第192話 裏を返さない写し
日が傾いても四枚は白いほうを上にしたままだった。
端の一枚だけが庇の影に入っている。ダクトは昼に並べた位置から指一本ぶんも動かしていない。エルクは手前の一枚を裏返して表を見てから、また裏へ戻した。
「同じだね」
「同じですぞ」
「表だけ灰色で、裏は端まで白い」
「四枚ともそうですな」
紙は折り目が無いので、めくっても鳴らなかった。厚みはそろっていない。漉いたときの筋が裏のほうに残っている。日に透かすと縞に見えた。エルクの指の先には毛羽が付いた。
「前に三人に聞いたって言ってたよね」
「聞きましたぞ」
「二人は表のままでいいって」
「申しましたな」
「三人目は」
「昨日出ましたぞ」
ダクトは端の一枚を指の腹で押さえた。
「返していいと思わなかった、と申しましたな」
エルクは押さえられた紙のほうを見た。
「だめとは言ってないよ」
「言われておりませんぞ」
「一回も言ってない」
「ですが言われていないことは、やってよいことにはなりませんな」
「三人目って誰」
「申しませんぞ」
「なんで」
「返さなかった者の名を出しますと、次からは名を出せる者しか答えませんな」
紙の角が指の下で少しだけ反った。
「返していいって、どこにも書いてないもんね」
「書いてありませんぞ」
「書けばいいのかな」
言ってから、エルクは自分の手を紙から離した。
「……だめだ」
「だめですかな」
「書いたら、書いてあるのを読める人だけが返すんだ」
ダクトは指を上げた。押さえていたところだけ紙が浮いて戻る。
「私もそこで止まりましたぞ」
「止まったんだ」
「冬のあいだ止まっておりましたな」
それから束の上の一枚を引き抜いて、表を上にして石へ置き直した。
「一つだけございますぞ」
「なに」
「表の終いの行を、裏へまたがせますな」
「またがせる?」
「途中で切れておりますと、返しますからな」
「返すかな」
「返しますぞ。……私が決めたのではありませんな」
「え」
「三人目が返しませんでしたので」
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入口の脇の低い腰かけにウーゴが屈んでいた。
脚をひとつ外して、面のほうを膝で押さえている。刃は布に巻いたままだ。
「ウーゴ。紙、もう一枚足せないかな」
「フヤサナイ」
「裏のぶんだけ別にすればいいのに」
「カミ、フエナイ。オナジ、カミ」
大きいのは手のひらを紙のように立てて見せた。
「イチマイナラ、ウラガアル」
「うん」
「ニマイニシタラ、ウラ、ナクナル」
「無くなるの?」
「ベツノカミハ、ウラジャナイ。ツギダ」
手を下ろして、腰かけの脚を穴へ差し直した。面を両手で押すと木の鳴る音が一度だけ短く出た。
「ツギハ、ヨマナクテモ、スム」
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庇の下の台へ四枚が運ばれてきた。
ライは重ねずに横へ並べてから、細い竹の目盛りを紙へ寝かせた。測っているのは字ではなく行と行のあいだだ。
『四枚とも幅が違います』
「同じ板を写したのに?」
『紙が違います。行の数も違います』
「じゃあ同じところでは切れないね」
『行では切れません。字で切ります』
目盛りは竹を割って削ったものだ。刻みの溝には墨が落ちている。ライは紙へ押しつけない。当てるたびに端を浮かせてから下ろした。目盛りの端が表の下のほうへ来た。ライは指を一文字ぶんだけずらして置き直した。
『名は聞かないと決めた。聞けば言える口が——ここまでが表です』
「続きは」
『増えるからだ、が裏の頭に来ます』
エルクは表の下の余白へ目を落とした。まだ三行ぶんは空いている。
「そこ空いてるよ。入るじゃん」
『入ります。入れません』
「入れないんだ」
『入れると表で終わります』
「……その行、大事なやつだよ」
『大事でない行で切っても、誰も続きを読みません』
ライは目盛りを外して、四枚とも同じ字のところへ細い印を置いた。台から板のほうへは行かない。
『板は変えません。変えるのは写しだけです』
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当番小屋の前でメルが綴りを開いた。
紙の端を親指で押さえたまま、行を二つ下げてから顔を上げる。
「作り直すと半日かかります」
「今日じゃなくてもいいよ」
「今日は畑が早く終わります。今日なら半日出ます」
「明日は」
「明日は普請です。半日は出ません」
「紙を裁つ人は」
「二人要ります。二人とも今日は畑から先に戻ります」
ソウは戸口の柱へ背を預けて聞いていた。
「じゃあ今日ね」
「今日ですね」
ケインが杭の束を抱えて脇を通った。足は止めずに首だけ回す。
「切れてるだけで返すもんっすかね」
「返さない人は返さないわ」
「そうっすよね」
「でも返す人が一人増えたら、増えたのよ」
ケインは束を下ろして本数を数え直した。
「一人でいいんすか」
「よくはないわ」
ソウは柱から背を離した。
「切れてるのが気持ち悪いのよね」
「うん」
「気持ち悪いほうが、頼むより早いわ」
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荷置き場の石にクラウが腰を下ろしていた。
膝の帳は閉じたままだ。綴じ紐の端がほつれていて、指の腹で撚り直している。
「四枚ともだ」
「二枚でよくない? 下と入口だけ」
「四枚だ。二枚だけ形が違えば、あとから来た者はそちらを間違いだと思う」
「同じにするんだ」
「同じにする」
撚った端を綴じ穴へ通して、結び目を帳の背のほうへ送った。
「古いのは持って上がれ。置いて来ると、そっちを読む者が出る」
「前からそうしてるよね」
「しておる。変えるのは切る場所だけだ」
エルクは石の上の一枚へ目を落とした。
「板には足さないの」
「足さん。板に足せば、返し方まで字になる」
「字だと、届かない人がいるんだ」
「おる」
「ドレクは、名前の場所しか分からないって言ってた」
「言うておった」
「裏を返せても、同じだよね」
「同じだ。今日取れたのは、返さずに済ます言い分のほうだ」
クラウは帳を脇へどけて、空いた石の面を手の甲で払った。古い四枚を戻す場所だ。
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坂の下り口でスラの分身が二つ、紙を挟んで待っていた。
本体は日の残っている草の上で平たくなっている。乾いた紙は本体の上へは載せない。
『濡らさないッスよ』
「下、湿ってるでしょ」
『湿ってるッス。だから挟んで持つんスよ』
「重ねないの」
『重ねると下のが吸うッス。一枚ずつは慣れてるッスからね』
分身のひとつが先に段のほうへ動いた。
段の口の石でウルが顔を上げた。
『名は』
「エルクだよ」
『……知っておる』
「知ってるのに訊くんだ」
『知っておるが訊く』
尾の先が石を一度打った。
『二人か』
「二人。下の一枚を替えるだけだよ」
『替えても数は変わらぬ』
「変わらないね」
『紙は数えぬ。下りた者が上がってくるまでが我の数だ』
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日が落ちる前に、畑から上がってきた男が坂の上の写しの前で足を止めた。
新しい紙はまだ角が立っている。男は表の上から順に目を落として、終いの行のところで目が引っかかった。
「途中で終わってんぞ」
「うん」
「写し損ねたのか」
「違うよ」
男は指の土を上着の脇で落としてから紙へ触れた。端をつまんで少しだけ持ち上げる。持ち上げてから一度戻した。それからもう一度つまんで裏を返した。誰も頼まなかった。
「……ああ、こっちか」
裏の上のほうを二行ぶん目で追って、それから下へ下ろした。下は白い。紙は持ったままだ。腕を伸ばして日の残っているほうへ傾けた。
「まだ何も無えんだな」
「無いよ」
「そうか」
男は紙を表へ戻して、角をそろえてから石へ置いた。置き方だけは丁寧だった。
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坂の上に灯りがひとつ点いてから、ソウが作り直した写しを板の脇へ持ってきた。
裏を上にして留め金の高さに合わせる。板の面は冷えている。紙の端が木へ貼りつくように落ち着いた。
頭に一行、途中から始まる字が乗っている。ソウはそこを指で一度なぞってから下へ移った。
二枚目の板と並べて、上の三行から順に目を下ろしていった。指が三つ目の名のところで止まる。
「三つね」
「三つだね」
指はそこから下がらなかった。板の面は留め金の下から三分の二が白いままだ。写しの裏も同じところで終わっている。
「増えてないわ」
「人は戻ったのにね」
「戻ったわ。十九」
ソウは写しを裏のまま石へ置いた。置いてからも手を離さなかった。




