第196話 続かなかった者と呼ばない
入口の石へ日が入るのは昼のあいだだけだ。
ダクトは四枚とも裏を上にして並べていた。表のときと同じだけ間を空けて、角の位置もそろえてある。裏の頭には途中から始まる行が乗っていた。そこから下が二枚目の写しだ。三行あって、その下に名が三つ。名の下は白い。端の一枚にはスラの分身が二つ乗っている。
「風、あったっけ」
『無いッス』
「無いのに乗ってるんだ」
『昨日は端が反ったッス。反ったやつは誰も返さねえッスよ』
「そうなんだ」
『指が引っかかると、めくる前にやめるッス。おいら見てたッス』
ダクトは並びの端から回ってきて、日の入っているほうへ一枚だけ寄せた。
「返す者は増えましたかな」
「増えたの?」
「今朝も一人、裏まで来ましたぞ」
「何人目?」
「数えておりませんな」
「数えないんだ」
「見ておるだけですぞ。数えるのは別の人ですな」
エルクは裏の頭から指を下ろした。一行目と二行目はすぐ終わって、三行目のところで止まる。
「聞かされていない者を、続かなかった者と呼ばない」
「声に出されますかな」
「読めるからさ」
「読めますな」
石の面は日を受けたところだけ温い。エルクは指を三行目の高さに置いたままにした。
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段の口のほうから足音が来た。
ライが胸のところへ夜の紙を抱えている。石の空いたところまで来てから、紙を平たく広げた。
『昨夜のぶんです』
「頭は」
『三つです。間も同じだけ空いています』
「欄には入れたの」
『入れていません』
「今日も?」
『今日もです。板に無い印は通しません』
「打ち返しもしてないよね」
『していません。三つとも紙の上にあるだけです』
ライは紙を写しの脇へ寄せた。裏の三行目と、紙の上の三つの頭が同じ高さに並ぶ。
「配ったのって十だよね」
『十です。余りはありません』
「この頭は」
『十の外です』
「じゃあ、この人は並びを知らないんだ」
『知っているかもしれません』
「分かんないんだ」
『分かりません。渡していないことだけは分かります』
「こっちから渡したのって、何と何だっけ」
『十の並びと、返さない並びと、持ち場の三文字です』
「あの人には渡ったよね」
『渡りました。頭に付けて返してきます』
「こっちの人には」
『一度もありません』
エルクは写しと紙のあいだで目を二度動かした。紙の頭は三つとも同じ形をしている。
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帳を提げたクラウが入口の暗いほうから出てきた。
冬の綴じ目へ指を挟んだままだ。石の縁へ座って、挟んだところを開く。
「冬のを見ておった」
「あった?」
「ある。分からんと書いてある。それだけだ」
「足すの」
「足さん」
クラウは写しの裏へ目を落とした。目は三行目の高さで止まった。
「これを書いたのは俺だ」
「知ってるよ」
「書いたときは、うちの者のつもりでおった」
「違うんだ」
「行には書いておらん。誰のこととも書いておらん」
紙の端が日に反って、影が細く伸びた。
「聞かせておらん者を、通さん者と呼んでおる」
「呼んでないよ」
クラウは帳の綴じ目へ親指を差したまま動かさなかった。
「呼んでおる」
「呼んでないってば。誰もそんな言い方してないじゃん」
「口で呼ばんでも、扱いが呼ぶ」
「扱いって」
「来たのに、何も返さん。返さんまま冬を越した」
エルクは言い返す言葉を口の形まで作った。作ったところで止めた。石の上の三行はさっきから動いていない。
「……呼んでないけど、扱ってはいるんだ」
「そうだ」
「今日は先に言われたね」
「お前が先に見つけて、俺が行にすることが多い」
「今日は違うよ。僕、さっきまで読んでるだけだったもん」
「読んでおったなら、お前のほうが近い」
「近くないよ。読めるとこしか読んでないし」
クラウは筆を抜かなかった。帳は開いたまま膝の上にある。
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坂の下から上がってきたレオルが、入口の手前で足を止めた。
並びを端から見て、それから一枚目の裏の上のほうへ目をやる。
「我の名はそこだ」
「一つ目だね」
「一つ目だ。三行はその上にある」
レオルは腰を落として、三行目の高さへ爪の先を寄せた。紙には触れずに止める。
「呼んでおらぬ」
「クラウは呼んでるって言ってるよ」
「呼んでおらぬ。通しておらぬだけだ」
クラウは帳を脇へ挟んだ。
「同じだ」
「同じではない」
「どこが違う」
「呼ぶのは口だ。通さぬのは手だ」
「手のほうが早く着くぞ」
爪はまだ下がらない。日は石の半分まで来ている。
「……だが近い」
「近いんだ」
「近い。我は近いところで止めておきたい」
「止めとくと、どうなるの」
「呼んでおらぬと言い続けられる」
「ずっと?」
「聞かせるまでだ。聞かせてからなら、いくらでも言うてよい」
「聞かせるまでは言えないんだ」
「言えぬ。言えば、こちらの都合が行より先に立つ」
レオルは爪を下ろして立ち上がった。裏の並びからは目を離さない。
「三行目を書いたのはお前たちだ。書いた者が破っておるのは、破られるより悪い」
「怒ってる?」
「怒っておらぬ。……こちらが先に見つけたのは良いことだ」
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溝の水は昼を過ぎて細くなっていた。
ケインは落ち口の土をさらっている。話を聞き終えてから、掬った土を縁へ上げた。
「通したら危ねえっすよ」
「通すとは言ってないよ」
「聞かせるんすよね。聞かせたら通すのと変わんねえっす」
「変わるよ。……たぶん」
「たぶんっすか」
エルクは縁の乾いたところへ座った。
「決まりを教えるだけだよ。頭の無いのには返さないとか、板に載ってない印は通さないとか」
「それ、打ち方の話っすよね」
「打ち方じゃないってば」
「打ち方っす。どこまでが通るか教えるんすから」
ケインは鍬を立てて柄の先へ顎を載せた。
「聞かせてねえのは分かるっす。でも聞かせたら、向こうも打てるようになるっすよね」
返事の代わりに水の音が一度だけ大きくなった。
坂の上からソウが下りてきた。袖は肘までまくってある。
「危ないわ」
「ソウもそっちなんだ」
「そっちよ。ケインの言うとおりだわ」
「じゃあ黙ってるんだ」
ソウは落ち口へしゃがんで、水の当たっている石を指で向き直した。
「黙るのもいやなのよ」
「両方は取れないよ」
「取れないわね。危ないのと、黙るのと、両方いやなのよ」
「どっちか選ぶんでしょ」
「今日は選ばないわ」
ケインは顎を柄から上げた。
「決めねえのも決まりっすか」
「決めてないって言うのが決まりよ。決めたふりをしないだけ」
「おれ、今日は通ってるほうっすよね」
「通ってるわ」
「通ってんのに、なんも軽くならねえっすね」
ソウは指に付いた土を水で落として、それきり何も足さなかった。
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段の口の灯りは昼のあいだ消してある。
ウルは内側の石へ伏せていた。下から上がってくる空気だけが冷たい。エルクは口の外の日向へ腰を下ろした。
「打った人ってさ。ウルの数だとどうなってるの」
『無い』
「一回も?」
『一度も無い。我の前を通った者だけを数えておる』
「紙には出てるよ」
『出ておる。紙はライだ』
ウルは頭を上げずに耳だけ動かした。
「昨日の二人は、ウルの数に入ってるんだよね」
『入っておる。段を下りたからだ』
「入ってない人は」
『我の中に居らぬ』
「居ないことになるんだ」
『なる。我も数えるだけだ。……数えぬ者は、居らぬことになる』
「冬からずっとだね」
『ずっとだ』
「気づいてた?」
『気づいておった。我の欄には入れようが無い』
「入れなくていいの」
『よい。我が入れれば、段の数が濁る』
エルクは膝を抱えて、段の暗いほうを見た。
「じゃあ、どこにも居ない人のままだよ」
『数える者へ回せ。我は数えぬが、居らぬとも言うておらぬ』
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入口の外の窪みにドラゴがいた。胴の半分は日の当たらないところへ入っている。
「ねえ。こっちから打ったのって、いつが最後?」
『冬だ』
「雪の深い晩のやつ?」
『あの晩だ。あれから我は打っておらん』
「打ちたい?」
『欄は拍を打つのままだ。打つ日が来れば打つのだ』
尾の先が土を一度掃いた。
『返らぬのと、打たぬのは別だぞ』
「別なんだ」
『別だ。返らぬのは向こうの日だ。打たぬのはこちらの日なのだ』
「こっちの日って、いくつ続いてるの」
『数えておる。言うてよいか』
「……今日はいいや」
『では持っておる。我は遅いが、数は落とさぬのだ』
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日が石の端から外れる頃に、ダクトが四枚を表へ戻した。
白いほうが下になって、指の跡の付いた灰色が上へ出る。クラウは帳を開いたまま石へ置いた。筆はまだ袋にある。
「足すんでしょ」
「足さん」
「新しいの作ると思った」
「今日は足さん」
「なんで」
「足す前に見る」
「見るって、なにを」
「三行だ。上から三つとも、うちが守れておるか見る」
「守れてなかったら」
「守れておらんと言う」
「言うだけ?」
「言うのが先だ。足すのはそのあとになる」
クラウは筆を抜いて、穂の先を袋の口で拭った。
「見てから言う」
「順番、変えないんだ」
「変えん。先に足せば、足したほうが守れておることになる」
石段の下からエネが上がってきた。紙は胸の前で抱えている。数のぶんだけ端が段になっていた。
「数えるものが二つ増えました」
「二つ?」
「ひとつは読んだ人です。冬から数えています」
「もうひとつは」
エネは抱えたぶんを片腕へ寄せて、空いた手を紙の上へ置いた。
「聞かせていない人です」
クラウの手が止まった。エルクは石の上の写しへ目を戻した。
「それ、何人いるの」
「分かりません」
「分かんないんだ」
「まだ一人も数えていません。数え方も決まっていません」
「数えられるの?」
「数えます。そこから探します」
エルクは表の面を指の腹で二度叩いてから、手を膝へ戻した。
「……ウルが似たこと言ってたよ」
「なんて言っていました」
「数えない人は、居ないことになるって」
「はい」
「知ってたの?」
「いえ。……でも、そうだと思います」
エネは上から二枚目を抜いて、字の無い面を上にして石へ伏せた。余白の端へ細い線を一本引く。線は一本だけで、その下へは何も足さない。
「今日はいくつ入るの」
「今日は入りません」
「入らないんだ」
「入れる前に、聞かせていない人が誰なのかを決めます」
入口の石から日が抜けて、四枚は端から順に影へ入った。




