第188話 通さないと決めてある
紙の四隅を押さえた石は、昨夜の位置から動いていなかった。
紙は卓の上に広げたままだ。エルクが段を下りきったとき、ライはもう筆を持って紙の脇に座っていた。器は口を壁へ向けたまま据えてある。針は細かい振れに戻っていた。
壁の前の床は土が擦れている。夜のあいだ立っていたところだけ乾きが違う。器の前の低い腰かけは、昨日より半歩ぶん台へ寄っていた。
ダクトは台の脚のところで屈んでいる。
「半分ほど下がっておりましたぞ」
「壊れたの?」
「壊れてはおりませんな。土が緩みますと脚のほうが先に沈みますからな」
「直したら数変わっちゃう?」
「変わりますな。ですから直した刻を書いていただきますぞ。直す前と後を同じ列に並べますと後で読む者が一つの夜として読みますからな」
「刻はライが書くの?」
「書きますな。私は数を持ちませんからな。持たぬ者が書きますと、あとで誰に聞けばよいか分からなくなりますぞ」
楔を一本抜いて、抜いたぶんだけ薄いのを差し込む。ダクトは糸のほうへは顔も向けなかった。
「そっちは行かないんだね」
「行きませんぞ。糸は別の者のものですからな。私が触りますと明日から糸の話が私の話になりますぞ」
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エルクは紙の横へしゃがんだ。
点の列は三つに切れている。頭が三つ。二つの脇には名が入っていた。三つ目の脇だけ白い。
「書けませんって書いてあるんだ」
『書けませんと書きました。冬に決めた通りです』
「冬のと同じ紙にしてあるの?」
『同じ形にしてあります。並べれば空くところが同じ位置になります』
エルクは三つ目の頭へ指を近づけて、触らずに引いた。
「これ、あの人じゃないんだよね」
『違います。あの人の頭は別です。私の棚に並んでいます』
「並んでるんだ」
『並んでいます。長さも数も別ですので混ざりません』
「じゃあ、この紙のは」
『この紙にあるのは三つです。二つは下りた二人です。名を聞いて、脇へ入れました』
「じゃあ、分からないのは三つ目だけだ」
『三つ目だけです。並びだけなら冬に綴じたものと同じです』
「同じなんだ」
エルクは二つ目の頭と三つ目のあいだへ指を置いた。空きはほかのところと同じだけあった。
「……じゃあ、誰かが二回来たんだ」
それ以上先は言わなかった。膝の上で手のひらを返して、また戻した。
「返した?」
『返していません』
「決めてあるもんね」
『決めてあります。板に無い印は通しません。通しませんので返しません』
点の列の終わりで筆先が止まった。
『……ただ、打った側に残るのは、返らなかったことだけです』
「通さなかったって分かんないの?」
『分かりません。届かなかった夜と、通さなかった朝は、あちらでは同じ形をしています』
「気づいてもらえないんだ」
『気づく手がありません。こちらは決めましたが、決めたことは音になっていません』
「音になってないと、無いのと同じなんだ」
『同じです。私は音しか渡せませんので』
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上がってくると段の口の石が朝日で白くなっていた。ウルは日の当たらないほうへ体をずらしている。
『昨夜は二人だ』
「上がったのも?」
『二人だ。数えたのは我だ』
「紙には三つあったよ」
『あった。……三つ目は段を通っておらぬ』
顎が前脚の上へ下りた。
『我の数は人に付く。壁の向こうに立つ者へは付かぬ』
「数えられないんだ」
『数えられぬ。数えられぬものを数えぬのは間違いではない』
前脚の先だけが動いた。
『間違いではないが、抜けてはおる』
「どっちを信じたらいいの」
『主は数を疑うておらぬな』
「疑ってないよ。ウルが二人って言ったんだもん」
『では紙も疑うな。三つは三つだ』
「両方ほんとなんだ」
『両方ほんとうだ。合わぬのは我らの数え方だ』
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坂の途中で草が丸く凹んでいた。スラの本体がその上に載っている。分身は二つとも当番小屋の戸口のほうへ回っていた。
『戸は閉めといたッス』
「寝てるの?」
『二人とも横になったッスよ』
「早いね」
『上がってきてすぐッス。夜に立った人は飯より先に横にしたほうが早いんスよ』
「起きてから食べるんだ」
『そのほうが寝るッス。昼に寝かせとかないと次の夜が薄くなるッスからね』
「薄くなる?」
『立ってはいるけど聞いてないってやつッス。おいら見りゃ分かるッス』
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当番小屋の脇でソウが紙の束を並べ直していた。風で捲れるので石が二つ載せてある。
「聞いたわ。三つあったんですって」
「あったって」
「通さないのよね」
「通さないって決めたんだよね」
「決めたわ。冬にね」
ソウは石をもう一つ載せた。
「決めた通りにやったわ」
「じゃあ合ってるんだ」
「合ってるの」
指が紙の端で止まった。
「……それでいいのに、なんで気持ち悪いのかしらね」
ケインは杭の束を肩へ載せたまま戸口の前で足を止めていた。
「決めたんだから、それでいいっすよね」
「いいわ」
「じゃあ何がまずいんすか」
「まずくないわ」
「まずくないのに、朝からみんな黙ってるんすよね」
ソウは石の並びを直しただけだった。エルクも言葉を探して、見つからないまま口を閉じた。ケインは杭を下ろして縄を結び直す。
「おれ、決めといたほうがいいって言った口っすよ」
「僕もそう思ったよ」
「今もそう思ってるっす。板に無えもんを入れたら、次に何が入ってきても入るっすからね」
「入るね」
「……そこは変わんねえっす」
結び目を締めて、ケインは杭の束を担ぎ直した。
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段の口の上の腰かけにクラウが座っていた。硯は横の石の上だ。写し帳は開いたまま片手で押さえてある。
「書くんでしょ」
「書く」
「気持ち悪いって書く?」
「書かん」
「なんで」
「気持ちの悪さは書かん。……書けるようになったら書く」
「書けるようになるって?」
「気持ちが悪いのではなく、どこが抜けておるかが言えるようになった時だ」
筆が下りた。日を入れて、そのあとの一行を空ける。
「冬に一つあった」
「あったね」
「今朝で二つだ」
「二つ」
「数える。冬のぶんだけでは、たまたまで終わっておった」
「たまたまだと、なんにもならないの」
「ならん。二つ目からは、たまたまと言えん」
クラウは行の頭へ短い縦線を入れた。その下へもう一本ぶんの空きを取っている。
「三つ目が来たら、ここへ入る」
「来ないほうがいいよね」
「来ぬほうがよい」
穂先が硯の縁へ寝た。
「だが来ぬことは、来た数からしか出てこん」
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門の手前まで来るとライオは立っていた。伏せる前の刻だ。前脚で土を一度均してから、均したところへ胸を下ろす。
『下で三つあったそうだな』
「あったって」
『通さなんだか』
「通さなかったよ。決めてあるもん」
『決めてある』
喉の奥で低い音が一度鳴った。爪が土をひと掻きして、掻いたところで止まる。
『通さぬと決めたなら、通さぬと言うところまでが決まりだ。……言わぬなら、決めておらぬのと同じよ』
「言うって、あっちに?」
『あちらにだ』
「決まりって、こっち側のものじゃないの」
『こちらのものだ。こちらのもので、あちらに当てておる』
門柱の影は前脚のところまで来ていなかった。
『当てておいて黙るなら、当てておらぬ』
「黙ってたね」
『黙っておった。我も座っておった』
「僕も座ってたね」
『主も座っておった。だが主は下へは行った』
「行ったよ」
『行って、紙を見て、上がってきた。……それだけよ』
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日が落ちる前にもう一度下りた。数える行ができたと言いに行っただけだ。
ライは聞いてから自分の紙にも同じ縦線を引いた。引いたところの脇は空けてある。
『下の紙とは分けます』
「別なんだ」
『別です。刻の紙は夜のものです。これは、あった日の数え方です。混ぜるとどちらも読めなくなります』
エルクは器の台へは寄らずに入口を出た。段の石は上へ行くほど冷たくなる。
途中でドレクが下りてきた。肩には何も担いでいない。
「上か」
「上。ドレクは下だ」
「今夜からな」
段の幅がいちばん狭いところで体を横にしてすれ違った。ドレクは足を止めなかった。
「ねえ」
「あん?」
「二枚目、読んだ?」
足音は下のほうへ続いたままだった。
「読んでねえよ」




