第190話 読んだ日は分からない
畝の列は溝の下の草地から始まっていた。
土はまだ黒く湿っている。鍬が入るたびに根の切れる音がした。戻ってきた者は上着を畝の端へ掛けて並べている。エルクは畑へは入らずに縁の石の上を歩いた。
エネは五つ目の畝の手前に立っていた。紙は胸ではなく左の腕へ抱え直してある。
「いいって言ってなかったよね」
「はい」
紙の角がもう丸くなっている。
「でも、止まりませんでした」
「何人目?」
「三人目です」
「どうやって聞いてるの」
「読みましたかとは聞きません」
「聞かないんだ」
「聞くと、みんな読みましたって言いますので」
紙の端を一つ折って、折ったところへ指を挟んだ。
「下は白かったですか、と聞きます」
「白いかどうか」
「白かったと言える人は見ています。見ていない人は言えません」
「嘘つく人は?」
「いません。白かったですかと聞かれて、白かったですと答える人はいます」
「同じじゃないの」
「違います。見た人は、どのへんから白いのかを足しますので」
エネは畝のほうへ歩いていった。鍬を止めた男は手ぬぐいを首から外して、聞かれてから少し考えた。
「白かったな」
「どのへんからですか」
「……どのへんだったかな」
男は柄を土へ立てて、額の上のほうを拭った。
「おれは名前のとこまでだ。その下は覚えてねえ」
エネは礼を言って離れた。紙には何も書かない。折った端をもう一つ増やしただけだった。
「書かないの」
「あとで書きます」
「なんで」
「前で書くと、答えが変わりますので」
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畑の縁の日の当たるところに糸束が並べてあった。
ラネは束の上を渡り歩いて、端から順に前脚を置いている。置くたびに束がひとつ沈んだ。
「ななつ!」
「上げたぶん?」
「ちがうわ! これはあまりよ! ぬれてるのはまだ下にあるの!」
「乾かしてるんだ」
「ほすの! ほしたらかぞえて、それからしまうのよ!」
物干しの棒の向こうから風がひとつ落ちてきた。グリフが翼をたたんで畝の外の地面へ降りた。爪が土へ半分まで入る。
「降りたね」
『降りた』
「めずらしいじゃん」
『数え終えた。着いた者は俺の数から外す』
「外していいの」
『外す。上から見えるのは歩いておる者だけだ。座った者は屋根の下におる』
ラネが束の上から首を伸ばした。
「グリフ、ふまないでよ!」
『踏まん』
翼の先が束の列から一本ぶん離れた。
『……七つあるな』
「かぞえたの!?」
『見ただけだ』
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坂の途中の平らなところに聞き手が二人、まだ座ったままでいた。
片方が坂の下を向いたまま何か言った。ミナは膝の板きれを裏返して下ろし、小さくうなずいた。エルクは石の上で足を止めた。
「まだ終わってないんだ」
「おわった。おわってから、きいてるの」
「なにを」
「なにがわからなかったって、きくことにしたの」
「前はぜんぶ話したら帰ってたよね」
「かえってた」
「今日は待ってるんだ」
「はなしただけだと、ミナのはなしのままだもん」
板きれの縁を指でなぞった。
「きょうはふたりとも、わからないとこはなかったっていった」
「じゃあ分かったんだ」
「わかんない」
膝の上で板きれを立てて、その裏へ顎を載せた。
「きょうはきいた。それだけかぞえる」
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当番小屋の前の石に鍬が立てかけてあった。
返しに来た女が紐で刃を拭いている。ソウはその横で紙の束を風のほうへ向け直していた。エネは戸口の内側で紙を広げている。
「出たわね」
「出ました」
エネは紙を石の上へ置いた。折り目で三つに区切ってある。
「十九人ぜんぶ、板の前に立っています」
「立たせたもの」
「立ちましたけど、五人は板を見ていません」
「どこ見てたのよ」
「前の人の背中と、ソウさんの指です」
ソウの手が束の角で止まった。
「……指のほうが動くものね」
「上の三行まで見たのが十一人です」
「最後までは」
「三人です」
紐が刃から落ちた。女は拾ってから顔を上げた。
「読まなきゃいけないのか」
「いけなくはないわ」
「じゃあ読まないよ」
「いいわ」
ソウは束の上へ手のひらを伏せた。
「……いけなくはないから、誰も読まないのよね」
女は鍬を担いで坂を下りていった。責める言葉はどちらの口からも出なかった。
エルクは紙の区切りを上から順に見た。
「三人か」
「三人です」
「僕は毎日読んでるのに、三人なんだ」
エネは紙を折らずに置いたままにした。数のあとに何も足さなかった。
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坂を上がりきったところに板が二枚並んでいる。
留め金は四つとも同じ高さに付いている。日が回って、二枚目の下のほうまで光が届いていた。ノノが板の前に立っている。背は二枚目の真ん中より低い。
「ノノ、読めるの?」
「よめないよ」
「じゃあ何見てるの」
ノノは腕を伸ばして、二枚目の下のほうを指した。爪の先は板まで届いていない。
「ここ」
「白いとこだ」
「しろいとこ」
指をそのままにして首だけ回した。
「しろいところ、ふえるの?」
「……増えると思うよ」
「へるの?」
「減らないよ。消すときは細い線だから」
ノノは腕を下ろして、板の面を上から下まで一度なぞるように見た。
「じがないとこは、ノノもみれるもん」
エルクは口を開けて、そのまま閉じた。
「じがあるとこは、みてもなんにもないの」
「うん」
「だからここみてる」
ノノは板の前から離れて、坂の下の子らのほうへ走っていった。エルクは留め金を四つとも順に見てから、白いところへ目を戻した。しばらくそこから動かなかった。
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坂を下りきったところで、外周を回ってきたウルが横へ並んだ。
歩幅を落として合わせてくる。日はもう斜面の向こうへ落ちていた。
『先に言うておく』
「なに」
『我は読んだ者を数えぬ』
「まだ頼んでないよ」
『頼まれる前に断るのが早い』
尾の先が一度だけ草を打った。
「なんで数えないの」
『数えると、読んだことになる』
「なるの?」
『なる。我が数えれば、数えられた者は読んだ側へ入る。入れば二度と聞かれぬ』
「聞かれないと困るんだ」
『困る。……我が数えてよいのは、人と刻までよ』
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クラウは薪小屋の壁へ帳を立てかけて開いていた。
エネの紙は横の石の上に載っている。三つの折り目はそのままだ。
「板に足すの?」
「足さん」
「数えたのに?」
「板に作れば、読んだかどうかで人が並ぶ」
「並ぶと駄目なの」
「並ぶと、下のほうの者が板の前へ来んようになる」
クラウは紙のほうを指の背で軽く叩いた。
「紙だ。紙は数える場所だ」
「板は?」
「板は渡す場所だ。混ぜればどちらも用を成さん」
筆へ墨を含ませてから、穂先を硯の縁で落とした。
「一つ、書けんものがある」
「なに」
「読んだ日だ」
「三人は分かったよ」
「三人は分かった。その三人がいつ読んだかは出ておらん」
「聞けば分かるんじゃないの」
「聞いても出ん。読んだ者のほうが覚えておらん」
「ドレクは十九に入ってる?」
「入っておらん。あれは畑に出ておらん」
「じゃあ数の外だ」
「外だ」
クラウの手が止まった。
「……いちばん届いておらん者が、数に入っておらん」
石の脇からエネが口を挟んだ。
「聞いた日なら書けます」
「聞いた日か」
「あたしが聞いた日です。読んだ日ではありません」
クラウは帳の行を一つ下げて、頭へ〈聞いた日〉と入れ、その隣を空けたまま残した。
「では、そう分けておく。聞いた日だ」
「空けたとこは?」
「読んだ日だ。埋まらん欄も要る」
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日が沈みきってから段を下りた。
器の口は壁のほうを向いている。針は今夜も細かく震えているだけだ。ライは台の脇に紙を二枚並べていた。エネの紙ではない。
『欄なら引きました』
「エネの?」
『引きました。三つに分けて、いちばん下へ空きを作ってあります』
「空きは?」
『増えたときの場所です。増えなければ空いたままです』
ライは筆を置いて、並べた二枚のほうへ手を戻した。
「それ、なに」
『冬のものと、この春のものです』
左の紙には点の列が長く伸びている。右の列はそれより短い。
「長さ、違うね」
『違います。冬のほうが長いです』
「じゃあ別のやつだ」
ライの指が二枚の同じところで止まった。頭のあとに空いた幅がある。左も右も、そこだけ同じだけ白かった。
『……間が同じです』




