第195話 持ち場になった人
子らの列は板の手前で崩れた。
前に立ったノノは指を五本立てている。護符の紐は握ったままだ。エルクは輪の外の丸太へ腰を下ろした。柱の上のグリフは羽を畳んだまま坂の下を見ている。
「となりの子の手をにぎる」
子らが返した。
「つかれたっていっていい」
返った。
「となりの子がだまってたら、みにいく」
「へんじがなくても、たたきつづける」
「やめるときは、やめるっていう」
五つ目まで一度も切れなかった。ノノは指を下ろすと、一枚目の右の端まで歩いていった。背伸びをしても上の行には届かない。爪先を戻してから、届く高さのところを叩いた。
「きょうはこっち」
「字のほう?」
「うん。よめないけど、おぼえた」
「上のやつ?」
「うえのやつ。ここ、ぬる」
子らの声がすぐ返ってきた。今度はばらけなかった。
いちばん前の子が口から指を抜いた。
「だれのなまえ?」
「なまえじゃないよ」
「なまえじゃないの」
「もちば。ぬるっていうしごとのひと」
子は口の中でもう一度なぞってからうなずいた。ノノは板から離れて輪のほうへ戻った。
「ぬるはね、やめられないの」
エルクの膝の上の手が止まった。
「だってぬるだもん」
子らは誰も訊き返さなかった。いちばん後ろの子が言われた通りに一度なぞって、それで終わりになった。ノノは輪を解いて子らを坂のほうへ行かせた。
板の脇のソウは何も言わなかった。
柱の上から短い声が下りてきた。
『昨日より二人多いぞ』
「数えてたんだ」
『数えた。聞いてはおらん』
「聞こえてはいたでしょ」
『聞こえた。だが運ばん。俺が運ぶのは数だけだ』
グリフは羽をひとつ開いて閉じた。
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ライは柱の根元にいた。紙は平たい石へ載せてある。
「それ、いまのやつ?」
『書きました』
「授業の?」
『言われた言葉だけです』
「誰が言ったかは」
『書きません。言葉は板へ載るかもしれません。載るとき、口の主は要りませんので』
ライは石ごと紙をエルクの側へ回した。増えた行は一つだけだ。
『ぬるはやめられない。そう言われた、と書いてあります』
「言われた、なんだ」
『言われた、です。言った者を書くと、その人へ返す話になります』
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クラウは板の脇の台で帳を立てて読んでいた。
「……逆になってるやつ、もう一個あったんだ」
「もう一個」
「うん」
「どれとどれだ」
「五つ目と、いま教わったやつ」
クラウは帳を立てたままにした。
「やめるときはやめるっていう、って教えてる人が、あの人はやめられないって教えてるんだよ」
声が返ってこなかった。
「冬のは打ち方の食い違いだ」
「今日のは?」
「人だ」
紙の擦れる音が続いた。冬のところまで二度行き過ぎて、二度戻る。三度目で音が止まった。
「あった」
「なにが」
「言った人がいた」
「それだけ?」
「それだけだ。下にもう一行ある。今はこれしかない。これしかないと書く」
「名前は」
「書いておらん。書かんと決めた」
「クラウは覚えてるんでしょ」
「覚えておる。……だが帳は覚えておらん。あとで読む者に渡るのは帳のほうだ」
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声は台の向こうから来た。
エネは紙の束を腕の内側へ挟んで立っている。折り目のところだけ厚くなっていた。
「あたしのにも同じのがあります」
「同じ一行?」
「同じです」
エネは束のいちばん下から一枚を抜いて開いた。字は下の端に一行だけある。抜いた紙は、すぐには渡らなかった。
「言った人がいた、って書いてあります」
「うん」
「……あたしが言ったんです」
クラウの指が帳から浮いた。エルクはエネの顔を見た。
「知ってるよ」
「はい」
「でも、いま言ったんだね」
「はい。……ここで言わないと、言った人がいた、のところで止まるので」
束の端を親指で押さえてから、エネは前を向いた。
「持ち場を名前のかわりにすると、あの人は持ち場になりませんか。そう訊きました」
「訊かれたね」
「なったら、やめるって言うところが、いまより無くなります。そうも言いました」
「なんで名前を書かなかったの」
「書いたら、あたしが決めたことになるので」
「今日は言うんだ」
「今日は起きているので」
エネは束を持ち替えた。
「冬に言ったときは、起きるかもしれない話でした」
「うん」
「いまのは、起きた話です」
「もっと早く言ってもよかったんじゃないの」
「言いました。冬に一度だけ」
「そのときは」
「ほかに何も無いのは分かってます、って自分で足しました」
「足しちゃったんだ」
「足すと、聞いた人が楽になるので」
エネは息をひとつ入れた。
「今日は足しません」
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杭の束を担いだケインが台のほうへ寄ってきた。
「持ち場でいいじゃねえっすか」
「よいか」
「名前つけたら着られるんすよね。冬にそう聞いたっすよ」
「着られる」
「じゃあ持ち場のままっす」
「着られる。……だが持ち場のままだと、やめると言うところが無い」
「無くてよくねえっすか。あの人やめねえっすよ」
「やめぬなら要らぬ。やめたくなった日に要る」
「やめたくなるんすか」
答えは出なかった。ケインは肩の束をずらしたが、すぐには行かなかった。
「おれ、言い負かしてえわけじゃねえっす」
「分かっておる」
「どっちも本当っぽいから、困ってんすよ」
ソウは板の前から動かずに口だけ挟んだ。
「両方本当なのよ。だから今日は決まらないわ」
「決まらねえのに書くんすか」
「書くわ。決まらなかったって書くの」
エルクは丸太から立ち上がった。
「ノノが間違えたんじゃないよね」
「間違えてないわ。五つ目はきちんと教えてるもの」
「じゃあ何が抜けてるの」
「教わってない人がいるだけよ」
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門の脇で荷車の輪が一度鳴った。
畑から戻る列がちょうど抜けていくところだった。ライオは門を抜けた者の側へ体を向けて、列が切れるまで動かない。最後の一人が坂へ折れてから、はじめて首がこちらを向いた。エルクは門柱の内側に立って、朝からのことを順に話した。途中で一度も遮られなかった。
『名を付けぬと決めたのは去年だ』
「うん」
『あれは正しい。名を付ければ着られる』
「だよね」
答えるまでに、門の外の足音がひとつ通り過ぎた。
『持ち場に名を付けぬのはよい。だが持ち場そのものになれば、やめる者がおらぬ』
「持ち場はやめないもんね」
『持ち場はやめぬ。やめるのは、持ち場におる者だ』
「あの人、持ち場の中にいるのかな」
『おる。おるが、こちらから見えぬ』
ライオは門のほうへ首を戻した。
『我は去年、番の刻を減らした』
「減らしたね」
『減らせたのは、我の名が欄にあったゆえよ。名の無いところからは、減らすとも言えぬ』
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布の上の箱は朝から入れ替えていない。光っているのは左だけだ。スラは布の手前で薄く広がっていた。
『動いてねえッス』
「弱いまま?」
『弱いまま止まってるッス。おいらは形だけ見てるッス。数のほうはライのぶんッス』
「飽きない?」
『飽きるッス。飽きても見るッス。飽きた日に変わったら困るッスからね』
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筆を入れたのは、影が板の下まで伸びてからだった。
冬の一行の下はひと行ぶん空けてある。エネの紙は綴じ目へ挟んだ。
「なんて書くの」
「日を書く」
「それだけ?」
「起きた、と書く」
「誰に起きたかは」
「書かん」
「なんで」
「誰にと書けば、あの人のことになる。あの人はまだ何も言うておらん」
「言えないんだよね」
「言えぬ。だから起きた、までだ」
ソウは二枚目のほうへ目をやってから戻ってきた。
「それでいいわ。書いてあれば、あとで言う人が出たときに使えるもの」
エネは束を抱えたまま、待たずに言った。
「冬に書いたのを、今日使いました」
「そうだ」
クラウは筆を置いた。
「書いておいたゆえ今日使えた。……冬の俺は、使う日が来るとは思うておらん」
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段の口の灯りは細くしてある。
黒銀は段の内側で座っていた。灯りは胸のあたりで切れている。下へ入る二人は先に通ったあとだった。
『今宵は二だ』
「昨日は零だったね」
『零であった。零も書かせた』
「増えたね」
『戻っただけよ』
下から紙を抱えたライが上がってきた。段の途中で一度止まって、灯りのところまで来てから広げる。
『頭が三つあります』
「三つ」
『長いのが一つと、短いのが二つです。冬と同じ形です』
「順は」
『逆です。下の一人目と数は同じで、順が逆です』
「紙、何枚になったの」
『三枚です。冬が一枚。春が二枚です』
「春が二枚」
『二枚です。一枚目は人が戻りはじめた頃のものです』
「通したの」
『通していません』
「返した?」
『返していません。打った側の紙には今夜も何も増えません』
エルクは腰を落として紙の高さへ目を合わせた。三つの頭はどれも同じだけ間が空いている。
「下りたのは二人だよね」
『二だ』
ウルはそれきり黙った。耳は段の下へ向いたままだった。
『……あれには、教えておらぬな』
「あれって、どっち」
『どちらもだ』
三つ目の頭のところで目が止まった。こちらが決めた日のことは、そこには一つも書かれていない。




