」
「困らなかったら、要らなかったってことよ」
「要るぞ」
「要るでしょうね。でも要ると思った日に書くほうが、形がまともになるの」
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夜は下のほうから先に冷える。
エルクは下の写しを替えてから段を上がった。上がりきる手前で足が止まる。ウルは途中の踏み面に居て、首だけをこちらへ向けた。頭の位置はエルクの胸より低い。
『替えたか』
「替えたよ」
『下は二だ。下りたぶんと合うておる』
「ねえ。やめてよいって、ウルは誰から聞いた?」
『板だ。読める者が読み上げた』
「読み上げなかったら」
『知らぬままであった』
「そっか」
黒銀は耳だけを段の下へ向けた。
『我には耳がある。あれに耳があるかは分からぬ』
「無いのかな」
『分からぬ。分からぬものへ渡す形を、我らは持っておらぬ』
「持ってないね」
『持たぬまま、渡してあることにしておった』
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板の脇にソウが立っていた。灯りは足もとの石へ置いてある。
夜の面は字が読めない。留め金の影だけが太く落ちている。エルクは二枚目の前まで来て、手のひらを板へ当てた。冷えは指の先から入ってくる。
「明後日、半日取ったのよ」
「聞いた」
「取ったからには使うか返すかよ」
「渡す形、まだ無いんだよね」
「無いわ」
手のひらの下の木は、昼に日を受けた側だけがわずかに温い。
エルクは手のひらを板から離さなかった。
「……もう板に書いてあるからいいよ」
言ってから、自分の声が板へ当たって戻ってくるのが分かった。ソウは板の縁へ手を伸ばしかけて、そのまま下ろした。
背中のほうで足音が止まっていた。桶の水が一度だけ鳴った。
振り向くと、ドレクが段の口から来たままの格好で立っている。
どこから聞いていたのかは、誰も訊かなかった。




