第193話 白いところ
朝のうちは板の面に影が半分かかっている。
日が上がるにつれて影の縁が下がって、二枚目は下のほうまで明るくなった。写しは板の脇へ戻してある。裏を上にしたままだ。エルクは板から二歩離れて、光の入っている高さへ手のひらをかざした。明るいのは下の三分の二のほうだ。字のあるところはまだ影に残っている。
白いのがよく見えるのは朝だけだった。日が回れば上まで明るくなって、白さは字の下の余りに見える。エルクは手を下ろした。そこが空けてあるのか、それとも埋められないのかは、どちらも同じ白さに見えた。
坂の下から女が一人上がってきた。手には何も持っていない。
「鍬、余ってるか」
「小屋の脇にあるわ」
「借りるぞ」
女は返事を待たずに小屋のほうへ回った。戻ってくるときに板の前で足を止める。柄を肩へ載せたまま顔だけ向けた。
「やめてよいって書いてあるのに、三つしか入ってねえんだな」
エルクは石のほうから一歩出た。
「読んだの」
「そこだけな。冬に読んでるのを横で聞いた」
「少ないと思う?」
「思わねえよ。三つで足りてんだろ」
女は柄を担ぎ直した。
「足りてねえなら、もっと入ってるはずだからな」
そのまま坂を下りていった。ソウは写しの角へ手を置いたが動かさなかった。
「……足りてるのかしらね」
「三つだもんね」
「戻った人のほうは、数えるたびに増えてるのよ」
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当番小屋の戸口の内側でメルが綴りを開いていた。
膝の上の紙には板と同じ縦線が引いてある。二つ目の欄のところだけ折り目が立っていた。指が上の行から順に下りていく。途中で二度止まった。
「休みのとこ?」
「休みです。数え直しています」
「人数?」
「日数です」
エルクは紙を覗き込んだ。名の脇はどれも空いている。
「休みが四十日を越えている人が二人います」
「四十日」
「四十日です」
「長いよね」
「長いです。冬に空けたぶんを引いても越えています」
メルは紙の端を押さえ直した。
「戻ると書いてあります」
「うん」
「戻るかどうかは書いてありません」
エルクは膝を立てて戸口のほうへ向き直った。
「聞いてみようか」
外で紐を巻いていたソウの手が止まった。
「聞かないわ」
「まだやるの、って聞くだけだよ」
「聞いたら、聞かれたほうがやめるって言いにくくなるわよ」
「なんで」
「聞かれてから言うのは、押されて言ったことになるもの」
エルクは口を開けたまま少し黙った。
「……そっか」
「そうよ」
「じゃあ聞かない」
ソウは紐の束を戸の脇の箱へ落とした。メルは折り目のところへ指を挟んで、綴りを閉じずに置いた。
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門の内側の土は昼のうちに白く乾いていた。ライオは乾いたところに胴を置いている。
エルクが近づくと目だけが動いた。
『四十日と聞いたな』
「聞こえてたんだ」
『聞こえた。坂は音が上がってくる』
ライオは胴の位置を日のほうへ少しずらした。
『休みと、やめるを分けるのは誰だ』
「本人だよ」
『ならば本人が言うまでは休みよ』
「四十日でも?」
『四十日でも休みだ。……長いと思うておるのはこちらだ』
エルクは門柱の影のほうへ目をやった。影はまだ前脚まで届いていない。
「長いと思ったら、言っちゃいけないの」
『言うてもよい。……だが我の口は重い』
「重いの?」
『重い。番を任された者の言葉は、頼みではなく沙汰に聞こえる』
たてがみの下で息が一度深くなった。
『こちらが待てぬだけの話を、あちらの怠けにしてはならぬ』
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昼を過ぎてから板の前にレオルが立っていた。
読んではいない。顔は二枚目のほうを向いているが、目は行の外側を動いている。エルクは横へ並んだ。
「門の番の話じゃないよね」
「ない。通りかかっただけだ」
「朝、三つしか入ってないって言われたよ」
「言うたか」
「少ないのかなって」
「少ない」
レオルは爪の先を一行目の高さへ寄せて、板には触れずに止めた。
「三つで止まっておるのは、やめる者がおらぬからではない」
「じゃあ何」
「やめると言うても、書く者がおらぬからだ」
エルクは三つの名を順に見た。どれも自分の字ではない。
「長のも、誰かが書いたんだ」
「書いた。我が言うた日に、その場に筆を持った者がおった」
「いなかったら?」
「言うた者は言うたまま帰る。帰れば次の日は言わぬ」
爪が下がった。
「我はあの日たまたま運がよかった。運のよい日にしかやめられぬものを、我らは決まりと呼んでおる」
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薪小屋の脇でクラウが帳を膝へ載せていた。筆は袋へ入れたままだ。
「四十日だってさ」
「聞いた」
「二人」
「二人だ」
「聞かないほうがいいって言われた」
「誰に」
「ソウ」
「合うておる」
クラウは帳の行を指で数えた。
「聞かん。休みとやめるの境目は聞かん」
「聞けば分かるのに」
「分かる。分かった後に、本人が休みだと言い張れんようになる」
「言い張っていいの」
「よい。言い張れるうちは、まだこちらの番だ」
袋の口を開けて、穂を出さずに筆を持ち替えた。
「数だけ出しておく。数を見て言い出すなら、そいつが自分で言うたことになる」
杭を抱えたケインが脇で足を止めた。
「数出したら、見せしめっぽくねえっすか」
クラウは顔を上げなかった。
「近い」
「近いんすか」
「近い。だから出し方を決める」
小屋の角からソウが墨壺を提げて出てきた。
「見せしめにならないように、全員のぶん出すのよ」
「全員っすか」
「全員よ。休んでない人のところには零って書くわ」
「零は要らねえんじゃねえっすか」
「零を抜いたら、書いてある人だけが見られるでしょ」
ケインは杭を持ち直して、言い返す言葉を探しているような顔をした。
「……それ、おれのとこも零っすよね」
「零よ」
「じゃあいいっす」
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日が低くなってからソウが板の前に立った。
休みの欄の脇へ細い縦線を一本足す。行ごとに日数を入れていった。零のところは零と書く。四十を越えた二つの行も、ほかと同じ太さで書いた。
坂を上がってきたドレクが灯りを提げたまま足を止めた。
「何書いてんだ」
「休んだ日の数よ」
「おれのとこは」
「零。あんた休んでないもの」
「そうか」
ドレクは一枚目から二枚目へ目を移した。上の三行の下の二つ目のところで目が止まる。
「なあ」
「なによ」
「おれのは誰が書いたんだ」
「私よ」
ドレクは灯りを持ち替えた。
「そうか」
「文句あるの」
「ねえよ」
板の面をもう一度上から下まで見た。
「……じゃあ、書く人が要るってことだな」
エルクは石の上から顔を上げた。
「え」
「おれが書けるならおれが書いた。書けねえから、誰か呼ばなきゃならねえ」
「呼べばいいじゃん」
「呼ぶのは、言うのと同じだ」
ドレクは灯りを提げ直して段のほうへ歩いていった。ソウは筆を止めていたが、止めたままでは終わらせずに次の行へ移った。
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夜の段の口は風が止んでいた。ウルは内側で伏せている。
『名は』
「エルクとメア」
『二人だな』
「二人。ライのところまで」
『行け』
エルクは一段目へ足を置いてから振り返った。
「ねえ。休んでる人の刻って数えてる?」
『数えぬ』
「なんで」
『我が数えるのは段を通った者だ。休んでおる者は段を通らぬ』
「じゃあ、どこにも出ないんだ」
『出ぬ』
ウルは耳を一度伏せた。
『出ぬ者は、減っておらぬように見える』
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器の台の紙は今夜も送られている。
ライは刻を書き終えてから紙へ目盛りを置いた。当てているのは点ではなく点の無いところだ。ダクトは台の脇で写しを広げている。
「日数、写すの」
「写しますぞ。板のほうが書き終わってからですな」
「零も?」
「零も写しますぞ。抜きますと、抜いたところが気になりますからな」
壁の前のほうで音が止まった。
いつもなら短く切れてまた続く。今夜は続かなかった。エルクは器の口のほうへ体を向けた。メアは壁から離れたところに膝をついている。手は当てていない。
「止まってるね」
「止まっています」
「いなくなったの」
「いません、ではありません」
メアは目を伏せた。
「眠っています」
「眠るんだ」
「眠ります。……それより先は読みません」
ライは紙の端を送らずに押さえていた。
『去年より長いです』
「長いって、止まってるのが?」
『紙の上では広いです。送る速さは去年と変えていません』
「どれくらい」
『二度測りました。二度とも広いです』
「どのくらい広いかは言わないんだ」
『言えます。ですが一晩ぶんです。並べてから言います』
ライは刻を書き足してから棚のほうへ回った。箱は三つとも布の上に据えてある。左が弱く光っていた。
『……弱くなりました』
「消えた?」
『消えていません』
「じゃあ」
『弱くなって、戻りました。一度です』
「戻ったんだ」
『戻りました。強くはなっていません』
ライは刻と、弱くなった回数を別の行へ分けて書いた。読みは書かない。
壁の向こうで音がまた始まった。細くて短い。いつもの間隔に戻っている。
エルクは器の紙のほうを見ていた。今夜のぶんの紙は、止まっていたところだけが白いままだった。




