第189話 字のないほうの決まり
薪小屋の脇に荷が四つ下ろしてあった。
縄はもう解いてある。ドレクは端から順に口を開けて、中を覗かずに札だけ見ていた。木の札は縁が欠いてある。二つ欠いたのと三つ欠いたのを別の山へ回していく。焼き印のほうは丸と角と線が一本だ。
エルクは荷の並びを回り込んで、ドレクの手元が見える側へしゃがんだ。ドレクの目の下は落ちくぼんでいる。
「上がってきたばっかりでしょ」
「上がった」
「寝ないの」
「これ分けてからだ。夕方までに置いとかねえと、明日の朝に来たやつが持って帰れねえ」
角の焼き印を一つ、向こうの山へ移した。手は止まらない。
「間違えないんだね」
「間違えたやつは戻ってこねえ。それだけだ」
「今夜は」
「今夜もおれだ」
「二晩続くの」
「下りられるやつが減ってんだよ。戻ってきた連中はみんな畑だ」
欠きを指の腹で数えてから、ドレクは札を裏返した。
「その札さ」
「あん?」
「字、一個も無いよね」
「無え。要らねえもん」
「よく分かるね」
「欠きと焼き印だ。手で分かる。暗くても分かる」
「暗くても」
「荷は夜に着くこともあるからな」
エルクは札を一枚もらって指で縁をなぞった。欠きは二つ。焼き印は角だ。
「これ、板でもできないかな」
「知らねえよ。板はおれのもんじゃねえ」
札は縄の上へ戻された。
「昨日の話なんだけどさ」
ドレクの手が札の山の上で一度だけ遅れた。
「板か」
「うん」
「読んでねえって言っただろ」
「読まなかったの。それとも」
「読めねえんだよ」
結び目をひと締めして、ドレクは次の荷へ移った。
「前から言ってる。読めねえんだから、無えのと同じだろ」
エルクは荷のほうへ一歩寄った。
「読んであげるよ。今から行こうよ」
「要らねえ」
「なんで」
「聞いたのが今日だけになるからだ」
「今日だけ」
「今日聞いて明日には抜ける。板は毎日そこにある。だがおれには毎日は無え」
エルクは口を開けたまま止まった。それから坂の上へ目をやった。留め金の金物が日を返している。字はここからでは見えない。
「……僕、毎日見てるや」
「だろうな」
「読んでるつもりはなかったんだけど」
「つもりが無えのが毎日だ」
ドレクは荷の口へ手を突っ込んだまま顔を上げなかった。
「じゃあ、毎日読みに来ればいいのかな」
「来ねえよ」
「来ないんだ」
「来る日を決めんのはおれじゃねえ。荷が来る日だ」
エルクはもう一度坂の上を見た。
「でもさ。二枚目に自分の名前があるのは知ってるでしょ」
「知ってる」
「読めてるじゃん」
「読めてねえ。場所だ」
ドレクは宙へ指で四角を描いた。
「上の三行の下の、二つ目だ。あそこがおれだ。書いてるとこを見てたからな」
「うん」
「おれの名前がどこにあるかは分かる」
手を膝で拭って、山をひとつ寄せた。
「……何が書いてあるかは知らねえ」
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坂の中ほどでダクトが立ち止まっていた。
写しを胸の前で抱えている。上の一枚だけ向きを変えて日の当たるほうへ傾けた。
「見てくださいますかな」
「汚れてる?」
「上の三行のところだけですぞ」
エルクは受け取って傾けた。紙の上のほうだけ端が指の幅で灰色になっている。
「押さえながら読むからか」
「押さえますな。読む者は必ず紙の端を持ちますぞ」
「下は」
「下は白いままですな。折り目も付いておりませんぞ」
ダクトは束を揃え直した。
「紙は正直ですな。指の付いたところしか汚れませんので」
「替える?」
「替えられますぞ。ですが替えますと、どこまで読まれたかが消えますな」
「消えちゃうんだ」
「消えますな。汚れは書いたものではありませんが、読んだ側が残したものではありますぞ」
束を胸へ戻して、ダクトは坂を下りていった。
「今日は替えずに置きますぞ」
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段の口の石は昼でも冷たかった。
ウルは内側の日陰に伏せている。エルクが灯りを二つ提げて下りてくると、耳だけが先に動いた。
『昼に下りるか』
「下りるよ。三人で」
『三か』
「僕とメアとウーゴ」
『札か』
「なんで分かるの」
『大きいのが刃を持っておる。彫るか見るかだ』
「見るだけだよ」
エルクは段の一段目へ足を置いた。
「ねえ。ウルは札の前、通るよね」
『通る。日に二度だ』
「なんて書いてあるか知ってる?」
『知らぬ』
「読まないんだ」
『読まぬ。我の目は動くものに付いておる。札は動かぬゆえ目が滑る』
「教えようか」
『要らぬ』
前脚の先だけが石を押した。
『我が覚えても数には入らぬ。数に入らぬものを覚えると、覚えたぶんだけ我が重うなる』
「重くなるの」
『重うなる。……そのぶん人を数え落とす』
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段を下りきる手前の壁際に柱が立っている。札はそこへ掛けたままだ。
上のほうに持ち場が三つ並んでいる。その下の行は冬に彫った。彫りは上より深く、灯りを近づけると溝の底に影が残った。
ウーゴは膝をついて指の腹を当てた。
「ヘッテナイ」
「減らないんだ」
「フユ、コエタ。シメリモ、ハイッテナイ」
「深く彫ったからだね」
「フカクホッタ」
大きいのはエルクの手首を取って、彫りの頭へ指を運ぼうとした。運びきる手前で手が止まった。指は溝の上で宙に浮いたままになった。
「……どうしたの」
「ホッタ」
「うん」
「ヨメナイ」
「僕は読めるよ」
「エルク、ヨメル。ホッタノハ、ヨメルヒトノタメカ」
ウーゴは自分の手のほうを先に引いた。
「ヨメナイノハ、ホッテナイノトオナジカ」
エルクは答えられなかった。灯りの輪だけが柱の面で揺れた。
大きいのは刃を布へ包み直した。
「キョウハ、ホラナイ」
「彫らないんだ」
「ホルバショハアル。……ホッテモ、オナジトコロニ、ツク」
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メアは柱の裏へ回っていた。
手は当てていない。膝をついて木の下のほうを見ている。人の踝より低いあたりだ。メアが見ているのは字ではない。そこで何があったかのほうだった。
「読めた?」
「彫った字は残っています」
「うん」
「彫ったときのことは残っていません」
「消えたの」
「消えたのとは違います。一度きりのものは薄いんです」
膝の位置を少しだけずらした。
「毎日のものなら残ります」
「毎日って」
メアは札の下の床を指した。指の先は面から離れている。
「前を通った足です。上から下へ。下から上へ。……毎晩あります」
「止まった人は」
「いません」
「一人も?」
「一度だけあります」
「誰」
「分かりません」
灯りをこちらへ寄せずに、メアは立ち上がった。
「止まったのは彫った日です」
エルクは札を見上げた。下の行は上より深く、上より新しい。手を伸ばせば届く高さにある。
「それきり?」
「それきりです」
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上がってくると当番小屋の戸は開け放してあった。
ソウは戸口の外で紐を選り分けている。長いのと短いのを別の束にして、短いほうを膝へ載せた。
「下、行ってきたのね」
「札、見てきた」
「彫りは減ってた?」
「減ってなかったよ。でも誰も止まってないって」
ソウは紐の端をそろえただけだった。
「ねえ。下りる人にさ、下りる前に読んで聞かせるのはどう」
「三行を?」
「うん。毎晩二人下りるんだから、二人には届くよね」
「誰が読むの」
「僕が」
「毎晩いる?」
「……いないね」
「二日目で止まるわ」
ひと束結んで、ソウはそれを脇へ置いた。
ケインは戸口の内側で杭の頭を削っていた。手は止めずに顔だけ上げる。
「読める人が読めばいいんじゃねえっすか」
「読める人が毎日いるならね」
「……いねえっすね」
削りかすが床の板へ落ちた。
「おれも読めるほうっすけど、夜は上にいるっすからね」
「上にいてもらわないと困るわ」
「困るっすよね」
「困るのよ」
ソウは短いほうの束を持ち上げた。
「毎日やらないと意味がないの。毎日できることだけ決めましょ」
「今日は決めないんだ」
「決めないわ。思いついたのが夕方だもの」
束を軒の釘へ掛けて、ソウは手のひらの土を払った。
「夕方に思いつくことって、たいてい朝までのものよ」
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荷置き場の石の上にクラウが帳を広げていた。
筆はまだ持っていない。指で行を追っている。
「あいつは何と言うた」
「読めねえんだから、無えのと同じだって」
「そのままか」
「そのまま」
クラウは硯の蓋を外した。
「名前は書くの?」
「書かん」
「書かないんだ」
「読めん者の名を書くと、読めんことが名に付く」
「付くの」
「付く。一度付けば、あとで読めるようになっても剥がれん」
筆が下りた。行の頭はひと文字ぶん空けてある。
「じゃあ何て書くの」
「板の字が届いておらぬ者がおる、と書く」
「何人って書く?」
「書かん」
「分かんないから?」
「分からん。……数えておらんゆえな」
穂先が紙の上で止まった。
「去年から板へ何度も書き足した。書いた日はそのつど入れておる」
「うん」
「読んだ日は一度も入っておらん」
「読ませたのは数えたよね」
「読ませたほうは数えた。あれはこちらの手の数だ」
クラウは書いたばかりの行へ息を吹きかけ、乾くまで筆を持ったままでいた。
「手の数ばかり増やしておった」
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日が傾いてから入口の外の草が押し倒された。
ドラゴは斜面に胴を沿わせている。口のところからは半身ぶん離れていた。
『来るぞ』
「誰が」
『あの男だ。昨夜より早い』
坂の下からドレクが上がってきた。指が荷縄の形に曲がったままになっている。灯りを受け取って段の口へ入っていく。ドラゴのいる斜面へは目をやらず、すれ違いざまに片手だけ上げた。
「二晩続きなんだって」
『続けておる』
「打つの、上手くなった?」
『上手い。並びは覚えておる』
「覚えたんだ」
『音で覚えた。板では覚えておらぬ』
「……並びって、板に書いてあるやつだよね」
『書いてある。あの男は書いてあるほうを見ておらぬ』
胴の先が草をひと撫でした。
『打って見せた者がおったのだ。それで足りた』
「増えたらどうするの」
『また誰かが打って見せる』
「見せる人がいなかったら」
ドラゴは答えるまでに間を置いた。
『そのときは板だけが残る』
入口の奥へ灯りが一つ落ちていった。ドラゴは頭を斜面へ戻して、同じところで動かなくなった。
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物干しの縄の下にエネが立っていた。
紙を胸のところで抱えている。エルクが坂を上がりきるまで動かなかった。それから一歩だけ前へ出た。
「あの」
「うん」
「数えてもいいですか」
「なにを?」
エネは紙を胸から下ろした。端をひと折りする。
「読んだ人を」
エルクは返事をしなかった。
エネは紙を持ち直して、いちばん上の行へ指を置いた。そこはまだ白かった。




