第194話 弱まった夜
布の端は昨日と同じところで折り返してある。
三つの箱は昨日と同じ並びのままだ。手ひとつぶん離してある。左の一つだけ、蓋の縁が線になって明るい。ライは脇の台へ紙を広げて、昨夜の行の下へ今朝の刻を足したところだ。布の手前にはスラの分身がひとつ残っている。夜のあいだに入れ替わった跡が、土間へ丸く二つ付いていた。
「今朝はどうなってる?」
『昨夜から四度測りました。四度とも同じです』
「四度も測ったんだ」
『弱くなった夜は増やします。減らすのは、三日続けて同じだったあとです』
「じゃあ今は、弱いところで止まってるってこと」
『止まっています。昨夜の落ちたところは一度きりで、その一度の長さも書きました』
エルクは布の上へ顔を寄せて、手は後ろで組んだ。
『近いです』
「触らないよ」
『分かっています。布には指の跡が残りませんので』
エルクは組んだ手をほどいて、袖に付いた土を払った。
戸口の外で木槌の柄が石に当たる音がした。ケインが肩の布を下ろして中を覗く。
「弱くなったんすよね」
「うん」
「じゃあ良くなってんじゃねえっすか」
石の上で帳を開いていたクラウが顔を上げた。
「書かん」
「書かねえんすか」
「良くなったと書けば、次に強くなった日に誰かのせいになる」
ケインは木槌の頭を靴の先へ載せた。
「誰のせいでもねえっすよ」
「今はな」
クラウは帳の白いところへ指で先に幅を取った。それから筆を抜いた。
「弱くなった。戻った。刻はこれだ」
「それだけっすか」
「それだけだ。良し悪しは後から来た者が勝手に付ける。こちらから付けてやることはない」
ライが欄の頭のほうへ指を寄せた。
『欄は三つです。明るさと、刻と、測った者です』
エルクは紙の右の端を指でたどった。
「理由のとこは」
『ありません。作っていません』
「作らないんだ」
『作れば埋めます。埋めるものが無い日に、埋めたくなります』
エルクは棚のほうへ背を向けた。
「ねえ。今夜、僕も下に行きたいんだけど」
クラウの筆は止まらなかった。
「誰と下りる」
「……これから聞く」
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水場の脇に綴りが開いたまま置いてあった。
メルは袖をまくったところで手を止めている。水を切ってから綴りへ戻った。指は上の行に置いたままだ。
「今夜の下、何人?」
「一人です」
「二人だよね」
「二人です。埋まっているのは一人です」
「誰」
「ドレクさんが壁の前です。器の前が空いています」
メルは綴りを膝の上で開き直した。
「器の前は刻をその場で書きます。書ける人は四人います」
「四人いるんだ」
「三人が畑です。一人が普請です。四人とも明日の朝も出ます」
「夜に立てる人ってさ。冬と比べてどうなの」
「冬より四人少ないです」
「戻ってきたのにね」
「戻った人は十九人います。畑と普請で十九人です」
エルクは水場の縁へ腰を下ろした。
「数は埋まってるんだよね」
「埋まります。昼の当番は足ります」
「夜が減るんだ」
「夜が減ります。数が戻っても、戻った先が違います」
紐の束を抱えたソウが小屋の裏から回ってきた。
「聞こえたわ。今夜は下が立たないのね」
「立ちません」
「器の前が空くのよ」
「僕が入るよ」
「一人ね」
「ドレクがいるじゃん」
メルは指を行の頭へ戻した。
「ドレクさんは昨日も立っています。その前も立っています」
「昼に寝てるでしょ」
「寝ているかどうかは、私の紙には出ません」
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薪小屋の裏の土は日が当たらないので黒いままだった。
スラの本体はその上へ広がっている。分身は二つとも戸口の側にいた。エルクがしゃがむと、本体の縁がわずかにこちらへ寄った。
『寝てねえッス』
「ドレク?」
『そうッス。横にはなったッスよ。目は開いてたッス』
「閉じてもらえないの」
『閉じろとは言えるッス。眠れとは言えねえッス』
小屋の中から声がした。
「寝てるっつってんだろ」
「寝てないってさ」
「寝てる」
それきり中は静かになった。戸口の分身が板の隙間を少しだけ狭める。
『おいら、勘違いしてたッス』
「なにを」
『寝かせる人がいねえんじゃねえッス』
「違うんだ」
『起きてる人がいねえんスよ』
本体が形を変えて、坂の下のほうへ伸びた。
『昼に寝かせても、夜になったら畑の人が起きてくるだけッス』
「畑の人は夜に立たないよ」
『立たねえッス。だから昼に起きてる人ばっかり増えるッス』
「夜のほうは」
『薄くなるッス。おいらは寝かせる係ッスけど、寝かせる相手がいねえのは初めてッスね』
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日が畝の向こうへ落ちかける頃に、二人が坂を上がってきた。
上着は肩へ掛けている。土は膝から下だけが乾いていた。板の前で足を止めて、当番の並んでいるあたりを指で押さえる。
「今夜、下が空いてるんだろ」
板の脇からソウが出てきた。
「空いてるわ」
「なら立つぞ。おれとこいつでいい」
メルは綴りを腕から下ろして開いた。
「立てます」
「じゃあ決まりだ」
「三日は立てます」
男は肩の上着を掛け直した。
「三日でいいだろ。そのあいだに誰か戻る」
「四日目に畑が止まります」
「止まらねえよ。おれらが少し眠ればいい」
「四日目に畑が止まります」
同じ言い方でもう一度言った。それから行を三つぶん指でなぞる。
「二日目までは同じだけ鍬が入ります。三日目に半分になります。四日目は畝の列が一つ減ります」
「……数えてんのか」
「冬に数えました」
もう一人が石の縁へ腰を下ろした。
「立っちゃ駄目ってことか」
「駄目とは言いません。立てば四日目に止まると言っています」
ソウは紐の束を石の上へ置いた。
「気持ちのほうは要るのよ。今日は要らないだけ」
「今日は要らねえのか」
「今日は数が足りないの。足りないのを三日ぶん借りても、四日目に返すのはあんたたちじゃないわ」
男は石を蹴りかけて、途中でやめた。
「じゃあ誰が返すんだ」
「畑の人が返すのよ。あんたたちも畑でしょ」
エルクは板の下の石に座ったままだった。
「僕もさっき同じこと言われたとこだよ」
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坂の下の干し縄には糸が端から順に掛けてあった。
掛けたのはラネだ。鳴らしてみては次へ移り、また戻って同じところをもう一度鳴らしている。エルクは縄の下をくぐって反対側へ出た。アラーネは坂の上の柱のところにいて、下りてきていない。
「姉さんは」
「上よ! 来なくていいって言ったの!」
「見に来ないんだ」
「私の糸は私が見るの! 言わなくていいの!」
ラネは糸を一本だけ弾いた。低いほうの音が返ってくる。
「まだ鳴らないのがあるの?」
「あるわ! 鳴らないのは濡れてるのよ!」
「濡れてたら?」
「上げるわ! 上げたら乾くもの!」
「昼のうちに一人で来たの」
「来たわ! 行って、見て、戻ったの! 言ってないわ!」
坂の上から長い声が下りてきた。
「言わなくていいわよ~」
アラーネは柱のところから動かない。
「ほんとに?」
「ほんとよ~。あの子の一本だもの~」
「じゃあ姉さんは見ないの」
「見ないわ~。……でも書いてね~」
「書くわ! 書いたら見に来なくていいでしょ!」
「そうね~。私が行くのは、書いてないときだけよ~」
ラネは端から端まで鳴らし直して、それから一本だけ縄の外へ寄せた。
「これは明日よ!」
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灯りは段の口に一つだけ点いていた。
ウルは立ったままだった。座ってもいないし、足の向きも段のほうへ揃えていない。前脚の先だけが灯りの輪へ入っている。下へ向かう足音は夕方から一度も無かった。
エルクは下り口の二歩手前で止まった。
『下りるのか』
「下りたい」
『一人か』
「一人」
ウルはしばらく黙っていた。
『……今日は誰にも訊いておらぬ』
「名前?」
『訊く相手がおらぬ。段を通った者が一人もおらぬゆえな』
「数はどうなるの」
『零だ。零も数のうちだ』
メアは段の脇の暗がりに立っていた。手は袖の中へ入れている。
「読んだの」
「段だけです」
「なにがあった?」
「上から下への足がありません。今日は一度もです」
「昨日は」
「昨日はあります」
メアは灯りのほうへは寄らずに、暗がりの側へ手のひらを向けた。それから下ろした。
「……今日はそこまでです」
「先は読まないんだ」
「読みません。読むと、下がどうなっているかを私が言うことになります」
「言っちゃ駄目なの」
「今日は誰も見に行っていません。見に行っていない夜のことを先に言うと、行かなくてよくなります」
エルクは下り口のほうへ半歩だけ出て、そのぶん戻した。
「メアと二人ならどう」
答えは背中のほうから来た。ソウが荷置き場のほうから回ってきている。
「昨日は当番が下にいたのよ」
「いたね」
「あんたたちは通っただけ。今夜は誰もいないわ」
「二人は二人じゃん」
「入るなら、それが今夜の番になるの」
「番にすると、抜けたい日に抜けられなくなるんだよね」
「そうよ。入るのは今夜でいいの。明日からは空いた日に名前を探されるのよ」
ウルは口を挟まなかった。輪の中の前脚も動かさない。
「二人いないと駄目なんだよね」
「駄目よ」
「……駄目だよね。決めたもんね」
ソウは提げてきた灯りを石の窪みへ据えた。炎が一度横へ倒れて、それから立った。
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広場は灯り一つぶんしか明るくない。
ソウは一枚目のいちばん下へ細い枠を作った。休みの日数を書いた列の、さらに下だ。行ごとには分けない。横に二つ、数の入るところを並べただけだった。
「なに書くの」
「要る数と、立った数よ」
「今夜は」
「二と、零」
「下に誰もいない夜って、書くんだ」
「書くわ。書かないと、明日には誰も覚えてないもの」
筆を置いてから、ソウは枠の脇へもう一本だけ短い線を引いた。
「毎日出すわ。立った日も、立たなかった日も」
「多い日だけでいいんじゃないの」
「多い日だけ書いたら、少ない日が無かったことになるでしょ」
クラウが帳を抱えて板の脇まで来た。今朝の三つをそのまま写す。弱くなった。戻った。刻。良いとも悪いとも書かない。その下の行は空けたままにした。
「空けとくんだ」
「空けておく。明日も同じ刻に測る」
「同じだったら?」
「同じと書く。同じが続いたことだけが、後で要る」
坂の下から子どもの声が上がってきた。二人か三人で、同じところを何度も繰り返している。板の右の端に並んでいるほうだ。
「やめるときは、やめるっていう」
途中で一人が笑って、また頭から始まった。
エルクは段の口の灯りを一度見てから、声のするほうへ顔を向けた。
「明日、横で聞いてていい?」
「聞いてらっしゃい」
ソウは板の面へ手を置いて、枠の下の白いところを指で塞いだ。
「……あんた、あそこだけはまだ一度も聞いてないでしょ」
「無いかも」
下の音は、今夜は誰も聞いていない。




